四六、准知隠顕 【出拠】  『化巻』本十九丁「『観経』に准知するに、此の経に亦顕彰隠蜜之義有るべし」 【義相】 問。『小経』の隠顕は必ず准知せざれば成立せざるや。 答。准知隠顕は修因段の文より成立す。此の一段従容にして隠顕とも一文両義とも唯真実ともなる。故に隠顕と見るは必ず『観経』に准知せざるべからず。上の依正段より来て「応当発願生彼国」等と説く。此の「彼国」とは上来所説の依正これなり。其の国に生ずるの因を「聞説阿弥陀仏執持名号」と説く。此の往生を証誠するもの即ち真実なり。又上来所説の国土へは定散諸行にては生ずべからざるが故に「不可以少善根福徳因縁」と説く。此の如く定散諸善を廃するものは上の『観経』定散の機の流れ来るが故なり。其の定散の行を捨てしめたれども未だ定散心を廃せず、この機より見れば自力真門を成ぜざるべからず。故に開示真門となりて、顕説を見れば自力念仏となる。何者。 一、信疑廃立を説かざる故。 二、一日七日の策励を説く故。 三、臨終来迎を説く故。 問。一文両義なるかも知れ難し、何ぞ隠顕と云ふや。 答。一文両義は互いに隠顕となる。隠顕は真仮の異名と思ふべし。少善根として定散行を廃せらるゝ機は、未熟の故に「説阿弥陀仏」等と聞けども、必ず定散の機執を帯びて居る。故に当前自力とならざるを得ず。故に『観経』より流れ来る説相は顕説となって、純熟の機の所見は隠となる。是を以て信疑廃立を説かずして、難思往生を励ます相なり。 問。『観経』何れの文に准知するや。 答。『観経』下三品の顕説は自力念仏、隠説は弘願念仏にして今も然り。下三品及び付属を承け来る。故に近く准知する処は下三品及び付属なり。茲に准知する所即『観経』一部に准知す。『観経』の観仏為宗の勢い流れて、下三品の念仏定散となる。故に下三品に准知する所、即ち『観経』一部に准知するものなりと知るべきなり。 【已上】