二、機法権実 【出拠】  一、『改邪鈔』「オホヨス祖師聖人御相承ノ一義ハ三経トモニ差別ナシトイヘトモ観無量寿経ハ機ノ真実ヲアラハシテ所説ノ法ハ定散ヲオモテトセリ機ノ真実トイフハ五障ノ女人悪人ヲ本トシテ韋提ヲ対機トシタマヘリ大無量寿経ハ深位ノ権機ヲモテ同聞衆トシテ所説ノ法ハ凡夫出要ノ不思議ヲアラハセリ大師聖人ノ御相承ハモハラ大経ニアリ観経所説ノ深心因果ノコトハヲトランコトアナカチ甘心スヘカラス」等(V・八二)《九八六》  二、『口伝鈔』「いはゆる三経の説時をいふに大無量寿経は法の真実なるところをときあらはして対機はみな権機なり観無量寿経は機の真実なるところをあらはせりこれすなはち実機なりいはゆる五障の女人韋提をもて対機としてとをく末世の女人悪人にひとしむるなり」(V・二五)《九五八》 【義相】 問。機法権実の義相云何。 答。『大経』は機権法実にして、法は弘願真実、機は在世の権人に対して説く。『観経』は法権機実にして、第十八願正被の悪機に対して権法を説き、以て唯知作悪の機の性実を顕わす。 問。『大経』は法が弘願真実ならば、此の法を聞く機は亦弘願真実の機でなくてはならないのではないか。然るに権人とすれば権実相対が成ぜないのではないか云何。 答。今の権実は方便真実の権実とは左右がある。『大経』は弘願の上で権実を分かつ、但だ五悪段の如きは機実を説いてあるが、未来の悪機を所為とすることを示すものであって、正しく所対の機は、第二十二願より現われた権人が能聴衆となって、将来の悪機往生の教法を開闡するものである。能説【釈尊】能聴【権人】能く相応して此の教法を開闡するものである。 問。『観経』の法権機実の相云何。 答。法権とは定散諸善の権方便にして、機実とは三福無分の悪機の自性実質なり、これを本願正K被の弘願法をきくべき機とする。自他真仮の権実に非ず。権法をもって三品【『玄義分』の能為所為】の機に与えて、次第に不堪の相を叩きだして、以て機実を顕はすの説相である。直ちに弘願真実の機というのではない。 問。然らば自他真仮の義はないのか。 答。『大経』の権は直ちに方便権仮の義ではないが、自ら其の義を含んでいる。『末灯鈔』に「聖道といふはすてに仏になりたまへる人のわれらかこゝろをすゝめんかために」等(U・六五七)《八二八》とあり、又『化巻』には「おほよそ一代の教についてこの界のうちにして入聖得果するを聖道門となつく難行道といへりこの門のなかについて大小漸頓一乗二乗三乗権実顕密竪出竪超ありすなはちこれ自力利他教化地方便権門の道路なり」(U・一五四)《四九七》とある。この意をもって解すれば『大経』の権化の人のK説の法は、序分の八相中の転法輪であって、又自力というも可である。今図示すれば左の如し。 大経 ┬ 機権 ─ 自力 └ 法実 ─ 他力 観経 ┬ 法権 ─ 自力 └ 機実 ─ 他力 【已上】