三、三経宗体 【出拠】  一、通途 @『金剛性海大教王経』に二あり。一に清浄実相を宗と為し、二に真如法を体と為す。 A『瑜伽経』(八の上)[大42469]に云う。凡そ諸経の体に二あり、一に仏在世は音声、滅後は文字を体とす。二に所詮の義を体として文義を体とする也。  二、今宗 @『論註』「すなはち仏の名号をもて経の体とす」(T・二七九)《四》 A『玄義分』「『観経』は即ち観仏三昧を以て宗と為す、亦念仏三昧を以て宗と為す。一心に迴願して浄土に往生するを体と為す」(T・四四六)此に依って高祖は広略二書に宗体を論じたまう。 三、異説 @宗体同論 宗の帰する所を体とする。【『大乗玄論』及び『法華遊意』の意】 A宗体別論  1・能詮(文字)を体とし、所詮(法義)を宗とする。【『法華玄賛』及び『義林章』の意】  2・所詮中因果を説くを宗とし実相を説くを体とす。【『天台玄義』『観経疏』等】 【釈義】  今家は『六要鈔』に「本願と言は、先づ六八を指す、之を以て宗と為す。願々の所詮偏に念仏に在り、之を以て体と為す」(U・二一六)とある。此の説の如くであれば、六八願中には方便願が含まれているのにどうして総じて宗とすることが出来るのであろうか。又念仏は経の宗要であるから体とはなり難い。又総別を以てすればどうして宗体の別があるのか。  このことに就て今曰く、本願為宗とは、五願総摂の十八願にして、即ち衆生往生の因果である、これを宗とする。故に「偈前の文」に六法を挙げて「斯れ乃ち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』之宗致、他力真宗の正意也」と云う。又名号為体とは、因果差別の宗に対して非因非果の果徳、一実真如海を以て体とする。故に行を歎じては真如一実功徳寶海という。信証も亦同じく真如一実を以て体とすることを示したまう。偈前に五願六法を挙げて、一実真如海と嘆ずるものは即ち是の意である。此の真如一実即名号であるが故に『一多証文』に「真実功徳とまふすは名号なり、一実真如の妙理円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまふなり」(U・六一五)《七八九》と云い、『論註』には「実相の法を聞くに依り生ず」(T・三一〇)《六四》と云う。 【問答料簡】 問。『論註』に体を論じて宗を論ぜざるは云何。 答。一義に宗体を論じてるものにあらず、題号の経名を嘆釈して三種荘厳と説けども、畢竟は名号の外ないと顕わして体とすると述べたまう。よって此の体は宗に対する体ではなくして、唯物柄と云う義である。又一義に宗と云う名はないが、三種荘厳を説くのが宗の義である。故に下に一法句を二十九種の体とする。これ名号実相の略門なれば也。 問。宗体の義相云何。 答。左図の如し。 ┌ 教 ┐     ├ 行 ┴─── 第十七願 ────┐ 宗 ┼ 信 ──── 第十八願 ────┼─ 体は名号 ├ 証 ──── 第十一願 ────┤ └ 真仏土 ── 第十二・十三願 ─┘ 問。何の為に宗体を論ずるや。 答。浄土の経文宗あるが故に、衆生往生の因果を成じ、其の体実相に非ざることなきが故に、不虚妄にして真如の妙理なるを顕わさんが為也。 問。三経同じく本願為宗名号為体と定むべきや。 答。一致門の時は所問の如し。故に『化巻』に「是を以て三経の真実は、選択本願を宗と為す也」(U・一五三)《四九四》との給う。宗既に然れば体豈名号ならざらん。若し差別門に約せば教巻の如く『大経』に局る。『観・小』両経は宗既に異なるが故に体亦随って別なり。宜しく『玄義分』の如く回願往生を体となすべきなり。 問。『玄義分』の為体とは如何なる義なりや。 答。宗の終帰`体にして宗体同論なり。 問。何故善導は同論に約し給へるや。 答。念観両宗をたてたまうが故である。若し実相名号を体に約せば、観仏為宗に通ぜざればなり。 問。天台の如く実相を体とすれば、修徳を貴ぶ真宗の法理に合せざるに非ずや。 答。名号は一実真如なれども、彼天台の性具の理とは異なりて、今は修徳顕現の四法円具たる、弥陀の果号`実相なるが故に実相の当体衆生の因果を成じたる別途不共の実相なり。故に名号を以て実相とする。 【已上】