願海真仮  『真仏土巻』(三十丁)に「然就A願海@有R真有R仮」と、『化巻』本(十四丁)に「超A発真実方便願@」と(前文は真仮酬報に通じ、後文は願海の真仮に局る)、その真実の願海とは十八願、その方便の誓願とは十九二十の両願なり、此中に真仮対(奪門)と要真弘対(与門)の別あり、今は真仮対にして『真仏土巻』の終に「由R不R知A真仮@迷A失如来広大恩徳@」とある是れなり。然るに生因三願を釈するに、鎮西(『決疑鈔』二、三十四丁)は四十八願中に定散諸行を生因とせず、本願は唯称名を取る、之に二由あり、一に若し念仏諸行並べ誓へば人その願文を見て一行を取るに苦む、故に但念仏を誓ふ、二に六八弘誓みな此れ選択、就中十八願を超発する時、たゞ念仏の一行を選取して餘行を選捨し竟る、爾るに一類願中復た何ぞ已捨の行を取りて本願とし、十九の修諸功徳は法蔵菩薩臨終の障碍を愍念して此願を選択して摂取す、此れ乃ち念仏及び諸行の機を摂して命終の時心をして乱れざらしめん為その人の前に現ず、故に摂機の願と云ふ、又二十願は法蔵菩薩結縁の群類久々流転するを愍念して、此願を選択して順後の機を摂す、故に長劫を三生に促めて速かに往生を果遂せしむ、植諸徳本は果遂の所由、即ち是れ宿善なり、故に十九、二十共に念仏の正益を誓ふを願体とす、諸行を出して摂機を普ねからしむ、決して正因とするに非ずと云々。又西山(『私集』三、二丁、『玄義楷定記』八等に出づ)の如きは六八願を二とす、十八を以て正因とし、その餘みな忻慕とす、云ふ所の生因の念仏平等の大悲を発起して群生を利済して尽く摂して餘すことなし、然る所以は衆生仏に帰し仏衆生を摂す、能所相映じて願行具足す、故に諸の行者至心に帰仏して生を願ずれば皆是れ願行具足して願に乗じて生を得ざるはなし、来迎果遂の両願即ち是れこの義を顕す、当に知るべし、諸行は是れ選捨の行、本願に非ず、生因に非ず、終に念仏に帰して而して往生を得、十九、二十願即ち其証なり、此を廃立門となす、又浄土に生ぜんと欲するもの仏に帰せざるはなし、行者三業の所修定散諸善皆是れ念仏なり、何となれば名義功徳なるが故に願行具足せざるはなし、此を傍正門となす、又十八摂生願の宗は唯念仏に在り、此宗諸願の要とす、故に四十八願中唯弥陀名号を専念して生者の異類同類の助業の所摂に非ざるはなきなり、即ち前の臨終来迎を取つて念仏を以て増上縁とすることは此義を顕す、此を助正門と為すと云々。今家の意は、要真弘の三門を以て三願を分別するものにして、経釈の深意を探り得たるものなり、『選択集』三輩章の中廃立助正傍正の三義を立て、三種各々往生を得る、もと本願の文より出づ、何を以て知るとなれば、『大経釈』(『漢語灯』三十八丁)に云く「今三輩文、有A但念仏往生義@有A助念仏往生義@、又有A諸行往生義@、仏以A一音@演A説法門@、衆生随R類各得A其解@、以A仏意多含@故、由今且作A此三解@、又就A此三義@論A其傍正@、以A但念仏@為R正、餘二為R傍【乃至】廃A助念仏及諸行@明A但念仏@者、於A第十八願成就文@明A但念仏往生@、来迎等(二十願を等収す)願及三輩文明A助念往生諸行往生@、由R此諸修A往生行@者懐R疑難R決、故至A流通@則廃A助念諸行二門@明A但念仏往生@、謂A其有得聞彼仏名号@(云々)、此中但念仏選択廃立念仏」と、『和語灯』五(二十六丁)に云く「本願念仏にはひとりだちをさせて助けをさゝぬなり、助けさすほどの人は極楽の辺地に生る、助けと申すは、智慧持戒慈悲をたすけにするなり、善人は善人ながら念仏し悪人は悪人ながら念仏てたゞ生れつきのまゝにて念仏するひとを念仏に助けさゝとは申すなり」と(取意)、この助念仏但諸行とは『選択集』の傍正助正の念仏にして、辺地化土に生ず、『和語灯』七(五右)に云く「ゆめゆめ雑行本願と云物は、仏の五智を疑て辺地に止るなり、見仏聞法の利益に屡漏るゝもの也、此は誑惑の者の道心もなきが〔止〕仏意をば顧りみず云ひ出せる事也」と、同(八丁)に「問、臨終の来迎は報仏にて御座し候歟、答、念仏往生の人は報仏の来迎に預る、雑行の人々の往生するは、必ず化仏の来迎にて候也、念仏も或は餘行を雑へ、或は疑心を聊も雑ふるものは、化仏の来迎を見て、仏をかくし奉るもの也」と、我祖『化巻』、『二巻鈔』等の所判、符節を合するが如し、西鎮の、真仮を知らずして二機二土一機一土等の真仮混雑せるものとは天壌の異あり。 次に問答決疑せば、  問、一仏の誓願に真仮の二種あること未審し、已に設我得仏と願じ、欲生我国と命じ、不取正覚と誓ふことは、三願皆同じ、爾れば得仏、我国にも真仮の二途ありとせんや、いかん。  答、有が云く、発願真仮あれば修行亦真仮あり、修行真仮あれば酬報身土真仮あり、然らば則ち因位の法蔵比丘にも真仮なかるべからずと云々、今云く、法蔵心中所欲の誓願真仮あるべからず、真実一乗の因果のみ、爾るに自力未熟の機ありて進んで一乗真実に達すること能はずして、仮因仮果を感得す、仏この機を愍みてその感見に応ず、譬へば演劇を見るもの赤眼鏡を以てすれば猩々の演劇と誤認し、未曾有の技能と称誉することあるとき、俳優は誤認せられたる如き技芸を演ぜざれども、また視るものゝ感情に応じてその誤認を遮せざるが如し、法蔵比丘真実の因果を成ずるに、仮の因果と見るの機感あるを遮せずして、而もその機に応じ、周く大悲を垂れて摂機の願を発したまふ、茲を以て、或は仮願あり或は仮報の身土ありと談ずれども、我国、正覚に真仮の二物あるに非ず、然れば則ち機感の故に仮は実体あるに非ず、応機の故に仮願ありといふべし。  問、所弁の如く真仮の相あること願海に於てその見る処ありや。  答、四十八願の至要たる重誓偈に徴するに、名号流布を誓つて諸行を誓はず、況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も、諸行及び植諸徳本を誓はず、又直ちに生因三願に就いて窺ふに五由あるべし、一には信行前後の異、二には信楽有無の異、三には乃至有無の異、四には得益定不の異、五には唯除有無の異是れなり。  初に信行前後の異とは、諸仏の教道自力の修入は行業を以て因とす、信はその行業の因なるを信じて修するが故に、能修の用より信を成ず、十九二十猶ほこの域を出でず、十八願は信行次第して至心信楽を以て生ぜんと能欲の信を決着す、能修の募るべきなく、永く能行の因に擬するの思を脱却せり。  二に信楽有無の異とは、三願の三信は前後の至欲是れ同じ、唯中間の信のみ差別せり、然るに十九、二十の発願回向は一具にして便宜あるが為に且く分誓すと雖も、共に行を修して自ら至心を策励するにあり、十八願は信楽の無疑を誓ふが故に、至心は如来の真実是れ即ち信楽の無疑より行者の至心となる、又我往生に安堵するが故に更に希求すべき願想なく、無疑決定の心を以て当果に望めて愛楽するを欲生と云ふ、然れば信楽の義別にして信疑対の法相を成ず。  三に乃至有無の異とは、十念に不定の言を添へて遍数のさだまりなきことを誓ふ、若し正因法ならば何ぞ不定の言をおかんや、十九、二十の行体は不定に非ず、行に依つて信を成ずるものは不定の言を添ふべきなし。  四に得益定不の異とは、十八願は若不生者と誓つて決定往生を顕す(三信中に信楽を以て前後一の無疑決定心なることを成じ、十念には乃至の言を添へて一多有無不定を顕す)、この能誓たるや必定摂取の益なるが故に、我祖之を釈して「若不生者不取正覚といふは誓を信じたるもの、若し本願実報土に生ぜずばわれも仏にならじとの給ふ」と、願事をいはゞ三信十念なれども、其要は信心にあり、十九、二十は仮令不与、不果遂者と願じて、順次必生の益あることなし。  五に唯除有無の異とは、十九、二十は修諸功徳、植諸徳本にして修善の機を簡び取るが故に、唯除の必要なし、独り十八願に此言を誓ふものは悪機為本の願海にして、極悪の機も深悔を生ぜば直ちに三信を領して必生の益をうるが故なり。  問、三願に真仮を弁立したまへる相承ありや。  答、終南大師に微意あり(『観念法門』摂生縁に三願を引証し、『法事讃』に三往生を明す)、吉水に至つて分明なり(先に出せる『漢』、『和』両灯これなり)、委しくは下に在り。