二八、信疑得失 【出拠】  一、『大経』下巻「もし衆生ありて疑惑の心をもてもろもろの功徳を修して」《九六》等  二、『選択集』「生死之家には疑を以て所止と為し、涅槃之城には信を以て能入と為す」(T・九六七)  三、『正信偈』「生死輪転の家に還来(かへる)ことは、決するに疑情を以て所止と為す〈乃至〉必ず信心を以て能入と為すといへり」《二五九》此の外枚挙に遑あらず。 【義相】  信とは(信心名義の題下に譲る)。疑とは新訳家は、一境に於て二心に転ずるを疑と云ふ。即ち猶予なり。信は不信に対し所縁の物体を知らざるものなり。旧訳は猶予不信共に疑とす。所縁の境体を知らざるものは悉く疑なり。今家は常に旧訳を用ひ、信疑を以て廃立を尽すとなす。 【問答料簡】 問。『大経』は疑惑の者は胎生辺地、明信の者は化生仏所に往生すと得失分明なり。然るに『選択集』には疑情は生死に止まり、信心の者は涅槃に入ると説けり、如何が此の相違あるや。 答。『経』は胎化二生より起りて疑心の善人に約して説く、『和讃』の「疑心の善人なるゆへに/方便化土にとまるなり」は此の意なり。『集』は疑心の悪人に約して説く、御文章の「この信を決定せずは無間地獄に堕在すべきものなり」と云へると同意なり。若し機地に約すれば善悪あれども趣入に約すれば善悪同一となる。 問。得失は因果何れに約するや。 答。果の験相(不見三宝)より因(宿世中時無有智慧)に及ぼしたるものなり。 問。付属の一念大利に対して為失大利と説くは因に約するに似たり如何。 答。『一多証文』に「為得大利といふは無上涅槃をさとるゆへに則是C足無上功徳とものたまへるなり」《七八五》と云々、可知。(有人曰く、『経』は変易に約し、『集』は分段に約す、苦楽生死互顕して相違せずと=評して曰く。今家に二種生死の分釈なければ此の説未可なり)。 【已上】