選取三経  先に所依の経典を定め、次に能依の義別を論じ、後に選取の所由を弁ず。 初に所依の経典とは、此中二、一に総依、二に別依なり、  一に総依とは、『選択集』に「正明A往生経論@者三経一論是也」と、これ正しく所依の経を一論と組合せて選定し給へるものなり、凡そ三経の所説を窺ふに、『大経』は能聞所聞に約し(本師の果徳威神不可思議は巻いて名号に収め以て所信とす)、『観経』は能観所観に約し(極楽依正荘厳を所観とし、観門の機に応じて聞に換ふるに観を以て十三観を説く)、『小経』は能期所期に約す(極楽の名義及び本仏光寿を顕し以て願生の機情に応ず、聞に換ふるに願を以て「応当発願」と説く)、『浄土論』は体徳円満の三厳は願心の所成なることを顕して、一の帰命尽十方無礙光如来に帰し、又三厳を明すに多く聞名の利益を明し給へるものは、能所聞の法門にして『大経』に依る、観察門に広く浄土の三厳を顕し所観とするものは、能所観の法相にして『観経』に依る、一心帰命尽十方無礙光如来(一心は能帰の心、『経』の執持一心なり、帰命は尽十方無礙光中に有する南無帰命の義なり)を以て願生心を示し、三種荘厳を以て所期の土とす、これ能所期の法門にして『小経』に依る、故に『論註』(一丁)に題号の無量寿を釈して「釈迦牟尼仏在A王舎城(『大』、『観』説処)及舎衞国@(『小経』説処)、説A無量寿仏荘厳功徳@」と云ふ、是れ即ち三経を所依とすることを註解し給ふ、而して龍樹の易行道を承け来つて『浄土論』を嘆じ、「上衍之極致不退之風航也」と、蓋し是れ『十住論』を禀承するの『浄土論』なることを示し給ふ、此を以て初祖を窺へば、二道対判は『観経』の聖浄倶実に依り、弥陀章の本願如是及び信疑決判は正しく『大経』により、十方諸仏の讃嘆は『小経』に依るの義明かなり(『大経』に諸仏讃嘆を説けども法実に約す、『十住毘婆沙論』は怯弱下劣の機に向つて讃嘆するものは『小経』なり)、次に西河は『楽集』二門章に先づ『大経』を引き、次に『観経』上六品の相を示し、下三品に『小経』を収め来つて諸仏の勧帰を挙ぐ、又同下(十九丁右)に『大』、『観』、『小』を連ね、次に『随願往生経』等の三箇の経を引くには、復更の二字を安じ、以て正依に非ざることを簡別す、次に終南にあつては五部九巻の中往々あり(『定善義』三縁釈、『散善義』三経深信、『法事讃』、『般舟讃』なり)、横川は身天台に在つて分明に顕し給はずといへども、正依三経の義含畜せり、『要集』上末(十六丁)に十二経を引き、先づ『大』、『観』、『小』を連ぬ、同下本(二十二丁)念仏証拠門に十経を引くに三経を並挙す、同下末(三十八丁)に多くの経論を連引するにも三経を出す、餘経は三処に出沒あり、殊に証拠門には『小経』を以て臨終の七日一日とし、『観経』、『小経』、『鼓音声経』を以て念名号往生の経なりと別判し給ふ、然るに『鼓音声経』は下末には之を缺く、又十楽を示し給ふには多くは『大』、『観』、『小』に依る、亦はいふべし、双巻経と称するは『観経』に対するものなり、故に上末(四丁左)に二種観経の細註あり(御廟は『大経』を双観経と称す、坊本上本(三十六丁)に双観経に作る)、『阿弥陀経』の如きは小無量寿経と名く、是れ即ち『大阿弥陀経』、『双巻経』に簡ぶものか、吉水に至つては在文分明なり、我祖此等の相承によりて『本典』(『教巻』、『化巻』の標挙)及び『三経往生文類』に三経を選取し給ふなり。  次に別依とは、初祖は難易相対(『観経』)に始まりて終に弥陀章(『大経』)に帰す、龍祖の正意は正しく『大経』に拠ると雖も、時機を誘引せんが為に且く相対門に下りて分判し給ふ、天親論主は二十九種皆願力所成なりと顕して、「観仏本願力」、「三種成就願心荘厳」等と体徳円融に約するの所明なれば、全く『大経』に依り給ふや明かなり、故に『註』に『無量寿経』の三厳を広説して遂に名号に帰す、是れ即ち真実功徳相にして即ち誓願の尊号なるが故に、「以A仏名号@為A経体@(宗体の体の義にあらず)」と云ふ、『大経』の能所聞の法相を根基とせるや明けし、西河は『集』中五十五経を引くと雖も、『大経』を引証し給へること凡そ二十二遍、別して往生の因(上巻二十九丁、同三十四丁二門章、何れも第十八願を引いて通入の因を顕す)果(下、十八丁十一願の必至滅度及び横截五悪趣の文を引証す)を決するには殊に『大経』を以てす、況んや『大経』に拠つて安楽集と題したまふに於てをや、然るに正意『大経』にあるにも関らず、『観経』を所釈とし給へるものは時機に投ずるのみ(時人『観経』を好むが故に、又諸師『観経』を謬解するが故に、委しくは『蹄d記』一(七丁)の如し)、終南『観経』の疏を製すと雖も、本拠『大経』に在り、故に五部九巻は別依大経の義溢れたり(『玄義分』に「言A弘願@者如B大経説@」と、又二乗種不生の酬願、『序分義』第七科に「四十八願所建浄土」と、第七観に「不捨本願来応大悲」と、『散善義』二河譬の弥陀願意、付属の望仏本願等)、横川は別発一願と立して『大経』を引き給ふこと四十箇処に及ぶ、吉水は『選択集』に選択本願を一部の旨帰とす、之に依つて我祖は「真実教者大無量寿経是也」と定め給ふ、知るべし。  第二に能依の義別とは、初祖『易行品』の如きは相対(倶実)に始まつて(対判二道)終に絶対に帰す(弥陀章信疑決判)、第二祖は行者の自利々他を顕す、此れもと法蔵菩薩の願心より起る全性修起の法なれば、一乗円満にして二利具足の菩提心即ち他力の信心なり、若は一心(安心)、若は起行(五念行又は十念念仏)、何れを取押へても二利円具の菩提心ならざることなし、永く聖道の唯心所造の菩提心に間隔せる絶対門の所明なり、『論註』は『論』と全同無二なり、次に『楽集』は、本城を『大経』に構へて『観経』の陣に出でゝ諸師に向対し給ふが故に、三経を『観経』の上で談じ、顕機の経と定め給ふ、故に二門章に先づ『大経』の十念を臨終造悪の機に約し、『観経』上六品の諸行は不堪なるの相を示して、下三品の悪機の為に諸仏(『小経』の意)浄土を勧む、是れ即ち三経一致門の格なり、而して約時被機して浄土門を開き、@而も準他存別に約し、表に観仏為宗を守り以て弘願真実に誘引するの所明なり、次に五部九巻は一致門を主として差別門を存在せり、その一致門は『論』、『論註』の如き無礙一致に非ず、終帰一致にして西河に旨を同ずと雖も、西河は上六品の権法を以て下三品の機実を顕す、終南は定散餘暈の所説と窺ひ給ふが故に、下三品を以て定散中に摂して「上来雖R説A定散両門之益@」等と云ふ、而して付属に至つて念仏為宗を顕す、是に対して正宗は観仏為宗と定め、下三品は尚ほ定散餘暈の勢なり、然れども西河を相承し給へるが故にまた下三品を顕機と見給へる一重あり、所謂遇大遇小遇悪の判此れなり、次に『要集』の如きは十八願を以て臨終十念に合する意なるが故に、証拠門に別発一願を明すに三心を略して十念往生とし、以て『観経』の唯称念仏得生極楽に組す、而してこの十念「臨終有A便宜@」等と行々相対して以て時機を守り給ふ、『選択集』は一致に約して三経何れによるとも選択行は念仏なることを顕し給ふ(題号及び本願章八選択の文)、知るべし、然るに差別門の義を存在せるが故に、付属章には九品諸行往生の旨を挙げ給ふ(付属章)、又『小経』は西河、終南の如く『観経』に摂入するものに非ず、諸行雑善に簡んで念仏を示すものとす、その所簡の雑善の機執より取れば、『小経』尚ほ差別の義を存せり、摂末帰本法輪との給へるもの是れなり、次に我祖に至りては一致差別の両門あり、故に「依A顕之義@異依R彰之義@一也」と云々、常の釈の如し。  第三に選取の所由とは、一に示A信心能入@故(『化巻』、『略文類』に三経の大綱を信心とす、『持名鈔』(十八)に云々す)、二に詮A真実功徳相@故(『論註』の真実功徳とは即ち名号為体の故に誓願の尊号とす、『決智鈔』(五十一丁)に「論に浄土の三経を真実功徳相といへり」と云々)、三に顕A機法合@故(『口伝鈔』(五十一丁)、『改邪鈔』(三十五丁)に云々す)、四に順A仏願教語@故(三随順即三経なるが故に、『持名鈔』(六丁)、同(八丁)に明かに願教語を三仏として三経の所説に分配せり)、五に依A要真弘三願@故(『広書』、『二巻鈔』、『三経文類』に云々す)、前四義は一致門に就き、後の一義は差別門に約するなり。  問、一致門に於て選取するものはその義通暢すべし、但し差別門に約すれば、『観』、『小』の方便を以て真宗正依の経と定むるもの云何。  答、一義に、差別門は正依の義に疎しといへども、傍明に対すればまた正依の一分とすべしと云々、今云く、『観』、『小』の方便は真実に入らしめん為なれば、為実施権の故に正依とす、然るに方便とは跨節より名く、自力定善の当位、観仏為宗真門為要の表に就けば正依にあらずと雖も跨節して正依とす。