二七、次如弥勒 【出拠】  『大経』下巻「次で弥勒の如き者也」《九九》等。 【義相】 問。大菩薩を次如弥勒と呼ぶ、菩薩の大小如何が分別するや。 答。菩薩に大乗小乗あり『二巻鈔』《六四二〜三》に云々。今の所談は『二巻鈔』と異にして、菩薩の機地を説くなり。初地以上を大菩薩とす。何者不退と説くが故に。又三賢位を小菩薩とす、何者不退に対するが故に。比丘の往生を此の外に説くもの思い知るべし。 問。次如弥勒とは総じて地上を指すや、補処の菩薩を指すや。 答。経の所説に任ずれば地上地前を大小に分別して、地上を次如弥勒と云う。又我祖のK判に就かば、弘願の行者を次如弥勒と云い、定散諸善の機を小行小菩薩とする。何者。  @上の「他方仏国の諸の大菩薩〈乃至〉命終りて無量寿国に生ずることを得、七宝華の中に、自然に化生せん」《九七》等これ明信仏智自然化生と同ずる故なり。  A不退の菩薩には「已に曾(むかし)無数の諸仏を供養せりき」《九九》等の宿善あることを説き、小菩薩には宿善なき故に。  B小行の菩薩道場樹を見て仮相の益を得るが故に、『小経』には少善根と説き『化巻』《四七九》等に之を引用して諸行往生の人とせり。 問。次如弥勒の釈名如何。 答。一義に曰く次は隣次の義にして、弥勒は仏の隣次なれば、隣次なることは弥勒の如しと云う意なり。『親鸞聖人御消息』三九《八八〇》に云々。又一義に次とは近の義なり『一多証文』《七八二》に「次はちかしといふ」と釈し『大経』下巻「泥■の道にちかつけり」《七七》とある。次於という語をちかしと読むのであるからこの義である。又三輩の次如上輩次如中輩の次如と云ふも、三輩泯亡して一機とみるこゝろなり。 問。次如と便同と同異如何。 答。一往は別なり。次如は通相に上位の菩薩をさし、便同は弘願行者の益を示す【王日休、云々】。再往は終帰一致なり、何者『二巻鈔』《六四二》に便同次如連引して、共に弘願行者の益とするが故に。 問。弥勒と弘願の益と同異如何。 答。三同三異あり。(図を見るべし) ┌ 一、因人究竟 三同 ┼ 二、一生成仏 └ 三、金剛心成就           弥勒 弘願       ┌ 一、三祇百劫【五十二段】 薄地底下    三異 ┼ 二、五十六億七千万年 臨終一念之夕       └ 三、竪断 横断 【已上】