三六、法界身義 【出拠】  一、『観経』(十二丁)像想観「諸仏如来是法界身」文。  二、『論註』上(二十三丁)  三、『定善義』(二十三丁) 【義相】 一、『論註』に就て弁ず。  尽十方の仏身を釈するに像観【入一切衆生心想中是故汝等心想仏時是心即是三十二相】と真身観【好一尋者六十万億】とを合取して、数即無数二種相即の法身とす。此の中一に界身を解す。身とは集成に名け【無漏の五隠集成するを身とす(大論二十一巻二丁に云々)】。界とは事別に名く【事相差別五蘊十二処十八界也】。眼等の如しとは例を挙るなり。二に正に法界身を釈す。法界とは衆生の心法を指す。法界に二ありて一に理【如真性法】、二に事【名衆生界】なり。今は事に約す。そは衆生想仏の心(法界)より生じて、唯常に衆生の心想を縁ずる身なるが故に仏を法界身といふ也。心想とは観心に約す。能所不二なる所を是心【能観の心】作仏【所観の仏身来現】是心【能観】是仏【所観】といひ能所不二を指す。 二、疏釈に依て解す。  諸師は唯識法身自性清浄の観とし、以て理仏とす。善導大師之を破て事仏として、法界は所至の境【衆生界】にして、身は能至の仏【法界に至る仏身也】を指す。又入一切等とは遍入に三遍あり。即ち心遍【法界を解す也】身遍【法界身を解す也】無障碍遍【法界身を解す也、仏の無碍智通達して照さゞるなく理法身に簡ぶ】にして弘願に約して尽十方の義を示す。 【問答料簡】 問。雁門終南の釈意同別如何。 答。『註』は唯真実にして『疏』は要弘に通ずれば左右あり。但し観に約するものは一なり。又『註』は法界は所生を以て能生の心に名けて、此身想を縁ずるの身を法界身とする有財釈なり。『疏』は法界を所至の境として、衆生の心を呼んで能至の身の名とする。法界に至るの身の依主釈なり。其の異知るべし。 【已上】