七、出世本懐 【出拠】  一、『大経』序分「如来無葢の大悲を以て三界を矜哀したまふ。世に出興する所以は、道教を光闡して羣萌を拯ひ恵むに真実之利を以てせんと欲してなり」《一一》(T・四)  二、『教巻』に「何を以てか出世の大事なりと知ことを得るとならば」と徴して先の『大経』序分を引証する。 【問答】 問。経文如何が出世本懐を顕はすものと見るや。 答。仏初め五徳瑞現したまへるに依て阿難が発問する。仏阿難に対して「阿難、問へる所甚だ快し、深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、斯の慧義を問へり。如来無葢の大悲を以て三界を矜哀したまふ。世に出興する所以は、道教を光闡して羣萌を拯ひ恵むに真実之利を以てせんと欲してなり」とのたまえり。此の文中「道教」とは聖道法也、何となれば大経中に道教の言数個所ありて皆聖道法を指せり。又「真実之利」とは以下に説く弥陀法なり、よって此の文の意は仏世に興出して道教を光闡する所以は如何、他なし真実之利を以て群萌を救はんが為のみ。今日五徳異常の瑞相を示現するもの、全く之が為なりと答えたまう文なり。 問。真実之利が出世の本懐とは何を以て知るや。 答。「欲」の字の安所に着眼すべし。欲の字が「道教」の下「真実之利」の上にあるもの、即ち「真実之利」を以て所欲とすることを顕はす、若し道教を出世の本懐とする意なれば、欲の字を「道教』の上に安ぜざるべからず。 【義相】 問。法華に出世本懐を説けり、然れば実の本懐は何れなりや。 答。『六要鈔』に出世本懐を論ずるに二義を立てゝ曰く「一には教の権実に約す、三乗は是れ権、一乗は是れ実。故に一乗を以て説て本懐と為す。是れ『法花』の意なり。二には機の利鈍に約す、〈乃至〉勧て浄土に帰しめたまふ」(U・二二二)等とある。此の料簡によれば法華の利益は鈍根に及ばず、弥陀法は鈍根を本とする、而して諸仏の大悲は苦者にあるが故に、弥陀法を以て本懐とせざるを得ず、仏既に五濁に出現したまう本意は、全く下根を救はんが為也。故に『涅槃経』法華問答末三十一丁には「父母七子あり一子病に値へば、父母の意偏に此重病の子を憐れむ」とある。又『玄義分』十一丁参照。 問。『六要鈔』の約教権実のときは、弥陀法も亦権とすべきや。 答。然らず。約教権実は聖道教中の分別にして浄土に関係なし。浄土門は約機利鈍の一義を以て本懐を尽す。何者一切機を摂する法は真如平等に契ひ、鈍根を摂せざるは平等の真証に契はざる法なり。浄土の法は下機を摂する所又上根をも漏さず、平等の真証に契ふて普く勝易の益を施す。是れ即ち円融無碍の一乗法なればなり。然れば為凡の本懐を推究すれば、遂に法の権実に及ぶ、彼の万行を修して成仏する利根の如きは、随順法性不乖法本の果智を備ふるものにして、即ち法蔵菩薩の如き従果降因の人なり之を除いて従因向果の人は都て因智にして法性に乖背せるものなれば、一切鈍根と云はざるを得ず。然れば一機として其の益を蒙むるものなく、終に無得果の法となる。此の義一乗海義に対検して知るべし。 問。上祖は出世本懐を隠密するに似たり、然るに宗祖に在りては盛んに之を談じたまへるもの如何。 答。七祖皆此の義あり。故に『正信偈』に「顕大聖興世正意」と嘆じられる。吾祖に於ては時機のやむをえざる三由あり。彼の天台の如きは法華を以て本懐とし、念仏を方便権教とする。人これに迷うが故に彼に対して本懐の義を主張したまう。【是一】又吾祖の依経開宗たるや、仏出世の本懐たる真実経に依る。故に絶対不二唯有浄土法無二無三の義を顕はしたまう。【是二】又吾祖釈尊末法の遺弟として恰かも聖道門久廃の時運に際し時機純熟の真教たる、仏出世の本懐随自意法に値遇し、出離生死の大事、久遠劫来の素懐を遂げし事を慶喜したまい、本懐の義を口を遏めんとするも能はざるなり。故に偈には「如来所以興出世唯説弥陀本願海五濁悪時群生海【即愚禿の我身】応信如来如実言【出世本懐随自意真実説】」我も信じ人にも聞かしむるばかりなり。讃に「経道滅尽ときいたり/如来出世の本意なる/弘願真宗に値ひぬれば/凡夫念じてさとるなり」とは此の意なり【是三】 【已上】