仏説九横経について  この経典は、仏陀の初期の説法を記述したもので、増一阿含といわれる経典群に属されている。本来は『七処三観経』という経典の一部であるが、それから取りだして『仏説九横経』という経名を与えて翻訳され、独立した経典となっている。  訳者に安世高の名があるが、中国ではこのような仏典経翻訳者を三蔵法師と呼びその数は二百数名を数える。彼はその中でも最初期の翻訳三蔵として有名である。 『仏説九横経』(読み下し編者) 後漢安息国三蔵安世高訳 「佛舎衛国祇樹給孤独園にまします。佛すなわち比丘に告げたまはく、九輩九因縁ありて命未だ尽きざるにすなわち横死す。一には不応飯の為に、二には不量飯の為に、三には不習飯の為に、四には不出生の為に、五には止熟の為に、六には不持戒の為に、七には悪知識に近づくが為に、八には入里不時不如法行の為に、九には避くべきを避けざるが為に。是の如き九因縁の為に、人命横尽をなす。一に不応飯とは、名けて不可意飯となす、亦もって飽くために腹とゝのわず。二に不量飯とは、名けて節度を知らず多飯過足とす。三に不習飯とは、名けて時の冬夏を知らざるため、他の国郡に至るため、俗宜を知らず。飯を消すること能はず。食未だ習はざるゆえに。四に不出生とは、名けて飯物未消のために、復た上飯薬を服して吐下せず時に消さず。五に止熟のためとは、名けて大便小便来時に即時に行かざるがため、噫(あくび)吐(はく)嚔(くしゃみ)下風(おなら)来時に制す。六に不持戒とは、名けて犯五戒と為す。殺盗、他人の婦を犯し、両舌、飲酒、亦餘戒あり。犯すを以てすなわち懸官に入り、或いは絃死、或いわ捶杖利刀に斫刺せらる。或いは辜(つみ)飢渇して終わる。或いわ以て脱がるを得れば怨家より手死を得る。或は恐怖罪を念じて憂死す。七には悪知識に近づくがためとは、名けて悪知識のために己れが悪便反座をなす。何を以てのゆえに、座悪知識を離れざるがゆえに善悪を覚らず。悪知識の悪態を計らず、悪知識の悪を思はず。八に入里不時のためとは、名けて冥行とす。また里に諍ある時に行き、また里に懸官長吏有り追捕避けず、不如法行とは里に入りて妄りに他の家舎中に入り、妄りに犯すべからざるを犯し、妄りに説くべからざるを説き、妄りに憂うべからざるを憂へ、妄りに索(もと)むべからざるを索む。九に避くべきを避けざるためとは、名けて象馬牛車蛇虫坑井火水抜刀酔人悪人を避くべしとなす。また余の若干の悪、是の如く九因縁輩のために人命未だ盡きざるに当に是に坐して盡くべし。慧人当に識るべし、当に避くべし。是の因縁避くるを以て、乃ち両福をう。一には長寿をう、二には長寿を以て乃ち道を聞くをうる。好語言また能く行ず。諸比丘歓喜受行す。」 [大正大蔵経巻二 八八三頁]  経の頭初に「佛舎衛国祇樹給孤独園にまします」とある通り、仏陀が祇樹給孤独園において説かれた説法で、祇樹給孤独園とは我が国でも良く知られる祇園精舎の別名である。 題名に「九横経」とある通り、この経典は九種の事例をあげて、このようなことをする者は横死、即ち与えられた命を全うすることはなく命を縮めるぞと説き、これを避ける者こそが道を聞くことを得ると説く。  仏陀を大医王とも呼ぶが、この経はまさにその面目躍如たるものがある。その内容を簡単に云えば次のようになる。 まず第一の不応飯であるが、これは飯を消化しない内に重ねて食べるなという意味になる。仏教々団では朝の托鉢で施された食物を、午前中に食べる約束があり、午後には一切食物を口にしない。応飯とはこの定時に食べる食事のことである。これ以外の時に食事をすれば満腹になりすぎて腹の調子をこわすと注意し、不可意飯すなわち食べたくない時に食べるのも同じことであるという。 二に不量飯とは、定時でも美味しいからといって量を過ごすなということであるが、不味いといって少しだけ食べるのも同じく不量飯となるのである。 三に不習飯とは、季節はずれの食べ物に注意し、また慣れない国の食べ物にも気をつけることをいう。 四の不出生とは、ズバリ便秘のことで、薬を飲んでも出ないようになるなというのである。 五に止熟とは、熟したものを止めるなという意味で、「出物ハレモノトコロキラワズ」と云われるものを我慢せずにスグに出せという。 こゝまでが自分自身の生命を直接に維持する食べ物に関した教えである。二千数百年前の健康法と現代のそれと比較して変化があるだろうか。 続いて内なる自己の生命の問題から、外に向かって他との関りの中で命を縮めるような問題を挙げてある。  すなわち六に、不持戒とあるのがそれで、まず仏教徒であるものが最低守らねばならぬ五戒を挙げる。五戒とは、@ものゝ命をとってはならぬ、A盗むな、B姦通はするな、C二枚舌を使ってはならぬ、D酒を飲むな。という五つのいましめをいう。 また余戒ありと説くが、この五戒を拡げると、八戒斎や十悪とか十善と呼ばれるものになる。 八戒斎はこの五戒に生活の中で注意すべき贅沢についての戒めを加え、それに前の五つの食についての諌めをまとめて一つの斎(とき)として付けたものである。その三つの贅沢とは、@不香油塗身戒(身体に香油をぬったりして化粧はするな)、A不歌舞観聴戒(歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない)、B不高広大床戒(高くゆったりしたベッドで寝ない)であり、一つの斎とは不非時食戒(正午以後は何も食べない)ということである。 贅沢ということについては、物質文化が豊かになれば、精神生活が貧しくなることを戒しめたもので、正しく現代の世相を予言しているかに見える。 十悪とは同じく五戒を拡げて十項目とし、身体ですること、口ですること、こゝろですることの三つの行為に配当される。また、この十悪を慎むことを十善というのである。 まず身体でするものとしては、五戒の中の@殺生・A偸盗・B邪淫が挙げられ、口でするものは、C妄語(うそいつわり)・D綺語(へつらい追従の言葉)・E悪口・F両舌の四つが挙げられる。最後のこゝろでする悪としては、G貪欲(むさぼり)・H瞋恚(いかり、そねみ、はらだち)I愚痴(おろかさより起こる、取り越し苦労に持ち越し苦労等)の三つである。 不持戒の項は続いて、これらの戒めを犯すと、役人につかまり縛り首にあったり、打ち首という目にあう。また、牢獄で飢えと渇きに苦しんで死ぬこともあると説き、上手く役人の手を脱れても怨みを買った相手の刺客に追われる身となるという。そして最後にその全てを脱れても自分自身の罪に自からが恐れおのゝいて命を縮めると不持戒を終わる。 七には、悪友とに近づくとその悪友のために自分にも災いが及ぶことがあると戒める。 八には、争いのあるところに好んで行ってはならない。また他人の家に入りこんで自分勝手な行動をとるなという。 九には、避けなければならぬ危険なものを挙げて、それより遠ざかれという。車や毒虫のみならず酒に酔った人も避けよと説いて、この九種の横死の因縁を結ばれる。 経の最後は、これらの戒めを守る智慧ある人は、二つの福徳を得るといって、一つに長寿を挙げ、二つに長寿の故に道を聞くことを得るという。 この両福については、二番目の道を聞くことを得るとあるのが究極の目的で、単に長寿のみでは本当の福徳にはなり得ないのである。いや、なり得ないどころか、帰るところをもたない長い人生は最大の苦しみともなるのである。 大佛次郎氏の『帰郷』という小説の最後一節に主人公の人生を結んで、「エヘエジュルス……刑場に曳かれて行く基督を辱かしめた劫罰で、永久に死の安息に恵まれることもなく、地上をさまよって苦るしんでいる伝説の猶太人の名前であった。エヘエジュルスの淋しさ切なさを彼はこの署名に込めていたのである」とある。 洋の東西を問わず、単なる長寿は罪罰でこそあれ、福徳と呼ぶことは出来ないのである。しかし、道を得た人にとっては、長寿が福徳であることはいうまでもない。 この『九横経』は最後に、両福ありと説くが、これは単なる長寿を指しているのではなく、道を聞くことを得たうえでの長寿を強調する説きぶりである。  こゝで道と呼ぶものについて少し触れておかねばならない。仏陀が覚りを開いて最初に説法されたと伝えられるものに「四諦」(四種の真理)の教えがある。 すなわち、苦諦・集諦・滅諦・道諦がそれである。 苦諦とは、人生は苦であるという真理であり、<我々が日常に使っている四苦八苦という言葉の原点である。すなわち四苦とは、@生・A老・B病・C死の四であり、八苦とは、この四苦にD愛別離苦、愛するものに別れる苦しみ。E怨憎会苦、怨み憎むものと会う苦しみ。F求不得苦、求めて得られない苦しみ。G五蘊盛苦、人間の心身を形成する五つの要素の盛んなる故におこる苦しみ、等の四を加えたものである。>  集諦とは、その苦を招き集める原因は人間の心の中にある無明煩悩であるという真理をいう。  また、滅諦と呼ばれるものは、その苦の原因たる無明煩悩を滅尽することによって苦のない覚りの境地が実現するという真理であり、最後の道諦が、その覚りの境地に至るためには八つの正しい道を実践しなければならないという真理である。 このように迷いの苦しみの果と因、覚りの果とそれに至る因を挙げるのが四諦なのである。  <余談ではあるが、仏教の因果の道理はこのように因から果という順ではなく、果から因を見るという順で説かれていることが多い。それは因は果となって初めて因と呼ばれるのであって、因が因のまゝでは因とは呼べないからである。> さて道であるが、この四諦の教えの最後の道諦に説かれる、覚りに至る八つの正しい道がそれである。  @正見、四諦の道理を正しく見る智慧。  A正思惟、正しく思惟し意思すること。  B正語、正しい言葉を語ること。  C正業、身の行いを正しくすること。  D正命。身口意の三業を浄らかにして正しい生活をすること。  E正精進、正しい努力。道に努め励むこと。  F正念、正しい憶念。四諦の道理を常に心に留めて忘れないこと。  G正定、正しい精神統一。  これが『九横経』に、道を得ると説かれた具体的内容である。こゝでも先に述べた果と因の順で、最終的目標である@の正見がまず最初にあげられて、続いてその正見に至る実践道が七項に分けて説いてある。  『九横経』が初期経典であることは最初に述べたが、この八正道と呼ぶものも、仏教の原点的実践道なのである。  この初期の仏教より展開された大乗仏教では同じ実践道として六波羅蜜を挙げる。  波羅蜜とは、梵語のパーラミターの音訳で漢語に意訳すれば到彼岸となる。すなわち彼の岸、覚りの世界に到るという意味である。これに六種の行があるので、六波羅蜜といゝ@布施、施しをすること。A持戒、戒律を守ること。B忍辱、たえ忍ぶこと。C精進、すすんで努力すること。D禅定、精神を統一し安定させること。E智慧、真実の智慧(さとり)を得ることゝ説く。こゝでは初期仏教が最初にあげた正見にあたる正しい智慧を最後にあげてあるが、これは前の五種の行の根拠となる智慧であるからである。また八正道との大きな違いは、八正道では自己のみの行であるのに対して、他にはたらきかける第一番目の布施行を含むことである。この他にはたらきかける行のことを仏教では利他行といっている。  今、大乗仏教の行としてこの六波羅蜜をあげたが、この大乗という語に対して初期の仏教を小乗仏教と呼ぶこともある。この違いを大ざっぱな言い方であるが一言でいえば、小乗は仏説の言行録風な性格を持ち、大乗は形而上学風たる性質のものであると理解して頂いて良いと思う。  このような違いが仏教の中に出てくるのは大乗と小乗のみならず、小乗の中でも多くの部派仏教があり、大乗でも現在仏教が各宗に分かれている事実が語るように、その根本的なもとをたどれば、仏陀の教えの説き方にあると見ることが出来る。最初に仏陀の異名を大医王というと述べたが、その説き方は昔から応病与薬(おうびょうよやく)と云われている。これは、それぞれの病気によって、その病気に合う薬を与えるという意味である。  ということは、自分の病気に合う薬を求めたのが各宗派の祖師方であり、そこに同病のものが集まったのが仏教の宗派であるとうけとることもできる。  そこで、日本の祖師と呼ばれる人たちの中でも、仏陀の教えを聞けば聞くほど、道を歩むにも歩む足も持たず、善行どころか悪業のみ造りつゝ人生を過している自分の姿を見出し、念仏の一道を仰ぐ親鸞のような人も出てくるのである。  この重病人たる悪人がすくわれる法が説かれているのが仏教の粋ともいわれる大乗経典の一つ『仏説無量寿経』である。この経には『九横経』に説かれる素朴な苦の相が、華麗ともいえる表現で展開されている。  『仏説無量寿経』下巻(釈迦指勧分)  「いったい、人人は、なぜ世俗のことをふり捨てて、勤めて仏道を求めようとしないのか。求めさえすれば、限りない命を得て、いついつまでもきわまりない楽しみが得られるだろうに。  ところが、世間の人人はまことに浅薄であって、いずれも急がぬことを争い合うており、この激しい悪と苦の中に営営と勤め働き、それによってやっと生計を保っているに過ぎない。貴賤貧富の別なく老若男女を問わず、みなともに金銭や財宝のことについて悩んでいるのであって、それの有無にかかわらず、憂え悩むことには変りがない。かれこれと嘆き苦しみ、いろいろと思案をかさね、いつも欲心のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。  田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銀・財宝・衣食・器物、さては召使いに至るまで、有れば有るにつけて憂え悩む。つまり、それらのものについて、とかく心配し、ため息をついて嘆き恐れるのである。たまたま、思いがけぬ水害・火災・盗難などに会い、あるいは怨敵や債主などのために取られたりして、それらが、すっかり消え失せてしまうと、たちまち激しい憂を生じて心をとり乱し、その静まるときがない。怒りを胸にいだいて、いつまでも悩みつづけ、心は固く閉じふさいで、どうしてもその思いを捨て去ることができぬ。もしまた、災難に会うたり罪科に問われたりして、時分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを捨て置いてただ独り次の世に趣くのであって、何ものもその身に添うて行かない。  地位の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂があって、悩みや心配は実にさまざまである。かくて、これらの人人は、あるいは恐れあるいは怒って、苦痛の生活をつづけているのである。  また、貧しいものや地位の低いものは、いつも物が無くて苦しんでいる。田がなければ田を欲しいと悩み、家がなければ家を欲しいと悩む。牛馬などの家畜類や、金銀・財宝・衣食・器物、さては召使いに至るまで、無ければ無いにつけて、またそれらを欲しいと思い悩むのである。たまたま、一つが得られると他の一つが欠け、これが有ればかれが無いというありさまで、つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみな整うたと思うても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう。そこで、嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには、得ることができず、いたずらに思い悩んで、身心ともに疲れはて、立ち居ふるまいも安らかでなく、いつも憂に沈んでいる。かくて、これらの人人もまた、あるいは恐れあるいは怒って、苦痛の生活をつづけているのである。  またときには、そういう苦惱のために命を縮めて死んでしまうことさえある。かように、善根を修めず、道を行じて徳を得ようともせずして、寿命が尽きて死んだなら、ただ独り遠く出かけて、悪道に趣かねばならぬのであるが、善悪因果の道理をよく知るものは、ひとりもおらぬのである。  世間の人人は、親子・兄弟・夫婦をはじめ、一家の親類縁者など、たがいに敬愛し合うて、憎みねたんではならぬ。また有無相通じて助けあい、貪り惜んではならぬ。また、いつも言葉や顔色を和らげて、逆らい背き合うてはならぬ。  たまたま、争いを起して怒りの心を生じたなら、この世では、わずかの憎みやねたみであっても、後の世には、次第にそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜかというに、総じて世間のことは、たがいに人を傷つけあうと、たといその場では、すぐ大事に至らぬにしても、悪意をいだき怒りをたくわえて、その憤りがおのずと心の中に刻みつけられ、どうしても恨みを離れることができない。そうして後には、たがいに仇敵となって生れ、かわるがわる報復しあうようなことになるからである。  人は、世間の愛欲のきずなにつながれて生活しているが、畢竟独り生れて独り死に、独り来て独り去るのである。すなわち、人はそれぞれの行業によって苦樂の境界に趣くのであって、すべては、自分自身がその責任を負うのであるから、だれもこれに代ることはできない。善業のものは福の所に生れ、悪業のものは禍の所に生れるというように、おのおのその行く先が異なっており、おごそかな業の道理によって、あらかじめ定められている所に、ただ独り趣くのである。そうして、遠く他の境界に行ってしまえば、いかに親しいものでも、もはや相見ることはかなわぬ。善悪の行業に従って、おのずからそれぞれの境界に生れるのであるから、行く先ははるかに暗く、永久に別れ別れとなり、行くみちが同じでないから、めぐり会うことはおぼつかない。まことにもって、二度と会うことなど、むずかしいかぎりである。 それに、どうして人人は、世間の雑事をふり捨てて、各自が健やかな間に、つとめて善を励み、ひとえに浄土往生を願わないのであろうか。そうすれば、とこしなえに尽きない生命が得られるだろうに。なぜ、道を求めないのだろうか、何を期待しているのだろうか、いったい、どういう楽しみを欲しているのだろうか。 このような世の人人は、善を修めて善い報いを得、道を行じて悟りを得ることを信ぜず、人が死ねば次の世に生れ変ることや、恵みを施せば福が得られることを信ぜず、すべて善悪因果の道理を信じないで、そのようなことはないといい、あくまでこれを認めずに自分の見解を固執する。  また、それをかわるがわる見習うて、先のものと同様に後のものも因果の道理を信じないで、つぎつぎに親たちの誤った考えを受け継ぐのである。もともと、先祖から、善を修めず、道を行じて徳の得られることを知らず、心愚かに智恵開けず、みずから生死の果や善悪の因を見きわめることができず、またそれを語り聞かせる人もない。各自が現にさまざまの吉凶禍福を招き現わしていながら、だれひとりとしてそれを不審に思うものもないというありさまである。  生と死と相次ぐのは、世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失うて泣き、兄弟夫婦もたがいに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常のことわりである。すべては、はかなく過ぎ去るのであって、なにものも常に保つことはできぬ。この道理を説いて導いても、信ずるものは少い。それゆえ、いつまでも生死に流転して、とどまるときがないのである。 こういう人人は、心愚かにかたくなで、教法を信ぜず、将来を思いはからず、各自が、ただ目前の歓楽のみを追うて、愛欲にまどい、道徳をわきまえず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで狼のようである。そのために、道が得られず、ふたたび悪道に沈んで苦しみ、いつまでも生死流転が尽きない。何という哀れな痛ましいことであろうか。 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、あるものが死に臨み、あるものが生き残ると、たがいに別れを悲しんで、切ない思いで慕いあう。憂のために胸迫り、愛着のために心痛めながら、たがいに相手を顧みて恋い慕うのである。そうして、日を過ぎ年を経ても、さらに、その悲しみが解けず、道を教え聞かせても、なお心が開けず、かつての恩好を思うて、いつまでもその執着を離れることができない。心は暗く閉じふさがり、愚かな惑いにおおわれているから、おもむろに考えなおして、心を正し道を行じて、世間のことなど思いきってしまうということができない。こうして、うかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはや道を得ることができず、どうしてみようもない。 すべて世の人人は濁り乱れていて、みな愛欲をむさぼるから、道に惑うものが多く、これを悟るものが少いのである。まことに、世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。にもかかわらず、地位の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと、世渡りのために勤め苦しんでいるのである。  そしてまた、各自が毒をふくんだ恐ろしい思いをいだき、悪心に目がくらんで、みだりに事を起すから、天地の理にそむき、人倫の心にもそわないのである。 このような人人は、前世の罪業によって、おのずから悪縁を招き集め、それに伴って、また心任せに悪を犯すから、いよいよ悪が重なって、ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命の尽きぬうちに、たちまち命を奪われて悪道に落ち、生生世世に苦しみの境界を経めぐり、数千億劫のながい間、浮び出ることができない。その痛ましさは、到底言葉にいい表わせぬほどである。実に哀れむべき次第である。  つづけて世尊が弥勒菩薩やもろもろの人人に仰せられる。わたしは今、おみたちに世間のありさまを語った。人人はこういうわけでさとりの道に入ることができないのである。おみたちは、よくよく思いはかっていろんな惡を遠ざけ、善を求めて勤め行ずるがよい。愛するものはいつか別れ、栄えるものはやがて滅びる。真に楽しむべきものは何一つもない。おみたちは、さいわい仏の世に会うたのであるから、努め励んで道を求めよ。  至心から安楽国に生れようと願うものは、明らかな智恵とすぐれた功徳が得られるのである。決して、心の欲するところにまかせて仏の戒めにそむき、人後に落ちるようなことがあってはならぬ。  もし疑問があって、わたしの教えることがよくわからぬようなら、なにごとでも尋ねるがよい。わたしはそれをつぶさに説き聞かせよう」 <『意訳聖典』より抄出>  この経文は現代語訳されたものを出したので語句解釈はしないが、その言葉より人生の苦の原因をそれぞれ汲み取って頂きたい。またその苦より解き放たれる道は、宗教的体感の問題であり実践行であるので、こゝにはあげないが、病気というはものはその原因を知ることが大切で、その診断に思いあたれば、いま『仏説無量寿経』のこの項の最後の仏陀の言葉にあるように、心の師となるようなよき人に会われることを切に望んでこの稿を終わる。 佛説九横經 後漢安息國三藏安世高譯 佛在舎衛國祇樹給孤独園佛便告比丘有九輩九因縁命未盡便横死。一者為不応飯為飯。二者為不量飯。三者為不習飯飯。四者為不出生。五者為止熟。六者為不持戒。七者為近悪知識。八者為入里不時不如法行。九者為可避不避。如是為九因縁人命為横盡。一不応飯者。名為不可意飯亦為以飽腹不停調。二不量飯者。名為不知節度多飯過足。三不習飯者。名為不知時冬夏為至他國郡不知俗宜不能消飯食未習故。四不出生者。名為飯物未消復上飯不服薬吐下不時消。五為止熟者。名為大便小便來時。不即時行噫吐嚏下風來時制六不持戒者。名為犯五戒。殺盗犯他人婦両舌飲酒。亦有餘戒以犯便入縣官。或絃死。或捶杖利刀所斫刺。或辜飢渇而終。或以得脱従怨家得手死。或驚怖念罪憂死。七為近悪知識者。名為悪知識已作悪便反坐。何以故。坐不離悪知識故不覚善悪不計悪知識悪態不思悪知識悪。八為入里不時者。名為冥行。亦里有諍時行。亦里有縣官長吏追捕不避不如法行者入里妄犯不可犯妄説不可説妄憂不可憂妄索不可索。九為可避不避者。名為当避弊象弊馬牛犇車蛇虫坑井水火抜刀酔人悪人。亦餘若干悪。如是為九因縁輩人命未盡当坐是盡。慧人当識当避。是因縁以避乃得両福。一者得長寿。二者以長寿乃得聞道好語言亦能行。諸比丘歡喜受行。 佛説九横經