三経教主  凡そ教主を判定するもの天台より起る(『妙玄』七、十八丁、『文句』一之一、六十八丁に云々す)、今釈するに華厳は応化の釈迦に即して十身具足の盧遮那身の所説とす、天台には不須現尊特身にして三十二相の相々尊特にして垢衣内身実是長者と判ず、浄土経は応身の所説とす、「釈迦如来真報土、清浄荘厳無勝是、為度娑婆分化入、八相成仏度衆生」と、『玄義分』に「大悲隠A西化驚入A火宅門@」と、然れば則ち二門の教主同じく是れ応身なりと雖も差別なきに非ず、彼は随末応身、此は融本応身なり、彼は上は微塵刹土身より(『晋華厳』三十三如来相品、『唐華厳』四十八妙相海品)、下は老比丘の形(『増一阿含』十八、『中阿含』八、『諦観録』に云く「住R世八十年、現A老比丘@」と)に至るまで、変現機に随つて末経を宣説するを逐機の応身とす、此は融本の応身にして能説の釈迦が本仏(弥陀報身の徳)に相融入するが故に、「入大寂定行如来徳」(『如来會』)と説く、故に高祖は憬興を引いて「非A唯異L常(丈六身に簡ぶ)亦無A等者@(『華厳』等の殊特身に簡ぶ)」との給ふ。  問、彼を逐機劣等の仏身とし、此を融本勝特の応身とするもの何の見る所あるや。答、先づ理に就き、後に文に依る、初に理に就くとは、教主の身儀優劣差別あるものは、所説の法権実、浅深、本末、優降あるが為なり、故に所説の法を按ずるに、上海徳初際如来より今日の教主に至るまで悲智双行し念仏三昧を行じて正等菩提を成ず、『般舟経』には「依R念A弥陀三昧@成A等正覚@」と説き、今経には「去来現仏仏仏相念得無今仏」等と説き、『楞伽経』には「一切仏身極楽界中出」と説く、今経の華光出仏十方説法と旨を同ず、『小経』には釈迦諸仏、弥陀の不可思議功徳に入り、釈迦は行此難事(弥陀法を指す)得阿耨菩提と、此の如く説き給へるは、一乗究竟絶対不二の法にして「二乗(「声聞或菩薩」を指す)非所測、唯仏独明了」なり、経末には菩薩勝法諸波羅蜜(菩薩乗)の外に諸仏経道(仏乗)を出して更に「若聞斯経(弘願一乗)」等と説き給ふ、之を受けて「我法如是作(五徳現相)如是説(弥陀招喚)如是教(釈迦発遣)応当信順」と結勧す、是れ即ち応身の釈迦、報身の弥陀の徳に入出し、本末無礙にして不二而二二而不二なることを説示し給ふ、明かに知る、融本尊特の応身なることを、  次に文に依るとは、阿難所見は「未曾瞻覩殊妙如今」と云ひ、或は「如来正覚其智難量【乃至】能住寿命億百千劫無数無量復過於此」と説く、此中「以一V之力(一Vは布施力なり)能住寿命(酬報身なり)」と云ひ、「姿色不変光顔無異」(応化身は変化の相、不変無異は報身常住なり)と顕し給ふ、是れ即ち弥陀の報身なるが故に「今日天尊行如来徳」と説き給ふ、行如来徳とは、釈迦天尊が釈迦如来の徳を行ずるとはいふべからず、能行の天尊は釈迦、所行の如来徳は弥陀報身なること必せり、況んや阿難の発問に仏対へて「恵以真実之利」、又は「願楽欲聞」との給へり、是れ下の正宗弥陀法をさす、是に知んぬ、弥陀三昧に住する融本の身儀なること昭晰たり、訳家深くこの経旨に達するが故に、『大経』一部の中釈迦の別号を表せざるもの、焉を思へ、  次に『観経』の如きは、外は定散の機に応じ、内は弘願の法に融ず、これを『経』に「仏従耆闍崛山沒於王宮出」と説く、出沒を見るものは応身なり、然りと雖も他の逐機の応身と斉しからず、融本の故に「紫金色(報身にして『大経』の華光出仏、「身色紫金」、又上中品の「紫磨金色」等これなり)坐百宝蓮華」と説く、所坐を以て能坐の仏身を顕す(『大論』及び『大日経疏』に、仏座は妙法を荘厳すと)、『心地観経』報恩品二(九丁)に、他受用報身に就いて十身を分別する中坐百宝蓮華の仏を以て初地の所見とす、然るに五障垢穢の女質に対して百宝蓮台に坐し給ふ、豈に夫れ通途の座ならん、融本弥陀正覚の所坐なり、故に正宗第七華座観の中に「一々華葉作百宝色」、「願力所成」と説く、是は弥陀の所坐を以て釈迦の所坐とする融本の相なり。問ふ、華座観は方便化身に通ずべし。答ふ、『観経』の説相をみるに、能観は定善の方便なれども、所観の境は多く真実に約す、従仮入真の為なればなり(『定善義』は此例に依る)、是を以て坐百宝蓮たるや、『浄土論』の「無量大法王、微妙浄華台」にして即ち「如来浄華衆、正覚華化生」なり、主伴不二本末同一にして、不二中の二なるが故に亦遣喚の別あり、『観念法門』(十五)に夫人の見仏を挙ぐ、弥陀の三念願力外に加するが故に見ることを得、釈迦の百宝蓮台を見るもの願力加して而も願力所成の座を見せしめ給ふこと明かなり。  問、『大経』には座を説かず、然るに『観経』に之を説く、何の意ぞや。  答、『大経』は顕露彰灼の説なれば、直ちに仏身に就いて融本を顕す、今経は顕説は要門なるが故に紫金色を以て十九融身の義を表し、座を以て弘願本仏の徳に融ずることを顕し給ふ(華座は依正両通して「願力所成」と説く、思ふべし)、  後に『小経』の如きは五濁出現なれば応身なれども、現相なきは帯方便の経なればなり、座を説かざれども三仏同入不可思議海を詮するものは、融本の故なり、全く『大経』と同じく弥陀海中の釈迦諸仏なり、然るに『大経』は二而不二、『小経』は不二而二なるが故に能讃所讃を見る、『大経』は影暢表裏の説なれば内徳外相に顕赫たり、『小経』は隠彰の弘願なるが故に三仏同入の内徳に約し給ふなり。