四九、証誠真仮 【出拠】  一、『小経』六方段の諸仏証誠。  二、『散善義』八丁右。  三、『二巻鈔』上四丁「功徳証誠往生証誠」。  四、『同鈔』下十丁「小経勧信」。  五、『信巻』本九丁。  六、『化巻』本二十丁真門章。 【名義】  証は保証、誠は誠真也。 【義相】  証誠は真実に局る。所以は一に理に依り、二に文に依る。 一、理によるとは、真門自力の往生には証誠の必要なし。機より成ずるの法なるが故に。 二に文に依るとは此の中五あり。  @『法事讃』下十四丁「為断疑故」。  A『小経』に「証誠実言」と説くが故に。  B舒舌の故に。暫用還廃の法には舒舌を用ゆるべからず。【舒舌とは一度舒べて再び還らざるを云ひ、仏の随自意を顕はすなり『観念法門』二十七丁参照。】十方諸仏同証するは随自意なるが故なり。若し各別の諸機に対しての説法ならば、随他意なるが故に同証すべからず。  C真実教の十七願の外に諸仏所讃の願なきが故に。  D祖釈に於て未だ証誠が自力念仏に通ずるを見ず。 【問答料簡】 問。経文に「如我今者」とは、修因段をさすものにして、修因段は真仮に通ずれば証誠又真仮に通ずべし。 答。一に修因段は真仮に通ずれども、今の証誠は真の方のみを承くる也。二に上依正の名義をさすが故に、『称讚浄土経』に「如我今者讃歎仏土不可思議」と説きたまふ。 問。方便往生を証誠したまふことあるべからずと雖も、功徳証誠は仮に通ずべし。何者教頓機漸の故に。 答。釈迦には勧励難思往生はあれども、諸仏には通ぜざる事前の如し。 問。『散善義』に勧励衆生を讃歎してあるは如何。 答。三義あり。 一善導の上は勧励を自力とも定め難し。弘願の上に此言あり。『往生礼讃』十一丁左の偈に「自策自励求常住」と云ふ。『同舒』五丁に「励心克己晝夜等」の如し。 二讃歎は仮に通ずる辺もあれども、証誠は仮に通ぜず。故に『散善義』には讃歎のみにて証誠なし。 三諸仏は直に方便を励まし給ふに非ず。釈迦が自力の称念を勧励して、遂に弘願に誘引し給ふ事を讃歎す。故に証誠は仮に通ぜず。 問。『二巻鈔』下十丁に、専修五種の自力に同勧同証の四同をかけ給ふは如何。 答。文通義別にして証誠は専念に局る也。其の例は『二巻鈔』の初めに、聖道浄土の教に二教あり。一に大乗、二に小乗とあれども、此の小乗は唯聖道にありて、浄土になく言総意別なり。之に准じて知るべし。 問。然らば、『化巻』真門下に引き給へるは如何。 答。従仮入真のために真門方便中に、弘願の証誠を明し給ふなり。 一説、証誠は真仮に通ず。諸仏証誠の意趣に就かば、唯真実にして、暫用還廃の方便法に舌相壊乱の証誠あるべきの理なし。但し釈尊真門開示に当て、この諸仏証誠を己が勧例衆生の具に須ひ給ふとき、一分は仮に通ずべし。元真門は仏より自力策修すべしと説き与へたることに非ず。唯名号の多善多功徳を説き給ふ中に於て生熟の二機あり、未熟の機は名号の功徳のみに目を付けて不思議の力用を知らず。釈迦此の機を捨てずして、聞き損のまゝで引き受け給ふ所にて、始めて真門を成ず。此の機諸仏の証誠を聞きながら、我聞損じたることを知らずして、諸仏が我を証誠し給ふなりと真門の位に認む。釈尊其の機執を引受け給ふを、諸仏は釈尊の手ごゝろに任せ置くの一辺あり。此の辺よりして仮に通ぜしむるなり。既に然れば証誠の仮に通ずるといふは機より立て、釈尊これを勧励したまふ手ごゝろより、方便に通ぜしむるものにして、諸仏能証の意趣は、元来方便真実並べ証すといふにはあらざるなり。 問。二十願の機は必ず証誠を要すべきや。 答。然り。十九願は三世諸仏の通因を以て西方に願生する故に証誠を要せざれども、二十願は諸行を廃して唯一仏の名号によるものなれば証誠を要す。若し釈迦一仏の説にして諸仏証誠なからんか、衆生はいかで疑心を離るゝ事を得ん。故に証誠を待て始めて其の機を成ずるなり。又『観経』の定散諸善を『小経』にては少善根と貶して、下三品の下坐に説く念仏を多善根等と説くが故に、証誠を用ひ来りて真門を成ずるなり。 【已上】