四、普賢人法 【出拠】  一、『大経』第二十二願「設ひ我仏を得んに、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。其の本願の自在の所化、衆生の為の故に、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真之道を立せ使めんをば除く。常倫に超出し諸地之行現前し、普賢之徳を修習せん。若し爾らずば、正覚を取らじ」(T・一〇)《二三》  二、『大経』序分「皆普賢大士之徳に遵ひ、諸の菩薩の無量の行願を具し、一切功徳の法に安住せり」(T・二)《四》  三、『和讃』讃偈讃(一七)「安楽無量の大菩薩/一生補処にいたるなり/普賢の徳に帰してこそ/穢国にかならす化するなれ」【左訓】普賢の徳=たいしたいひをまふすなり 【名義】  徳法界に普きが故に普と云ひ、位極聖(仏)に隣るが故に賢と云う。【華厳探玄記行願品長水の疏に出づ】 【義相】 問。『大経』序分の普賢は人法何れなりや。 答。法普賢なり。何者普賢大士之徳とは所順にして、上の普賢菩薩妙徳菩薩とは能順なり。然れば所順の普賢は法なるべし。 問。已に大士と云うは菩薩の名なり。何ぞ法普賢と云うや。 答。大士と云えばとて人には限るべからず。何となれば阿弥陀仏を法と云うが如し。 問。二十二願の普賢は云何。 答。勿論法普賢である。浄土の菩薩の自在化を普賢の徳と誓いたまう。普賢即ち自在化なり、故に二十二願成就文に菩薩の自在化を説て、而も普賢の名を出さゞるもの即ち其の謂なり。 問。『楞伽経』巻中に「普賢菩薩仏に白して言さく、我已曾て恒沙の如来と為り、法王子と為り、十方如来其の弟子菩薩の根者を教え普賢の行を修す、我に随って名を立つ」とある。しかれば二十二願の自在化も普賢菩薩の如くすべしと誓いたまうものであって人の名であろう。 答。『華厳経』普賢行願品に普賢十大願を発せり。此の大願は西方浄土に往生して、面のあたり阿弥陀仏を見奉りて、此の願を満足すと【往生要集(T・七七五)所所引】。しかれば普賢自在化の根本は弥陀国にして、普賢と名くる本を推究すれば終に二十二願還相自在化の徳名に帰する。故に和讃の普賢の御左訓に「弥陀の大慈大悲を申すなり」とある。又『荘厳経』二十二願に普賢行、浄梵行、最勝行、及び一切善法と並べて其の名皆法につく。何ぞ普賢のみ人名なるべけんや。しかれば、自在摂化の根本は弥陀二十二願力の大慈大悲にあることと知るべし。 【参考】 総談 ────────────── 皆遵普賢等の二句 別談 ┬ 因果二徳 ┬ 因 ┬ 実徳 ─ 具諸菩薩等の四句 │ │ └ 権徳 ─ 遊歩十方等の二句  │ └ 果 ───── 八相化儀 └ 二利行徳 ───┬──── 遊諸仏国 ├──── 供養諸仏 └──── 開化衆生 *二十二願の除の字に二義あり。除は意にまかすこと即ち済度すること自由ということなり。 *『普賢行願品』に「普賢十大願あり爾しこの十大願の本を言えば弥陀の浄土に行て弥陀の面前に満足す」して見れば普賢の言は法普賢とするなり。 【已上】