蓮如上人の生涯と事跡 浄土真宗教学研究所編 『蓮如上人』 …その教えと生涯に学ぶ… 福間光超 金龍静 著 より  T・本願寺の歴史 大谷廟堂  親鸞聖人が弘長二年十一月二十八日(一二六三年一月十六日)、九十歳で示寂されると、東山鳥辺野の北、大谷に笠塔婆のささやかなお墓が造られます。その墓所が基となってのちに本願寺へと展開することとなりました。  聖人の示寂後十年目に当たる文永九年(一二七二)、かねてより聖人の墓所としては粗末に過ぎると思っていた末娘覚信尼や関東の門弟たちは、聖人のご遺徳を顕彰するために廟堂の建立を企画します。そして大谷の西、吉水に住んでいた覚信尼夫妻の屋敷にお堂を建て、ここにお墓を移しました。これを大谷廟堂と称し、その留守職には覚信尼の子孫があたることになり、覚恵・覚如両上人に引き継がれました。 本願寺の創立  覚如上人は大谷廟堂の寺院化を目指され、「専修寺」という寺額を掲げられますが、専修念仏を嫌っていた比叡山から激しい批判をうけ、寺号を変更して本願寺とされました。この寺号は元亨元年(一三二一)二月に一遍の時衆と親鸞門流を混同しないように鎌倉幕府に提出した言上状にも見え、このころから本願寺の公称が始まったと考えられます ところで覚如上人が廟堂の寺院化を推進されたことには、次のような理由がありました。覚如上人は三度にわたって関東門弟を行化されますが、関東の門流は親鸞聖人の示寂後、およそ半世紀という時間を経るなかで、一部には俗信仰と交わり異端的な様相を呈するものも現われていました。しかもその影響は畿内や北陸にまでおよんでいました。上人はそのような状況を是正するために廟堂を寺院化して、ここを中心に各門流を統摂し、浄土真宗の興隆をはかろうとされました。 本願寺教団の不振  覚如上人による本願寺を中心とした教団の形成は順調には進みませんでした。関東には高田門徒をはじめとする親鸞聖人直弟の諸門流がありました。それらの門流は、京都の本願寺に帰属せず、独立教団的な色彩を強めていました。その結果、本願寺はおよそ一世紀にわたって低迷をつづけることになります。  蓮如上人が誕生された頃の本願寺は、さびさびとして人影がみえませんでしたが、仏光寺には人びとが群参していたといいます。仏光寺は関東の荒木門徒の系統に属する一派で、絵系図と称し信者の肖像を系図中に書き込む方法を用いて教化していました。  当時、東山大谷にあった本願寺は、こうした仏光寺の勢力に押された弱小な存在に過ぎませんでした。  蓮如上人は、このような状況の下に誕生されたわけです。 U・蓮如上人の誕生と生い立ち 誕 生  蓮如上人は応永二十二年(一四一五)二月二十五日に、京都東山の大谷本願寺で誕生されました。童名を幸亭、本名を布袋と称されました。父の本願寺第七代存如上人は二十歳で、まだ祖父の巧如上人が寺務をとっておられました。  蓮如上人の生母は、祖母(巧如上人内室)に仕えていた女性であるといわれています。生母は上人が六歳(応永二十七年)のとき本願寺を退出して、いずこともなく姿を消されたと伝えています。  母子の別れに際して鹿の子絞りの小袖を着せて描いたという「鹿子の御影」が諸寺に伝蔵されています。蓮如上人の生母を慕う心は深かったようで、後年、生母は西国の人で備後に住んでいるらしいとの噂を聞いて、使いを派遣してさがされたこともありましたが、判明しませんでした。このほか生母の出身地について「豊後」「とも」などとも伝えられています。  しかし前述のように、すでに蓮如上人の時においても生母を見出しえませんでした。上人は、生母が本願寺を退出した十二月二十八日を命日に定め、生涯にわたって法要を欠かされなかったといわれています。 継 母  生母が本願寺を去ったのち、父存如上人は如円尼を内室として迎えました。蓮如上人はこの継母如円尼によって養育されることになります。如円尼は武家の海老名氏の出身で厳格な人でした。くわえて本願寺は窮乏した経済状態にあったので、幼少にして物心両面にわたる大きな逆境に直面しなければなりませんでした。 得 度  永享三年(一四三一)夏、十七歳になった蓮如上人は、天台宗門跡寺院の青蓮院において得度をされ、法名を蓮如と名乗られます。また同時に日野一門で公家の広橋兼郷の猶子となり諱を兼寿と称されました。これらは親鸞聖人の得度や本願寺のしきたりにならったもので、真宗教義の放棄を意味するものではありませんでした。蓮如上人は宗典や浄土教典籍を中心に修学を積み重ねられることになります。 結 婚  蓮如上人は八十五歳で逝去されるまでに五人の内室を迎えられ、十三男・十四女に恵まれましたが、初婚の年月については詳らかではありません。しかし長男の順如が嘉吉二年(一四四二)上人二十八歳の時に誕生していますので、これに近い年次に結婚されたと推定しますと、当時としてはかなりの晩婚でした。内室は如了尼と称しましたが、蓮如上人が継職する前々年に四十一歳で逝去されました。如了尼との間には七人の子女があり、もっとも辛酸を味わわれた時代でした。 窮乏生活  存如上人は聖教を書写して門末に授け教化されましたが、蓮如上人は二十歳ころから、この聖教書写の仕事を手伝われています。この教化方法は、のちに蓮如上人が御文章による伝道に主体をおかれるようになるまで盛んに続けられます。この聖教書写は蓮如上人にとって宗学研鑽に役だったものと思われます。  このころ本願寺は経済的に逼迫しており、蓮如上人も着衣は絹など上等なものを持つことができず、布子・紙子を用いておられました。また食事も一椀の味噌汁をお湯でのばして親子で分けあうこともあったといわれています。  ところで蓮如上人は長男の順如だけは手もとで育てられますが、ほかの六人の子女は里子や喝食に出さなければならない状態でした。上人の六男蓮淳が伝えているところによると、二男蓮乗は禅宗南禅寺、三男蓮綱は浄土宗華開院、四男蓮誓は禅寺のそれぞれ喝食となり、二女見玉尼・三女寿尊尼は浄土宗の比丘尼に、七男蓮悟・七女祐心尼は丹波国へ里子に出されています。  このように蓮如上人は、幼少にして実母と別れ、継母に養育され、結婚以後は子供との別離という悲しい生活を経験されたのでした。  蓮如上人の人柄は、情趣に富んだ人情家的な面を持っておられましたたとえば遠路をたずねてきた門徒たちに対しては冬は熱燗・夏は冷や酒を振る舞う気遣いをされました。そのような上人の性格からすれば、窮乏生活のゆえに子供たちとともに暮らせないことは、痛恨の極みであったに違いないでしょう。 修 学  こうした苦難の青年時代に上人は、懸命に宗学の研鑽を積まれましたむろん特定の師僧のもとで学ぶことはできなかったようでした。修学の傾向としては、一般の仏教の教学を学ぶというよりは、真宗の根本聖教である『教行信証』に土台をおき、宗祖や覚如上人など先師の諸著述を書写・研鑽する方法がとられました。それはかなり広汎な分野におよんでいますが、そのなかでもとくに上人を魅了したのは『安心決定鈔』でした。読み破れたため三度も本を取り替えられたといいます。宗祖の『教行信証』や存覚上人の『六要鈔』も表紙が破れるほど読破し、研鑽を積み重ねてゆかれたのでした。  こうした真摯な聖教の研鑽は、窮乏生活を余儀なくされている蓮如上人にとって容易ではありませんでした。灯火用の油を買うことができないので月明りを利用して読書をされなければならないほどでした。  若年時代からつづけられていたこれらの研鑽が、のちに御文章伝道の基礎になったことはいうまでもありません。 V・継職と伝道の開始 継 職  康正三年(一四五七)六月、蓮如上人四十三歳の時、第七代存如上人が示寂されました。この葬儀をとりしきったのは異母弟の応玄でした葬儀の中心者となることは次代の継職者であることを予告する意味を持っていました。応玄は継母如円尼の長子であり、蓮如上人より十八歳も若かったのですが、すでに二十五歳の成人に達していたので後継者としてなんの不足もありませんでした。このため本願寺の一家衆・御内衆・坊主衆たちは、いずれも応玄の継職の動きを当然のこととして受け止めなんらの異議もさしはさまなかったのです。  ところが、存如上人の弟、蓮如上人の叔父にあたる如乗がただひとり蓮如上人への譲状があり、本願寺第八代は蓮如上人であるべきだと主張しました。如乗は越中国井波の瑞泉寺住持になっており、また加賀国二俣に本泉寺を建立しました。さらに如乗は、越前・加賀に点在していた興行寺系一族を代表する地位にあったので、当時の本願寺内においては、強い発言力を持っていました。このため応玄の継職は中止となり、かわって蓮如上人の継職となったのです。  蓮如上人がまっ先に頼りにされたのは、近江堅田・金森・赤野井など琵琶湖周辺の門徒でしたが、彼らが当初から本願寺に帰依していたかどうかは疑問です。たとえば堅田門徒の代表者である法住は、初めは仏光寺に参詣し、のち本願寺に帰依したという経緯の持ち主でした。一般に当時の寺と門徒との関係は固定的・不変的なものではなかったと考えられます。  ところで蓮如上人は、宝徳元年(一四四九)三十五歳の時、存如上人に伴われて北陸地方の教化の旅に出られ、加賀国木越の性乗(光徳寺)に『三帖和讃』・『安心決定鈔』を書写して授けたのち、東国の親鸞聖人の遺跡を廻られています。本願寺の継職者が聖人遺跡を巡拝することは覚如上人以来の慣行となっていたので、存如上人は蓮如上人を後継者と考えられておられたのでしょう。 祖意にかえる  遺跡巡拝において上人は、宗祖をしのびつつ、その法灯を顕彰する決意を固められたことと思われます。  上人以前の本願寺は天台宗化することによって、その命脈を保ってきました。そのため浄土真宗にそぐわない風潮が目立ってきていました。上人はそうした風潮の改革を断行されたのでした。  たとえば、本願寺では堂内を上下二段に区切り、仏前の脇に竹を一尺(三〇センチ)ほどに切って積んで置き、法談のとき、下壇で眠る人をその竹を投げつけて眼をさまさせるというような、ずいぶん乱暴なことをしていました。上人は、こうした伝道姿勢を改め、上下の区別を廃し「身をすてて平座にてみなと同座するは、聖人の仰せに、四海の信心のひとは、みな兄弟と仰られたれば、われもそのおことばのごとくなり」と、宗祖の御同朋御同行のお心にそった伝道を行われました。  また、上人は本願寺や門末に安置されていた絵像や木像などで、浄土真宗としてふさわしくないと判断された本尊を焼却するというたいへん思いきった手段をとられました。上人のとられた激しい行為に対し、比叡山衆徒や、同宗旨の高田専修寺から厳しい批判の声があびせられました。ついに比叡山衆徒による本願寺破却という悲劇を招くことになります。  しかし、結果論からすれば、当時の真宗教団にとって、こうした思いきった治療法が効果的であったといえます。この蓮如上人の荒療治によって、親鸞聖人の教えは、ひろく人びとの手に渡されたからです。 お 名 号  継職後の蓮如上人は、従来の聖教の授与に加えて、あらたにお名号や御文章の授与を開始されます。  蓮如上人は、先にも述べたように非真宗的であると判断された本尊を排除し、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」といわれて、お名号を本尊とすべきことを強調されました。そして「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を本尊として授与されました。このご本尊は紺色の絹布に金泥の篭文字でもって十字名号を書き、それに四十八条の光明と蓮台を添えお名号の上下に讃文をしるす色紙を貼り付けた、きわめて華麗なもので無碍光本尊と称されました。この無碍光本尊の授与は、長録三年(一四五九)頃より始まるようですが、その後、近江野洲南郡中村西道場の西願同国金森妙道、同国山家の道乗、同国荒見の性妙、同国堅田の法住、同国野地の円実、同手原の道悟など近江門徒に相次いで授けられています。  これらのお名号は道場に安置され、村落の同信の人びとがそこに結集し、本願寺門徒としての意識を高揚させていったのでした。比叡山の膝元である琵琶湖周辺の人びとのこのような動向に対して、山上の衆徒たちは無碍光衆の邪徒であるという批判を行うようになります。もともと国家体制と一体化して展開してきた仏教教団においては、真宗が唱えた「専修」「無碍」などの教説を排他的な考え方であるとして忌嫌ってきた伝統がありました。  このため蓮如上人は無益の刺激を避けるために、無碍光本尊の授与を中止し、白紙にお名号を墨書したものへと変更されました。今日まで伝えられている蓮如上人筆跡のお名号は少なくありません。それらの多くは草書体の六字名号です。上人はこの六字名号を一日に数百幅も書かれたこともあるといわれています。  こうして上人は、そのご生涯にぼう大な数量のお名号をお授けになりました。上人ご自身も自分ほど多くお名号を書いた人は他にいないだろうといっておられます。もっとも上人は、「本尊名号を以て、身を七重八重にまといたりとも、信をえずば、仏にはなり候まじく候」とも述べられ、信心正因・称名報恩の宗義を堅持するよう戒められています。 御 文 章  つぎに蓮如上人の教化の大きな特徴としてあげられるものに御文章による伝道があります。御文章とは真宗の法語書簡であり、その始源が親鸞聖人にあることは広く知られているところです。また最近、様式的には蓮如上人の時代より前に流布していた談義本の一種に近似していることが指摘されてもいます。このことには、蓮如上人が真宗聖教ばかりでなく、広く世間に流布している諸本にも目を向けられていたことをうかがわせるものがあります。  最初の御文章は、継職後四年目の寛正二年(一四六一)に近江金森の道西(善従)の要請によって書きしるされました。いわゆる「お筆始めの御文章」とよばれています。これ以後、八十五歳で示寂される前年まで出された御文章の総数は厖大なものであったと考えられます。  蓮如上人の御文章伝道が大々的に展開されるようになるのは、文明三年(一四七一)に越前吉崎に赴かれて以降のことです。それ以前の大谷本願寺・近江国転住のころは、比叡山との確執が相次ぎ、安住をえられない状況にあり、御文章の作成数はきわめて少ない状況です。また内容的には法義を説くことのみに限定されています。  ところが吉崎に居を構えられて以降は頻繁に御文章を書かれるようになり、内容は法義のみでなく、現実の教団の状況、門徒の信仰生活のありよう、ひいては坊主批判にいたるまで、きわめて具体的・現実的な問題に触れられたものが多くなっています。  その理由は、吉崎においては短期間のうちに多数の信者が帰参し、それらの人びとをどのように指導し、統制して行くべきかという大きな問題に直面しなければならなかったためと思われます。  さて、周知のように御文章には宗義がきわめて簡潔・明瞭に説かれ、いわゆる「信心正因・称名報恩」の教えが一貫しています。蓮如上人は親鸞聖人の宗義を「千の物を百に選ひ、百の物を十に選はれ、十の物を一」にえりすぐったといわれていますが、それは青年時代より宗義を懸命に学んだ成果のあらわれでもありました。  要旨を簡明に説くことは、全体の掌握が充分になされていないと不可能ですが、上人はあらゆる立場の人びとに宗義を自在に、しかも簡明に説くことができたのでした。この結果、北陸のさまざまな人びとは、御文章で説かれる宗義を熱狂的に歓迎し、吉崎の上人のもとへなだれ込んで行ったと考えられます。 「正信偈和讃」の開版  蓮如上人は吉崎に滞留中の文明五年(一四七三)、それまで別個のものであった「正信偈」(親鸞聖人の『教行信証』行文類にある「正信念仏偈」)と「和讃」(『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』)を合体させて「正信偈和讃」四帖に編集し、開版されました。広く知られているように「正信偈和讃」は、今日の真宗門徒に最も親しまれ、日常の勤行の中心となっています。  この編集の前提には、蓮如上人の再三にわたる『教行信証』の研鑽があり、その結果、主意を表わしている箇所が「正信念仏偈」であるとの認識に至られたものと推察できます。その研鑽のあとは『六要鈔』などを参考にして編集された『正信偈註』『正信偈註釈』にみられるほか、蓮如上人の唯一の著述が『正信偈大意』であることによっても明らかです。とくに『正信偈大意』は言葉を和らげてやさしく説くことに留意され、またいかなる悪人でも真実報土に平等に往生をとげる教えとして讃嘆されています。この『正信偈大意』は、継職の三年後の長録四年(一四六〇)に近江金森の道西へ授与されており、蓮如上人がはやくから「正信念仏偈」に注目されていたことがうかがわれます。  従来の本願寺の勤行は、浄土宗系教団で用いられていた善導大師の『往生礼讃偈』、すなわち「六時礼讃偈」を唱えていましたが、文明の初めごろにこれをとりやめ、「正信偈和讃」の依用へと変更されたのでしたこの変更は、内容的に見ると来世の浄土往生を願うことに主体をおいた儀礼から、正信に主体をおいた儀礼への変更を意味しています。また、「正信偈和讃」は、読誦するのが難しい「六時礼讃偈」と異なり人びとに親しみやすいものであったため、将来、門徒が直接儀礼に参加できる端緒を開くことになりました。 寄合・談合  蓮如上人は、日頃から「門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるるなり」などと語られ、門徒の幸せと自己の幸せを切り離されることはありませんでした。こうした立場からの教化によって人びとの心をとらえられました。  当時の農民は、領主による支配を弱め、村落の自立化をおしすすめていました。村落には長・年寄などとよばれた指導者がおり、彼らを軸に村落間の横の連係も強化されつつありました。蓮如上人の教えは、こうした村落の人びとに受け入れられていったので、村ぐるみ門徒化する所まで出てきました。蓮如上人もこのことは認識されていたようであり、村落における長・年寄・坊主を「正信」にもとづかせるならば、村ぐるみ門徒にしたと同然である、と述べられています。  また当時の村落や地域社会においては、政治的指導者の長・年寄が同時に宗教的指導者(坊主)となる場合が少なくありませんでした。このような坊主は、のちに「毛坊主」と呼ばれています。村落に真宗の教えが定着してくると「毛坊主」を中心として村道場をつくり、毎月一定の日を決めて法座を開くようになりました。  このようにして広がっていく各地の門徒に対して、蓮如上人は寄合による念仏の相続をすすめられました。それは宗教行事をとりしきり、教化にあたる坊主が、深く教義や信心に通じている者ばかりとはいえず、中には不十分な人びともいたからです。蓮如上人は文明五年(一四七三)吉崎において書かれた御文章に、坊主の信心が門徒の信心よりも劣ることを厳しく批判されていますが、それ以降も再三にわたって坊主批判を繰り返されています。坊主分の中には、在地の権力者クラスの者もおり門徒を人身的に従属させたり、あるいは恣意的な説教をおしつけたりするケースもありました。このようなことから上人は、寄合による談合によって門徒の信心を確実なものにされようとしたのでした。  蓮如上人は、この寄合の場においては、信心の問題はどのようにささいな疑問であっても談合に付して、納得がいくまで話し合わなければならないことを勧められ、また「物を申さぬ者はをそろしき」とまでいわれています。このようにして、門徒たちは毎月の寄合において信心にいて語り合い、また報恩講においては「改悔」と称する信心の在りようを表明・告白する談義が行われるようになりました。御文章は、このような寄合・改悔の時の大きな指針となりました。 寛正の法難  継職八年後の寛正六年(一四六五)正月と三月の二回にわたり、大谷本願寺は比叡山衆徒の襲撃をうけて破壊されました。先に述べましたように、蓮如上人は、教団内の天台宗的色彩の除去につとめられましたので、比叡山衆徒の反感を買いました。さらに比叡山膝下の近江地方の人びとの真宗門徒化が急速な勢いで進んでいました。このころ近江国や山城国においては土一揆が頻発し、しかもその規模は広域的な様相を示すまでになっていました。こうした中にあって近江の堅田・赤野井・金森門徒たちは、蓮如上人の教えを受け、新たな結束を強めていました。比叡山は、荘園領主として、また宗教的権力者として、このような事態をきわめて憂慮し、憤りを強めていきました。  比叡山衆徒は大谷本願寺の攻撃に先立って決議文を発しましたが、それによると蓮如上人の教えをうけた門徒は、無碍光衆と称して村々において党を結び群をなし、仏像・経巻を焼き、神仏をないがしろにするなど、放逸の悪行を重ねている、と批判しています。これらは眼下に展開する本願寺門徒の伸張を支配者の立場からきわめて嫌悪な気持ちでうけとめていたことを示しています。  このようにして大谷本願寺の坊舎は破却されるにおよびましたが、その後に紆余曲折を経て比叡山衆徒と本願寺とは和解するに至ります。この時に蓮如上人に帰依した三河国佐々木上宮寺門徒と近江国堅田門徒が協力して銭を調達し、延暦寺へ納めたということです。  しかし金銭を納めることによって、根本的な対立関係が解消したわけではありません。この後、近江の諸門徒はしばしば比叡山衆徒と合戦をくりかえし、比叡山と本願寺教団との緊張は深まって行きました。  比叡山衆徒の本願寺破却によって、御影堂に安置していた宗祖親鸞聖人のご影像(祖像)は、いったん室町へ移され、それから金宝寺へ、また壬生へと京都の町中を転々と移ったのち、近江栗太郡安養寺村の幸子坊の道場に移座されました。それ以来、近江の諸門徒の間を移座されることとなりました。ところが近江国も安泰ではありませんでした。寛正六年四月から八月にかけては赤野井門徒が比叡山衆徒と対立し、ついで応仁二年(一四六八)三月には、いわゆる「堅田大責め」とよばれる堅田衆と比叡山衆徒との激戦が交わされます。  祖像は堅田から大津の外戸の道覚の道場に移座し、ついで三井寺境内南別所の近松に坊舎(顕証寺)を営み、そこに安置されました。三井寺が天台宗であるにもかかわらず、その境内地に坊舎の建立と祖像の安置を許したのは、同境内塔中満徳院の配慮によってでした。延暦寺と三井寺は平安時代に抗争分裂して以降、対立状態が続いており、しかも三井寺も僧兵を擁していましたので容易には攻撃をうけない安全な場所でした。  文明元年(一四六九)上人が祖像を近松坊舎に移座されたころ、京都は応仁・文明の乱で騒然とし、多数の人びとが難を避けて地方に移り住んでいました。文明二年十二月、上人の内室蓮祐尼が死去されました。上人は、その失意から立ち直る意味もあってか、五年余にわたって在住された近江国から越前国吉崎へと移住されることとなります。 W・吉崎坊舎の発展 吉崎へ移住  文明三年(一四七一)四月、蓮如上人は北陸教化の旅に出られ、越前国坂井郡細呂宜郷吉崎に坊舎を建立されることを思い立たれました。吉崎は越前国と加賀国の国境に位置し、虎狼が徘徊するような地と称され三方が日本海と北潟湖で囲まれた丘陵地でした。  大谷本願寺が破却されて以来、蓮如上人は比叡山の圧迫に幾多の辛酸をなめられてきましたが、さらに応仁の乱以降は領主・土豪たちの下剋上の気風はますます盛んとなりつつあったので、民衆を基盤とした教団形成の道を歩むうえには、よほどの政治的配慮が必要であると考えられたと思われます。  このような意味あいからすれば、吉崎の地は要塞を兼ね備えた地形でしかも本願寺一門の寺院が点在し、それらの寺院の基盤が拡大しつつある越中・加賀・越前国などと連係ができる位置にもありました。  そのうえ好都合なことに吉崎は、奈良興福寺大乗院の所領で、当時の大乗院住持経覚の母は本願寺の出身でした。経覚と本願寺との関係は、すでに存如上人の時より交渉がなされており、蓮如上人は一度ならず経覚を訪ねて奈良に出向かれ、また経覚は大谷本願寺破却のおり、蓮如上人の安否を気遣うなどの間柄でした。 吉崎坊舎の発展  蓮如上人が北陸におもむかれて三カ月もたたない文明三年(一四七一)七月、吉崎の山上に坊舎が建立されました。このことは第五代綽如上人のとき以来つづけられてきた北陸教化が思いのほか浸透していたことを想定させるものがあります。翌年一月に書かれた御文章によると、ただ阿弥陀仏に帰依することしか説かないのに、辺鄙な吉崎の坊舎へ毎日万を越える参詣者が押し寄せる状態となり、念仏の力の偉大さに驚嘆するばかりである、と語られています。このように吉崎の発展はきわめて急速でしたが、そこには蓮如上人の教えに北陸の人びとの大きな期待が寄せられたことをうかがい知ることができます。  吉崎の山上には一年もたたないうちに、御堂と多屋がたちならび、山下には商いをする家も建てられ、寺内町の景観を呈するようになりました。多屋は、各地から参詣する門徒が宿泊し聞法する施設でした。  このような吉崎の繁昌は、蓮如上人にとってまことに喜ばしいことでしたが、反面、憂慮すべき問題も生じてきました。北陸地方には白山社の系統に属する平泉寺など有力な寺社勢力が点在しており、また、農民が結束して年貢未進や領主に対する闘争を断続的に行っていました。「守護・地頭」と称される領主勢力や旧来の寺社勢力は、北陸の人びとが大挙して吉崎に参集することをきわめて危険で不穏な行動と見なし、吉崎に圧力を加えようとしていました。このため蓮如上人は、一時に多数で群参することを禁止しなければなりませんでした。 領主の圧迫  応仁・文明の乱における東西両軍の衝突は地方に波及し、加賀では守護富樫幸千代勢(西軍)と富樫政親勢(東軍)が、越前では朝倉勢(東軍)と甲斐勢(西軍)が、国内の支配権の掌握をめざして激戦を交えていました。加賀・越前の両国の国境沿いの吉崎は、戦場のただ中に存在していたことになります。東西の両勢力は、吉崎の本願寺門徒の動向に神経をとがらせていました。  このような状況下の文明五年(一四七三)十月、多屋衆は仏法を害する者に対しては、一命を賭しても仏法を守るべきことを決議しました。多屋衆の背景には数しれぬ門徒群がおり、決意表明は重大な意味を持っていました。この多屋衆決議文は、御文章と同様な扱いがなされており事実、文面に上人自身の言葉と思われる箇所がみうけられるので、おそらく上人が多屋衆の意志をふまえて作成されたものと推測されていますこの決議文には、自分たちはまったく所領を得ようとする政治的意図はなく、ひとえに仏法を守るためであることを明らかにしています。  このころ、室町幕府の内乱や荘園支配の弛緩などによって、農村では長・年寄を中心に横の関係を強化した、いわゆる惣村・惣郷を形成し、自衛・自立化への道をはかりつつありました。蓮如上人の北陸での教化は、このような惣村・惣郷の人びとを基盤にして、彼らのよりどころとなる教団形成を目指されたのでした。 掟  蓮如上人は、多屋衆が決議文を提示した翌月、すなわち文明五年十一月、門徒の反領主行動などを戒めた「掟」を公示されました。その内容は、諸神・諸仏・諸菩薩を粗略にあつかわないこと、守護・地頭などの支配者の命令を軽視しないこと、他宗を誹謗しないこと、むやみに我執の主張や振る舞いをしないこと、安心決定していないのに人の言葉に乗じて法門讃嘆しないこと、などの十一箇条からなっています。また罰則としては、この制法に背く者を「衆中」から退出させることが定められています。  この「掟」は、「多屋衆決議文」と同様に漢文体で書かれ、和文体で書状形式の御文章とは異なっていますが、それはおそらく吉崎寺内の多屋衆を対象として提示されたからと思われます。この制法の主眼点は、政治的・社会的に反感を受ける行為を禁止することにありますが、当時の状況からすれば、領主側の抑圧を回避し教団と門徒の安全をはかろうとされたものに他なりません。  蓮如上人が危惧された要素は、多屋衆のみではなく、広く一般門徒の中にもありました。この後、上人が書かれた御文章には、法語とともに「掟」のことがしばしば述べられています。このようにして門徒の社会生活における規制を求められましたが、しかしその一方で、「内心に安心を深く蓄えるように」と必ず記されていることを忘れてはなりません文明七年五月、蓮如上人は吉崎を退出する直前に出された御文章において、「掟」の要旨を十項目にとりまとめ、門徒に遵守を求められ、次のように語られています。  自分はここ吉崎において、人びととともに真実報土の往生を遂げるために、心静かに念仏の道を求めたいと思っていたが、今生は乱世のため思うにまかせない。先般は加賀の武士が吉崎を攻撃しようとしたが、多屋衆の支えによってようやく無事に過ごしている次第である。このような世相のなかにあって無事に念仏相続するために「掟」を守らなければならない、というものでした。  蓮如上人のお言葉の中には、人びとと一体になり念仏を相続することが最大の幸せであり、そのために教化者としての人生を歩んでいる、という信念を読みとることができます。吉崎坊舎が崩壊し、門徒が破滅に迫い込まれたならば、念仏の断絶となり、ひいては人びとの真の幸せを剥奪することとなります。  北陸の人びとは、必ずしも蓮如上人の「掟」に従うことができず、加賀では一揆が発生しました。しかし、上人の気持ちを理解することができたので、上人に対する信頼感は深まる一方でした。 X・加賀一向一揆の勃発 北陸門徒と一揆  加賀の守護大名であった富樫氏は、兄政親と弟幸千代が国内の支配をめぐって対立していました。政親はいち早く蓮如上人のもとに帰参した加賀・越前・能登の門徒に接近し、幸千代を追放したのちに本願寺門徒を保護することを交換条件に、味方にひきいれます。また蓮如上人の側近の弟子安芸蓮崇は、上人の意志に反して野望を抱き富樫氏の紛争に積極的に介入しようとしました。  このようにして文明六年(一四七四)七月には、ついに戦闘が開始されました。政親側に本願寺門徒が加担したのに対して、幸千代側は高田門徒を味方としたので、真宗門徒同志の戦いの様相を呈しましたが、本願寺門徒の勢力は圧倒的に優勢でした。それは蓮如上人の教化の影響により、村ぐるみ門徒化した地域が多かったうえに、それら門徒群を組織化する坊主・国侍など在地指導者がいたからです。このような土着勢力の結集の仕方は、のちに「組」「郡」などと呼ばれる組織として成長し、加賀の門徒領国を形成する基盤となったのです。  この戦いは本願寺門徒の加担を得た政親側が圧倒的な勝利をおさめ、同年内には政親は加賀の政治的支配権を掌中に収めることができましたところでこの戦いは政親を旗印にしたとはいえ、主導権は本願寺門徒の側にあり、加賀国における本願寺門徒の政治的・社会的立場は急速に成長するところとなりました。それとともに国内における年貢未進の状況はますます増強して行きました。  このような本願寺門徒の勢いをみせつけられた政親は、前に本願寺教団の発展と保護を約束したにもかかわらず、抑圧的な行動を示すようになります。このため翌年三月には政親軍と門徒軍の間で一戦が生じるありさまでした。十一年後の長享二年(一四八八)六月には、ついに北陸門徒は政親を滅亡させました。そうしてやがて加賀一国は、「郡」代表と「坊主」代表の合議によって統治される、いわゆる「門徒領国」となってゆきました。世間では「百姓の持たる国」と評しましたが、このようなことは日本の歴史上ではじめてのことでした。 一向一揆と蓮如上人  先に述べましたように蓮如上人は、本願寺と仏法の危機に際し、多屋衆の意見に賛同して領主に対する抵抗を決意したことがありましたが、基本的には一向一揆をおこすことには反対でした。加賀受得寺の栄玄の記した『栄玄聞書』によると、上人は武士・侍は「法敵」に等しい者と考えられていたようです。むろんここで示されている武士とは、農民と一体化し門徒となっているような地侍を指しているのではなく、領主権力につながる武士階層のことです。戦国期の農民は一貫してこうした武士権力には抵抗の姿勢をもちつづけますが、その点においては蓮如上人も変わることはありませんでした。  しかし、一向一揆の指導者である坊主や地侍のなかには、農民が圧倒的に支持している一向宗を利用して、自己の権力を拡大させたり、有力な大名の被官となり、侍としての地位を向上させようとする者も少なくありませんでした。このような性格のもとに引き起こされた一向一揆は結局は本願寺や門徒を戦国の争乱に引き込むことにしかなりませんでした。蓮如上人は、いたずらに反領主行動に走ることが、本願寺や門徒に決してよい結果をもたらさないことを近江や吉崎においてしばしば体験されていたからです。  文明五年十月に多屋衆が戦闘の不穏な動向を示した時に、一時、蓮如上人は本願寺の縁故寺院である越前藤島の超勝寺に身を寄せたこともありましたが、その後、反領主的行為を戒めた掟や御文章を頻発して一向一揆の抑止に努められたのです。 吉崎の退出  文明六年になると加賀国の守護富樫家の内紛が目立つようになりました。蓮如上人の憂慮にもかかわらず、門徒の一部にはこの内紛に乗じて戦闘行動に出ようとする動きもみられました。また同年三月には門前の多屋から出火して本坊や多屋を焼失、同年七月にはついに加賀一向一揆が生じるなど、大事件が相次ぎます。  このため蓮如上人は、東国地方の教化の旅に出ることを思い立たれ、翌七年七月に加賀二俣・越中瑞泉寺を経由して出向をはかられました。しかしその途次の蓮如上人のもとに多数の地方門徒が参集し、諸国の領主の誤解を招く恐れも生じ、東国下向を中止せざるをえませんでした。このように緊迫した北陸地方の政治状況は、蓮如上人の教化の自由をも阻害するものがありました。このため蓮如上人は、文明三年以来、四年数カ月にわたって居住された吉崎を退去することを決意され、翌八月に若狭小浜・丹波・摂津を経由し、年末までには河内国出口村へと移られたのです。現在の光善寺がその遺跡ですが、この地は摂津・河内・和泉・大和への交通の要所にあたり、教化活動でも重要な箇所と思われたのでしょう。この地域には、吉崎に赴く前年の文明二年に教化を施されたこともありました。  蓮如上人が出口へ移られた翌年には摂津富田に坊舎(教行寺)ができたほか、堺に信証院(現在の堺西別院)が建立されています。とくに商業都市として繁栄のきざしをみせていた堺は、蓮如上人の印象に深く刻み込まれていたのでしょう。 Y・山科本願寺の建立 寺地の寄進  文明十年(一四七八)正月、本願寺を再建するため蓮如上人は京都近郊の山科に移住されました。このことを思い立たれたのは、近江国金森の古くからの門弟である善従の進言により、山科の土豪海老名五郎左衛門(のち法名浄乗、西宗寺開祖)が野村西中路の地の寄進を申し出たからでした。思えば蓮如上人は大谷本願寺が比叡山衆徒によって破却されて以降、十三年間の永きにわたって、畿内・北陸の各地を転々としておられたわけで、ここに再び本願寺の本拠が確立できることは大きな喜びであったと思われます。ところで、この地の領主は醍醐寺の三宝院でしたが、当時、三宝院門跡には将軍足利義政の子義覚が就任していました。蓮如上人の四女妙宗は左京大夫局と称して義政に仕えており、また義政の妻日野富子は、同族の系流として本願寺に好意を寄せていましたので、支配関係の上からは安全な場所でした。こうした好条件の地を得た蓮如上人は、直ちに本願寺の建立に取りかかられることとなりました。 諸堂の建立  はじめに堺に建っていた信証院の建物を移築し、ここを仮住いとして寝殿の建築から始められます。翌十二年八月には念願の御影堂が完成し十一月には大津近松に預けてあった祖像を遷座して報恩講を勤めることができました。蓮如上人の喜びは一様ではなく、興奮のあまり夜も寝つくことができなかったと、その喜びの気持ちを御文章で表明されています。  山科本願寺の誕生によって朝廷より祝福の香炉が贈られたり、将軍家の日野富子が訪れたりするなど、前代未聞の出来事も生じました。御影堂がよほど秀美であったことにもよるでしょうが、蓮如上人の長期にわたる教化によって組織化された人びとの勢力が、社会的に承認されたことを意味していました。  この後、文明十三年には、大門が建ち、つづいて阿弥陀堂の建築が開始され、諸堂舎の建立、内部の装飾や堀・庭園なども造作が行われ、同十五年ころには大体の完成をみることができました。  山科本願寺は、以前の大谷本願寺と比較しても、はるかに巨大で立派なもので、世間の注目を集めました。蓮如上人がご往生されて以後のことですが、公家の鷲尾隆康の日記には、さながら極楽浄土を再現したようであると記されています。  ところで、本願寺教団はやがて戦国の争乱に巻き込まれ、山科本願寺は天文元年(一五三二)第十代証如上人の時、六角定頼らの攻撃をうけて焼失してしまいました。したがってその荘厳・優美を誇った山科本願寺はおよそ半世紀をもって終焉したわけです。 真宗諸派の帰参  山科本願寺の建立を始めたころの蓮如上人は六十四歳で、門主になられて二十年を経過していました。この間、幾多の困難を克服して地方教化につくされたこともあり、本願寺門徒はかなり拡大していました。とくに畿内・北陸・東海地方には熱心な門徒たちが輩出していました。また、いまだ門徒化していない人びとの中にも、蓮如上人の名声を聞き帰参を願う者も少なくなかったと思われます。村落の自立をはかっていた人びとには精神的な支えが必要であったのです。  このような中にあって本願寺の本拠が確立されると、大挙して門徒になることを願い出る動きが生じてきました。その筆頭にあげられるのが仏光寺経豪の帰参です。仏光寺は南北朝時代に京都に進出して以来、絵系図を用いた教化により大きく発展し、その勢力は畿内はいうにおよばず中国・四国・九州地方にまでおよんでいました。ところが応仁の乱の戦禍からのがれ、寺基を摂津平野に移しました。文明元年(一四六九)経豪が仏光寺を継ぐと、蓮如上人に親近し、本願寺への帰参をはかります。同十年(一四七八)ころには両者の関係が緊密となりました。こうした状況をかねてよりこころよく思っていなかった比叡山は、文明十三年、十四年の両度にわたり経豪追放の決議を行い、門跡の妙法院や幕府管領畠山氏にその執行をうながしました。これを契機に経豪は多数の門徒をひきつれて本願寺に帰参しました。  蓮如上人は、経豪に蓮教という法名と興正寺の寺号を授けられました現在、本願寺に隣接する興正寺がそれです。  つづいて文明十四年ころ、越前に展開していた出雲路派毫摂寺(当時越前証誠寺に寓居)住持の善鎮が帰参し、蓮如上人から正闡坊の坊号を賜ります。また明応二年(一四九三)には近江・伊賀・伊勢・大和地方に勢力をもっていた錦織寺住持の勝慧が帰参し、勝林坊の坊号を下されています。  このように山科本願寺が成立して以降、真宗諸派の一派本山の住持が相次いで多数の門徒とともに帰参し、本願寺は全国的な大教団へと発展しました。 Z・大坂御坊の建立とご往生 引 退  蓮如上人は五十四歳の時、応仁二年(一四六八)三月二十八日に譲状を書かれ、嗣法(後継者)に光養丸(実如上人)を指名されました。譲状を書かれた翌日の三月二十九日には先に述べました「堅田大責め」が開始されます。こうした戦雲ただならぬなか、上人は身の危険を感じられて後継者を指名されたのかも知れません。あるいはまた、それから間もなく東国の宗祖遺跡を巡る旅に出発されますので、そのための措置とも考えられます。はじめ蓮如上人は、長男の順如を嗣法にされようとしましたが、当時二十六歳の順如にはその意志がなく、結局、その時の内室蓮祐尼の第一子(蓮如上人の五男)光養丸を嗣法に定められました。  嗣法を定められて二十一年後、蓮如上人七十五歳の延徳元年(一四八九)八月に実如上人へその職を譲られ、ここに本願寺第九代が誕生することになりました。この時、実如上人は三十二歳でした。いまだ健康であった蓮如上人が、どのような意図で引退されたかは詳らかではありませんが、『空善聞書』には、成すべきことを遂げ念仏三昧の生活に入りたいためであった、と伝えています。山科本願寺も完成し、教団もますます発展しつつあったので、蓮如上人にそのようなお気持ちがなかったとはいえないでしょうが、しかし引退のあとも大いに教団の発展に尽くされているので、自由な立場からの伝道教化や、四十三歳でようやく継職された自分の過去に対する反省などへの思いがあったのかも知れません。 大坂御坊の設立  蓮如上人は引退ののち、山科本願寺の近在に南殿と呼ばれた隠居所を建て生活されますが、ひきつづいて本尊や御文章を授けておられます。また地方教化にも尽力されており、決して念仏三昧の隠居生活に始終されたのではありませんでした。  こうした中にあって明応五年(一四九六)九月、八十二歳のご高齢にもかかわらず、摂津国東成郡生玉庄大坂に寺地を得て御坊の建立を始められます。この土地は、近年行われた大阪城とその周辺の発掘調査によって、大阪城本丸付近や大阪城近在の法円坂町辺りなどが候補地といわれています。当時、京都・摂津・河内・和泉地方への交通の要所でもあり、また瀬戸内海交通に至便の場所でした。  蓮如上人はこの場所を大坂御坊(石山御坊)と称して存外に気に入られ、引退後の根拠とされたほか、入滅の場所とも考えておられました。つぎに述べるように、このころ紀州や瀬戸内海の沿岸部に本願寺の教線のあらたな伸展があり、また以前に門徒化に成功した商業都市堺と連絡をとるうえにも、京都よりはよほど便利でありました。 大坂御坊時代の教団発展  大坂御坊建立の前後のころ、紀伊や瀬戸内地域への教線の伸展が始まっていました。正式に本願寺門徒になったことを確定づける「方便法身尊像」の授与を中心に観察してみますと、つぎのことが判明します。  まず明応二年(一四九三)に紀伊国有田郡宮崎庄野村の法了が、方便法身尊像を受領していることが挙げられます。紀州へは、すでに十七年前の文明八年に現在の鷺森別院の前身清水道場(海南市)に蓮如上人の教化が波及し、清水道場は明応元年に絵像本尊を授与されたと伝えられています。ところが野村の法了は、もとは仏光寺に属していた門徒であり、先年、仏光寺経豪が蓮如上人に帰依したときに共に本願寺に帰参した者でありました。仏光寺(のち興正寺)系の影響を受けた門徒は、紀州・瀬戸内・九州・四国地方に多かったので、これらの門徒を正式に本願寺化する必要性があったと思われます。野村の法了はそのような事例を示すものであります。  また、安芸国蒲刈島の禅宗光明寺が真宗に転宗し、明応五年(一四九六)に実如上人より方便法身尊像を授与されていますが、安芸国においては興正寺系寺院の活動によって展開した佛護寺(広島別院)をはじめこの年の開基を伝える寺院があります。これらは実如上人の世代になっているとはいえ、いまだ蓮如上人の存命中のことであり、その影響によって進展した教線といえます。  つづいて九州では、明応四年に豊前国小倉津の道証が実如上人より方便法身尊像を授けられたと伝えられています。またそれより先に九州真宗の創始者と称されている談義僧天然が、文明十四年(一四八二)に蓮如上人に帰依し別保村(大分市)道場を開いたといわれています。  これらは蓮如上人が大坂御坊を建立されるころ、紀州や西国地方に本願寺の教線が展開しはじめており、つぎつぎに本願寺門徒として正規なかたちで組織づけられたことを示すものです。大坂御坊は、あらたに展開したそれらの門徒と交渉を深めていくうえに格好の場所でした。 ご 往 生  大坂に御坊が完成しておよそ半年ののち、明応七年(一四九八)四月八十四歳になられた蓮如上人は身体の不調を覚えられるようになり、医師の診断をうけられました。病名は詳かでなく老衰と伝えられていますしかし近年までは健康であったようであり、この年、最後の子息である二十七子実従が誕生されたほか、御文章の授与もさかんに行なわれています。大坂御坊の建立は、蓮如上人の書かれたお名号の礼金によってまかなわれたともいわれ、御文章とお名号は終生書き続けられています。しかし、この年あるいは前年辺りから余生の長くないことを自覚されるようになり、遠方の子息やその他のいろいろな出会いをいとまごいと思われるようになっていました。また子息たちに、信心を根本にして兄弟が力をあわせれば、将来の本願寺教団の発展は間違いないことを論されました。  一時、病状もやや回復されましたが、翌明応八年(一四九九)になると医師や薬石の効きめもなく、衰弱は甚だしくなってゆかれました。死期の近いことを意識された蓮如上人は、二月には大坂御坊内に葬所を設けさせられ、ここで死を迎えようとされました。しかし、急に山科本願寺の本坊に帰られることになりました。これは実如上人の懇願を聞きいれられたためとも伝えられています。  山科本願寺においては、御影堂の祖像はいうまでもなく、参詣の門徒衆や愛馬とも別れを告げられ、三月二十五日に八十五歳の生涯を閉じられました。院号を信証院と称され、墓所は山科に造営されました。