四一、無問自説 【出拠】  一、『小経』一部無問自説なり。  二、『化巻』「この経は大乗修多羅のなかの無問自説の経なり」《五〇二》  三、『一多文意』「一日乃至七日〈乃至〉この経は無問自説経とまふすこの経を説きたまひしに如来にとひたてまつる人もなしこれすなわち釈尊出世の本懐をあらわさんとおほしめすゆへに無問自説とまふすなり」《七八六》 【義相】 問。無問自説は『小経』に限るや。 答。十二部中に優陀那部あり無問自説と訳す。これは一経の始中終を云うに非ずして、十二部中の一分を云うものなれば今と異なり。『化巻』に「斯経【小経】大乗【一経一部】修多羅中【総修多羅】之無問自説経なり」とあるは一経通じて無問自説とするの意なり。 問。遺教経は一経の始中終無問自説なるは如何。 答。遺教教は小乗にして未聞の益を説くに非ず。仏涅槃に及んで大衆に対して上来の所説に於て疑問あらば問ふべしと、戒を重くすべきことを問なくして説きたまうなり。今とは別なり。 問。今経無問自説は如何なる義を詮顕するや。 答。二由あり。云く。  一、大智の故に。二、大悲の故に。  唯仏独明了我見是利の仏智見に非ずんば、問ふことも説くことも能はざる仏智開示の経なることを顕はして、無問に約して自説したまう。【約智】又大経の「作不請之友〈乃至〉以不請之法施諸黎庶」と請を待たずして、而も自ら説き与へたまうものは、母が乳児の乞ひを待たずして、乳を与ふるが如し【約悲】。此二義一致随自意を示して出世本懐を顕す。 問。『大・観』は有問にして而も出世本懐なるもの如何。 答。『大・観』の有問は無問に帰す。「承仏聖旨」【大経の阿難の所問は全く仏力にあり】「以仏力故」【観経の韋提の能請は仏の聖旨にあり】とありて、『大観』二経共に仏力なり。今経も亦有問となる。何者阿難韋提すら仏力によりて問はしむ。然れば舎利弗も仏力に依れば問はしむべきなり。大経は有問にして五徳、以て出世本懐を開示し、観経は韋提に加被して請求せしめて、以て即便微笑の随自本懐を顕開す。今経は大悲大智因人の所測にあらず、全く果分不可説の本懐なることを、無問の所にて説き示すものである。 【已上】