一八、道場真仮 【出拠】  一、『大経』第二十八願「たとひわれ仏をえたらんに国中の菩薩乃至少功徳のものその道場樹の無量の光色ありてたかさ四百万里なるを知見することあたはすは正覚をとらし」《二五》  二、『大経』二十八願成就文「また無量寿仏のその道場樹たかさ四百万里なりそのもと周囲五十由旬なり枝葉よもにしきて二十万里なり」《四二》  三、『讃阿弥陀仏偈』「道樹の高さ四百万里周囲由旬五十有り枝葉布くこと里二十万自然の衆宝もて合成する所なり」(T・三六〇)  四、『和讃』「七宝講堂道場樹方便化身の浄土なり十方来生きはもなし講堂道場礼すへし」讃偈讃三五《六九六》 【義相】 問。道場樹の真仮通局云何。 答。真仮に通ずべし。何者第二十八願少功徳の菩薩の所見とするが故に。少功徳の菩薩とは、下の菩薩(十四仏国)の往生を説く中、大菩薩は次如弥勒(『信巻』末(U・七九)参照)にして諸小菩薩は『小経』の不可以少善根の衆生のことなり。『化巻』《四七五》に之を引いて以て真仮を分てり。 問。経文の菩薩の大小は真仮に非ずして、通途所談の七地以上以還の差別なるべし。 答。文の当面は所問の如くなれども、高祖は決判して真仮とす。高祖の所見は大菩薩の下には「一一の菩薩は、已に曾(むかし)無数の諸仏を供養せりき、次で弥勒の如しと」等と宿善を説けども小菩薩の下には宿善を説かず、たとひ地上の菩薩と雖も宿善なきは少功徳に落在す。『大経』下巻《九六》の明信仏智、疑惑の心を以て等は即ち是なり。信疑得失宿善の有無思うて知るべし。 問。経文にて道場樹の真仮見る所ありや。 答。樹の高さ四百万里と説きながら、而もその枝葉の二十万里なるは甚だ不恰好の樹なり。恰かも竹の格好をしたる樹なり。これを『観経』の六十万億那由他の仏身に並ぶる時は草を敷けるが如し。是の如く不恰好なる所以に二義あり。一には化相不全を顕し。二には諸機の所見不同あることを示す。二義いずれも通ず。 問。真実の所見云何。 答。一に『讃偈』に阿弥陀を讃歎するの徳名とするが故に。二に和讃(讃偈讃)に三十七号の別徳の名号とするが故に。問。『和讃』に「方便化身の浄土」としたまふは、如何。答。次上に已今当の三往生を挙げて「十方仏土より来る」と云う。此の来生に伏難ありて、弘願の機は往くことを得るも、自力の機は生ずること能はざるべしとなり。故に七宝講堂等と、自力の機は仏先づ方便土に往生せしめて終に従化入真せしむ。此の如くして十方三世の衆生を度す。爾れば十方来生の義明なれば、道場樹の従化入真の大悲を礼すべしとなり。 問。別に化土に土体ありや。又機感不同なりや。 答。『願海酬報』の題下にて知るべし。 【已上】