五〇、極難信法 【出拠】  一、『大経』下三十三丁「諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法〈乃至〉難之中之難此に過ぎて難きは無けん」(T・四六)  二、『小経』「説此難信之法」。  三、『二巻鈔』上四丁「難疑情、易信心」。  四、『信巻』本二丁「世間難信之捷徑」。  五、『和讃』大経讃「一代諸経の信よりも〈乃至〉無過之難とのべたまふ」。 【義相】 約法約機の二難を説く中、法の難を説て勝の義を顕すに三由あり。  一、超法出格の故=愚縛の凡夫刹那に成仏する此の法非常にして常人は信じ難し。『信巻』本三十二丁に『聞持記』を引いて云々す。又慈恩の疏には、此の法信じ難きは、謂く一日乃至七日の念仏即塵滓を抜いて高く浄境へ昇る。微因著果俗情信じ難し、人引接の語を恐るゝ故難信之法と言ふと。又『法華宝塔品』に「演説無量余経亦未だ難と為さず、仏滅後悪世中能く此の経を説く。是即ち難と為す」。亦『唐華厳』十五勧の二十二丁に「大乗を求むは、猶し易と為す。能く此の法を信ずること此を難と為す」と、此等は助顕なり。今は超法出格の故にこれより難し。  二、恒沙の仏意を信ずるが故=『化巻』本十九丁に「彰と言は真実難信之法を彰す〈乃至〉良に勧め既に恒沙の勧めなれば、信亦恒沙の信なり、故に甚難と言へる也」(U・一五七)と、諸仏舒舌の名号法なれば、名号を信ずる所に恒沙諸仏の随自意を信ずるなり。  三、果分不可説の法なるが故に=弥陀の自内証自境界を悟得すること因人の及ぶ所に非ず『論註』上九丁に「随順法性不乖法本」とあり、果智より性起縁起するの法は、因人の企て、自力の妄情の及ぶ所に非ず、故に難中之難にして法の最勝を顕はす。  次に約機の難の中又三あり。  一、無始の固執に敵するが故=『化巻』本三十一丁「悲しき哉、垢障の凡愚、〈乃至〉良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし」と、此の文に依るに無始以来助正間雑定散雑心を以て希求し、習ひたる自力執心に敵対して、自力の功を離れ純他力に帰すること実に難し。  二、宿善深厚の故に=『大経』東方偈「若人無善本〈乃至〉楽聴如是教」。『唯信抄文意』五十五丁「大経には若聞此経〈乃至〉これにすぎてかたきことなしとなり」『御文章』三帖目十二通に「されば大経には〈乃至〉いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみへたり」と。 問。一切法皆宿善なくんば信ずること能はず。何ぞ極難の義を成ぜん。 答。聖道の宿善は法に遇ふまでを云ふ。今の宿善は信獲得するを云ふ。即ち信機信法を成ずるにあり。彼此同日の論に非ず。故に『御一代記聞書』末四十三丁には「他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ」といへり。  三、鈍根無智の故に=『信巻』本二丁に「然常沒凡愚流転群生〈乃至〉博因大悲広恵力故」と説くが如く、補処の菩薩と雖も自力の因智にては起し難し皆鈍根の摂なり。故に『大経』には補処の弥勒も五道流転の凡夫と伍を同ず。『末灯鈔』二十一丁に「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべきひとは候はず、しかれば如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人のおほせに候ひき」と云ふ。彼の難は疑情、易は信心といへるは此の意なり。極難は極易を反顕し、自力なるが故に難。他力なるが故に易なり。 問。他力の法を自力にて信ずる事難ければ、自力の法を他力で信ずること亦難なるべし。何ぞ難中之難といふや。 答。一往は所問の如く難の義を成ずれども、此の法は最勝の故に唯感応同交せざるのみならず、機法勝劣懸隔する。故に沈思すべし。 【已上】