一、三経説時 【出拠】  『口伝鈔』「三経の説時をいふに、『大無量寿経』は法の真実なるところをときあらはして対機はみな権機なり。『観無量寿経』は機の真実なるところをあらはせり、これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人韋提をもて対機として、とおく末世の女人悪人にひとしむるなり。『小阿弥陀経』はさきの機法の真実をあらはす」(V・二五) 【義相】  先に大観の次第を定め、後に観小の次第を弁ずる。  一、大観次第は『漢語灯』(W・三〇九)に三文一理を以て弁立せられてある。    三文とは @『大経』果徳段に阿難が法蔵の成仏未成仏を問うのは、弥陀の果徳を始めて聞く故である。 A『観経』第七観に「是本、法蔵比丘の願力の所成なり」とある。 B『観経』中下品に「亦法蔵比丘の四十八願を説くに」等、この二文は阿難が始めて弥陀の願力を聞いたのならば必ず疑問があるはずなのに、先の『大経』ですでに四十八願を聞いていたので疑問がなかったのである。    一理とは 『大経』は法蔵比丘の出家因位の発願修行より果徳までをつぶさに説き、『観経』は直ちに果徳を説く。これにより明らかに寿前観後であることが知られる。 問。『平等覚経』【『行巻』(U・七)引用】に「阿闍世王太子、及び五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞て」等と言い、『観経』に「有一太子」とあるが、『観経』は登位の前であるから太子と呼び、『大経』は登位後であるから王と称するのであろう。しかれば観前寿後の次第ではないのか。如何。 答。太子と王とを以てあながちに前後をいうことはできない。『涅槃経』【『信巻』末(U・八一)】に「爾時に、王舎大城に阿闍世王あり〈乃至〉父の王辜無きに横に逆害を加す。父を害するに因て」とあり、『観経』(T・四八)に「爾の時王舎大城に一の太子有り」。また、「時に守門の人、白して言さく大王」と説く。又『涅槃経』【『信巻』末(U・九六)引用】に「爾時に耆婆白して大王に言く。〈乃至〉善見太子是の語を聞き已て」とある。然れば登位已前といっても種族を顕わして王と呼び、父王に望めては太子というのである。故にあえて王と太子の呼称を以て前後をわけることはできないのである。 問。もし寿前観後とするならば、『大経』で授記を蒙むる阿闍世が、後に説かれたとする『観経』で逆害を起こす理由がないではないか。 答。このような機であるが不思議の本願に帰すればという義を顕わすのが『観経』であって、大観二経の顕わすところが違うのであるから概論してわならない【是れ一】。又阿闍世即太子というわけではない。阿闍世の子供の和休もまた太子である。『太子和休経』[大・12155a]に和休太子が仏に帰依したことが説かれている。父子混乱して義を立てるべからず【是れ二】。   二、観小次第 @『小経』の会座に迦留陀夷尊者が列席されている。この尊者は法華の会座に始めて出られたお方である。【八宗綱要・律宗下参照】『法華』『観経』は同時の説法であるから、迦留陀夷尊者が列しておられる『小経』は『観経』の後に説かれたものとなる。 A『小経』は『観経』所説の定散を「不可以少善根」と嫌貶し、『観経』の付属を受けて十方諸仏が名号を勧讃証護され、三仏同入の不可思議海に入る説相である。《三仏同入とは、弥陀・釈迦・諸仏の三仏の同入の関係をいう》 【参考】『漢語灯録』小経釈「経来意とは、上の『観経』中に初に広く諸行を説て、遍く機縁逗じ、後は諸行を廃す、只念仏一門の行に結帰すと。然に猶を彼経諸行の文は広く、念仏の文は狹し。初心の学者迷易く、是非決し難し。故に今此経諸行往生を廃捨して、復次に但念仏往生を明す、念仏の行に於、決定の心を生しめんが為なり」(W・三六三) 問。「従是西方」等とは、未だ大観二経を聞いていないから説かれたものではないか。 答。『小経』は大観二経を重説したものであって、「従是西方」等は『大経』の「去此十万億刹」を重説し、「一日七日」の称名は『観経』の下三品と付属を重説したものである。 【已上】