三経宗体  先づ本拠を出さば、『大乗瑜伽金剛性海曼珠室利千臂千鉢大教 王経』一(二十二丁左)に言く「爾時世尊、即為A獅子勇猛等一切菩薩摩訶薩@、説A此大乗一切諸仏瑜伽秘密金剛三摩地根本経教@、於A此経宗及体@有A二門@、云何説B此経宗体有A二門@、一者清浄実相為R宗、二者真如法界為R体」と、天台の因果為宗実相為体の所談は此経説に契ふ、清浄実相為宗とは、則ち修起の上で差別する趣なり、『摂論』所説の出纏真如にして、亦因亦果といふに当る、真如法界為体とは、法界一真如の理にして、在纏とも出纏とも清浄とも染汚とも分たざる無差別の位にして、非因非果といへるに当る、『瑜伽論』八(十一丁)に云く「凡契経体略有A二種@、一者文、二者義」と、此中文とは能詮を体とするなり、義とは所詮を体とするなり、故に人師の所判或は能詮を経体と立つるも所詮を経体と釈するも、此論説に依るならん、『論註』上(初丁)に「釈迦牟尼仏在A王舎城及舎衞国@、説A無量寿仏荘厳功徳@、以A仏名号@為A経体@」と、『安楽集』上(五丁右)に「今此観経以A観仏三昧@為R宗」と、同下(二丁右)に「第二明A彼此諸経@【乃至】明A念仏三昧@」と、此は唯宗のみを論じて体を弁ぜざるものなり、『玄義分』(六丁)に「今此観経以A観仏三昧@為R宗、亦以A念仏三昧@為R宗、一心回願往生浄土為R体」と、『選択集』下(三十五丁)に「凡按A三経意@、諸行之中、選A択念仏@以為A旨帰@【乃至】故知、三経共選A念仏@以為A宗致@耳」と、『教巻』に「是以説A如来本願@為A経宗致@、以A仏名号@為A経体@」と、『略文類』の教下亦同じ、『化土巻』本(十四丁)に云く「三経真実選択本願為R宗也、復三経方便即是修A諸善根@為R要也」と、『二巻鈔』上(五丁右)に「法事讃有A三往生@、一難思議往生(大経宗)、二双樹林下往生(観経宗)、三難思往生(弥陀経宗)」と、此中三経一致門あり、差別門あり、或は『大経』に局るあり、三経に通ずるあり、或は宗のみを論ずるあり、宗体並び論ずるあり、知るべし。  次に名義を釈すれば、宗は宗要、修行の喉襟(『妙玄』一之一(四十四丁)、『妙句』九(五丁))、致とは極也、趣也、宗は即ち極致の義なり、体とは体質なり、『妙宗鈔』二(二十九丁)に、天台の「体是主質也」と云ふを四明釈して云く「名傍是賓、体正是主、名是仮名、体是実質、一切名下皆有A其質@」と、然れば客に簡びたる主、仮名に対したる実体にして、本地物質の体とす(外典に「文質彬彬」といふは文とは飾なり、質とは質朴なり、今と異なり)、知るべし。  次に義相を弁ずれば、此中に二あり、初に総じて諸家に依つて述し、後に別して今家に就いて論ぜん、凡そ宗体を論ずるに同論家あり別論家あり、同論家とは宗体不二を談ずるもの是れなり、嘉祥の『大乗玄論』、『法華遊意』に釈するが如し、宗の帰する所則ち体なりとす、次に別論家とは、此中亦二家あり、一には宗は所詮の法義、体は能詮にして、在世は音声、滅後は名句文身を指す、慈恩『法華玄賛』(二十丁)、『小経疏』上(四丁)、『義林章』一(二十三丁)、『唯識述記』等に出づ、二に宗体共に所詮に約す、因果為宗実相為体、『天台妙玄』一之上(三丁)、同(四丁)、同(十八丁)、同九之下(一丁)、『観経疏』上(二丁)、同(十丁)に云々す、何れも経論に本拠ありて立つる所なり。  次に今家に就いて論ぜば、『教巻』には宗体分別して本願と名号と判定し給ふ、『六要鈔』に釈して「言A本願@者先指A六八@、以R之為R宗、願々所詮偏在A念仏@、以R之為R体、是故且以A総別@為R異」と云々、先哲云く、此釈了解し難し、一には四十願を宗とすれば、十九、二十の仮願も『大経』の宗致となるべきや、二には総別を以て宗体を分別するもの諸家この例なし、三には念仏は宗にして体とはなり難しと評せり、或が云く、所詮の本願は宗旨なり能詮の言句をさして体とす、何となれば、名号とは音声法なるが故に、釈尊の能詮の音声は即ち弥陀の大音宣布の流行する相なれば、釈迦の言教即ち弥陀の名号と融ずるものが浄土門なり等と云々、今謂く、能詮の言句を体とせば所詮の法義には宗と不宗とあり、その不宗の能詮も名号を体とすれば、宗の体には非ざるべし、宗は方便に通じ体は真実に局るが故に、況んや能詮は釈迦に就き名号は弥陀に約す、何ぞ二尊混淆するや、今解して云く、本願為宗名号為体とは、其所詮天台と稍々相似たり、本願とは十八願(本願は十八の別目)にして、此中五願を摂す(偈前の文に照応す)、故に本願を開けば五願にして、其法を云へば衆生往生の因果なり、本願の三信は一乗の因、其中一乗の名号大行あり、之を十七願の往相正業とす、此行信の因に依つて一乗の妙果を得証す、即ち十一願の必至滅度これなり、この証たるや此土に非ず、必ず真仏土に入る、是れ十二、十三の光寿界なり、是れ即ち十八の正覚の果体にして、衆生の因果を全うずる、之を若不生者とす、然れば生仏不二の一乗の因果を『大経』一部の宗致とす、故に偈前には五願六法を挙げて「斯乃誓願不可思議、大無量寿経之宗致」とし給ふ、其体を云へば一実真如海なるが故に、教を嘆じては「一実円満之真教」(『信巻』末、四丁右)と、行を嘆じては「真如一実功徳宝海」と、信を嘆じては「真如一実之信海」と、証を嘆じては「真如即一如」等と、四法の体は真如一実なることを示し給ふ、この真如一実即名号なるが故に、「真実功徳といふは名号なり、一実真如の妙理円満するが故に」(『一多証文』)と云々、『教巻』には名号為宗と判釈し給ふ、天台は理性の実相真如を体とす、今は弥陀の修徳顕現の名号なれども、衆生の因果双亦の辺を取らず、双非の果徳実相の位をさすなり。  問、名号を非因非果の実相と談ずること、何れの所に依つて其義を立するや。  答、『論註』上(三十三左)に「聞実相法」と云ひ、又同下(十七)に「至極無生清浄宝珠名号」と、『一多証文』等に依つて知るべし。  問、聞実相法とは所聞位に約すれば双亦差別の宗なるべし、また実相と云ふは虚実相対にして真俗対待の所明にあらざるべし、云何。  答、浄土門の実相たるや、嚮に述ぶる如く他の聖道所談の真如の理性を指すに非ず、修徳顕現の四法円満たる弥陀の果号即ち是れ実相なり、故に実相の当体所聞となる、実相即為物の謂なればなり、『註』(浄入願心)に「実相無相故真智無知也【乃至】無知故能無R不R知、是故一切種知即真実智慧也」と、故に「真実功徳とまうすは名号なり、一実真如の妙理円満す」と釈し給ふ、名号即ち真如一実の体を詮顕せば、名と体と不二の故に名号全く実相なり、故に知んぬ、体は因果を分たず実相法の位なり、然れども四法円満の名号なれば、宗に異ならずして而も非因非果の体なり、不一不異の故に宗は体を顕すの宗となり、体は亦宗が家の体なることをうる、双亦の二を全うじて双非の一実なる所に名号為体を成じ、双亦の二にして双非の一実相を全うずる故に因果為宗を立つるなり、『妙宗鈔』二(十七丁)に宗体異ならば二物孤調ならん、宗は顕体の宗に非ず、体は宗が家の体に非ず、宗が体を顕すの宗に非ざれば、邪倒にして印なし、体は宗の家の体に非ざれば、体狭にして周ならず、法界を離れて外別に諸法あらん、宗体若し異ならばその過此の如しと云々、今家の宗体之に同じ、本願と名号と二物孤然として水火の別なる如きものに非ず、喩へば宗体は猶ほ水波の如し、波瀾を全うじて即ち水、水を全うじて是れ波瀾なるが如し、本願の因果(因果を以て本願を呼ぶは本願力より成ずるの因果なることを顕す)の波は皆是れ弥陀自証の真如一実(名号を呼ぶに真如と云ふは、弥陀の自証全く名に顕したるが故に名号即ち是れ実相なり)の水の働き出でたる所なり、此の如く本願為宗名号為体を釈尊の言教に由つて詮顕す、本願名号は所詮、言教は能詮、能所不二融通無礙なる所で真実教なることを得る。  問、『論註』の名号為体と同異如何。  答、一義に云く、体を出して宗を論じ給はざれども、浄土の三厳を以て宗とするの意なり、此三厳即本願なることを顕し給ふ、之に対したる名号為体なるときは至極無生の真如一実をさすと、一義に云く、『註』の上は経の題号を嘆釈するものにして、因果差別の位の名号なり、『銘文』に「真実功徳相といふは誓願の尊号なり」と因果差別の位を以て扱ひ給ふと、此二義の中今は後説に従ふ、已に然らば則ち、名号為体の目は鸞師に依り給ふといへども、義は同ずべからず。  問、善導の一心回願往生為体と同別如何。  答、『玄義分』は宗体共に因果差別にして、我祖の本願為宗に当る、宗体同論家の説に同ず、何故に別論したまはざるや、謂く、天台等の実相為体(但理)に簡ばんが為の故に、二に観仏為宗の体を成ぜんが為の故に、名号為体なれば念仏三昧の体を成ずれども観仏の体を成ぜざるが故に。  問、本願為宗名号為体は三経に通ぜざるや。  答、一致門のときは何れも同じ、故に『選択集』下(二十四丁)に「三経共選A念仏@以為A宗致@」と、『化巻』に「三経真実選択本願為R宗」と、宗已に本願為宗なれば、体豈に名号ならざらん、若し差別門に約するときは、大経真実は前の如し、観経方便は『玄義分』の如く、観仏為宗なれば、その宗の帰する所回願往生に在る故に趣帰を体とす、天台等の観仏為宗とし諸法実相の理性を体とすべからず、『小経』のごときは、聖教には指南なければ定め難しといへども、難思往生を宗とすれば回願往生をまた体とすべしと知るべし。