宗名義趣  今題に五門を開く、一に宗名所依、二に立名所由、三に釈名解義、四に指定体性、五に異名得失なり、初の中二、一に浄土宗、二に浄土真宗なり、  先づ初に浄土宗とは、此名『選択集』二門章に出づ、其所依は元照、慈恩、迦才に取り給ふ、蓋し『択集』の意、其法義は西河、終南等の祖師浄土の法門を建立し給ふに根拠すといへども、且く自他共許を希ひ給ふ故に殊更に他師を所依とするのみ。  次に浄土真宗の目は、我祖五十二歳元仁元年壬申の年創て之を称へ給ふ、其旨『本典』に明瞭なり、蓋し真宗の名は『散善義』(三十二左)の「真宗ュR遇」、及び『五會讃』の「念仏成仏是真宗」(『二門偈』、『和讃』、『銘文』等取つて後善導とする)に基づく、然れども彼は法門に名けたるものにして宗名に非ず、高祖其法義を取つて宗名を立つ、例せば元祖の綽、導の浄土(法義)を取つて宗名(浄土宗)とするに同じ。  問、『真宗宝璽伝』には元祖已に浄土真宗弘通の宣命(後白河院の本願、後鳥羽院の勅宣)を蒙り給ふことを載せたり、『大原問答』に浄土の真門(鎮西には、門とは猶し宗の如し)縁山を勅願所と定め、真宗弘通すべしと綸旨(後陽成院)を賜ふ、其外、大樹寺には真宗弘通の綸旨あり、黒谷には浄土真宗最初門の勅額あり、西山の『論議』一(五左)に「称A浄土真宗@」と、『楷定記』(『玄義記』に真宗と称するもの二十餘ヶ所、『散善記』に浄土真宗と呼ぶもの両処あり)、又宗内にありては『本典』(「真宗教証」、又は「真宗興隆大祖」、或は「三朝宗師開A真宗念仏@」等と)、『和讃』等、或は七祖、或は元祖を真宗の始唱とし給ふ、今何ぞ我祖の創称とするや。  答、『宝璽伝』は著者不詳、その外自餘の浄土宗に真宗と唱ふるもの、我真宗を羨望して後世に及んで恣称するものにして、たとひ勅宣といへども唯讃詞に止まるのみ、故に元祖及び聖光房、善慧房、良忠等の師真宗と称するものを見ず、又我祖の七祖に於て真宗開闢の功を嘆じ給へるものは、愚禿すゝむるところ更に私なきの義にして、若は法義、若は宗名、功を上祖に推るものなり。  第二に立名所由とは、此に二、一に浄土宗、二に浄土真宗なり、初に浄土宗とは、吉水日域に於て初開の運に当るが故に、聖道諸宗の外にこの一宗あることを詳明ならしむるには、新たに宗名を立つるに如かず、故に浄土の宗名を立てゝ寓宗の妨を防ぎ、廃立の旨を判然ならしめたまふ。  問、上六祖の如きは開宗弘通し給はざるや。  答、法義に於ては所依の経を定め、制範を垂れ、相承を審かにし、自帰勧他して遐代を化す、豈に開宗周備せざらんや、然るに殊更に宗名を立てざるは、弘通に障礙なきが故なり。  問、然れば元祖何故に問答まで設けて宗名を立し給へるや。  答、時人の惑を釈去せんが為の故に、『和語灯』四(二十二)に「問云、八宗九宗の外に浄土宗を立る事自由の条かなと餘の人申候をばいかんが申候べき、答、宗の名を立る事は仏の説に非ず、自らこゝろざす所の経教について、教ゆる義をさとり、極めて宗の名をば判ずる事なり、諸宗のならひみなもつて如R是、いま浄土宗の名を立る事は、浄土の正依の経に付て、往生極楽の義をさとりきはめて御坐ます先達の宗の名をば立て給へるなり、宗の起りを知らざるもの左様の事をば申候なり」と、『漢語灯』七(十一丁)に「是故依A道綽善導意@立A浄土宗@、全非R為A勝他@也、可R知」と。  次に浄土真宗とは、真の言は仮に簡ぶ、吉水門下甍を並ぶる中、他の浄土宗は或は二機一土、或は一機一土と立てゝ諸行入報を許す、高祖是等の誤謬を簡去して吉水所立の浄土は即ち真宗なることを顕さんが為に、浄土真宗の名を立て給ふ、故に『宝章』二帖目十五通に「法然上人のすゝめ給ふところの義は一途なりといへども」等と、同一帖目十五通に「自餘の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす」等と、『御式文』には「方今念仏修行之要義雖R区、他力真宗興行即起R従A今師知識@」と、又自宗に於て真宗と名くべき謂あり、下に至つて知るべし。  第三に釈名解義、此に二、一に離釈、二に合釈、初中亦三、一に浄土(聖浄二門の題に具釈すべし)、二に真、真とは真実なり、真実とは一に聖道の権仮に簡ぶ、「聖道之諸教行証久廃、浄土之真宗証道今盛」と、二に門内の権仮に対す、『行巻』偈前の「他力真宗」、及び『真仏土巻』終に「真宗之正意」と云ふは此意なり、三に時衆の謬解を遣る、前に出せる諸文の如し、四に真如一実の妙理を弘通するが故に、『化土巻』本(十七丁)に「横超他力也、斯即真中之真〔止〕斯乃真宗也、已顕A真実行之中@畢」と、此を『行巻』に徴するに、一乗海絶対不二の教をさす、偈前の「誓願不可思議一実真如海」等とはこれなり、知るべし、三に宗、宗とは宗要宗旨宗趣の義なり、今は家柄といはんが如し、八家九宗など皆この例なり、  次に合釈とは、一に浄土即真宗の持業釈、外は・聖道権仮を簡非し、内は弘願真宗を持取す、二に浄土の真宗、浄土の言広く通ずるが故、之に簡んで浄土の中の真宗たることを示す、但し元祖所立の浄土なるときは同体簡濫の依主にして、自餘の浄土に簡異するときは別体の依主となるべし。  第四に指定体性とは、初に吉水にあつていへば念仏(行信)往生(証果、これらを示すものは教なり)、四法具足の第十八の選択本願(本願章の標挙及び八選択は、十八願を指して選択本願とす)を浄土宗の体とす。  問、元祖の浄土には仮を帯びざるを得んや、何となれば、二門章に相承を挙ぐるに盧山等の真仮混淆の師を連ぬ(是れ一)、三輩章に廃助傍の三義を挙げて「殿最難R知」と云ふ、助傍二門は則ち権仮なるべし(是れ二)、又付属章に定散九品の往生を指して「浄土宗観無量寿経之意也」と(是れ三)、又三選の文は浄土門中より雑行助業を開くに非ずや(是れ四)、又『末灯鈔』に「浄土宗の中に真あり仮あり、仮とは定散二善、真とは選択本願は浄土真宗これなり」との給ふ(是れ五)、此等の疑難、云何が會釈せんや。  答、相承に兼権の師を挙ぐるは自他共許の為なるのみ、又付属章及び『末灯鈔』の如きは、換言すれば浄土真宗に真と判じ仮と釈すべき法理あり、その真なるものを浄土真宗とも選択本願とも名く、また『観経』九品の定散を仮門と釈するは、天台等の観R為宗と判ずるとは異なりて、浄土真宗にして判釈するの意なりと示し給ふ、例せば二門章に「浄土宗有@@二門@、一聖道二浄土」等と、この語例にて知るべし、又三選の文の如きは、竪に約すれば浄土中に権あるべきに似たれども、横に観れば聖(権仮)浄(真宗)、雑(方便)正(真実)、助(自力)正(他力)の相対にして、浄土即正行、即正業の依仏本願故なれば、浄土即真実なること知るべし。  次に高祖にあつては或は十八願を指す(『末灯鈔』に「選択本願は浄土真宗なり」と)、此は総摂門に就く、或は五願六法を指し(偈前の文)、或は四法を取る(『教巻』総標)、或は教証の二法を立つ(『正信偈』に「真宗教証興片州」と)、或は教に約す、是れ全く『信巻』末(三右)に「願成就一念円満之真教、真宗是也」と同じ(『教巻』標挙細註)、或は信証に就く(『唯信文意』(十三丁)に「真実信心をうれば実報土に生るとをしへたるを浄土真宗とすとしるべし」と)、或は信心のみを称す(『宝章』の「これ(信心)をしるをもて真宗のしるしとす」と)、是は『信巻』別序を安置して信心宗本を顕し給へるを伝承す、真宗の真宗たる所以夫れ焉にあり、又『化巻』本(十七丁)に依つて推考すれば、浄土真宗とは一乗円満真如一実の法海にして、四法差別の当体一々真如一実、為物即実相、実相是為物、差無差無礙円融の名号を真宗の体とす、故に『口伝鈔』(五十丁)に云く「久遠実成の弥陀のたちどより法蔵正覚の浄土教のおこるをはじめとして」等と、此文によらば、もと聖道門に簡別して、往生浄土を立て初めたるは法蔵菩薩なり、然れば法蔵菩薩建立の一宗なりと知るべし。  問、『宝章』に何故に単に果に約して真の字を解釈したまへるや。答、因(「雑行をゆるす」)果(「真実報土の往生をうる」)互顕するが故に、亦はいふべし、浄土の言もと所期の土より立つるが故に、たとひ所宗に及ぶも本に約して談じ給へるものか。  第五に異名得失とは、『浄土仏祖集』(鎮西白簇流第六祖酉誉上人の撰と伝ふ)に云く「問、善信空師潟瓶之御弟子、伝R宗興R義、智徳聴A天朝@、上人配流時師弟遠流也、何不R云A浄土@云A一向宗@也、答、違A真宗相承@立A一党@、故不R云A浄土宗@【乃至】名A愚禿親巒@、有髪而利行同事、故云A一向念仏宗@」と云々、此書偽撰(称光院の御字、応永二十三年の撰にして蓮宗主御誕生の翌年なり、恵空所蔵の本には「華頂の義山の云く、酉誉の撰にあらず」と記せり云々)、彼徒尚ほ不詳とす、此の如き偽書に貶称する名言を以て一向宗といへるもの言語同断なり、故に『帖外宝章』一(十九丁)、五(十七丁)に厳しく破斥し給ふ、或はいふべし、一遍の一向の源は江州番場の道場にして即ち一向宗といふ、此等に共同するものを誡め給ふ、若し廃立位に約して一向宗といはゞ、真宗と言別義同なるが故に仔細なしと与へ給へども、更に本宗より申さぬ故に一向と名くべからずと奪ひ給ふ、彼が貶称するを転用して却つて美称とするの巧手段仰ぐべし。