三経隠顕  此題に三あり、一に大経隠顕、二に観経隠顕、三に小経隠顕なり、初に大経隠顕とは、三九開合の題下に譲る、次に観経隠顕とは此中四科を開いて問答決択せん、一に立意、二に本拠、三に義類、四に文例なり。  初に立意とは問、此経を釈するに西河は観仏為宗を以て顕し、終南は念観両宗を立てゝ判じ、吉水は廃助傍の三義を開いて解し給ふ、吾祖何ぞ更に隠顕釈を設くるや。答、今此『観経』は餘経に異なりて教主に二尊あり、教義に要弘あり、判釈に廃助傍あり、仏意に随自随他あり、機根に生熟あり、宗旨に念観あり、混然として輙く窺ふことを得ず、是故に妙教流通の吾祖大師経論の蘊奥を探り、諸説を大成してこの妙判を施し、以て一経の説相を瞭然たらしむ、云何が瞭然たるや、謂く、真宗の法義は廃立の一著子にして法蔵選択の発願、釈尊説教の正意、鼻祖以来の伝承、皆此廃立を以て真宗の基礎とす、故に吉水は三義(廃立、助正、傍正)を開くと雖も、而も廃立為正と決択せり、蓋し是れ終南の両宗を助顕するものなり、然るに此等の釈義は竪に一経を扱ふ義趣にして、経末に至らざれば意の如く廃立判然たらず、是を以て隠顕釈を設けて横に経文を裁き、初より文文句々廃立ならざることなきことを示す、顕には随他要門定散仮門を説くと雖も、隠には随自弘願念仏を含蓄す、最後に至つて顕るべき廃立を当処々々に方便を廃し真実を立することを知らしむるものは此隠顕釈なり。  問、両宗の如きは竪に約し、隠顕は横に約するものとせば、師資相違するにあらずや。  答、終南に於て横に廃立を談ずるの例少なからずといへども、両宗に約して一経の宗致を定め、諸師の唯観為宗を簡去して念仏為宗は一経の随自意所立の法門なることを知らしむるを務む、故に文々句々に要弘廃立あるものはその当処に在つて随文釈に約し、念仏為宗観仏為宗に分甄して法相を詳かにす、吾祖は随文釈に非ずして一経を窺ふの義例を定め、隠彰顕密の名目を以て法門を取裁き給ふ、暫く横竪別なれども義趣一致に帰す。  問、廃立と隠顕と同別いかん。  答、位に約すれば異なり、意に約すれば同なり、廃立とは念仏為宗の上より観仏為宗を貶する位より立つるの名なり、隠顕は両宗何れも己が宗を守る位に於て須ふるの目なれば且く差別あるべし、また廃立は三経に亙るといへども、隠顕は方便経(『観』、『小』)に局るものとす、また意に約すれば全同といふべし、隠顕は廃立の義を拡張するものなれば、たゞ顕説は定散なり隠説は弘願なりと指示するのみならず、顕説定散を談ずる所、却つて廃の意を含み、隠説弘願を判ずる所、能く立の義を存す、故に顕といへば所廃、隠ときけば所立なりと知らしむるが隠顕釈を設くる所以なりと知るべし、今試みに所望に随つて更に十義を設く、一に為R詳A一経説相@故、二に為R示A二尊郢匠@故、三に為R會A通一経両宗@故、四に為R示@付属由来@故、五に為R詳A廃立分斉@故、六に為R示S跨A文両端@不W可A封執@故、七に為R詳A一致差別@故、八に為R詳A明仮門教義@故、九に為R令R會A通列祖釈義@故、十に為R発A揮終南之微意@故なり。二に本拠とは、此中二あり、一に文拠、二に義拠、初に文拠の中亦二、一に先づ字訓を釈し、二に正しく四目の拠を出さん。先づ字訓を釈せば、隠とは『玉篇』に「不見也、匿也」と、『字彙』に「蔽也、私也、微也」と、彰とは『玉篇』に「明也、文章也」と、『字彙』に「著也」と、顕とは『玉篇』に「光也、見也、明也、著也」と、密とは『字彙』に「秘也、稠也」と云々。  問、顕と彰と差別ありや。  答、隠覆せしものゝあらはるゝを彰といひ、原より明著なるものを顕と云ふ、然れども顕彰互通することあるべし。二に正しく四目の拠とは、謂く、『序分義』(十七)に時守門人白言大王を釈するに問答して云々す、其文に「門家具顕A夫人奉食之事@」とは顕なり、「縦巧牢蔵事還彰露」とは彰なり、「今既事窮無R由A相隠@」とは隠なり、「今言密者望A門家@述A夫人意@也」とは密なり、この文韋提の身儀を釈すといへども、一経の説相こゝにあらはる、『大経』は教主の身儀に就いて顕露彰灼の説相なることを附説し、今は所為の韋提に約して隠彰顕密の相を寄顕するものならん(『大経』は法実を顕す、故に教主の身儀に就く、『観経』は機実を示すが故に所為の身儀に寄す)。  次に義拠とは、『化巻』本(六)に曰く「依A釈家之意@〔止〕有A顕彰隠密義@」と、未だ知らず釈家の文義出でゝ何れにありや、謂く、一義に、序題門に「安楽能人顕A彰別意弘願@【乃至】教門難R暁」等とは是れ其所依なりと、又一義に、釈名門に「如来対R機説R法【乃至】隠顕有R殊」と、如上の説未だ詳かならず、今云く、『化巻』に序題門及び両宗の文を引き給ふ、両宗の文は竪に約して『観経』一部に就いて廃立を論じ、序題門は二尊二教にして横に約して七観の経説に依つて廃立を示す、然れば横竪相並ぶるとき愈々隠顕釈を設けずんばあるべからず、故に此両文即ち隠顕判釈の義拠なること知るべし。  第三に義類とは、古来多義あり、一義に、顕と彰と隠と密との四義とす、一義に、顕と顕彰と隠彰と隠となり、密は此四に蒙るものとして四義とす、一義に、顕と彰と隠との三義として密は此三に及ぶとす、一義に、隠彰と顕との二にして密は之に含めりと、一義に、顕密と隠彰との二義とす、一義に、判目四あり、義相はすなはち三、法体はこれ二、旨帰は唯一と云々、今は隠顕の二義門に依る、何となれば、別釈の文に「言顕者」と標して「顕A定散諸善@」を以て釈し、「即是顕義也」と結し、次に「言彰者」と標して、如来弘願利他通入一心で釈して「此経隠彰義也」と結す、又次下(七丁左)に「依A顕義@異依A彰義@一也」等と、又下の真門章の隠顕釈も「言彰者」と標し、「斯是開A隠彰義@也」と結釈し、『略書』には「三経大綱雖R有A隠顕@」と、『伝記』にも「三経に隠顕ありといへども」等といひ、『小経』には四目ありといへども唯隠の文なきが故に、二義門の義を勝れりとす。  問、今の所弁一々不審あり、第一に『化巻』の釈に標結相照して一義とするもの肯ひ難し、隠と彰と物体一なる辺より釈するものにして、煩はしく別釈を用ひざるものなるべし、又彰と標して隠彰で結するものは、隠は必ず彰ならず、隠にして彰なる一重もあることを結に至りて顕すものならん、真門下も亦同じ、第二に顕異門彰一門は固より物体に約して説相に非ず、第三に『略書』、『伝記』の如きはたゞ隠(弘願)顕(要門)の真仮あることを断はるまでにして、三四義の法相を顕す所にあらず、第四に『小経』の准知隠顕を以て能準より所準を推量するもの然らず、『観経』は要弘定散念仏にして隠顕を見る、『小経』は一念仏法にて隠顕を示す、又『小経』は機より隠顕を帯し、『観経』は直ちに法に就いて隠顕の殊を致す、故に知んぬ、二義門とするの解許し難し、云何。  答、第一に隠彰の標結は中の正釈によるべし、釈意果して物体に非ず、定散の底には利他通入の一心如来の弘願があるぞと詮表したるものが即ち彰なり、故に隠とはたゞかくれたることをあらはすにあらず、彰を以て隠を指図せしものなる故に、早や利他の一心が詮表せられ如来の弘願が演暢せられて居る、是を以て隠彰一義の釈と窺ふ、若し所問の如くなれば、此釈を除いて外に隠と彰と別顕したるものありや、真門下も準知すべし、第二に顕異門彰一門は物体を判決するに非ず、必ず説相に依る、若し物体をいはんとすれば三経各々諸善、念仏を説く、何ぞ顕異彰一といふべけん、第三に『略書』、『伝記』の如きはその実三義門なれども、隠顕のみを出して彰密を要せずとは解し難し、『化土巻』已に四目を出せり、然るに隠顕のみを出さば未尽の釈と云ふべきなり、第四に『小経』の如きは顕説を帯ぶるの義相と、顕説の法門『観経』に異なることは所難の如くなれども、隠顕は『観経』に斉しきことは真門章これ其証なり、況んや隠は隠覆なりと顕し、彰は彰露なりとのみ顕さば、隠に隠の功なく、彰に彰の詮なし、彰とは隠の義を指図したるもの、喩へば錠なきときは鑰は不用なり、錠あれば必ず鑰を要す、彰を以て隠の義を開詮するが故に、隠の隠たる功あるなり、隠が隠に止るならば聖道の諸経と何の別かある、彰を以て隠を指図する故にこの経特り隠顕ありと云ふ、之に由つて隠彰は唯是れ一義なるのみ、然るに「教我思惟」等の言下の弘願を彰と云ふにあらず、彰露の文より隠の弘願が一部に押渡つてあるの義を知るなり。  問、密の文義尚ほこゝろえがたし、云何。  答、密の別釈を施さるゝもの隠顕の外に別義なきことを示す、『散善義』(二左)に「意密難知」等と云ふが如く、真仮に亙つて釈するものとせば、今隠顕と説くの仏意を顕すものか。  問、隠顕の義相粗々通ずるに似たれども、直ちに経文に就いて隠顕あるの説相とは何を以て知るや。  答、一経を順見するときは定散両門を宗致とすれども、付属持名の念仏為宗より逆見するときは、一部弘願真実を説き顕す廃立為正の経となる、既に然らば隠顕を立てざるべからず。問、付属より逆見すれば顕説の定散諸善は廃せられて念仏所立と顕るゝならば、廃立分明にして顕露彰灼の弘願と云ふべし、何ぞ隠の弘願といふや。答、付属に来つて廃立の義彰るゝといへども、正宗に在つては未だ其義を知る能はず、逆見して以てその義あるを知るのみ、文の詮顕は定散門なれば隠の弘願と云ふべきなり、たとひ付属といへども、『小経』に流るゝの勢を妨げざれば、「望仏本願意在衆生」等と釈して、『大経』の願意に望めて初て念仏為宗を成ずる、是を以て「言A弘願@者如A大経説@」等と云々、凡そ付属の経意に三種の不同あり、所謂、要真弘にして、『小経』より逆見して真門義を知り、『大経』より望めて弘願義を示し、此経正宗に拠して要門未だ脱せず、如上の三義を以て釈せずんば付属の経意尽し難し、故に知んぬ、『大経』に望むるときは、雑行をすてゝ正行に帰するの文となる、然るに他の聖道経はたとひ『大経』に組するとも、一経宗致の法を所廃とするの仏意ありて説相なし、今経は説相従容にして『大経』に合して以て廃立経となれば、一部の当位弘願なることは隠説にして、彰露の文よりその義を詮顕するの経柄なる故に隠顕経と定むるものなり。  第四に文例とは、『化巻』本(六、七)に、十三文を出して隠顕の例格を定め給ふ、一義に云く、初の五文は隠の文例、次の六文は彰の文例、後の二文は顕の文例なり、何となれば初の五文は顕彰の文字なきが故に、次の六文には顕彰の文字を用ふるが故に(顕説の顕に非ず、顕彰の顕なるべし)、後二文は顕説知り易きが故に私釈を省くと云々、評して云く、私釈を施さゞるは顕説なりとは、因故に不定の失を招く、又即便往生には即往生の弘願を含蓄せり、何ぞ偏へに顕説の例とするや、一義に云く、十三文該して隠彰の文例とす、顕詮には文例を要せざるが故に、又上に既に「言R顕者即是開A定散諸善@開A三輩三心@」等と詳かに示して、今隠彰の釈に次いで更にこの文例を出すもの、隠彰に限ることを知るべしと、今云く、初の十一文は隠彰の例にして顕説知り易きが故に例を俟たざることは第二義の如し、然るに後の二文特に私釈を缺くものは所釈とするこゝろにして、もと隠顕釈は三心釈より興起せり、故に見易き顕を出さずして、知り難き隠彰を例に出す、是れ『経』の二種三心二種往生より開出するものなれば、之を結んで「二経三心将R談A一異@」と云々、故に知る、後の二文を所釈の文例とすべし。  三に小経隠顕とは、『化土巻』本(十九丁)に「准A知観経@、此経亦応R有A顕彰隠密之義@」と、此釈意を按ずるに、隠顕の持前は『観経』なるが故に、上の要門章に其義を釈顕し尽せり、然るに此経の説相によるに隠顕あるの義知り難し、凡そ今経の正宗分を三と為す、一に依正分、二に因果分、三に証誠分なり、初の依正分は依正相入主伴不二の相を説き、後の証誠分は三仏同入不可思議海を詮して前後即ち真実なること昭然たり、爾るに中間の衆生往生の因果を勧発するの経説は従容にして、真実とも方便とも、一文両義とも隠顕とも弁知し難し、故に隠顕確乎たる『観経』に準じて隠顕たることを知るなり。  問、云何が従容なるや。  答、諸行を廃し真土に不可得生と嫌貶するものは方便なきの説相なり、また念仏を説くといへども信疑廃立を顕さず来迎の益を挙ぐ(三経中、来迎は偏へに諸行に在り)、また来迎を現見して心不顛倒の決心を示す、これ一念業成の相にあらずして自利の一心を策励するの説相と云ふべし、前後よりみれば真実なれども、因果段に於ては従容と云はざるべからず。  問、従容にして法義を決着せざるものとせば不了教にあらずや。  答、若し准知隠顕の妙釈なくんば不了教に落在すべし、故に准知隠顕の義を領知せば、その不審忽ち判然すべし。  問、云何が準知するや。  答、一義に云く、十九方便願に真仮を含む(『化巻』本、十五に「按A方便願@有R真有R仮」と)、之を開顕するの『観経』隠顕あらば、方便真門二十願(『化巻』本、十九に「就A方便真門誓願@〔止〕有A真実@有A方便@」と)を開演するの『小経』亦隠顕なくんばあるべからずと云々、今云く、不可以少善根とは『観経』の定散を廃して説阿弥陀仏等の名号を立す、然るに能聞の機根に生熟の二種あり、純熟の機は真実に達し、未熟の機は方便に滞る、然り而して諸善を嫌貶するものは諸行を執ずる機の為なり、この未熟の機信疑廃立を尽さゞるの教を聞かば豈に真門を成ぜざらんや、茲に於て真門は顕説となりて弘願真実を隠覆する、これ即ち『観経』未熟の機こゝに来る所以なり。  問、純熟の機より成ずる弘願真実を何故に隠説とするや。  答、已に弁ずる如く、『観経』九品の機(『法事讃』に「九品倶回入不退」と云々)の為に説き与ふるが故に、文の顕相は必ず方便を成ずるに在り、若し純熟の機に就かば今の廃立を俟たず、『観経』に在つても真実に達すること彰露の文の如し。  問、下三品に已に真門自力念仏に入る、今はその真門を廃するの相にあらずや。  答、下三品を以て真門難思往生と解するときは下三品即ち『小経』にして、能準所準として見るべからず、『小経』を下三品の重説といふべし、然るに下三品及び付属は断乎として隠顕の説相にして、未だ諸行を廃せず、諸行念仏両立の説相にして、『小経』に来つて始て行々廃立を説くと雖も、未熟の機諸行を廃して念仏を立し、而も信疑廃立を聞かざれば、『観経』の下三品と斉しく隠顕を帯ぶるが故に、下三品は要門位にして真門位とは云ふべからず、故に準知する所は近くは下三品なりといへども、その顕説をなすものは定散自力なれば、『観経』一部に準知するものと思ふべし。  問、因果段より前後をみれば云何なる義を成ずるや。  答、所聞の名号は、依正の名義真実の功徳なりといへども、能聞(未熟)の機よりいへば自力希求の願心を起す、この機失より化土を感じて因果分の極楽国となる、後の諸仏証誠も、勧讃証護の意趣に就かば真実なりといへども、釈尊自力を策励するに、他の証誠を引き来つて真門を成ずる辺より云へば、仮を帯びざるを得んや、故に知る、前後よりみれば因果段も、文は従容とはいへども弘願真実となる、因果段の『観経』に準知するより見るときは、前後ともに因果段中に入つて方便に落在するものと知るべし。