平成十年度 専精舎論題 往 生 意 義 行信教校教授 天岸 浄圓 師 述   一[題 意]    本論題の題意。  仏教の目的は「出離生死」すなわち「生死いずべき道」を極めることにある。それについて、法然聖人は『選択集』に聖浄二門を分けられ、釈尊一代の教法に聖道門と往生浄土門という、二種類の道のあることを明らかにされた(『選択集』『真宗聖教全書』一/九三〇)。 この聖道門に対して往生浄土門を分けられた祖意にしたがい、その往生の意義を明確にする。   聖道門・往生浄土門とは。  聖道門とは「此土入聖」の法門といわれ、此土において、小乗ならば四諦・八正道を行じて、阿羅漢果を証せんとし、大乗ならば菩提心二利(六波羅蜜)の行を修して、智慧(無漏の聖智)を極めて、生死の迷いを離れんとする全ての法門をあらわしている。それに対して往生浄土門とは、「彼土得証」の法門といわれ、浄土に往生を遂げて、彼の土に生じて菩提を証せんとする法門である。   往生浄土の法門の種類。  浄土往生の法門といっても、『阿藍ァ国経』『十方随願往生経』『弥勒上生経』等にあらわされる、さまざまな願生の法門がある(『安楽集』巻上[破異見邪執]一/三九六・『往生要集』「極楽證拠」一/七七四・参照)。今はそれらに簡んで、阿弥陀如来の浄土への往生にかぎって、その意義を考究する。  阿弥陀仏浄土教について。  法然聖人は、阿弥陀仏の浄土に往生せんとする法門について、「傍明往生浄土教」と「正明往生浄土教」の別のあることをあらわされている。  傍明往生浄土の教とは。  「傍明往生浄土教」とは、聖道門をあらわす傍らに明かされた往生浄土の教法である。それは此土(穢土)において、聖道の修行が成就できない者に、浄土にいたって仏道を完成せしめんとするためのものである。この立場における浄土教は、浄土という仏道修行によき環境にいたらしめて、そこであらためて聖道の修行を続け、仏道を成就せしめるというという、聖道門の補完的立場に位置づけられた浄土教、すなわち「寓宗浄土教」といわれるものである。   正明往生浄土の教とは。  「正明往生浄土教」とは、本願力による彼土得証・浄土往生を明かすことを正しく目的として説かれた法門で、法然聖人が「浄土門の修行は愚癡にかえりて極楽にうまる」(『西方指南抄』「浄土宗大意」四/二一九)といわれたように、愚癡の身のままに、阿弥陀仏の本願力に身をゆだねて、その浄土に生まれて生死を離れんとする法門である。  この「浄土門の修行は愚癡にかえりて極楽にうまる」といわれた、「正明往生浄土」の法門における往生の意義を明らかにするものである。   要するにどういうことか。  要するに、聖道門に対して往生浄土門を別立された祖意に基づき、阿弥陀仏が第十八願に「欲生我国」と誓われた願意を明確にするものである。   その他に、往生について論ずる理由は。  往生浄土の法門については、『往生論註』([願生問答]一/二八三)や『安楽集』([破異見邪執]一/三九一)などにみられるように、仏教内部からもさまざまな疑難が提起されている。すなわち空・無相・無我を究極とする仏教観に立脚し、他方浄土への往生を勧める教は、有相教であり低劣な法門であるといわれてきた。  また前述のように、浄土門は聖道門のための方便法(権法)であって、実成仏の法(実法)に非ずるとの見解もある。  このような疑難に対して、往生浄土の教法が仏教の道理にもとらない真実の教法であり、すすんでは往生浄土の法門こそが、万人をして平等に出離得道せしめる、無上最勝の法門であることを明確する。 また浄土門内にあっても、雑修による往生を説くものあり、専修念仏による往生を説くものもあり。また、往生後に浄土で修行をして仏果に至ると説くものや、宗祖のように往生即成仏を説かれるなど実に多様である。これらの位置づけも明らかにしなくてはならない。  真宗独自の往生義。  宗祖には往生即成仏をあらわされる他、善導大師の『法事讃』の「難思議往生」「雙樹林下往生」「難思往生」の三往生を、『大経』『観経』『小経』に配される説や、『観経』の「即便往生」の語を「便往生」「即往生」に分けて、往生に真仮を分別される説がある。さらに難思議往生説に対して第十八願成就文の「即得往生」に対する独特の釈義などもある。これらの宗祖の「往生」に対する釈意を明確にするのも本論題の意である。   今日的課題。  さらに今日的課題として、近代合理主義、実証主義の教育下にある現代人に対して、他方浄土に往生して、生死の迷いを離れるという浄土教をどのように伝えてゆくか。また、俗信的にとらえられがちな往生の真意をいかに伝えるかという点なども考察してゆかねばならない。また浄土教は死後の往生「後生」に救いを語って、現実の生を軽んずる傾向が強いとの批判などにも対応しなければならない。   二[出 拠]    本論代の出拠。  『仏説無量寿経』   [第十八願]の「至心信楽欲生我国…若不生者」及び[第十八願成就文]の「願生彼国、即得往生」が、本論題の正しき出拠である。  【三経をはじめ七祖・宗祖・列祖の聖教には、「往生」の語は実に多く用いられていて、一々枚挙し難い、今は主なもののみを挙げる】  [第十九願・第二十願]の「欲生我国」  『大経』[三輩段]  これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。  『大経』「其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国,自致不退転」  『大経』「必得超絶去、往生安養国、横截五悪趣、悪趣自然閉」  『大経』[胎化段]には「胎生・化生」の名目をもって往生に得失を分別しておられる。  『仏説観無量寿経』[欣浄縁]  願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし…われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへと。『観経』[上品上生]  上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。  また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す、回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。  『観経』[得益分]  世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧を得ん」と記したまへり。  『仏説阿弥陀経』  その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。  龍樹菩薩『易行品』  若し人命終の時に、彼國に生ずることを得るは、即ち無量の徳を具す、是の故に我歸命したてまつる。人能く是の佛の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る、是の故に我常に念じたてまつる。  『十二礼』  かの尊の無量方便の境には、諸趣と悪知識あることなし。往生すれば、退せずして菩提に至る。ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。  天親菩薩『浄土論』  「世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国」  「衆生所願楽・一切能満足・故我願生彼・阿弥陀仏国」  「我作論説偈・願見弥陀仏・普共諸衆生・往生安楽国」  「何等世界無・仏宝功徳宝・我願皆往生、示仏法如仏」   (最後の「何等世界無」の句は、有仏世界より無仏世界に教化に往くことを「往生」とあらわした、特異な用い方である)  曇鸞大師『往生論註』  [序題]  易行道とは、謂はく、但信仏の因縁を以て浄土に生ぜむと願ずれば、仏願力に乗じて、便ち彼の清浄の土に住生を得、仏力住持して、即ち大乗正定の聚に入る。正定は即ち是阿毘跋致なり。  [願生問答]上巻 (往生意義の論拠であるが、出拠としては全文は読まない)  問ひて曰はく、大乗経論の中に、処処に衆生は畢竟無生にして虚空のごとしと説けり。云何が天親菩薩願生と言ふや。答へて曰はく、衆生は無生にして虚空のごとしと説くに二種有り。一には、凡夫の謂ふ所のごとき実の衆生、凡夫の見る所のごとき実の生死は、此の所見の事、畢竟じて所有無きこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。二には、謂はく、諸法は因縁生の故に即ち是不生なり。所有無きこと虚空のごとし。天親菩薩の願ずる所の生は、是因縁の義なり。因縁の義の故に仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生、実の生死有りと謂ふがごときには非ざるなり。  問ひて曰はく、何の義に依りてか往生と説く。答へて曰はく、此の間の仮名人の中に於て五念門を修するに、前念は後念の与に因と作る。穢土の仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず。決定して異なるを得ず。前心後心亦是くのごとし。何を以ての故に。若し一ならば則ち因果無く、若し異ならば則ち相続に非ざればなり。是の義は一異の門を観ずる論の中に委曲なり。 [願生問答]下巻  建章に帰命無礙光如来、願生安楽国と言へり。此の中に疑有り。疑ひて言はく、生は有の本、衆累の元たり。生を棄てて生を願ず、生何ぞ尽くべきと。此の疑を釈せむが為に、是の故に彼の浄土の荘厳功徳成就を観ず。彼の浄土は是阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときには非ざることを明かすなり。  何を以て之を言ふとならば、夫法性は清浄にして畢竟無生なり。生と言ふは是得生の者の情なるのみ。生苟に無生なれば、生何ぞ尽くる所あらむ。夫の生を尽さば、上は無為能為の身を失し、下は三空不空の痼癈なり。病なり。工路の反。に$撃ネり。亡善の反。ひなむ。根敗永く亡じて号び三千を振はす。無反無復斯に於て恥を招く。夫の生の理を体する之を浄土と謂ふ。浄土の宅は所謂十七句是なり…(中略)…  問ひて曰はく、上に生は無生なりと知ると言ふは、当に是上品生の者なるべし。若し下下品の人の、十念に乗じて往生するは、豈実の生を取るに非ずや。但実の生を取らば、即ち二執に堕しなむ。一には、恐らくは往生を得ざらむ。二には、恐らくは更に生ずとも惑ひを生ぜむ。  答ふ。譬へば浄摩尼珠を、之を濁水に置けば、水即ち清浄なるがごとし。若し人、無量生死の罪濁に有りと雖も、彼の阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、之を濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅して心浄まり、即ち往生を得。  又是摩尼珠を玄黄の幣を以て裹みて、之を水に投ぐれば、水即ち玄黄にして一ら物の色のごとくなり。彼の清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠有す。無量の荘厳功徳成就の帛を以て裹みて、之を往生する所の者の心水に投ぐれば、豈生見を転じて無生の智と為すこと能はざらむや。  又氷の上に火を燃くに、火猛ければ則ち氷解く。氷解ければ則ち火滅するがごとし。彼の下品の人、法性無生を知らずと雖も、但仏名を称する力を以て往生の意を作して、彼の土に生ぜむと願ずるに、彼の土は是無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。  道綽禅師『安楽集』  第二大門・二・破異見邪執         三・広施問答(真聖全一/四〇三に『論註』の願生問答を引用)  第三大門・聖浄二門の釈がある。(一/四一〇)  善導大師『観経玄義分』  「願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国」をはじめ多数用いられている。  『法事讃』に難思議往生・雙樹林下往生・難思往生の名目が出る。  源信僧都『往生要集』序  「夫れ、往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり」  法然聖人『選択集』標宗  「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」  宗 祖  「行文類」[偈前の文]「往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」  「証文類」[標願細註]「必至滅度の願 難思議往生」  つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。  「真仏土文類」[真仮対弁]  それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり…(中略)…往生といふは、『大経』には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。以上 『論』には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」といへり。以上 また「難思議往生」といへるこれなり。…(中略)…仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりということを。  「化身土文類」[標願細註]  至心発願の願 無量寿仏観経の意なり 邪定聚の機 双樹林下往生  至心回向の願 阿弥陀経の意なり    不定聚の機 難思往生  [三願転入の文]に、生因三願と難思議往生等の三往生を対配しておられる。  『浄土文類聚鈔』  証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名づくべし。すなはちこれ清浄真実・至極畢竟無生なり。  『愚禿鈔』(類文として挙げる)  上巻[二双四重]  二超とは、一には堅超、即身是仏・即身成仏等の証果なり。 二には横超、選択本願・真実報土・即得往生なり。  二出とは、一には堅出、聖道、歴劫修行の証なり。二には横出、浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。  上巻[三経宗致]  『法事讃』に三往生あり。  一には、難思議往生は、『大経』の宗なり。  二には、双樹林下往生は、『観経』の宗なり。  三には、難思往生は、『弥陀経』の宗なり。  上巻[一乗機教]  本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文 即得往生は、後念即生なり。「即のとき必定に入る」(易行品)と。文。また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文  下巻[二種往生]  また二種の往生あり。一には即往生、 二には便往生なり。  ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生・真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。  『高僧和讃』  [天親讃]  如来浄華の聖衆は 正覺のはなより化生して 衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す  [曇鸞讃]  如来清浄本願の 無生の生なりければ 本則三三の品なれど 一二もかはることぞなき  『三経往生文類』  「大経往生」を「難思議往生」。「観経往生」を「雙樹林下往生」。「弥陀経往生」を「難思往生」と三経と三往生を対応させて、真仮を分判しておられる。  『一念多念文意』 (「即得往生」義を論ずる論拠であるが全文は読まない)  「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位(左訓・わうじやうすべきみとさだまるなり)につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。  しかれば、必至滅度の誓願を『大経』に説きたまはく、「設我得仏 国中人天不住定聚必至滅度者 不取正覚」と願じたまへり。また『経』(如来会)にのたまはく、「若我成仏国中有情若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」と誓ひたまへり。この願成就を、釈迦如来説きたまはく、「其有衆生生彼国者皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚」とのたまへり。これらの文のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚にも住して、かならず滅度に至らずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるこころなり。  またのたまはく、「もし、われ仏に成らんに、国のうちの有情、もし決定して、等正覚(左訓・まことのほとけになるべきみとなれるなり)を成りて、大涅槃(左訓・まことのほとけなり)を証せずは、仏にならじ」と誓ひたまへるなり。かくのごとく法蔵菩薩誓ひたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文のこころは、「それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚(左訓・かならずほとけとなるべきみとなれるとなり)に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり」とのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転(左訓・ほとけになるまでといふ)に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃(左訓・まことのほとけなり)にいたるべき身となるがゆゑに、「等正覚(左訓・ほとけになるべきみとさだまれるをいふなり)を成る」とも説き、「阿毘跋致(左訓・ほとけになるべきみとなるとなり)にいたる」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。  『唯信鈔文意』  『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。     三[名 義]   往生の名義。  「往」とは「復」「還」(かえる)「来」(きたる)に対して「ゆく」という意味である。  「生」とは「死」に対して「生まれる」という意味である。  「往生」とは「往いて生まれる」ことである。   聖教によると。  聖教では『漢語灯録』所収の『往生要集釈(大綱)』に、  「言往生者、(捨此往彼、蓮華化生)、草庵瞑目之間、便是蓮台結趺之程(時)。即従弥陀仏(聖衆)後、在菩薩 衆中、一念之頃得生西方極楽世界。故言往生也」(真聖全・四・三九三)  【往生と言うは(捨此往彼蓮華化生なり)。草庵に目を瞑ぐの間、すなわち是れ蓮台に趺を結ぶの程(時)なり。すなわち弥陀仏(聖聚)の後に従い、菩薩衆の中に在り、一念の頃に西方極楽世界に生ずることを得る。故に往生というなり】とある。   『漢語灯録』について。  『漢語灯録』には、元禄時代の鎮西派学匠の義山が改訂した「義山本」と、大谷派の恵空講師が書写された『古本漢語灯録』の二本が伝わっている。先の文中の( )内の字句は、義山の用語であって法然聖人の用語でない。しかし意味は誤りでないので釈名として用いる。   その意味は。  往生とは、此土(娑婆・穢土)の命を捨て彼の浄土に往きて、蓮華に化生することである。草庵に目をとじるときが、すなわち観世音の蓮台に結跏趺坐するときである。すなわち阿弥陀仏や聖衆方の後に従って、一念のあいだに西方極楽世界(浄土・彼土)に生ずることを得る。故に往生という。  この句は『法華経』「薬王菩薩本事品」の「於此命終、即往安楽世界阿弥陀仏大菩薩衆囲繞住所、生蓮華中宝座之中」【此に於て命終せば、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆に囲繞せらるる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生まれん】の経語をもとにして、浄土教的に述べられたものと思われる。  「蓮華化生」とは。  浄土に生ずることを「蓮華化生」といい、『大経』には「於七宝華中自然化生」と説かれている。すでに「蓮華化生」といわれることによって、三界流転の「四生」の中の「化生」に簡んだことであることが知られる。  三界の「四生」とは。 その「四生」とは、有情が三界に輪廻するに、その生まれ方を「胎生」「卵生」「湿生」「化生」の四種に分類したものである。  「胎生」とは人類・動物のように、胞胎より生ずるもの。  「卵生」とは鳥類・魚類のように、卵殻より生ずるもの。  「湿生」とは昔は虫類など湿気(糞聚・穢厠・腐肉・潤湿地)より生ずるもの。  「化生」とは地獄の有情・天衆・中有の有情など、所依所託(より所)なく忽然として生じ、身体直ちに長大するもののことである。  この「四生」は三界流転の生じ方を分類したもので、三界を超えた悟りの浄土への生じ方ではない。「蓮華化生」とは、浄土の蓮華に生ずるのである。   三界の「化生」に簡んだ「蓮華化生」とは。  『経』の「蓮華化生」を、『浄土論』の[眷属功徳]には「如来浄華衆、正覚華化生」【如来浄華の衆、正覚の華より化生する】といわれている。蓮華といっても単なる迷界の「蓮華」でなく、「正覚華」と喩顯されるように、如来の悟りをあらわしている。「正覚華化生」とはその悟りの境界に生まれることである。  「正覚華化生」とは。  すなわち、浄土は「正覚阿弥陀・法王善住持」といわれるように、阿弥陀如来の正覚によって住持されている悟りの境界である。したがってその浄土に生じて、如来の眷属となるとは、その「正覚」を無上法と仰ぎ、真に実現せんとする者となることである。  「正覚」の内容は、阿弥陀如来の成就された「如来清浄本願の無生の生」である。その「生即無生」の悟りの境地に至らしめられることを、「正覚華」より生ずると喩顯されたものである。したがってこの「生」は、三界迷妄の四生中の「化生」でないことは明らかである。   何故「化生」の語を用いて、浄土の「生」をあらわそうとしたのか。  すでに「正覚華化生」といわれるように「無生の生」であって、迷界の生死を超えているものである。したがって、それを四生のなかの「化生」の語を以てあらわすことは本来無理であるが、此処に死して彼方に生まれるとしか思えない者のために、三界四生の「化生」の語を借りて、「化生」が所依所託なく生じ、直ちに長大ずる意を転用して、浄土の「生」に譬えたのである。   『大経』胎化段に「胎生・化生」の語を用いられた意は如何なるものか。  『大経』の胎化段に説かれた「胎生・化生」の語も、四生の語をもって、浄土の生の「得失」を喩顯したものである。   「胎生・化生」の語をもって喩顯するとは。  元来、「胎生」「化生」ともに浄土往生をあらわした語であるから、三界虚妄の生を超えていることはいうまでもない。しかるに『大経』に「胎生・化生」の語を説かれるのは、「胎生」の語をもって、疑惑仏智の者が化土に生じたことの「失」をあらわし、「化生」の語をもって、明信仏智の者の真実報土に往生したことの「得」をあらわして、胎化によって真仮の得失を明らかにして、勧信誡疑するためである。   「胎生」によって失が、「化生」によって得が明らかになるとは。  「胎生」の語をもって、胎児が母胎に包まれて自在に活動できない状況を、化土の往生人が「かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつ」ることのできない「失」なる状況に同じ、化土往生の「為失大利」を譬え顕わしたのである。  「化生」の語も三界の四生を超えているが、四生の中では「化生」が託するものなく生じ、しかも自然に身体直ちに長大し、自在に活動することを、真実報土の往生人が「このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」と、説かれる「得」の状況を、三界の「化生」の様相に寄せて、譬え顕わされたものである。  往生の「生」と三界の「生」との相違は。  三界の流転輪廻の「生」は、生死相対した実体的な生であるのに対して、浄土への「生」は、それに超異した「無生の生」(内容的には義相で明らかにする)である。このように「生」が実体的な生死を超えているならば、「往」も彼此往来を超えた「不往の往」といわねばならない。しかれば浄土往生とは、実体的な迷いの生死を超えて、不生不滅の悟りを開くことを「往生」とあらわしたものである。     四[義 相]  (一)往生の意義   浄土へ往生するとは。  それは三界六道の実体的な生死を超えた「無生の生」である。「生」が生死・生滅を超えた「生」ならば、「往」も彼此往来を超えた「不往の往」といわねばならない。   「往生」が「無生の生」「不往の往」とは。  『往生論註』に、「往生」「願生」につてい二ヶ所に問答が設けられてある。  上巻・建章の偈の「願生安楽国」の「願生」についての問答。(一/二八三)  下巻・「観察体相章」に国土荘厳十七種の釈が終わったところで、『論』の「彼無量寿仏国土荘厳、第一義諦妙境界相…」の文を解釈するにあたって、釈疑生信の釈を設けて「願生」の実義を展開されている(一/三二七)。   「生」が無生であるとは。  『往生論註』上巻(願生問答)  問ひて曰はく、大乗経論の中に、処処に衆生は畢竟無生にして虚空のごとしと説けり。云何が天親菩薩願生と言ふや。答へて曰はく、衆生は無生にして虚空のごとしと説くに二種有り。一には、凡夫の謂ふ所のごとき実の衆生、凡夫の見る所のごとき実の生死は、此の所見の事、畢竟じて所有無きこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。二には、謂はく、諸法は因縁生の故に即ち是不生なり。所有無きこと虚空のごとし。天親菩薩の願ずる所の生は、是因縁の義なり。因縁の義の故に仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生、実の生死有りと謂ふがごときには非ざるなり。  【現代語訳】 問、大乗の経・論の中には、諸処に衆生は本来「無生」(不生不滅)であって、虚空のように有名無実のものであると説いている。それなのに天親菩薩はどうして願生といわれたのか。  答え、大乗の経論に衆生は本来「無生」であると説かれるについては二種の意義がある。 一つには、凡夫が思っているような実に衆生があり、凡夫が考えているような実に生と死があるというような考えは、つづまるところあることなくたとえば亀毛のようにないものを実際にあると誤解しているようなものである。  二には、諸法の本来のあり方を明らかにして、諸法は「因縁生」(縁って起っている。諸法(さまざまな要素)の集合態として、状況的に存在しているもので、実体として存在しているものではない)であると説かれたのである。生といっても因縁生・空なるあり方をしているものである。したがって諸法は実体的に存在しているのではないということを明らかにするために「無生」ということを説かれたのである。  天親菩薩が「願生」といわれたのは、この因縁生の義に立脚したものであって、凡夫が考えているような実の衆生が死んで生まれるというような実体的な「生」のことではない。   第一義は。  第一義は凡夫の迷見を虚妄・虚構であると否定するために「無生」といわれた。   第二義は。  第二義は諸法の本来のあり方を因縁生(無自性)であることを明らかにするために「無生」といわれた。  二義を示したのは。  「無生」とは凡夫の妄見を虚妄であると否定するためのものであるが、単に否定するのみならば、「無生」「空」は虚無になってしまって、仏道は成立しなくなる。諸法因縁生の実義を明らかにして、天親菩薩の「願生」は、この「因縁生」の義によられたものであることを明らかにするために二義をもって示された。   「生」が無生なら「往」はどうなるのか。  このように実体的な衆生・実体としての「我」「生」が否定されれば、「往」ということも成立しなくなる。「往」とは、此処から彼方に往くということである。此処と彼方とは、此処とは「私」という主体の今いるところであり、彼方とはその「私」がやがて往き着くところである。しかれば此処と彼方の両所において同一なる主体がなくては「往」ということは成立しなくなる。  往生ということが成立しなくなる。  その主体となるべき実体としての「我」、及び「生」が否定された上で、「往」ということがどのようにして成立するかを問題にするのが、次下の問答である。 問ひて曰はく、何の義に依りてか往生と説く。答へて曰はく、此の間の仮名人の中に於て五念門を修するに、前念は後念の与に因と作る。穢土の仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず。決定して異なるを得ず。前心後心亦是くのごとし。何を以ての故に。若し一ならば則ち因果無く、若し異ならば則ち相続に非ざればなり。是の義は一異の門を観ずる論の中に委曲なり。  【現代語訳】  問、(衆生が本来「不生不滅」であり、実体的な存在でないならば、その実体のないものが、どうして彼方に往きて生まれるということがいえるのか。しかればそれは)どのような義(いわれ)によって往きて生まれるというのか。  答、この間(穢土)の仮名人が、五念門行を修するについて、前念は後念に対して「因」となるといわれるように、前後・因果の関係が生じてくる。  この穢土の仮名人(五念門行の行者)が、浄土の仮名人(五功徳門の菩薩)となる。この穢土の仮名人と浄土の仮名人とにおいて、両者は決して「一(同一)」とはいえない。また決して「異(別異)」ともいえない。前心と後心の関係のようなものである。何故ならば、もし同一ならば因が果となったという「別」がいえない。もし別異ならば因が果になったという「相続」がいえない。(往生はこのように「因果相続・不一不異」のあり方で成立する)この義理は「一異」を観ずる門(『中論』)の中に詳しくあらわされている。   穢土の仮名人とは。  仮名人とは「仮に人と名づける」ということで、五蘊〈色・受・相・行・識〉の集合態としての状況を、仮に「人」と名付けたにすぎないことをあらわす語である。「人」という実体・主体が存在することを否定する語である。穢土の仮名人とは有漏の五蘊仮和合である。   浄土の仮名人とは。  浄土の仮名人も五蘊が仮和合である。但し穢土の仮名人と異なり、無漏の五蘊仮和合である。具体的には五功徳門(五果門)の菩薩のことである。   往生とは。  穢土の仮名人とは五念門行の行者であるから「因」の姿であり、浄土の仮名人は五功徳門の菩薩であるから「果」のあり方をしている。この両者の「不一不異・因果相続」なるあり方をもって「往生」といわれたのである。  往生が「不一不異・因果相続」の状況であるとは。  因が果になったのであるから不一(浄穢・別)である。  因が果になったのであるから不異(相続・一)である。  往生とは、このように「不一・不異」(一でもない・異でもない)というあり方で成立している事態である。  仮名人の因果。  穢土の仮名人(前念)・因(同類因)           (後念)・果(等流果)このかたちで仮名人は存続してゆく。  浄土の仮名人・・・・仮名人の相続は(同類因・等流果)の因果関係でつづていゆく。   穢土の仮名人が浄土の仮名人となることは。  穢土の仮名人が浄土の仮名人となることを問題にすれば、その因は五念門行である。  穢土の仮名人が五念門行(異熟因)を行じて、浄土の仮名人(五功徳門の菩薩・異熟果)となる、いわゆる異熟因果で成立する。   要するに「往生」とは。  「往生」とは、穢土の仮名人(因)が浄土の仮名人(果)になることであって、実体的に此処から彼方に往くというようなことではなく、かえってそのような実体的、分別的な人間の思考の限界を知らせ、それを超える悟りの領域のあることを知らせんとするためことばであるといえる。   それではどうして生滅を否定するようなことばを用いず、「往生」(往いて生まれる)という、実体的表現を用いられたのか。  それについては、『論註』下巻の願生問答にその意が明らかにされている。  『往生論註』下巻(願生問答)  建章に帰命無礙光如来、願生安楽国と言へり。此の中に疑有り。疑ひて言はく、生は有の本、衆累の元たり。生を棄てて生を願ず、生何ぞ尽くべきと。此の疑を釈せむが為に、是の故に彼の浄土の荘厳功徳成就を観ず。彼の浄土は是阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときには非ざることを明かすなり。 【現代語訳】  建章の偈に「帰命尽十方無碍光如来願生安楽国」といわれている。この言葉について疑問がある。その疑問というのは、(仏教の真の目的は出離生死である。しかるに)「願生」と生を願っている。此土の生を捨てて、彼土の生を願っている。そもそも「生」は迷いの根本であり、さまざまなわずらいの根元である。(その生を願えば、その生に対して死が存することになり)生死(迷い)のつきることがない。  この疑問を釈明し消去する(願生の生が三界の迷いの生ではないことを明らかにする)ために、かの安楽浄土の荘厳功徳を観察するのである。(彼の安楽国土の荘厳功徳を観察すれば)、かの浄土が阿弥陀如来の清浄本願の無生の生の境界であることが知られ、(浄土を願生することは)三界に流転するごとき、輪廻転生の「生」を願うことでないことが明らかになる。   「阿弥陀如来の清浄本願の無生の生」とは。  「清浄」とは、三厳二十九種荘厳の総徳・第一清浄功徳を意味し、般若智慧、生死・言説を超えた無分別智の領域をあらわす語である。  「本願」とは、仏第八徳の不虚作住持功徳を意味し、一々の別徳、二十八句を収める語で、無分別智に対して無分別後得智、智慧に対して慈悲の展開する言説の領域をあらわす語である。  浄土とはこのように、清浄本願・智悲・生無生相即している無上涅槃の境界である。故にその境界は「生」で語ってもそれは即無生であり、「無生」といっても即生とならないような「無生」ではない。  観察とはこのような浄土を観察することである。したがって、この浄土を願生する「生」は即「無生」であって、衆生が三界に流転するごとき輪廻転生の「生」でないことが明らかになる。  「生即無生」ならば、なおのこと「無生」の側で語らないのか。  何を以て之を言ふとならば、夫法性は清浄にして畢竟無生なり。生と言ふは是得生の者の情なるのみ。生苟に無生なれば、生何ぞ尽くる所あらむ。夫の生を尽さば、上は無為能為の身を失し、下は三空不空の痼癈なり。病なり。工路の反。に$撃ネり。亡善の反。ひなむ。根敗永く亡じて号び三千を振はす。無反無復斯に於て恥を招く。夫の生の理を体する之を浄土と謂ふ。浄土の宅は所謂十七句是なり。 【現代語訳】  何故にそのように(無生を全うじた「生」の側で)いうのか。そもそも「法性」(諸法のあり方)は、究極において虚妄分別を超えた、不生不滅の清浄なあり方をしている。(したがって、浄土に生まれるとは、本来的な「不生不滅」のあり方を悟りあらわしてゆくことである)。それを「生」という相対のことばをもってあらわしたのは、得生者の凡情に応じて(「不生不滅」の清浄なる領域を目指さしめるため)に、「生即無生」の「生」の側であらわされたのである。  このように浄土往生の「生」が「無生の生」であるならば、この「生」を否定する必要があるのか。  また、「無生」に即した「生」を語ることを否定すれば、(理・智を全うじた、事・悲の面を否定するなら)、  上は「無為能為(無為にして能く為す)」無為(無分別智)にしてよく利他を為すという慈悲の行動を失い、下は三空不空(小乗で主張する「空・無相・無願三昧」の「三空」は、本当の空ではない)、小乗という自利の一辺に執ずる病に罹ってしまう。(仏道とは本来「空・無相・無願」に即して、「無相の相・無願の願」をおこして、大菩提を実現してゆくことでなければならない)。  その状況を、小乗の聖者たちが、大乗の教法を聞いても、大乗の種子が腐ってしまっていて、菩提心の芽を発することができず、その嘆きの叫びが三千大千世界に響きわたったと説かれている。また、凡夫は仏道に退転しても「反復」することができる。しかし小乗の根性は一度おこってしまうと二度と大乗心を「反復」することができず、仏道者として恥ずべき状況となると(『維摩経』に)説かれている。  これに対して、大乗の「無生即生」(二利相即)の道理をあらわし、人々にそれを体得せしめてゆくものが浄土の荘厳相である。かかる浄土のあり方をあらわしているのが十七句である。  「往生」といわれた仏意は。  このような大乗の道理に立脚して、阿弥陀仏は本願に「生」と誓われたのである。それは「無生の生」の語をもって、実生実滅の衆生の見に応じられたものである。すなわち阿弥陀仏は無生の「生」の側をもって「往生」と誓って凡夫に応じられたのである。したがって、凡夫はそれを実生の見でとらえて「願生」する(凡夫は実生実滅の見でしか理解できない)。しかし、そのような心であっても浄土を願生するならば、「無生」に達することができると説く。  その経緯をあらわすものが以下の問答である。  その問答とは。  問ひて曰はく、上に、生は無生なりと知ると言ふは、当に是上品生の者なるべし。若し下下品の人の、十念に乗じて往生するは、豈実の生を取るに非ずや。但実の生を取らば、即ち二執に堕しなむ。一には、恐らくは往生を得ざらむ。二には、恐らくは更に生ずとも惑ひを生ぜむ。 【現代語訳】  問、上に「生即無生」という道理を悟るものは、まさに上品生者(浄土を観察して、第一義諦を悟る勝れた能力のある者)のことである。若し『観無量寿経』に説かれているように、一生造悪の下々品の凡夫が十念によって願生するのは、実生の見に執着してのことといわねばならない。  このように実生の執見にとらわれている願生ならば、二種の疑執にとらわれねばならない。一には、おそらく(そのような「実生実滅の見」を持つものは、無生の境界である)浄土に往生することはできない。二には(このように「生即無生」を知らない下品の凡夫は)、恐らく往生を得たとしても、生の惑いを生ずるであろうということである。   どのようなことか。  上品生者……生即無生を知る者  下品生者……生即無生を知らず、実生実滅の見に執ずる者  したがって、上品生者は往生できでも、下々品の者は往生できない。   往生ができない二種の理由。  @下々品の凡夫は煩悩具足、不浄の故に、清浄土に往生することはできない。  A下々品の者は、浄土を願生するといっても、それは単なる生に対する愛着にすぎない。したがって、この者はたとい浄土に往生しても、また生の惑いを生ずるであろう。(浄土に生まれても生死の迷いを離れることはできないと、難じている)    来難のとおり下々品の者は往生できないではないか。  次下に三種の譬えをもって、下々品の者の往生できる旨を明らかにされている。   第一の譬喩とは。  @の難「不得往生」に対する答え。  答ふ。譬へば浄摩尼珠を、之を濁水に置けば、水即ち清浄なるがごとし。若し人、無量生死の罪濁に有りと雖も、彼の阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、之を濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅して心浄まり、即ち往生を得。  【現代語訳】  答、たとえば浄摩尼珠を濁水に入れるならば、水が清浄になるようなものだ。若し人あって生死の罪濁があるとも、阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号(如来の無生智を全うた、大悲の本願の名号)を聞きて、これを濁心に投ずれば、念念において罪滅し心を浄化せしめられて、(往生のできる身と転ぜられ)往生を得ることができる。  これによって罪濁の凡夫であっても本願の名号(の罪滅心浄の特用)で往生を得ることができるようになると明かす。  第一喩の所顕は。  下々品生者の生死罪濁の心 ……………濁水  至極無生の名号(浄化の用を具す)………宝珠  宝珠(名号)の用きによって、濁水(生死罪濁)が浄化され、往生を得しめられる。   第二の譬喩とは。  Aの難「更生生惑」に対する答え。  又是摩尼珠を玄黄の幣を以て裹みて、之を水に投ぐれば、水即ち玄黄にして一ら物の色のごとくなり。彼の清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠有す。無量の荘厳功徳成就の帛を以て裹みて、之を往生する所の者の心水に投ぐれば、豈生見を転じて無生の智と為すこと能はざらむや。  【現代語訳】  また、摩尼珠を玄・黄の色の幣(布)をもって包み、それを水に入れるならば、水が玄・黄の色に変色するようなものである。かの浄土には阿弥陀如来という無上の宝珠が在す。その宝珠(無生の理)を無量の荘厳功徳の幣(三厳二十九種の荘厳相)で包み、それを往生者の心中に投ずれば、(無生を「生」に包み、無相を「相」に包んで、もって「生」「相」に執着することしかできない凡夫に対応するならば、摩尼珠の用で水が玄・黄の色に変じたように)、往生人の生見を転じて無生智となすことができる。  (このように凡夫は生即無生を知らずとも、浄土を願生すれば浄土の「相即無相」「生即無生」の道理によって、無生を悟らしめられるのである)    第二喩の所顕は。  往生人の見生の惑……水  無生の理………………宝珠  浄土の荘厳相…………玄黄の幣  宝珠を玄黄の幣に包んで水に入れると、宝珠の妙用によって、水が玄黄の色に変わと譬えている。  そのように「無生・無相の理」を「生・相の事」に包んで浄土とあらわし、往生人の見生の惑に対せしめると、「無生即生・理事相即」の徳用によって、見生の惑が転ぜられて、「生即無生」の理にかなわしめられる。  「生」「相」であらわす意をあきらかに。  浄土は無生を全うじた「生」(事・荘厳功徳)の側で凡夫に応じたものである。よって凡夫は実生の見ながら浄土と対することができる。ここに如来の大悲の「生」によって、凡夫の「生見」ははじめて浄土との交渉が可能となる。その浄土との交渉によって、凡夫は往生を遂げしめられ、浄土の徳によって凡夫の見生の惑は、生即無生の理にかなわしめられることができる。転ぜられる徳用は、全て如来の側にある。  第三の譬喩とは。  @Aの譬喩の意を合して答釈し、下品の凡夫が浄土に生じて、無生を証することをあらわす。  又氷の上に火を燃くに、火猛ければ則ち氷解く。氷解ければ則ち火滅するがごとし。彼の下品の人、法性無生を知らずと雖も、但仏名を称する力を以て往生の意を作して、彼の土に生ぜむと願ずるに、彼の土は是無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。  【現代語訳】  (このように罪濁にまみれ、実生の見(来世に対する愛着)をもった下品の凡夫であっても、浄土に生まれて、浄土において見生の惑を滅して、無生智にかなわしめられるということを、譬喩を以てあらわすのが氷上燃火のたとえである)  また、氷の上で火を燃やすならば、火が猛ければ氷がとけて水となり、その水によって火も消えるようなものである。  したがって、下々品の凡夫は法性の不生不滅の道理を知ることはできない、(ただ見生の惑をもつのみである)。しかし阿弥陀如来の名号を聞き、その名を称えて浄土に往生したいと願うならば、その願に応じてかの土に生ずることができる(名号の妙用によって往生を得る)。かの浄土に往生すれば、浄土は本来無生の境界であるから、そこに生まれたならば見生の惑は自ずと転ぜられて無生智となっている。  第三喩の所顕は。  煩悩……………氷  願生の信心……火  願生……………水  「氷」は煩悩を譬え、「火」は願生心を譬える。その「氷」(煩悩)の上で「火」(願生心)を燃やす。この「火」(如来の「欲生我国」の本願のことばに応じている心である。しかし未だ凡夫の見生の惑を尽くしていない心でもある)によって、煩悩の「氷」がとけ菩提の「水」となる。これすなわち凡夫に応じたもうた、如来の本願力によって往生するのである。  往生すれば「水」(菩提)となる。菩提は生滅を超えた「不生不滅」の境地であるから、当然「火」(見生の惑・生滅の見)は消える。   この願生心とは、見生の惑と同じではないのか。  見生の惑とは単なる凡夫の迷見であり、如来を拒絶する心である。それに対して願生心は、如来の本願に応じている心である。未だ見生の惑を除尽していないが、全体として煩悩・迷妄に向かう心ではない。見生の惑を具しながらも、仏語によって浄土を願い、菩提への方向をとる心である。願生心とは如来が下品の凡夫に応じたもうたことばによって、凡夫が如来に応じ、如来に順じている心である。  したがって願生心は煩悩の上におこっているが、煩悩より生じたものではない。それは如来のことばが煩悩の凡夫にとどいている心に他ならない。   如来が凡夫に応ずるとは。  如来は[生・無生]無礙の故に[無生]を全うじた[生]をもって、但差別の凡夫のために本願に[欲生我国]と誓い、[生]のことばを与えられた。この本願の[生]を凡夫の方は[死に対する生](実生の見)として対応してゆく、凡夫にはかかる受けとめ方しかできないのである。したがって、これを完全に否定してしまえば如来と凡夫の接点はなくなってしまうといわねばならない。しかし、このような(実生の見)をもって本願を受けとめても、受けとめられた本願のことばそのものは[無生の生]であるから、受けとめた者はその願力によって、[無生]にかなわしめられてゆく。   要するに「往生」と説かれた意義は。  本願の「欲生」「願生」ということばは、これをもってはじめて下品の凡夫に至るまでの、あらゆる衆生の上に出離生死が成立してゆくために誓われた大悲のことばである。   「往生」は死後のことで、現生に対して意味を持たないのでは。  「往生」とは本来「不生不滅」の悟りの境界を開かしめることばで、生死・生滅という差別の迷いを超えた領域を告げることばである。すなわち「不生不滅」「生死一如」「自他一如」の悟りの境界を告げ、凡夫に実現せしめるためのものである。  そのことばを「生」をよろこび「死」を悲しみ、「生」にのみ意義を見出し「死」を無意味としか考えることのない、凡夫・人間の死生観に立脚して考え、「往生」の教えは死後に偏っていると批判するのは、如来の「生死一如」の真実の領域のことばを、凡夫の虚妄の価値観で判断していることに他ならない。  「往生」の語によって、どのように「生死」差別の考え方が凡夫の虚妄の見であることを知り、「生死」を超えてゆくのかを考慮しなければならない…。  (二)宗祖の往生義   宗祖の往生義の特色  宗祖は真実報土に往生遂げることは即成仏であるといわれる。その意に立って、従来『大経』の「願生彼国、即得往生、住不退転…」の文をはじめ、『経』『釈』の往生説は彼土正定聚であると解釈されてきたに対して、その「正定聚」「不退転」を現生信一念の利益とされた。   そのほかには。  さらに願海真仮、三経真仮の法義に立脚して、三経所説の往生を分別して「大経往生」「観経往生」「弥陀経往生」とし、それぞれを善導大師の『法事讃』に用いられた「難思議往生」「雙樹林下往生」「難思往生」の名目をもって三経往生に配当し、三経の往生に真仮を分けられたところに、宗祖の往生義の特色がある。【『三経往生文類』・「化身土文類」標願細註】   往生即成仏とは。  宗祖にあっては、本願力廻向の行信によって、阿弥陀仏の真実報土に往生するとは、その往生がそのまま報仏の境界を悟る(成仏)ことをあらわしていることである。すなわち浄土に往生を遂げるとは、たとい短時間でも菩薩(因人)となって、その後速やかに成仏するということではない。   どこにいわれているか。  「行文類」[偈前の文]に「往生はすなはち難思議往生なり。仏土は則ち報仏報土なり」とあらわされている。また「証文類」には「必至滅度の願 難思議往生」と標挙され、その証をあらわして「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」と、あらわされている。  また、「信文類」の[横超釈]に「大願清浄の報土には品位階位をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す」とも、また『同』[便同弥勒釈]にも「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」とも釈されるように、臨終捨命の一念に、速疾平等に往生即成仏の果徳を開くと述べられている。   何故に往生が即成仏となるのか。  宗祖は如来の廻向の選択本願の行信を「大行」「大信」と讃じ、「報土の真因」(六字釈)とも、「証大涅槃の真因」(十二嘆釈)、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」(三心釈)等と釈し、涅槃の真因と釈されている。これに対する証果をあらわす「証文類」には、「必至滅度の願難思議往生」と標して、「利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」と釈定されている。さらに、「真仏土文類」には第十二願(光明無量の願)・第十三願(寿命無量の願)を標して、その土を「大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏土といふなり」と、あらわされている。  すなわち阿弥陀仏の浄土とは、無上涅槃の果界(光寿無量の報仏の境界)であって、因人の境界ではない。  したがって、この真実報土に往生するとは、すなわち報仏の自境界を悟ることに他ならない。このように浄土を果界とするから、因円満の正定聚は此土の利益とし、現生正定聚説を展開された。   『大経』の彼土正定聚の説相は。  宗祖は『大経』に見られる彼土正定聚の説相は、従因至果の菩薩でなく、仏果を極めた上から因位(菩薩)に降って、浄土を荘厳する広門示現相(従果降因の菩薩)と見てゆかれた。したがってこの菩薩は外相は因人であるが、その内徳は究竟仏果を極めた果人である。   三往生について  宗祖は「行文類」[偈前の文]に、如来の誓願に真実・方便を分別し、その真実の行信(因)によって得る往生(果)を、「往生は難思議往生なり」と述べられている。これは方便の誓願の行信が「雙樹林下往生」「難思往生」(「化身土文類」の標挙)の証果を得ることであるに対して、真・仮対配の釈相になっている。   三往生(「難思議往生」「雙樹林下往生」「難思往生」)とは。  この名目は善導大師の『法事讃』のことばに依られたものである。(『法事讃』には三往生に真仮を分ける意はなく、阿弥陀仏の浄土への往生を讃えることばであった)  それを宗祖は、三経真仮の法義に立脚し、三経に対配され、「三経往生」とされたのである。(『教行証文類』と『三経往生文類』)    三経往生と三往生との関係は。  『三経往生文類』には「大経往生」を「難思議往生」と、「観経往生」を「雙樹林下往生」と、「弥陀経往生」を「難思往生」とを、それぞれ配されている。 「三経往生」の名目は三経それぞれの「宗致」から立名し、「三往生」は「難思議往生」の名目は願因願果の不可思議から立名し、「雙樹林下往生」の名目は果の仮なる相から立名し、「難思往生」は「一字褒貶」によって立名されている。   「難思議往生」とはどのようなことか。  『三経往生文類』に、  「大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり」と、釈されている。  また『六要鈔』(二/三二〇)には、  「問。此の往生を嘆じて難思議と云、其の意如何。答。佛を不可思議光佛と號す、彼の誓願に歸して往生を得が故に往生の徳を指して難思議と云ふ、是則罪惡生死の凡夫、無有出離の縁の下機、偏に佛力に由て報法高妙の淨土に入ことを得、更に凡心の思度する所に非ず、更に口言の及べき所に非ず、是の故に嘆じて難思議と言ふ也」とも、釈されている。  大経往生とは、選択本願、他力不思議の法門をあらわすことばで、その内容からいえば、念仏往生の願因(選択本願の行信・阿弥陀如来の往相回向の真因)によって、必至滅度の願果(真実報土の往生・無上涅槃の極果)を得ることである。すなわち、因も不可思議、果も不可思議なる、他力真実の法門を難思議往生と讃えられたものである。   「雙樹林下往生」とは、  『三経往生文類』に、「観経往生といふは、修諸功徳の願により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり」と、述べられている。  観経往生とは、方便願たる第十九願の意(修諸功徳の願・要門の法義)(観経顕説の法義)を開説したものである。その因は「自力定散諸善」または「自力の念仏」であると明かし、九品の往生を勧めるものである。これは他力浄土の教えではあるが、自力を宗とした法門である。(他力真実の法門とはいえない)故に観経往生という。したがって、その益は方便化土の往生である。   何故「雙樹林下往生」といわれたか。  自力の行をもって化土に往生する人は、浄土で仏の入滅を見るところから(『安楽集』始終両益一/四一五)、釈尊の沙羅双樹下の入滅に寄せて、その果の仮なる状況から「雙樹林下往生」といわれたのである。   「難思往生」とは  『三経往生文類』に、「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難議思往生とは申さずと知るべきなり」と釈されている。  「弥陀経往生」とは、第二十願の意(植諸徳本の願・真門)(『阿弥陀経』の顕説の法義)をあらわしたものである。この法門は往生の行体として、自力万善諸行を少善としてさしおき、善本徳本の名号(他力正行)を選んでいる。しかし、名号を称する心が自力であって、如来回向の名号を自身の積み上げた善根として、浄土往生のために回向する。これ不思議の仏智を疑惑していることに他ならない。これを「法頓機漸」という。  法頓機漸とは、法は「不可思議の名号」といわれる他力正行(頓)であるが、機より自力疑心(漸)を成じている法門のことである。  法の徳号から「難思」と与え、機の「疑心」から「難思機往生」といわぬ奪って、一字褒貶して仮なる往生をあらわされた。   「難思往生」の果相は、  その証果は疑惑の罪の重く深きことをあらわさんとして、「七宝の牢獄にいましめられ…五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつ」ることのできない「胎宮にとどまる」といわれている。   『愚禿鈔』の「即往生」「便往生」   「即往生」「便往生」の名目は、もと『観経』の[上品上生]の「即便往生」の語を二種に開かれて、「即往生」は真実の法門たる真実報土の往生「大経往生・難思議往生」に配し、「便往生」は「便」の字に「権化方便」の意をうかがわれ、「観経往生・雙樹林下往生」「弥陀経往生・難思往生」の方便化土(辺地懈慢・疑城胎宮)の往生とみられ、真仮に配当せられたのである。 三経往生 三往生 報化二土 胎化得失 大経往生 難思議往生 真実報土往生 化生 即往生 観経往生 双樹林下往生 方便化土往生 胎生 便往生 弥陀経往生 難思往生  三経往生・三往生・「即往生」「便往生」といわれたときの「往生」の同異は如何。  真実報土の往生、化土往生、胎生・化生といっても、趣入の土は共に大悲の誓願に酬報した報土であるから、三界の「生」に対すれば「捨此往彼、蓮華化生」の意といわねばならない。このときは「往生」とは、迷いの境界を捨てて、悟りの浄土に生まれるということで「同」ということができる。  しかし同じ「往生」といっても、真仮対弁するときは、真実報土の往生と方便化土の往生とでは、因に真仮の別があるから、果も当然異なるといわねばならない。   どのように異なるのか。  「信文類」の[横超釈]に、「横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し、回に対する言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階位をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。」  と、釈されているように、九品の別のある化土と、品位階位をいわず、すみやかに無上正真道を超証する、究竟、平等である真実報土の往生とでは、当然別があるといわねばならない。  真実報土の往生は、すみやかに「無上涅槃の極果」「無上正真道」を超証するものであり、「生即無生」を悟る究竟の利益をあらわしている。  それに対して「迂回の善」たる自力の信行によって生ずる化土は、ただちに「無上涅槃の極果」といえず、完全に「生即無生」の理を極めた境界とはいえない。すなわち未究竟の状態といわねばならない。この未究竟をあらしめる「自力疑心」を除尽しなければ、たとい報土に生じたとしても未究竟といわねばならない。   即得往生   宗祖の即得往生の釈義。  『一念多念文意』に本願成就文の「即得往生」を釈して、現生信一念住正定聚の益とされている。  その釈相はどうか。  「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位(左訓・わうじやうすべきみとさだまるなり)につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。…と釈されている。  まず「即」を「ときをへず、日をもへだてぬなり」と、「同時即」の意によって釈され、また「即はつくといふ、その位に定まりつくといふ」と、即位の意と釈されて、「をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり」と、信一念に正定聚に住する信益同時をあらわす語と見られている。   「同時即」「異時即」とは。  「即」の用法に「異時即」と「同時即」の二種がある。  「異時即」とは、二つ以上の事柄が起こるについて、時間的には異時でありながらも、継続していることをあらわすときの用い方である。  「同時即」とは、同一時間内に二つ以上の事柄が起こっていることをあらわすときに用いる用い方である。   この文を「異時即」で見ればどうか。  「異時即」で見れば、今生に本願を信行した者が、当来に浄土に往生を遂げて、不退転に住する、当来の益をあらわす語となり、『経』『釈』伝統の理解となる。   「得」の字義は。  「得はうべきことをえたりといふ」といわれるように、完了形で述べられている。その内容を「をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり」と釈され、正定聚に住し「往生すべき身と決定する」という、現生の益をあらわす語とみられている。(「即」を同時即で見ている)   「異時即」の意で見ると。  「異時即」とあわせると、「得」は信心の行者が、当来に難思議往生の果徳が身の上に顕れることを意味し、当来往生の益を得ることをあらわす語となる。  宗祖は「即」を「同時即」とし、「得」は「決定」の意味として読んでおられる。   「往生」とはどういうことか。  「往生」を理解するに二義がある。  一義(第一義)は「往生」とは、当来の報土往生(難思議往生)のことと限る説である。  いま一義(第二義)は、現生信一念に正定聚に住することを「往生」といわれたとするものである。  第一義によると「即得往生」とは、信の一念に正定聚に住して、当来の報土往生(難思議往生)が決定する利益という意味になる。(この意味以外に「往生」ということを認めない)   「即得」は現生   「往生」は当来  『真要鈔』の「されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり」(三/一二九)と、述べられたものを拠り所とする。  第二義では現生の信一念に正定聚に住することを「往生を得る」といわれたことになる(第二義では「往生」に二種の意味を認める)。したがって、第二義では宗祖には「往生」について、二種の見方があるということになる。  第二義のときの「往生」についての二種の見方とはどのようなことか。  第一義は「難思議往生」のことで、当来の報土(安養浄土)に往生し、往生即成仏の果徳を開くことをあらわす場合である。  いま一義は本願成就文の「即得往生」の語を釈する場合である。現生信一念に正定聚の位につき定まることを「往生」といわれると見るのである。  難思議往生……当来の報土往生のこと  即得往生………信一念に正定聚に住すること  現生に正定聚に住することを「往生」という釈があるか。  『愚禿鈔』上巻に「信受本願、前念命終、即得往生、後念即生」と釈されている。この「前念命終、後念即生」の語は、もと善導大師の『往生礼讃』に用いられたことばであって、その時の意味は、娑婆のいのちの尽きるとき、その瞬間に浄土に生まれるという、速疾の往生をあらわした語であった。  それを宗祖は転用して、「信受本願」を「前念命終」とし、「即得往生」とは「後念即生」の意味であると転用された。   どのように転用されたのか。  此土に死して即時に彼土に生まれるという当来速疾の益を、現生信一念同時(即時)に正定聚に住するという意味に転ぜられたのである。   そのことを「往生」という語であらわす意図は。  「信受本願、前念命終」とは、本願を信受するとは自力心が命終することであり、「即得往生、後念即生」とは、その即時に本願海中に生まれ、摂取不捨の光益を恵まれ、正定聚、不退転に住せしめられることを「即生」といわれたのである。  本願成就文はその信一念、信益同時の利益を「即得往生 住不退転」と、説かれたと見られたのである。 往生 難思議往生 当来往生即成仏の益 果徳 即得往生 現生信一念住正定聚の益 因満  「即得往生」は、現生で往生を語ることにならないか。  現生で往生を語るといっても、「即得往生」のときは信益同時、信一念住正定聚という因円満の位に住することをあらわされたものであって、決して報土往生の果徳が顕現することを意味したものではない。  先ほどの『一念多念文意』にも、「正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり」と、釈された文中の「正定聚」の左訓に「わうじやうすべきみとさだまるなり」と記されている。その他、次下の文中にも「正定の聚に住す」には(かならずほとけとなるべきみとなれるとなり)と左訓され、「不退転」には(ほとけになるまでといふ)と、「等正覚」には(ほとけになるべきみとさだまれるをいふなり)と、「阿毘跋致」には(ほとけになるべきみとなるとなり)等と左訓しておられる。  これらに依るに、現生において「仏になるべき身となれる」とまではいわれても、決して「仏となる」とはいわれないことが知られる。   このような伝承があるか。  先のように「往生」に二義をみるについて、覚如上人の『口伝鈔』(十四条)に、「体失・不体失の往生の事」と標して、宗祖の口伝に「往生」に、身体を失して往生する「体失の往生」と、身体を失せずしての「不体失の往生」の二種の往生があると伝えておられる。   その「不体失の往生」とは。  「念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか」(三/二三)と、釈されている。  すなわち他力念仏往生の機は、臨終の善悪によらず、平生の聞信一念に往生の業事成弁することを「穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか」という意味で「不体失往生」といわれている。   「体失の往生」とはどのようなことか。  『口伝鈔』(十四条)の「体失往生」とは、善恵房証空の主張された法門であるといわれている。その内容は非本願たる諸行往生の機は、臨終の来迎によってはじめて往生の業が成弁するので、この臨終業成による利益を「体失往生」とあらわしたものであって、ここでは宗祖のいわれる難思議往生ことではない。   「命終」を二種とするのは。  覚如上人の『最要鈔』には、「身命終」と「心命終」の二種を分別されている。  「往生の心行を獲得すれば、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし。仮令身心のふたつに命終の道理あひわかるべき歟。無始よりこのかた生死に輪廻して出離をu求しならひたる迷情の自力心、本願の道理をきくところにて謙敬すれば心命のつくるときにてあらざるや。そのとき摂取不捨の益にもあづかり住正定聚のくらゐにもさだまれば、これを即得往生といふべし。善悪の生処をさだむることは心命のつくるときなり、身命のときにあらず」(三/五二)と、述べられている。  さらに存覚上人の『真要鈔』にも、さきの「身命終」に簡んで、「いまいふところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず、無始以来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「即得往生住不退転」と説きあらはさるるなり」(三/一二八)とも、釈されている。 (後は論議に譲る)