二一、聞信義相 【出拠】  一、『大経』第十八願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある。  二、『信巻』末に「聞と言ふは、衆生仏願の生起本末を聞て疑心有こと無し、是を聞と曰ふ也」《三一五》とある。  三、『一多文意』に「聞其名号といふは本願の名号をきくとのたまへるなりきくといふは本願をきゝてうたかふこゝろなきを聞といふなりまたきくといふは信心をあらわす御のりなり」《七七九》とある。 【義相】  一、所聞の名義  名とは名号なり、義とは成就の文に依れば、仏願の生起本末なり。『観経』は摂取不捨(『礼讃』に「念仏衆生摂取不捨故名阿弥陀」と釈す)、また『小経』は光寿二無量(此意を『和讃』に「念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀と名けたてまつる」と云ふ)、又『論』、『論註』は「如彼光明智相(義)称無碍光名(名)」と云い、『玄義分』は願行具足を義とせり。  仏願の生起本末とは、生起とは仏願の起る根本、抜諸生死の大願を指す。本末とは左の諸説あり。  @、  本……因本、『論註』下に「本法蔵菩薩の四十八願と」《一〇六》とあり。  末……果末、『同』続き「今日の阿弥陀如来の自在神力」とある。  A、  本……仏の因果  末……衆生の因果  『大経』一部の大旨(上巻は仏の因果、下巻は衆生の因果)『行巻』に憬興師の『述文讃』を引いて云々する。  B、  本末……始終と云わんが如く、『涅槃経』の「為に本末を説く」(『信巻』末《三七〇》所引)と同じく仏願の子細を指すと。  此の三説何れもよし。  二、『一多証文』の二釈の分斉、初釈は聞即信の義を示す。其の意は「経に聞と云ふは本願をききてうたがふこゝろなき信心を云ふなり」となり。後釈は信即聞を顕す。其の意は、経に聞といふは本願の信心は己の意に構造するに非ず、聞と云ふが信心なればきくといふは他力信心のこゝろなりとなり。御のりの釈一義に「御言(こと)のり」の略語にして、『一多証文』に「信心の人をあらはすみのりなり」《七八五》とあるに同じ。又一義に「御法」のことにして、次下の「法則なり」の意なりと、二義ともに通ず。   三、聞信同別とは、四あり。  @に聞信体別、聞は耳識の所遍にして、信は意識の所遍なり。又所縁を言えば耳は声塵を所縁の境とし、意は法塵を所縁とす。是は通相の所談なり、別途は聞即信と談じ聞の究竟を取る。通相の所談に聞に三あり。一に耳聴を下となし、二に心聴(意業)を中となし、三に神聴(識心)を上となす(『釈氏要覧』中説聴の下に『唯識論』を引いて云々す)、今は第三の上品を取る。非意業に仏心を領知するところを聞と云ひ又信と云うなり。  Aに時節不同。説必次第なれば聞は次第を縁じ、法在一念なれば信は一念に究竟す、説は一念中の事を必ず次第して顕せども、説の究竟すると法の究竟するとは共に一念なり。今は究竟を取るが故に前後延促なし。  Bに聞見同異、在世の韋提は見仏して信じ、滅後の我等は聞名にて信ず。不同あるに似たれども、聞見共に名号摂化を領受するが故に、仏の摂取を領するの信なれば見即聞なり。故に住立空中尊を「不捨本願(十七願名号摂化)来応大悲」と釈し「韋提仏の正説を聞き忍を得」と云ふ。設ひ六根通説すと雖も、一名号摂化に帰す。若し通相で云はゞ、名詮自性にして名号は音声に限らず、色心の上に仮立すと雖も、三経の所説は名を音声に約して聞に対す。これ娑婆界のみにあらずして十方界また然るが故に。第十七願には諸仏の諮嗟称を誓ひ、往覲偈には「聞名欲往生」と云ふ。然れば見仏等は聞名の代理なりと知るべし(喩へば指語の如し)  Cに聞観同異、既に聞名を以て摂化の当相と定むる時は、観仏して遂に不虚作の願力を思い知るも、即聞信にして(観照は信後味道の観なれども)観知するは聞信と同致なるに似たり、故に『一多証文』には観仏本願力の観を釈して「観はこゝろにうかべみるとまうす。またしるといふこゝろなり」と云い、同じく信知弥陀本弘誓願を釈して「知といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるとなり、また知とは観なり、こゝろにうかべおもふを観と云ふ」と釈し給へるは、如何にも観即信に似たれども、観は必ず行門にして信にあらず(委細「起観生信」の題にて知るべし)。 【已上】