四七、嫌貶開示 【出拠】  一、『小経』の「修因段」。  二、『化巻』本十九丁「真門章」(U・一五七) 【義相】 問。如何が嫌貶するや。 答。『観経』所説の定散を少善根と貶して以て、真土に望めて生ずべからずと嫌斥す。 問。何を以て真土と知るや。 答。上の依報段所説の土は「成就如是功徳荘厳」と説き、又正報段には弥陀の光寿の名義を説く。斯の如く依正二報の極楽には生ずべからずと示す。又云ふべし、定散二善は化土に往生す、今往生せずと云ふは報土を指すこと明なり。故に『法事讃』(下十三丁)には「極楽は無為涅槃の界なり、随縁の雑善恐らくは生じ難し」(T・五七九)と釈す。 問。如何が真門を開示するや。 答。善本徳本の名号にて往生と開示す。 問。真門は真土に生ずるや、然らずんば嫌貶と開示は応ぜざるに似たり如何。 答。諸行を真土に望めて嫌貶し、真門は真土に望めて開示するに非ず。教頓の名号を説く時、自力定散の機は其の名号を聞き損ないして、不可思議の功徳を知らず。多善根多功徳と執じて、以て自力策励するとき機より自力念仏を成ず。仏此の機執を拂はず信疑廃立も説かずして来迎の益を顕はす。此に於て真門を成ず。これを仏に持たせて真門開示自利一心を励ますと決判す。 【已上】