三法四法  釈するに四門を開く、一に出拠、二に名義、三に義相、四に問答なり、  一に出拠とは、三法門は『本典』首尾の題号及び総序後述による、又『略文類』の序題正説、『持名鈔』(十九丁)、『真要鈔』(十丁)、同(三十二丁)、同(四十四丁)、同(七十二丁)、『改邪鈔』(二十四丁)、同(四十二丁)、『見聞集』(五十六丁)、同(六十丁)、『遺徳記』(六丁)、『慕帰絵詞』(七十七丁)等これなり、次に四法門は『本典』の外題、『教巻』の開章、『証巻』の結文、『四法大意』(三十七丁)、『改邪鈔』(四十七丁)、『嘆徳文』、『執持鈔』(十丁)、『最要鈔』(二十七丁)、『実悟記』(十九丁)、同(六十二丁)、同(八十四丁)等に云々す。  二に名義とは、教とは、俗釈によれば、「教者倣也、上化R之下倣R之」と(『白虎通』三、二十六丁)、内典に拠れば、『妙玄』一之上(二十二丁)に云く「教者聖人被R下之言(聖人とは諸仏なり)」と、又『大部四教儀』一(初丁)に「教以詮R理化R物為R義」と云々(此は能詮に約す)。次に行とは、通途に依るに、或は造作の義(『光記』九(二十四丁)、『唯識』八末(八十二丁)何れも十二因縁の中第二の行支を釈するなり、彼行とは福非福、動不動の三業を造作するをいふなり)、或は進趣の義とす(『法華玄義』四之上(四丁)に「非R智不R進、雖A智導L行、非R境不R正、智目行足、到A清涼地@」と)、或は並用す(『仁王経疏』中二(二十七丁)、下二(二十九丁)、次に今家に於ては、或は進趣、或は造作、或は並用の論あり、今云く行業の義なり、『三経往生文類』(十五丁)に「往相回向につきて真実の行業あり、すなはち諸仏称名の悲願にあらはれたり」と、然るに業には業因業作の二あれば、進趣造作に配当して転用するも亦妨なしと雖も、進趣の名目宗蔵に見えざれば強ひて取るも局せり、委しくは別処にあり。次に信とは、心浄を義とす(『唯識』六、初丁、『雑心論』二、三丁、『倶舎論』四に云々す)、或は無疑を義とす(『十住論』二、十一丁、『成実論』十八、六丁)、或は決定を義とす(『大乗義章』四、五十六丁、同四、十八丁に云々す)、また心浄と無疑と並用す(『義章』一、十丁に云々す)、今家は心浄を親しとす、信心清浄(『易行品』)、或は滅罪心浄(『論註』下、十七)、能生清浄願往生心(『散善義』十一丁)、浄信心手(『玄義分』釈名門)等是れなり。次に証とは験なり、因の顕現するものにして、無上涅槃の極果、菩提涅槃の二転依の妙果にして行信の所得を指す。  三に義相とは、此中二、一に三法門、二に四法門なり、初に三法門とは、教は能詮、行証は所詮の因(行)果(証)なり、之に向外向内の二門あり、  向外とは彼聖道には教理行果を以て仏法の体とすれども、理を教に摂して或は教行証の三を立つ、『法華玄義』五之下に「定有A三種@、謂教行証」と、また『義林章』六之本(四丁)、『仁王疏』下之三(三十四丁)に、教行証の具闕に依つて正像末の三時興廃を論ず、『末法灯明記』に諸文を引いてこれを示す(『化巻』所引)、今は彼聖道の三法時に随つて興廃を致すに対して浄土の三法三時衰頽なきことを顕したまふ、故に『化巻』本(三十二丁)に「信知聖道諸教、為A在世正法@而全非A像末法滅之時@、已失R時乖R機也、浄土真宗者、在世正法像末法滅、濁悪群萌斉悲引也」と、又末(三十九丁)に「竊以聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛」と、『大経』に「当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経、止住百歳(教の不変)、其有衆生値斯経者(行の不変)、随意所願皆可得道(証の不変)」と、是れなり、蓋し聖道の三時具闕を致すものは、彼はもと、衆生の自心を体とするによる、謂く、教をきゝ心に即する行を起し、心中の仏を覚す、然るに云何せんその体とする心煩悩に汚染せられ、時の為に移され、三法次第に損減す、浄土教は然らず、仏智を体とする果分不可説の法なる故に、塵労の為に穢涜せられず、三時の為に変易せられず、速かに迷執を転じて悲願の一乗に帰せしめ給ふ。  次に向内門に約すれば、法体の独用を顕さんが為の故に行中摂信して、衆生の能信能行全く所行の力用なることを示す、『六要鈔』一(十三丁)に「但至R云A題難L摂R餘者行中摂R信【乃至】行所行法、信是能信故、玄義云、言A南無@者【乃至】必得A往生@(已上)、信行不離機法是一、由A此義@故以R信摂R行」と、『略典』には「利他円満大行」と云ひ、『四法大意』には「南無阿弥陀仏の妙行」と、『宝章』には「南無阿弥陀仏といへる行体」等と、これすなはち十七願の真実行にして、名号の当面即ち大行なり、この名号、衆生往生の行法なれば、能く破闇満願の用をなす、故に仏よりいへば、大行よく衆生をして報土に到らしむ、衆生よりいへば、大信独り証果を感ず、故に白道を願力とし、又信心とし給へるものこの義なり、法体の造作即ち衆生の無造作なれば、行中摂信して行証直接し、以て法体の独用を顕すものが三法門安立の謂なり。  次に四法門とは、衆生往生の始末にして、此を分別するに三相あり、  一に能所詮に約す(初一は能詮後三は所詮)、  二に能所信(第二は所信の法、第三は能信の機)、  三に能所得(第二第三は能得の因、第四は所得の果)  此の如く三能所ありと雖も、上の三法より信心を別開して信心宗本の義を宣暢し、別途不共の真宗を建立し給ふにあり、法体大行は所信位にして能生の正因は信心なれば、信証直接して唯信正因の義昭晰たり、此信より流出するの称名の如きは、信後に安立すべき物体なれども、却つて上『行巻』の所行処に送るもの三義あり、  一に為R顕A能所不二@故、  二に為R示A如実讃嘆@故、  三に為R明A報恩大行@故  (因人の報恩は必ず菩提に回向す、果人は唯報にして進道の資糧に擬すべきなし、弘願の行者果人と同の正因満足するが故に唯報なるのみ)、これすなはち『信巻』に別序を安じて要枢を顕し給へる意なり。  第四問答料簡とは  問、三法門の行を法体名号とせば吉水的伝に違す、念仏(摂信の行)往生(証果)なれば称名なるべし、云何。  答、元祖の親伝なることは無論なれども、化風に於ては左右あるべし、一に得名の異(元祖は行は能行にして称名に目く、我祖は所行にして名号を行ど呼ぶ)、二に取願の異(元祖は一願建立して十念を取る、我祖は五願開示して十七所行に位す)、三に相絶の異(元祖は行々相対して廃立す、我祖は絶対不二の名号を建立す)、故に知る、三法建立の行称名にあらざることを。  問、法体名号証果に直接せば、仏号が仏果を証するの理にあらずや。  答、法体行は能信能行を摂在して而も常に機中に融入して果に向ふ、爰を以て、源空が目には三心も五念も四修もみな南無阿弥陀仏なりとの給ふ、十七願の我名は十八の機に認められて居るものなれば、機に渡らずして証果に直接するに非ず、能信の処で正因を成じて居る名号が証果に向ふ、故に法体の独用を顕すとはいふなり。  問、三法門の行と四法門の行と同別云何。  答、何れも十七願建立にして法体名号を指す、然れば三法のときは阿弥陀仏に南無を収めて南無せしむるの阿弥陀仏なり、四法門のときは所信位にして阿弥陀仏に南無する相、十七願よりいへば南無するものを助くる、十八願よりいへば阿弥陀仏に南無する故に往生を得と談ず、暫く左右するに似たれども終に一致に帰す、四法を能く解了すれば法体独用の三法に帰属し、三法を全く領知すれば唯信往生の四法の義に契ふ。  因みに問ふ、『本典』の大綱は四法とせんや、将た三法とせんや。答ふ、『本典』は四法門に約す、『教巻』開章及び『証巻』結文照応して浄土真宗は四法建立なること瞭然たり、特に衆生往生の始終も亦此に於て顕る、況んや外題四法を以て表するをや、『略典』の如きは三法建立なるがゆゑに序題の三法を承けて正明したまひ、偈後更に三一問答を設けて信心宗要の義を示したまふ、広略互顕して浄土真宗を顕し尽せり。