二回向義  先づ名義に釈せば、此中二あり、一に離釈、二に合釈、初の中に三、一に往還、二に相、三に回向なり。  初に往還、往とは往生なり、還とは還来穢国にして、此土より彼国に望めて立つるの名なり、『論』に「我願皆往生」と云ひ、『経』に「還到安養国」と説くが如きは彼土より立目す、今とは異なり。  二に相とは相状なり、攬つて見つべきに名く。  問、この相とは往還の相状なりや、将た回向の相状なりや。  答、古来往生の相状、還来の相状として、所回向の物体を指すと解す、今評して云く、若し往生の相状といはゞ、往相正業、往相信心は他力回向を顕す名にあらずして、往生の正業、往生の信心なりと示すことゝするや、今云く、回向の相状にして能回向をいふ、故に『註』には「回向有A二種相@」と云ひ、『略典』には「本願力回向有A二種相@」等と、『讃』に「弥陀の回向成就して、往(所回)相(能回)還(所回)相(能回)ふたつなり、これらの(二種回向)回向(能回施)によりてこそ、心行(十八願の三信十念)ともにえしむなれ」と、又云く「南無阿弥陀仏の回向(能回施)の、恩徳広大不思議にて、往(所回)相回向(能回向)の利益には、還(所回)相回向(行者に約すれば証果の悲用)に回入せり」と、約生約仏何れにしても能回施の相状をさす。  三に回向とは回転趣向を字義とす、若し法義に就いていへば回施向道といふべし、『註』に「回A施衆生@共向A仏道@」と云々、又回自向他にして、自己の善を他に向ふ、『華厳行願品記』五に十種回向を立つる中、第一を回自向他とす、約末でいへば己が所集の善根(前四念門)を回らして他の衆生に趣向するなり(第五門)、約本でいへば弥陀の自証を他の衆生にふりむけ回施するをいふ、『一多証文』に「回向とは、本願の名号をもて十方衆生に与へたまふ御のりなり」とは、回自向他なり、又名号を回施して浄土に向はしむる方よりいへば、回施向道と解するも好し。  問、『楽集』下(十五丁)に六種回向あり、今用不云何。  答、第二(回因向果)、第三(回下向上)、第四(回遅向連)の三は菩提回向なり、第六(回入去却分別之心回向之功)の一は実際回向なり、第一(将所修諸業等(菩提回向)還得六通等(衆生回向の還相))と第五(回施衆生(還相にして菩提回向)悲念向善(菩提回向にして往相))を衆生回向とす、今は衆生回向なれども、『楽集』は準他の釈なれば別途の『註』及び祖釈と左右あるべし。  二に合釈とは、往還の回向相の依主釈、此中、仏に約せば、所回の往還は衆生に就く、能回の相は仏に約す、若し衆生に約せば、往相還相共にこれ衆生能回向の相を顕す、往きがけの回向相(他の衆生に回施する利他の相、還相亦然り)と還来しての回向相と、之R二相回向とす、又「若往若還」と(起観生信)の給ふは、広(往相回向、還相回向)中(往相、還相)略(往還)の三例の中略例なり、『散善義』回向発願心釈の如きは、回向を以て即ち還相を顕す、又『略典』に「若往若還(所回向)、無R有C一事非B阿弥陀如来所A清浄願心回向(能回向)成就@」等と、脚註の如く所回向能回向と分けて解するも得たり、又は往相回向、還相回向を重ねて、その義を詳かにして無有一事非阿弥陀如来等との給ふものと解するも通ず。  第二に出体せば、約末のときは利他を以て体とす、約本のときは、一に取願に就く、『三経往生文類』によるに、十七、十八、十一(往相因果)、二十二(還相利益)の四願を取る(十七願往相の所に還相まで回向する)、又『和讃』に「弥陀の回向成就して、往相還相ふたつなり」と(一義に往相回向は十七願、還相回向は二十二願の大士、この人法を以て十八の心行をえしむと解するこころなり、今思ふに、此説未可なり)、又「南無阿弥陀仏の回向の(十七願)、恩徳広大不思議にて、往相回向の利益には、還相回向に回入せり」と、往相回向に還相回向の利益まで全うじて回施する相、弥陀の回施をいはゞ同時なり、利益に就けば次第あり(有人、二回向を十二、十三より開く、何となれば、『和讃』已に真仏土より此土の教行信証、所謂浄土門を開出する所明なるが故に、『略書』の「倩思R彼静思R之、達多闍世」等と云ひ、みな浄土より云へる相なりと云々、今云く、今家相承何れの処にか十二、十三の真仏土より往還を開くや、惑へるの甚しきかな)、二に能宗に約す、『教巻』の開章に「謹按A浄土真宗@有A二種回向@」等と、三に四法に約す、『証巻』は還相を以て証中に摂す、四に本願力に約す、『略書』行下に「然本願力回向有A二種相@」と、五に六字尊号に約す、『和讃』に「南無阿弥陀仏の回向の【乃至】還相回向に回入せり」と、此の如く願海宗旨、四法願力等の所談は暫く差別すといへども、終帰するところ六字尊号の一に帰せざるはなし。  問、往相を約本とし還相を悲用にして約末と解するとせば、還相の体なにものぞや。  答、一句の尊号なり、故に『証巻』の終に「還相利益(約末)顕A利他(約本)正意@」と云ふ(『和讃』に「南無阿弥陀仏の回向の【乃至】還相回向に回入せり」と)、凡そ「利他円満大行」、「利他深広信心」、「利他円満妙果」等と云ふ、蓋し利他の言は他力の義を表す、此他力たるや二利円満せるものにして、二利円満の徳を利他の方より衆生に回施するが故に、仏の二利の徳を領するに、仏の利他が全く衆生の利他なり、其衆生の利他即ち還相回向(約末)なれば、還相回向は是れ仏利他の正意を顕すものにして、其体六字の尊号たること昭晰たり。  第三に問答料簡せば  問、『論註』もと約末の回向とす、約本の義は何れより立つるや。  答、『註』下(十九丁左)に『論』の「能令速満足、功徳大宝海」の文を釈して「不虚作功徳成就者、蓋是阿弥陀如来本願力也」との給ふ、五念二利の功徳即ち衆生往生の因果にして、速かに円融満足せしむるは唯是れ本願力なりと、他力回向の趣を示し給ふ意、又利行満足章に「覈求A其本@阿弥陀如来為A増上縁@【乃至】凡是生A彼浄土@(往相因果)、及彼菩薩人天所起諸行、皆縁A阿弥陀如来本願力@故、何以言R之、若非A仏力@、四十八願便是徒設」と、此釈を按ずるに、其本とは、本は末に対す、末とは衆生の五念二利なり、衆生の五念二利、其本を求むるときは阿弥陀如来の本願力(上の不虚作の本願力を承く)に縁つて成ず、然れば則ち十念念仏して浄土に往生するも(十八願)、正定聚に住するも(十一願)、還相に出づるも(二十二願)、皆本願力によるに非ざるはなしと示し給ふ意なり、爰に於て他力回向の義宛然たり、是を以て我祖直ちに他力回向としたまうて(『行巻』追釈段の意)、「往還回向由他力」との給ふなり。  問、高祖何故に行者の回向を談じ給はざるや。  答、不回向の宗義を建立し給へるが故に(此義委しく回向不回向の題下に釈す)。  問、入出と往還と同別云何。  答、一義に全同なり、『註』下(初丁)に「門者入出義也、如A人得R門則入出無礙@、前四念門是入A安楽浄土@門、後一念是出A慈悲教化@門」等と、自利の因果を入とも往相ともいふべし、利他の果益を出とも還相ともいふべし、若し我祖に依らば往還即衆生の二利、謂く、一仏乗に乗じて一仏乗の果を究むるを名けて往相とす、『讃』に「往相の回向ととくことは【乃至】生死すなはち涅槃なり」と、此中四法を具す、之を自利とす、自利満足して亦衆生を利す、生死の薗に遊んで普賢の徳を現ず、之を還相とす、『讃』に「還相の回向ととくことは【乃至】普賢の徳を修するなり」と、入出往還是れ一なり等と云々、今云く、入出は二利の異名なるが故に、『註』下(二十三丁)に「菩薩入A四種門@自利行成就【乃至】菩薩出A第五門@回向利益他行成就、応R知」と、又往還は第五(利他)回向門より開出する所の二種なるが故に「回向有二種相」等と、然れば往還共に利他にして、出の功徳より開きたるものなれば、寛(入出)狭(往還)の異ありと知るべし。  問、約本のときは衆生の二利往還共に仏力より回向するの義に非ずや。  答、然り、往相還相とは一の回向相なれば、たとひ仏に約するとも利他なり、単に往(往生)還(還来)を以てすれば二利入出とも合するに似たれども、往還は所回向の物体にして、往相(往生回向の相)還相(還来回向の相)といふは能回向を顕詮する目なり、故に二回向は出門利他に局るべし、已に然らば二回向と入出と永く混ずること勿れ。  問、然らば門者入出義と釈し給へるは二利の異名に非ずや。  答、『瓔珞経』上(十五丁)に「入実出仮為A二利@」(『窺斑録』に之を引く)と、又入出は聖浄二門に通ず、往還は浄土別途の目たり、『註』下(初丁)に「門者入出義」と釈し給へるは、五念は五果の為の門なれば、前四念は前四果の浄土に入るの門戸なることを示し、第五念は第五果の浄土を出づるの門戸なることを顕して、入出の名を以て門の字を釈す、二回向を入出とするには非ず。  問、往還と広略と同別云何。  答、往相の証果は究竟涅槃な れば略門一法句なり、それより出づるの悲用還相は広門差別相にして、還相即五果の広門(『証巻』還相下五果を引証す)なれば、往還を以て広略に配するも好し。  問、我祖約本の回向を己証とし給ふ、何ぞ還相を約末とし給ふや。  答、約末の還相は約本の利他の正意を顕せばなり(往相を局つて約本とし給へるもの別致なり)。  問、往相真実還相方便と分別せばいかん。  答、往還は本末共に真実にして一双の名目なり、何ぞ真仮を分たん、然るに浄土の方便法は往相中の一浮〔シ+区〕といふべし、十九、二十も他力中の自力にして猶ほ横の名を施せばなり、たとひ化土たりとも往生す、豈に願力によらざらん、又還相とは別法のあるに非ず、還来の人に約して往相の法を説くものなり、但し還相の人真実方便の法を説けば真仮に通ずる辺もあるべし、中に就いて暫く主不を分たば、往相は十七願他力回向の義を詮し、還相は二十二願の大士分一説三して、終に一乗法に帰入せしむる辺よりいへば、三乗等の方便を説くものは還相大士の功用なれば、「利他教化地方便権門之道路也」との給ふ、沈思すべし。