二〇、所被機類 【出拠】  一、『大経』第十八願文の「十方衆生」  二、『同』成就文の「諸有衆生」 【義相】  広く所被を論ずれば万機普益(五乗斉入)にして、正所被を究尽すれば二十五有界(本為凡夫)なり、何を以て五乗斉入たることを知るとならば、第十七願に諸仏讃歎を誓い、諸仏は各国に於て讃歎せり、其の所被の機を指して十方衆生といふ、即ち第十七願能化にして、第十八願は所化、九方界にして仏を除きたる以外なり。 【問答】 問。第十九、二十願に「十方衆生」と誓うも同義なりや。 答。横に約すれば三願差別す。第十九、二十願は善機を云い、第十八願は凡聖善悪に通じて而も為凡を正とす。竪に約すれば同じく法界を尽す。何者第十八願の機は第十九、二十願を経過して必ず三世に三願転入するが故に。 問。横に約する時は第十八願、独り万機普益にして、而も為凡正所被とする所由如何。 答。極悪為本の義は唯除の抑止を以て知るべし。第十九願(修諸功徳)第二十願(植諸徳本)の修善の機を摂化する如きとは別なり。聞名は菩薩【第四十一願より第四十八願まで】人天【第三十六願】衆生【第三十四願】女人【第三十五願】の利益なればなり。又弥陀大悲の終極は抜諸生死勤苦之本なるが故に悪機を摂化するに在り。又四十八願が為凡なることは、第一及び第二願を始めとして其の義明らかなり。故に釈尊は第十八成就の文に諸有衆生【諸有とは二十五有を云い、二十五有とは迷界を指す】と云いて為凡の義を顕わし、又「しかるに世人薄俗にしてともに不急の事をあらそふ」《六八》と説き「そのなかに展転して世世累劫にいづる期あることなし解脱をえがたし〈乃至〉たとへば大火の人身を焚焼するがごとしひとよくなかにをいて一心制意端身正行にして」《八三》等と説きたまふ。是を以て二尊の大悲は為凡正意なる義明に知るを得べし。 問。何を以て諸有を二十五有と云や。 答。『法華文句』に「諸有即ち二十五有の生処なり」[大・347c]と云い、諸有海に回入する等の語はこれを指すなり。故に阪東本の和讃「十方諸有の衆生は」の諸有の左訓に「二十五有」と註したまう。 問。『信巻』《二六五》に諸有を「あらゆる」と訓読したまうは如何。 答。諸有を二十五有と云うは単に九法界中の凡夫をさすに非ず。九法界を尽したる二十五有なり。故に「あらゆる」と訓読したまう。補処の弥勒も弥陀法に帰入するときは、凡夫の列につくが故に、経には弥勒を以て「なんぢをよび十方の諸天人民一切四衆永劫已来五道に展転す」《七六》と説けり。喩へば衆星の日光に映奪せられて光なきが如く、弥陀法に対しては菩薩と雖も、善功を認めず一凡夫となるなり。故に諸有衆生は凡夫を当位として、趣入に於ては一切機を一の凡夫とす。此れを『行巻』に「悲願はたとへば【乃至】閻浮檀金のごとし一切有為の善を映奪するがゆへに」《二五一》と云えり。又『銘文』《七六一》の「十方のよろずの衆生なり」とは、九法界にして「すなわちわれらなり」《七六二》とは、二十五有を云うなり。 問。我祖成就の諸有を九法界としたまうは、拠る所ありや。 答。機地に約すれば、下に十四仏国の菩薩の往生を説ける。又は『如来会』に「所有衆生」と翻訳せるにて知るべし。 問。諸有と所有と同致せる例ありや。 答。其の例有り『大集経』に「仏諸有説」と説ける。『大阿弥陀経』に「世間諸有」【『真仏土巻』《四三〇》所引】と説ける。又『十二礼』には「諸有は無常・無我等なり」(T・二六八)等と説けるは皆所と諸とを同致せる例なり。 【已上】