念観両宗  問、終南大師、念観両宗(『玄義分』宗旨門)を立てたまふもの、経文何れの処に依るや。  答、先づ観仏為宗の如きは、経末に阿難此経の名及び此経の要を問ひたてまつりて「当何名此経此法之要、当云何受持」と説き、仏答へて「此経名観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩」とのたまうて一経を観仏を以て宗とすることを決し、以て観仏為宗を立てたまふ、次に念仏為宗とは『楷定記』に多義を挙ぐ、一には第七観の初に依る、二には両門(定散)の意義に依る、三には散門の正因に依る、四には第九観の文に依る、五には下輩の文に依る、六には流通の文に依る、是れみな一義にして是非すべからずと云々、『伝通記』に云く「初十三観定善、皆答請説、後三輩是仏自説、故答請文中立A観仏宗@、自説文中立A念仏宗@」と云々、『六要』六末(二十四)に「以A真身観@出拠」と、今云ふ付属の経説は、上来所説の念仏を承けて阿難に付属し給ふ正意より念仏為宗を立て給ふ、廃観立念爰に於て明けし。  問、付属持名を、諸師或は観名付属とし、或は名号を持する一経の所説と其功等しき故に名号を付属す、況んや十六観をや等の解をなす、云何ぞ称名付属とすることをえんや。  答、既に「汝好持是語、持是語者即是持無量寿仏名」と説く、若し経名付属ならば、『小経』の及経名者の如く持観無量寿経名とあるべし、若し名号を所観とするならば、此れ亦観の字を安ずべし、況んや上来の諸観に名号を所観とするものを説かず、又持名を付属して況んや十六観をやとは、文を曲げ義を誣ふるものにして文義を尽さず、故に知る、念仏為宗の義顕然たることを。  問、付属を以て宗を立つることは諸経の例格に違す、宗旨は必ず正宗に於て定むべし、如何。  答、若し正宗にあつて二宗を見るときは、一国に二王あり、一天に両日を懸くるが如し、宗致錯乱して宛も天変地乱に等し、故に知る、一経の要を示す枢地にして、廃観立念する故に一経の宗致念仏となる。  問、已に鎮西解して定善観仏、散善念仏を両宗とするもの文に符合するにあらずや。  答、文に違し理に背くものなり、已に仏自安の題号によるに、何ぞ十三観に局らんや、明かに十六観門を指したまへるをや、況んや首尾の題、一経の始終を尽すをや。  問、『六要鈔』には真身観の文によりて両宗を立て給ふものは如何。  答、名人の作は其侭にすべしとは、中祖の御料簡なれば仰ぐべし、或はいふべし、第九観に就いて両宗を立つるは、要弘その物体を出して、終に付属にいたりて一経の宗を成ずるとき、定善の頂上真身観にその義あることを看破して両宗の本拠とす、その立処は念仏為宗を付属にとりて、正宗に持出して要弘各立し給へるものなり、静かに以みるに、両宗同時に立すべからず、明闇並ばざるに同じ、例せば天台の四車の如し、三車の面には大白牛車を見ず、大白牛車の開會には三車なきが如し、明に知る第九観は念仏為宗の物体を説き付属より逆見するとき宗の義を成ずるを以て此のごとく釈顕したまへるものなり。  問、有人学解学行の二門を設けて学解に就かば二纉教両宗各立す。(宗旨門)若し学行に依らば観仏を廃して念仏を立す、何そ二行各立せんと弁せられたるもの『六要』の釈義に契ひ又道理に応するに非すや。  答、学解といへども廃立の法を同時に各立すへからす、経説本と観仏為宗は方便の当位に就く故に修を勧む念仏はその物体を出すのみ念仏為宗は廃立の正意を説く付属を待つ然らすんは何そ宗を成せんや。  問、付属の念仏為宗は正宗中に其の承る処ありや否や、  答。光台現土の我今楽生第七観の立撮即行、第九観の念仏摂取、下三品の念仏往生、その説相は異ありと雖も、利益分及び付属に至りては弘願真実の勝易二徳を開演して、終に一経の宗致念仏に帰することを顕示したまふ、  問、所弁の如く解するもの其の指南ありや、  答、『選択集』下(十五丁)及び『化巻』本(八丁)に此の文を引く、吉水は廃立を以て立義し、我祖は隠顕を以て料簡したまふ、文に就て知るべし、  問、『選択集』(十五)の如きは正宗分に於て二宗を開きたまふに似たり、如何、  答、彼の問の文は本と知らざるに約して言を立つ、答釈にいたりては立義極成して付属の正意念仏にあること明らかなり、  問、宗旨門によるに、両三昧を要弘二門とするもの、何の見る処ありや、既に『観念法門』(十六丁)には定心三昧及び口称三昧と、共に以て定心なれば同体異称ならん、云何。 答、九品寺の説は、念観は一法の異称とすれども宗家の正意に非ず、『楷定記』に之を斥して、若し念仏が観の異称ならば亦名といふべし、何ぞ亦以と云ふや等と、此破允れり、況んや疏文に若念仏者を釈して「正顕S念仏三昧功能超絶実非N雑善得W為A比類@、即有A其五@、一明A専念弥陀仏名@」と云々、是れ像観及び真身観の念仏三昧とは異なりて称名とし給ふなり。  問、付属の念仏は唯真実なりや帯方便なるや。  答、付属持名の題下に於て委しく論ずべし、今は望仏本願の正意を顕すの義辺に就いて立するなり。  問、『楽集』すでに観仏為宗としたまふ、何故に今師両宗をたてたまふや。  答、西河の観仏為宗と終南の観仏為宗と言同義別、『楽集』は念観二名互に通ず、上巻の如きは観仏為宗(要門)を標し、釈に至つて称名(弘願)を明す、下巻は念仏為宗(弘願)を標して、正文には観仏(弘願)を示す、観称相遮せずして以て他力に引入したまふ、これすなはち時機の然らしむるところ、他師に依準して従容に釈したまふ、終南に至りては、観仏為宗は釈迦要門教の表にして之を談じ、更に念仏為宗を建立して経の正意を顕し、念観廃立して二尊の素懐念仏にあることを瞭然たらしむ。  問、観は広く依正主伴に通ず、この外に散善三福行あり、何ぞ観仏為宗といふや。  答、定散二善の中には散善を定善に従へ、観門の中には依報を正報に収め、伴を主に摂して「観無量寿仏経」と題す、仏自安の題に二あり、一には観行に約し、二には観益に就く、観行の中依正主伴ありと雖も、益を顕す中、「生諸仏前」とは第九真身観に限るの益を示したまふ、首題と合して知るべし、此の如く観仏三昧の名を立てゝ弘願念仏三昧に相対したるものなり。  問、観仏に三昧の名を立つるものは然るべし、念仏に三昧の名を附するもの如何。  答、三昧とは、『般舟讃』に云く「又言A三昧@者、亦是西国語、此翻名為R定」と、然れば散乱を離れて心を一境に住するを三昧と云ふ、此定三昧は心念口称に通ずるが故に口称三昧といふ、然れども彼口称三昧は自力定心の念仏にして本願の口称に非ず、今他力念仏は機辺に於て修成するに非ず、是れ法徳自然に三昧を成ぜしむ、阿弥陀仏大寂定たる三昧常寂智慧無礙の徳を一句の尊号に成就し給ふ、行者此法に帰して信心称名するときは、識らず覚えざるに此三昧の徳を成ず、今試みに四句を造る、一には念仏にして三昧にあらず(自力散善の念仏)、二には三昧にして念仏にあらず(要門観仏)、三には亦は三昧亦は念仏(弘願念仏と定心念仏となり)、四には三昧にあらず念仏にあらず(散善三福)、第三の中、定心念仏は観中の摂属、弘願念仏は弥陀寂定三昧の功徳分なり、知るべし。  問、一経両宗と云ふは諸経に其例ありや否や。  答、『伝通玄義記』四(四丁)に「天台釈A法華宗@云、久遠因果是本門宗、今日因果是迹門宗(已上)、円暉頌疏、於A倶舎論@弁A立両宗@、所謂顕密二宗是也」と云々、これは一往の例のみ、今此両宗は霊験を請求し、三仏の正意を開宣し給ふ、古今楷定の妙釈、豈に他の類例を要せんや。  問、題号中に両宗を見るものありや。  答、『玄義』釈名門に無量寿を釈して南無と仏とを加へて念仏なることを示し、無量寿は是れ法、仏は是れ人と指定して、更に又隔を安じて「又言人法@者所観境」等との給ふ、以下経の無量寿を観仏とする意ならん、要弘の二種を含畜す、所観之境とは要門の機に約すれば従仮入真、故に所観を真実に約して釈し給ふ、是故に仏説及び経の字を釈するには方便を帯せしむ、この辺より見れば息慮凝心の要門観となる、また直ちに経文に就いて云へば、自安の題号十三観の力用を以て「浄除業障生諸仏前」とあるは、これ即ち第九真身観の利益にして、第九観中念仏摂取の益と定観三昧の益とを説く、この意を自安題中に含有すれば、両宗題号に於て建立するものと知るべし。  問、一心回願往生為体は両宗に通ずるや否や。  答、一に云く、一心回願は観仏の体(回願するを趣帰とする)、往生為体は念仏の体(念仏は往生を期するを趣帰とす)と、二に云く、二句共に念仏の体を顕す、観仏は所廃の故に趣帰なしと、三に云く二句同じく念観に通ず、一文両義と云ふべし、観仏は化土往生、念仏は真土往生なりと、四に云く、一心回願は念観に通じ、往生為体は念仏に局ると、此諸義の中第二、第四を勝れりとす、何となれば、行此三昧者の観仏は唯現益のみを挙げ、若念仏者には現当両益を顕し、超絶無比の徳を示して以て廃立す、故に第二によるべし、又上の偈の定散等回向(回因向果は要門、回心向道は弘願)は真仮に通じて、速証無生身(真土の益)は弘願に局るが故に、今亦然り云々。