九、十一願体 【出拠】  一、『大経』十一願文「(一一)設ひ我仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」《二一》  二、『証巻』標挙「必至滅度の願難思議往生」《二八六》  三、『六要鈔』(U・三二〇)已下 【名義】  体とは主の義なり、体質の義に非ず。 【義相】  第十一願に定聚滅度の二益を誓う中、諸天台玄一等は定聚を以て願体とし、御廟智光等は定聚滅度を願体とす、今家は滅度願体なり。 問。何を以て滅度を願体とするや。 答。第十一願に定聚と滅度の二益を誓えども、正定聚は已に余願に聞名不退、又は聞名得忍等と別誓するが故に、今は滅度を願体とす。又「重誓偈」に「我建超世願必至無上道」というは、必至滅度之願を指すなり、生仏不二の故に仏の無上道即ち衆生の無上道となる。 問。此の願体は正定聚にして、正定聚より遂に滅度に至らしむるが故に必至と誓う。あたかも十八願の若不生者の如くなるべし如何。 答。十八願の若不生者は能誓の願意を顕わし、願事は三信十念なり、今は定聚滅度共に願事にして能誓の言に非ず、若し能誓ならば不の字を必の字の下に置かざるべからず。今は定聚に住しかならず滅度に至らしめずばと云う意なれば願事なること明かなり。然るに定聚に住することは余願に誓いて、此の定聚に住する者は必ず滅度に至らしむると誓うが十一願にして、此の願体滅度なること明らかなり。故に宗祖は『証巻』《三八八》に『如来会』成就文を引用して助顕す。 問。十一願成就に滅度を説かざるは如何。 答。一義に「生彼国者」は生即無生の生にして、凡夫虚妄の実生に非ず、故に此生に滅度の義顕はれたれば、此の上の正定聚は従果降因の相なるのみ。又一義に現生正定聚にして、彼の国に生れんとするものはとする意なり『一多文意』《七八〇》已下の左訓及び『如来会』の当生者とは此の意にして、此当生者は涅槃の因を建立すれども、邪定不定聚は此の因を建立すること能はず、故に邪定不定聚のもの彼の国になく、此土正定聚の者のみ、彼の涅槃所に至るの因を建立するが故に「皆悉究竟無上菩提到涅槃処」と云うの相也。今曰く。此の二義何れも宗祖の取りたまう処にして、前義は彼の国に生るる者はの訓により(『証巻』《三八八》に云々)。後義は生れんとするものの訓による(『一多鈔』に云々)。 問。然らば何故に正定聚を誓うや。 答。定聚に住するが故に必ず滅度に至る。定聚は滅度に至るの所由を成ずればなり。此の定聚に住するとは十八願なり。「故に至心信楽之願正定聚之機」と『信巻』に標したまう。 問。既に「国中人天」とあり。何ぞ現益とするや。答。獲信の人は最早浄土の分人なるが故に『玄義分』釈名門(T・四四五)の中に、「十方法界同生者」を挙げたまう。故に「国中人天」という。十一願体の滅度なること正に知るべし。 【已上】