一三、摂抑二門 【出拠】  一、『大経』願文及び成就文。  二、『観経』下々品。  三、『論註』《五九》八番問答。  四、『散善義』(T・五五四)下々品の釈。  五、『信巻』《三七四》六、『口伝鈔』(一七)《九六一》(二〇)《九六四》 【義相】 一、説主 T・釈迦の抑止七由 @抑止は摂取に進まざる機のための方便なり。故に善導は「方便して止めて往生を得ずと言へり」(T・五五五)という。真実願中何ぞ方便の語あらんや。 A誓外にあるが故に。 B漢呉両訳『平等覚経』『大阿弥陀経』に此の八字なきが故に。 C『口伝鈔』《九六五》に抑止は釈迦の方便とするが故に。 D『法華問答』末巻(V・三二三)『大経』の抑止『観経』の摂取、共に釈迦一仏の摂化方便とし、又『報恩記』(V・二七〇)に「釈迦は抑止の方便をまうけて」等とあるが故に。 E『散善義』(T・五五五に)に「如来〈乃至〉方便して止めて往生を得ずと言へり」という。この如来とは釈迦なり、『四帖疏』中に如来と呼べば釈迦に局れり。又『還発大悲』と云う『観経』の摂取釈迦なるときは『大経』の抑止又釈迦ならざるべからず。 F善導は未造に約して抑止し、已造に約して摂取す。『六要鈔』(U・三一一)に明に説時に約して已造未造を判ず。 U・弥陀の抑止七由 @弥陀の誓願に抑止すべきを缺かば弥陀に未尽の失あり。 A「当具説之」の中にあるが故に。法蔵が師仏に向かうて四十八願を陳ぶ、一言一句加減すべからず。 B願文の抑止を釈迦とせば、成就、願文煩重の失あり。 C釈迦の言ならば「仏告阿難」の簡別を置くべし。 D真実の『信巻』中に摂抑を釈す。釈迦の権化ならば『化巻』に顕わすべきなり。 E抑止なくんば摂取すること能わざれば、五劫の時に抑止の言あるべし。若し摂取のための抑止ならざれば、抑止不用の失あり、然れば弥陀の抑止なること明かなり。 F梵本すでに「不取正覚」の中にあるもの如何せん。 上来二義中今は弥陀の抑止の説に随う。詳しくは下抑止の所由にて解すべし。 問。爾らば先に出す釈迦の抑止の七由は如何が会するや。 答。@を会せば、真実に進まざる機を弥陀がすてゝ抑止せずとせば、弥陀に摂化未尽の失あり。故に抑止は弥陀の善巧方便とすべし。 Aを会せば、誓外なればとて釈迦とはすべからず。『如来会』の十五願には不取菩提の外に「唯除願力而受生者」等とあるが故に、是亦釈迦の添言とすべきや、況んや梵本の十八願には抑止の文誓内にあるをや。 Bを会せば、抑止は摂取の為なれば、別に誓はざるも摂取の処に其の義を尽す。四十八願異訳に望むれば、具略相違挙げて数うべからず。 Cを会せば、『口伝鈔』は願文の抑止を云うに非ずして、五悪段及び『観経』の抑止を示したるものなり。 Dを会せば、『法華問答』は彼の日蓮等に対して、大観何れも釈迦説なるが故に、能詮の方に約して一仏一化の始終とす。仮令三信十念往生と云うも釈迦の説として可なり。何者皆是れ釈迦の所説なるが故に。 Eを会せば、『散善義』の釈迦に約するは、釈迦弥陀二尊不二なるが故なり『大経』の弥陀摂取を以て釈迦は我摂取となして「還発大悲」と云い、抑止亦弥陀の抑止を以て我が抑止とするなり。然れば摂抑共に弥陀を以て釈迦に属せしものなり。 Fを会せば、已造未造は説教の時節にかゝはらず。未造の機ならば、三世十方に渉て抑止と説き、已造の機ならば三世十方に通じて摂取と説く。然らずんば摂抑の義を尽さず。然るに『六要鈔』等説時に約して解するは、知り易い処に就て近く顕わすものなり。 【唯除所由】 問。唯除は実除なりや仮除なりや。 答。一義に曰く、仮除なり、何者『観経』に摂取するが故に。又一義に実除なり。未造ならば尽未来際除く、今は未造の機に対するが故に実除とす。又一義に未造の機に対すれば実除なり、已造の機よりみれば仮除なりと。 問。暫除なりや永除なりや。 答。一義に暫除にして仮除なり。又一義に永除にして実除なり。今曰く。仮除実除如何と問はゞ、未造のものは実に除くが故に実除なり。又暫除永除如何と問はゞ已造摂取の故に暫除なり。此の暫は仮の義に非ず、暫に二種あり、一に暫用還廃の暫は権の義なり。二に『往生礼讃』の「在西時現小但是暫随機」の暫は還廃の仮の義に非ず。今は後義による。 問。何故に逆謗の二機を除くや。 答。因果撥無の機をして深悔を生ぜしめんが為の故なり。弥陀仏一切衆生に代りて願行を円満し、一機として三信十念に漏れるものなし。然るに未熟の機は直ちに此の行信を領せず、故に之を摂するの方便なくんば流転無窮にして、此の機本願に入るの期なし。而して此の未熟の中に善悪の二機あり、善機のためには従真垂仮して、十九・二十の自力修善の願を立て、以て従仮入真せしむ。又悪機にして因果を信ぜざれば、此の機のために正因とすべき願を誓うに由なし。故に唯除等と抑止して深悔を生ぜしめ、因果を深信せしめて以て聞法の器を成す、唯除の所由全く茲に在り。 問。『論註』の解釈如何。 答。罪の具不具に就て会通す『大経』は二種の重罪を具するが故に唯除と云い、『観経』は但逆の故に摂す。 問。然らば謗法一罪にても摂するや。 答。謗法は一罪にても摂すべからず。何者一に極重を以ての故に、五逆の人は阿鼻地獄に於て一劫の苦を受け、謗法の人は阿鼻を出づる期なし【『大梵経』『法華経』等によりて示す】。二に願生の理なきが故に。無仏無仏法等と誹謗し因果を撥無し、一切の善を壊するが故に願生の理なし。此の見より五逆を造るが故に『大経』は逆謗不生と明かす。 問。永く往生を得ざるや。 答。廻心すれば往生を得るが故に『註』《一〇二》口業功徳の釈に謗法摂取の義を顕わす。 問。善導の釈意如何。 答。已造未造に約して大経観経除取の義を料簡す。未造とは逆謗の罪を造るとも恐るゝ事なきものを云う。今や造らんとせるものなるが故に、造れば阿鼻地獄に堕在するぞと抑止したるなり。已造は深悔を生じたる機なるが故に造るもこれを摂取す。 問。未造とは未だ造らず、已造とは造り終わりしものなれば、当相造作のものは何れに摂するや。 答。未造とは造らんとする機、或は造りても恐れざる機を云う。然れば当相造作の機は未造に摂すべし。何者何程造るも恐る心なきが故に、已造とは唯造り已りしと云うことに非ず。造って深悔を生ぜし機を已造という。故に『大経』の抑止は未造の機に対して深悔を生ぜしめんがためなり。『観経』は已に深悔を生じたるものを、已造として此の機を摂取す。然るに謗法を抑止するところ、尚五逆抑止之義を守る。故に『観経』は五逆已造の処に謗法已造の義を影顕し、謗法未造の処に五逆未造の義を含む、影略互見したるものなり。 問。『論註』と『観経疏』と相違せるもの如何。 答。相違すと雖も終に一致に帰す。未造なれば実に除けども已造なれば摂取す。之を謗法闡提廻心皆往とのたまう。此の廻心とは未造の機が廻心して深悔を生ずると、他力信心を得るの二重の義を含むべし。 問。何故に『論註』は具不具に約するや。 答。『論註』は『大経』にすわりて『観経』を会する意なり。又善導は『観経』にすわりて『大経』を会するが故に深悔已造の機を摂取す。 問。何故に『大経』は殊に二罪に約して除くや。 答。『論註』に依れば謗法より起りし五逆なるが故に除く。『観経』は謗法なき五逆なるが故に摂す。 問。謗法より起るならば十悪も除くべし如何。 答。重きを挙げて軽きを摂するなり。或は云うべし。五逆は恩福両田に違し、十悪は信後に通ず。然れども謗法より起るの十悪なれば、即未造業にして除くべし。 問。廻心皆往の廻心は、悪を廻して善に向かうことなりや、自力を廻して他力を信ずることなりや。 答。先に解する如し。 問。抑止は信後に通ずるや。 答。願文当分は通ぜず、何者往生の得不に約するが故に、然れども三信十念の機より云う時は因果を深信するの教語なれば、已信の者は聞いて掟を大切に守る、此の辺より云えば信後に通ずべし。故に『宝章』に云々。 【已上】