蓮如上人の生涯 宮崎圓遵著作集 第五卷 『真宗史の研究(下)』より -------------------------------------------------------------------------------- 一 上人の時代  蓮如上人は応永二十二年(一四一五)京都東山大谷の本願寺において誕生した。あたかも南北両朝の争乱が一往大団円を告げてより後二十三年、称光天皇の御代に当り、室町幕府の将軍は第四代義持の時代である。しかして京都山科の本願寺において上人が遷化したのは明応八年(一四九九)三月二十五日で、後土御門天皇の御代、将軍は第十一代義澄の時代で、今年(昭和二十三年)は正しく四百五十回の忌辰に相当する。すなわち上人の時代は室町時代の初期より中期に至るが、当時の社会は応仁文明の擾乱を中心として、すこぶる混迷に陥り、やがていわゆる戦国時代へと推移してゆくので、上人の八十五年の生涯はまた波瀾と曲折とに充ちたものであった。今上人の生涯と業績とを叙するに当り、まずこの時代粧を概観しておきたいと思う。  南北両朝五十余年の戦乱の後を承けた室町時代は、三代将軍義満が室町御所の主として君臨し、一時小康を保ったが、やがて社会は再び擾乱の渦中に陥った。けだしそれは、元来室町幕府は南北両朝の対立を背景として成立したが故に、常に部下将士を懐柔しておく必要があり、ために彼等を充分統御し得なかったところに、政治的には重要な原因があるが、また南北朝の混乱によって一般に醸成された下剋上の風潮は、右の如き幕府の脆弱性によってさらに発展せしめられるものがあったからである。その故に応仁元年正月に端を発した京都の戦火は爾後およそ十年継続したにしても、ともかく文明十年八月足利義政と義視との和議によって、一応の終結を告げたのであったが、地方に波及した戦禍は到底拾収すべくもなかった。かくて社会の制度も秩序もすべては解体していったが、しかしこうした社会的混乱はまた新しい機運を醸成しつつあったので、室町時代は戦乱の故を以て直ちに暗黒時代と考え解体の時代とのみ断定することは出来ない。すなわち久しきに亙る戦乱によって上下に漲った下剋上の風潮と旧秩序の崩壊とは上流社会の伝統と権威とを瓦壊せしめたが、それはまた下層庶民の地位をして社会的に擡頭せしめたのであって、一部に偏在した文化は階級的にも地理的にも広く波及してゆく傾向を生じそこに新たなる時代文化が成立し来るものがあったのである。  わが国における宗教改革は、鎌倉時代における新仏教の興起に指を屈するは何人にも異論はない。しかして従来主として貴族を対象とした仏教が庶民階級にも侵潤し、仏教が広く国民の手に渡されたと説かれることがしばしばである。これはたしかに新興仏教に対する一視点にはちがいないが、しかしこれをさらに立ち入って考うるならば、鎌倉時代は新興仏教にとって未だ草創時代に属し、その弘通の程度は社会的にも地理的にもなお部分的な観あるを免れないであろう。いい換えれば、新仏教の普遍性は鎌倉時代においてすでにいわば理論的に構成されるものがあったにしても、それには未だ充分な実践が伴っていない。けだし新興仏教が社会的にも地理的にも広く弘通して、国民全体の手に渡り、如実にその生活の内に深く取り入れられるためには、なおいくらかの時間的経過を必要としたのである。  平安時代未期から鎌倉時代初頭にかけての打ちつづく公武の戦争と頻発する天災地変とは、人間の醜悪な一面をあらわに露呈し、また人間世界の無常を痛感せしむるものであった。しかしてここに輩出した幾多の高僧は、こうした時代の宗教的契機を力強く指導したところに新仏教の興起があり、いわゆる宗教改革が成立した。しかるに南北朝の後を承けた室町時代は、応永以来五穀稔らざることしばしばであったが、寛正年間に至って飢饉は極点に達し、皇城の京師にも死屍累々として横たわるという惨鼻な光景を呈したばかりでなく、やがて次に来た応仁の乱は骨肉相喰む醜い闘争をつづけて、戦火は遂に京都を一塵の焦土と化せしめた。こうした世粧は如上の平安未期より鎌倉初頭にかけての情勢とすこぶる相似たものがあり、時代人には新たなる宗教的救済を強く要望するものがあったのも必然の結果である。  さればこうした時代の機運は当代に幾多の高僧を輩出せしめた。蓮如上人もその一人として正しくかくの如き時代的社会的背景においてその生涯が展開するのであるが、上人とほとんど時を同じくして活動した高僧は、その数一、二に止らない。すなわちまず上人に最も関係近き高田派にはこの頃真慧上人あり、専修寺を下野高田より伊勢一身田に移して同派中興の業を完成し、鎮西派には上人より少しく先輩に聖冏・聖聡の両師がって宗風を東国に振起し、西山派には明秀上人出でて同じく同派を中興している。また天台より出でて戒称二門の宣説と清僧の風格とを以て一派をなした真盛上人も蓮如上人の在世中に活動した人である。さらに日蓮宗には、先に酸鼻な刑罰にも屈することなく弘法のために挺身した日親上人あり、次いで時人より日蓮上人の再来と仰信された日朝上人が出世している。なお大悟徹底から飄逸の奇行に富んだ一休禅師もまた蓮如上人同時の先輩である。  かく室町時代は初期より中期にかけて新興諸宗には高僧の輩出すこぶる多く、彼等は法を説き道を教えんがために戦乱と混迷の社会にあって、限りなき情熱を傾け種々の苦難を排して挺身した。しかも時代は鎌倉時代と異って庶民大衆の擡頭は著しく、彼等の活動はすでに社会の表面に現出している。さればここに仏教は深く民衆の手に摂取され、彼等の生命の中に生きることとなった。室町時代の高僧の教説には、何等かの形において神仏の関係について指示され、戒の問題が取り扱われることしばしばである。今その一々について言及することを避けるが、こうした問題が取り扱われることは仏教が民衆の生活に深く侵潤して、彼等の自覚を促しつつあることを示唆するものである。けだし神祇はわが国古来の信仰であるが故に、仏教が民衆の生活に深く入り来る時、自ら神仏の関係が問題となるからであり、また戒は仏教の通規であるから、仏教が在家生活において実践された時、戒に対して何等かの解決を要求するのが当然であるからである。この故に右の二個の問題は結局時代人が仏教を自覚的に受容したことを暗示するものに外ならぬ。かくの如き意味において、室町時代の仏教の展開はわが歴史上における第二の宗教改革であり、またそれは鎌倉時代の新興仏教を完成せるものといい得るであろう。  蓮如上人の生涯と業績とは、いわゆる本願寺の中興として、ないし真宗の興隆として、重要な意義を持つものであるはいうまでもない。しかし上人の歴史的地位は単にそれにとどまるものではない。それは上来叙述した如き社会制度の解体から来る動乱の世の中にあって、あらゆる苦悩にあえぐ民衆に、真実の救済を説いて彼等を宗教的信念に安住せしめ、宗教を文字通り民衆の手に渡したところに、さらにいい換えれば、わが国におけるいわば第二の宗教改革を果遂した高僧の一人として、価値高く意義づけられねばならぬと思う。ちなみに、蓮如上人と時代を同じくして活動せる高僧の生存関係を略示すれば次の通りであるが、ここに挙げた人々の事蹟については、別項の「蓮如上人略年譜」を参照されたい。 蓮如・・・・・・・・・応永二十二年(一四一五)・・・明応八年(一四九九) 八十五歳 聖冏・・・・・・・・・                  応永二十七年(一四二〇)八十歳 聖聡・・・・・・・・・                   永享十二年(一四四〇)七十五歳 一休・・・・・・・・・                   文明十三年(一四八一)八十八歳 明秀・・・・・・・・・                    長享元年(一四八八) 八十五歳 日親・・・・・・・・・                    長享二年(一四八九) 八十一歳 日朝・・・・・・・・・応永二十九年(一四一七)・・・明応九年(一五〇〇) 七十九歳 真慧・・・・・・・・・永享六年(一四三四)・・・・・  永正九年(一五一二) 七十九歳 真盛・・・・・・・・・嘉吉二年(一四四二)・・・・・  明応四年(一四九五) 五十三歳 二 幼時と環境  蓮如上人は本願寺第七世存如上人の長男として、応永二十二年春誕生した。その月日は二月二十五日ともいう。時に父上人は二十歳、祖父巧如上人は四十歳である。童名は布袋とも、幸亭とも称した。  上人の生母は、その出自も生国も伝えられていない。実悟の『拾塵記』には、母公の生国は明らかでないが、存如上人の先妣に常随給仕した人であるといい、応永二十七年三月二十八日即ち上人六歳の時、絵師を招いて上人の幼像を描かしめ、表鋪までととのえてそれを携え、その年の幕十二月二十八日、われはこれ西国のものなりここにあるべき身にあらず、といって飄然として大谷を去った、といっている。また『蓮如上人遺徳記』によれば、大谷退出の際、「願はくは児の御一代に聖人(親鸞)の御一流を再興し給え」と懇ろにさとしたという。上人の生母が何故に大谷を去ったか、勿論明証はないが、あるいは存如上人の内室の入嫁と関係があったかも知れない。というのは、上人の六歳は応永二十七年であるが、存如上人の内室(如円尼)は同二十九年に長女(如祐)を生んでいるから、その入嫁はこの前年か前々年であろう、と思われるからである。しかして本願寺の家庭がそうした事情に立ち至ったので、生母は留って上人の生長を見守るよりも、むしろ上人の天稟の才能に真宗の興隆を嘱し、自ら身を退くに如かず、と決意したのではあるまいか。もししかれば、その出自はともかく、この生母は恐らく非凡の賢婦人であったと思われる。されば母公は石山の観音の化身であるとか、または六角堂の観音の化身であるとかいうことが、『拾塵記』や『遺徳記』等に記されてあって、上人の子女や門弟の間には早くから信仰されていたのである。上人も母公をなつかしみ、九州豊後の人とか、または備後鞆にいるとか、いうほのかの語り草をたよりに、自ら下向せんとしたこともあったが、果さなかったので、人を遺してその消息を探し求めようとした程である。また大谷を退出した二十八日を母公の命日として、上人は報謝の懇念を運んだ。さらに晩年先の絵師を探し出したところ、右の幼少の画像をなお所持していたので、これに「本名布袋、名乗号幸亭、為六歳離母、当明応八年、終八十五」という銘を加え、往時を偲んだが、上人遷化の後、山科の南殿では、三月二十五日の上人の命日には、上人の色裳の御影の脇にこの幼像をかけたという。この六歳の肖像はいわゆる鹿子の御影として、今でも北陸の寺院に写伝して襲蔵されているものがあるが、上人も生母と別れた時は鹿子絞りの小袖を着していたことを記憶していた、ということである。  生母と別れた上人は、爾来父存如上人の内室如円尼の手に育てられた。如円尼は海老名氏の出身で、前述の如く上人八歳の時一女を挙げた後、五人の子女を儲けている。こうした異母の手に育てられた上人には、早くから人知れぬ辛労が多かったであろうと思われる。しかるに上人は十五歳にして一宗興隆の志念を発したと伝えられている。これは『蓮如上人遺徳記』や『同一期記』等のいうところで古い所伝であるが、このことを記したところには、法然上人も十五歳にして無常を感じ出家したことと対照して記され、上人を権化の人として扱っているばかりでなく、また十五歳にして志を立つということは古来普通にいわれることであるから、上人にも十五歳立志の説が現れたものと考えられる。恐らく生母の遺訓を深く印象づけられた上人としては、一宗興行の志念はすでに早き時代に発したにちがいない。けだし当時の本願寺は全く不振沈滞の状態にあったからである。応永二十年の頃、近江堅田の法住が、母の勧誘によって大谷に参諸したところ、本願寺には参詣のものなく、人跡絶えてさびさびとしていたが、渋谷の仏光寺には多数の参詣者が群集していたという。これは『本福寺由来記』に伝えられた有名な挿話であるが、応永二十年といえば上人誕生前あたかも二年である。以て上人幼少の時の本願寺の情勢を推察すべきであろう。  元来本願寺の基礎は覚如上人によって築かれた。上人が大谷に入って影堂の留守職に就任したのは宗祖親鸞聖人の滅後およそ五十年で、当時の真宗教界には何等の統一もなく、地方の門徒は各地に分立して互に割拠し、その間自ら異解邪説の輩出することも少なくない、という状態であった。この故に、上人は宗祖の廟所である大谷影堂こそ、宗祖なき後における真宗教団の中心でなければならぬ、という信念の下に、大谷本願寺による教団の統一を図ったのであり、以て当時すでに宗勢を整備していた浄土宗鎮西派や西山派等の浄土異流の間に、親鸞聖人の一流を顕影せんとしたのであった。これ覚如上人畢生の志念であったが、諸国の門徒、ことに高田門徒を初め東国門徒の中にはこれが充分理解されず、却って門徒は大谷から離叛する傾向を強くした。しかも東国門徒は存覚上人を留守職に擁立せんとしたことから、遂に覚如・存覚父子の義絶となり、大谷に容れられない存覚上人は仏光寺に寄寓することが多かった。仏光寺は空性房了源によって創められた教団であるが、了源は存覚を背景とし、また名帳・絵系図や光明本尊等の巧妙な教化施設によって、その教線を迅速に伸展せしめ、近畿中国をその勢力範囲に収めた。かくて東国門徒から孤立した本願寺は、京畿の地方においてまた仏光寺の勢力に圧迫され結局不振に陥らざるを得なかった。勿論爾後の本願寺歴代は覚如上人の志念を体し、ことに北陸地方の開教によって頽勢の挽回を図ったことは後に言及する通りであるが、時機未だ至らず、京都の本願寺は衰微沈滞をつづけたのである。  蓮如上人幼少時代の本願寺はあたかもこうした状態にあった。されば当時の上人の生活は内外万事につけてすこぶる不如意で、召使う人は勿論、時として衣食にもこと欠くという場合があり、研学の灯油も思いに任せないという有様で、上人は文字通り螢雪によって書を読み、黒木の灯火に親しむこともあったのである。このことは上人の側近者によって伝えられて、人のよく知るところである。しかし上人は一宗興隆の志念に燃えてこの苦難によく堪え、荊棘の道を開いて行った。  永享三年夏十七歳で、上人は粟田口青蓮院において剃髪し、在来の例に倣って中納言広橋兼卿(日野家の支流)の猶子となり、名を兼寿と称し、法名を蓮如、仮号を中納言と号した。戒師は尊応または尊深(義快)と伝えられているが、何れも年代が合わない点があるので、なお研究を要する。かく上人は青蓮院において得度したが、しかし爾後天台関係の寺院で学問したというわけではない。叡山で学問したというのは俗説で、何等の徴証も存しない。元来上人は幼少の頃から近親ことに存如上人から家学を授けられたが、また存覚上人の後である常楽台は叔父空覚(存如の弟)が住持していたから、そこに襲蔵された宗典について研鑽したこともあったであろう。このことは上人書写の典籍からも推知し得られるところである。かくて上人は、もともと「利性聡明にて何れの道をも深く習はずして理をさとる」素質であったし、またその家庭も環境も前述の如くであったから、定った師匠につくということもなく、多くは独学であったと思われる。幼少より上人の側近に侍した慶聞房龍玄は、上人の研学のために京の町に出て油を調達したが、資財乏しくしてそれを買う術もない時は、あるいは黒木を焼き、あるいは月夜にはそれを使りとして、『教行信証』や『六要鈔』を披覧し、また『安心決定鈔』は三部まで読み破られた、と後年物語ったということが『蓮淳記』に見えている。  なお、上人は奈良興福寺大乗院の経覚について研学し、師資の関係にあった、という伝説がある。これは『拾塵記』や『遺徳記』やないし実悟の『系図』等に記しているところで、早くより存した所伝であろうが、直ちに依用出来ない理由がある。経覚は関白九条経教の息男であるが、その生母正林足は本願寺から出た人で、上人二十八歳の嘉吉二年正月二十六日大谷で侵したという。本願寺の系図には正林足に当る人は見出されないが、年代から見て恐らく存如上人の近親であろう。従って経覚は存如上人とも交遊が深く、その日記『経覚私要鈔』には文安五年十一月より上人との交遊が見えている。ことに上人の示寂を記した条(康正三年六月二十三日の条)には、「五十余年知音、無双恩人也、周章々々」といい、その年十二月三日自ら大谷に参り、『三部経』その他を霊前に供えて焼香している。蓮如上人はその答礼として翌日経覚を訪ねているが、『私要鈔』には康正二年二月(蓮如三十九歳)上人が経覚に扇五本を贈ったのを初見として文明四年九月(蓮如五十八歳)に至る間にしばしば両人の交誼を記している。しかも寛正四年二月十一日の如きは、上人が兄弟子息若党等十人程を召しつれて南都に下向し、薪能を見物する等して数日を過したこともある。また翌五年八月三日には大谷を訪れた経覚は、上人ならびにその舎弟や子息と共に常在光院等を散策している。かく両者の関係は親密であるが、その間師弟関係を偲ぶべき点は見出されず、交渉のあったのは多く上人が奈良に赴いた時とか、経覚が上洛中の場合等である。もっとも、上人がしばしば奈良に行ったのは右の経覚と姻戚関係にあったためばかりでなく、奈良近郊藤原(大和添上郡東市村藤原)に本願寺の道場があり、常楽台空覚の女が住していたにもよるのである。ともかく、上人が南都で研学したという所徴は存在しないが、経覚との関係が右の如くにして密接であったことはたしかで、後述の如くそれは上人のこの後の生涯にも関係するところが少なくないのである。  かくて上人は早く生母に離れて異母の手に養育され、困窮の生活に堪えつつ道を求めて独り勉学した。実にそれは忍苦の生活というべきである。しかしこうした体験はまた上人の人格を錬磨し完成して行ったのである。その生涯を通じて看取される如何なる苦難にも挫折しない強靭な性格、一切のものを抱擁する無私的襟度、無我と冥加とに徹した感恩の生活、さては人間心理の機微を洞察する鋭敏な感覚等々は、勿論上人の天性にもよるであろうが、幼時の環境によって育成錬磨された点の多いことを否定することは出来ないであろう。 三 継職の前後  聖教を書写して門未に下附することは、真宗では宗祖親鸞聖人に先蹤があり、爾来本願寺の歴代にその例がある。しかし存如上人の頃からこのことが盛んとなったようで、現在上人書写の聖教が十点余り伝っている。得度以後の蓮如上人が色々の方面において父上人の行化を助けたであろうが、そうした事蹟中文献に見える最初は、こうした宗典の書写と門徒への下附とである。上人が永享六年五月書写した『文類聚鈔』が越後国府光源寺に残っているが、これは上人の宗典書写としては日下のところ初見で、時に二十歳である。次いで同八年には『三帖和讃』、同十年には『浄土真要鈔』『口伝鈔』、更に十一年には『後世物語』というように、年と共に多く聖教を書写している。現在上人の真蹟の残っているもの、あるいは文献によって上人書写の事実を知り得るもの等管見に入ったものを数え挙げると、その数は五十余部に達し、重要宗典はほとんど網羅されている。本願寺歴代のすべてを通して、これ程多数の宗典を書写した例は上人以外には存しない。  上人のこうした宗典の書写は、年代からいうと大体その前半生、すなわち継職(四十三歳)の前後が最も多いようで、文明年間以後には著しく少なくなっている。宗典の下附は門徒の希望によるもので、門徒はそれについて懇志を上納したのであるから、これには経済的意義も含まれているが、こうした下附の数多いことは宗典を通じての教化の盛行を物語るものに外ならぬ。就中継職以前は存如上人の指導によったのであるから、上人のこうした教化はもともと父上人に負うものと見るべきである。しかして文明年間以後この種のことの少なくなっているについては、この頃から『御文』の述作が数多くなっていることと考え合すべきであろう。すなわちこれ以後は上人の教化が文書的には『御文』によっていわば統一されつつあることを示唆するものというべきである。しかし一方ではこれより後において聖教の伝授が行われたばかりでなく、宗典は依然として必要であったことは勿論で、それらは本寺から門未に下附されたのであるが、教団機構の整備と共にこの方面の書写は御堂衆の手によって担当されることとなり、上人自身筆を執るということは少なくなったものと思われる。こうしたわけで、上人の聖教書写は数多いが、それは継職前後以前であり、継職以前は父上人に代って執筆したので、年記の明らかなものが二十余点あるが、それらには多く「右筆蓮如」と署名して、その地位を示している。  上人が内室を迎えた年齢や事情は明らかでない。しかし長男順如は嘉吉二年上人二十八歳の誕生であるから、およそ結婚は想像される。この夫人は伊勢氏の出、下総守平貞房の女で、上人との間に四男一三女を生んだが、康正元年十一月(蓮如四十一歳)に没している。法名を如了尼という。当時大谷は窮乏して召使もいなかったから時として上人自身が襁褓まで洗濯したということであり、子女も多かったから、禅寺や尼寺に喝食その他として托し訓育を受けしめたのであった。  先に言及した如く大和には藤原道場があり、近江は後述の如く早くから存如上人の教化を受けていたから、蓮如上人が大和・近江方面に教化の歩を運んだのは若い時代からであろうが、東国遊化の如きも継職以前のことである。元来本願寺の歴代は一生に必ず一度は東国に下向して宗祖聖人の旧蹟を巡拝するのが慣例であったというが、上人はその生涯に三度東国遊化を企てたと伝えられている。しかしてその初度は宝徳元年三十五歳のことである。もっとも、これより先文安四年五月三十三歳の時、初めて東国に下ったという所伝もあるが、史実は余り明瞭ではない。それはともかく、この宝徳元年の際は恐らく父上人に伴われてまず北国に向い、加賀辺で別れ、さらに関東・奥州を巡遊し、東海道を経て帰京したのであろう。この巡化の委曲は知るを得ないが、東国の宗祖の遺跡を巡拝し、門徒を訪ねて此処彼処を経廻したことはたしかで、『蓮如上人@期記』に、この頃はなお門未も少なく上人の巡化も一杖一笠の徒歩の旅であったから、この時に出来た草鞋の跡が後年まで足に残っていた、と記している。また越後鳥屋野で、   師の跡を遠く尋ねて来てみれば、涙にそむる紫の竹 と詠ぜられたというが、宗祖聖人巡化の跡を二百年後に親しく踏破して、多感の上人は恐らく深く感銘するところがあったであろうし、また門徒教導の方面においても獲るところが多かったであろう。ちなみに、第二回の東遊は応仁二年五十四歳の時で、やはり北陸から関東奥州に下向し、東海道を経て帰京した。この度はことに諸所の門徒を訪ねて逗留教化したようで、奥州で貧しい門徒を訪ねて稗の粥を食しつつ法談したという有名な挿話の如きもこの時の下向の際である。第三回は文明七年七月(六十一歳)で、この度は越中井波の瑞泉寺まで下ったが、事情あって子定の日的を果さず帰京した。  長禄元年六月十八日父存如上人は六十二歳で遷化した。この時如円尼は実子応玄を擁立して継職せしめんとした。応玄は早くより青蓮院において修学した人で、蓮如上人よりも十九歳の年少、この時二十五歳である。大谷では一門も門未も如円尼の議に賛同し、常楽台を継いでいる叔父空覚(光崇・存如の弟)もこれに迫従していたしかし越中井波瑞泉寺に入寺している叔父宣祐(如乗・空覚の弟)はその不条理を説いて譲らず、遂に蓮如上人の継職が実現したのであった。時に上人四十三歳。元来本願寺では必ずしも長子相続とは限らず、宗主は生前譲状を認めて後継者を指定しておくのが通例で、代々の譲状が伝っているが、存如上人の分は存しない。その理由はともかく、譲状がなかったが故にこうした経緯が惹起したのであるが、これより先上人が青蓮院で得度して広橋兼卿の猶子となったのは、恐らく存如上人が後継者たらしめんためであったであろうし、またすでに述べた如く、上人は若くして父上人に代って聖教を書写して門徒に下附しているのであるから、上人の継職は多く問題が存しなかったかと思われる。もししかれば、ただ如円尼の私心によってこうした事件が出来したに外ならぬと思われるが、ともかく宣祐の適宜の処置によって解決されたのである。宣祐は上人の叔父に当るが、わずか三歳の年長に過ぎないから、越中下向以前は大谷において共に生育したものなるべく、従って上人の立場をよく理解していたによるものと思われる。ちなみに宣祐の没したのは、この後三年寛正元年正月二十六日で、寿四十九である。上人は継職における右の宣祐の処置を永く忘却せず、宣祐が創立した加賀二俣本泉寺には特別に配慮し、実如上人またその遺旨を受けて同様であったというが、上人の息蓮乗・蓮悟・実悟等三人までも本泉寺に入っていることによっても、その一面が推察される。  かくて継職に当って多少の波瀾はあったが、その後如円尼も前非を後悔して懴悔したし、上人も多く意に介せず、この後寛正元年十月四日如円尼の没するや、上人は養育の恩を憶うて、葬送にはその輿に肩を入れて御堂の庭まで供奉している。応玄はこの後遁世して蓮照と号し、加賀大杉谷に隠棲した。蓮如上人が文明四年三月越前吉崎において如円尼の第十三回忌を修したことが『御文』(帖外一七)に見えるが、この翌五年八月応玄が吉崎を訪うや、上人はそれを嘉んで共に亡母のことを迫想して昔を偲び、三首の和歌をも詠じている。恐らくこの『御文』はこの時草して応玄に与えたものであろう。また応玄は文明九年二月十五日宗祖聖人の御影を蓮如上人から申し請けている。実悟の『系図』に、応玄は能書家であったと記しているが、その書写になる『正信偈註』一巻(延徳三年八月書写)ならびに『御文』(二ノ一)一通(明応九年八月書写)が金沢近郊四十万善性寺にっており、美しい筆跡である。彼は明応八年三月上洛して蓮如上人の臨終に侍したというが、その後五年文亀三年三月二十六日七十一歳を以て没した。  蓮如上人は継職の翌年すなわち長禄二年二月教俊に『三帖和讃』を、同七月性乗に『六要鈔』を各々書写して下附している。教俊は京都金宝寺の住侶、性乗は加賀木越光徳寺の住持で、共に早くより本願寺に出入し、継職前上人から色々の聖教を申し請けた人々である。しかし継職後の上人の教化として特記すべきはまず近江である近江堅田の法住が母の勧めによって初めて大谷に参詣したのは、上人誕生より前応永二十年のことであるは先に言及したが、上人は長禄四年二月法住に金泥の十字名号を本尊として下附し、またその後寛正年間には宗祖と上人との運坐像や四幅絵伝等をも授与している。法住はこの地方の有力者で、近在諸所に門徒がいたが、彼を中心とする堅田門徒は上人の初期の活動を助成することが多かった。湖水を距てて堅田に対する赤野井や金森方面は東近江衆と称されたもので、また初期の上人にとって重要な教線であった。赤野井は古く存覚上人教化の地と伝えられ、この地の門徒には堅田の法住と姻戚関係があったことが本福寺の記録に見えているが、寛正五年五月赤野井惣門徒中に授けられた宗祖絵伝が今に残っている。赤野井の北に荒見があり、西に山賀があるが、荒見には赤野井性賢の門徒性妙が居り、山賀には道乗がいて、長禄四年正月二十二日上人から十字名号の本尊を附与されまた近在三宅の了西も同年三月本尊を申し請けている。金森の道西は後に従善と称した人で、存如上人の時代から大谷に出仕したが、またしばしば上人をその道場に迎え、この地方の弘教に力を致した。篤学の御堂衆として蓮如上人に愛された慶聞房龍玄は道西の甥で、幼少の頃上人に見出されて常随したというから、上人も早くより金森との間を往来したことと思われる。なお、赤野井の北東洲本の妙実は寛正三年二月宗祖と上人との二尊像を授かり、金森より北西に当る手原や安養寺にも浄性等の門徒がいて、すでに上人の継職以前から聖教を下附されているが、同じく手原の戒円門徒道悟は寛正五年十一月本尊を申し請けている。さらに遥か北東に当る長沢福田寺の宗俊は早く永享の頃から『口伝鈔』や『御伝鈔』等を授与されている。  かく近江方面には早くより門徒が少なくなく、従って上人もしばしばこれらの地方に下向したであろうが、この外三河や摂津方面にも、当時すでに上人の門弟が存在した。すなわち三河では佐々木上宮寺に如光が居り、その門徒はこの後この地方に大いなる発展をなしたが、如光が本尊を申し請けたのは寛正三年九月のことである。また同四年九月上人は摂津柴島の法実が相伝するところの達坐像に「日本血脈相承真影」という裏書を記しているが、この運坐像は仏光寺系のものであるから、法実は元来その方面の人で、この頃上人に帰依したものであろう。以上の如くにして上人の教化は長禄初年継職して後、寛正年間にかけて一段と発展するようになった。  上人が早くから宗典を書写し、その流布を図ったことは先に言及したが、特に一般大衆に理解し易からしむるために特別の注意を払ったのは『正信偈』である。『正信偈』はいうまでもなく『教行信証』から抄出したものであるが、現在一般にこの『偈』を別行独立せしめたのは上人であると考えられている。けだし『正信偈』は百二十句の偈が、真宗の要義を端的に説示したものであるからで、上人はこれを単行せしむると共に、また註釈を作り、その流布を図った。現行流布の『正信偈大意』は長禄四年六月上人四十六歳の時近江金森道西の所望に応じて書き与えたところである。しかるに伊勢法雲寺や同国深行寺等に伝持される『大意』は室町時代未期の写本であるが、本文において右の長禄四年本と異るものがあり、その内容や行文より見て、恐らくその成立は長禄本よりも古きにあると思われる。すなわち長禄本述作のための草稿たる一種の異本で、長禄本はこれにさらに添削を加えて整備したものである。しかるにまた本派本願寺には『正信偈註釈』と『正信偈註』との二部二巻の上人の筆蹟があり、共に『六要鈔』の『正信偈』の釈を抄出し、これに関係ある和讃を註記したものである。しかし『註』は『註釈』よりも内容において整備されているから、『註釈』は『註』の稿本であろうと思われる。しかして『註』が底本となって異本の『大意』(草稿本)が成り、さらに長禄四年にはこれに添削が加えられて流布本が作られたものと思われる。上人は長禄四年本の奥書に、道西の所望黙し難きままこれを書き与えたと記しているが、もし右の推定にして大過なしとすれば、上人は少なくとも長禄四年道西に『大意』を書き与える以前において、『正信偈』に関して『註釈』と『註』と草稿の異本『大意』とを述作していたのであって、流布本が完成するについては幾多の努力の払われていたことが推察される。これは上人の『正信偈』に対する深い関心を物語ると共に、また上人が早くから宗典の民衆化に意を用いたことを示唆するものに外ならない。  (附記)本稿刊行後、本願寺の宝庫において存如上人書写「正信偈」を見出した。したがって本偈を別行した初めは存如上人であり、蓮如上人はその流布をはかったと見るべきである。このことは拙稿『存如上人芳躅』(昭和三十一年四月本願寺刊)に記しておいた。 四 寛正の法難  本願寺は上人の継職と弘教とによって、次第に活気を呈し、近畿の門徒もまたようやくその数を増して来た。しかるに継職後八年寛正六年正月、比叡山の僧徒は突如来襲して大谷の堂舎を破却し、ここに大谷の本願寺は遂に退転するに至った。すなわちこの年正月八日、比叡山の僧徒は本願寺破却を決議したが、堅田本福寺の記録によれば、彼等は翌日祇園感神院の犬神人を指揮し、およそ百五十余人の悪僧が来襲して大谷の諸堂を破砕し去ったのである。ちなみに、この日附は、『経覚私要鈔』には十日のこととしており、また大津の馬借も参加していたといわれる。かくて文永九年大谷影堂創建以来一百九十四年にして、本願寺は旧縁の地を去ることとなった。 西塔院執行慶純の草した本願寺破却の決議文によると、比叡山がその理由としていうところはおよそ次の通りである。すなわち本願寺が一向専修の念仏を張行し、三宝を誹謗するは不都合であるから、古来の例によって、停止せしむべきは勿論であるが、特にこの頃無礙光と号する一宗を建立し、盛んに諸所の村落において愚昧の男女貴賎老若を勧誘し、徒党を結んで横暴し、仏像経巻を焼き、神明を軽んじ、放逸の悪行をなすは実に仏敵であり神敵であるから、正法のため国法のため、正にこれを絶滅せねばならぬ、それについて昨年青蓮院門跡の口添で弁明書を出したから、しばらく猶子したのであったが、その後本願寺では一向態度を改めた様子もない、よってこの度は断然たる処置をとる、というのである。比叡山が本願寺を圧迫したことは南北朝時代からあったことで、本願寺ではこの面倒な事件を解決するために、覚如上人以来恩願を受けている青蓮院門跡の斡旋を煩したり神供として若干の財物を醵出して、ようやくことなきを得て来たのである。この神供として納める財物は未寺銭と呼ばれたが、それは専修念仏を弘めつつある本願寺は当然弾圧すべきであるが、叡山の未寺分として寛大な処置をとるという名義で徴収するからである。蓮如上人継職の後寛正年間に至って本願寺は徐々に興隆し来ると共に、その未寺銭も恐らく増額されたであろうが、なお不充分であるとか、または山徒の要求を一々応諾し兼ねる点があるとか、いうこともあったであろう。その結果こうした破却となったものであろうが、それは表面にとりあげる理由とはなし難い。それで本願寺が無礙光宗という一流を立てて邪義を行う、という如きことを決議文に認めたものと思われる。 ここに本願寺門徒を無礙光宗と称しているのは、前述の如く蓮如上人が門未に下附した本尊が帰命尽十方無礙光如来の十字名号であったによるであろう。けだし仏の名号を以て本尊とすることは、仏教においては宗祖親鸞聖人を以て最初とする。しかして現在遺存している宗祖真蹟の名号本尊はすべて五幅で、六字・八字・十字の三種あるが、就中十字名号が三幅で最も多く、十字名号が本尊としては普通であったと思われる。これは宗祖の教義から申してもいわば当然のことで、覚如上人の『改邪鈔』には「凡そ真宗の本尊は帰命尽十方無碍光如来なり」と明言している。されば本派本願寺に蔵するところの蓮如上人が文明十七年四月修覆を加えた十字の名号本尊には、これは覚如上人以来本尊として来た本願寺の重宝であることを裏書している。宗祖の十字名号は中央に十字の名号を書き、蓮台を以てこれを受け、上下に経釈の文を讃として記した紙本墨書であるが、右の蓮如上人裏書の覚如上人以来の名号本尊は、紺地に金泥を以て十字名号を書き、それに光明を添え、上下には同じく墨坐で経釈の文を記してある。この変化は恐らく宗祖滅後に流行した光明本尊の影響によるものと思われるが、ともかく十字名号を以て本尊とすることは、真宗としては古来の伝統であり、今蓮如上人が門未に下附した名号本尊は右の覚如上人時代の本尊と同趣である。さればこれは決して蓮如上人の恣意によるものではない。しかるに今やこの故にことさらに無礙光宗と呼ばれ、邪義と称されたのである。ここにおいてか上人は今後この種の十字の名号を本尊として門徒に下附しなかったようで、大谷破却以後の年記あるものは見出されない。しかしてこれに代る名号本尊として、上人の依用したのは六字であったので、ここに上人独特の風格ある行書の六字名号が流布されることとなった。  さて本願寺でも山徒来襲の風聞を探知していたので、地方の門徒にこれを通報し、当時十余人の番衆が上山して警備に当っていた。しかし予想に反してあまりに早く山法師や犬神人が百五十人ばかりも押し寄せたので、何とも致し方がなかった。彼等は堂舎を破壊すると共に、散乱した財物を掠奪し去ったのであり、また御堂衆の正珍を上人と早合点して捕えたこともあった。かくて上人の身辺も危険であったが、上人は祖像と歴代の重宝とを携えて避難し、やがて法住も如光等も上山し、近隣の天台宗の定法寺を介して礼銭を山門に送り、ここに一往の協調が出来た。経覚の伝え聞いたところでは、この時の礼銭は三干疋であったというが、これ以後本願寺がいわゆる未寺銭として叡山釈迦堂に納めた金額も毎年三干疋であった。上人は一時定法寺に身を寄せていたが、また金宝寺や壬生・室町等にも居を移したということで、しばし所在も明らかではなかった。大谷破却を知った経覚は上人の安否を気づかい、しきりに消息を送って所在を探しているが、三月二十一日に至り、摂津にいるとの情報を入手したことを『私要鈔』に記している。しかしこの月十八日上人が河内久宝寺において『一年二季彼岸事』を書写したという文献があるから、右の摂津とは河内の誤伝であるかも知れない。それはともかく、この年十二月には、二回に亙り、上人は経覚を南都に訪ねている。なお大谷は上述の如くにして正月山徒の破却に遭うたが、右の『私要鈔』その他によると、三月二十一日犬神人等は再度発向して大谷を襲い、ここに大谷は破却し尽されたようで、経覚は「亡母之里也、歎而有余者哉」と慨歎している。  大谷退出後の上人は、右の如く転々居を移していたが、本福寺の記録によると、やがて近江金森に居を占めたようで、道西が奔走して上人を迎えたのであった。これによって金森の門徒と守山の天台宗の日浄坊との間に争乱が開けたこともあり、さらに赤野井方面にもこれが波及し、八月にはこの地方において相当な擾乱があった。しかし叡山に最も近い堅田の法住は、上山して適宜の処置をとり八十貫文の礼銭を納めて交渉を纏めた。しかして『金森日記抜』によると、大谷退転後の上人は野須・粟太の坊主と門徒とをたのみに金森に三箇年居住したので、文正元年の報恩講は金森で厳修したが、この年秋の未頃より、粟太郡の高野の善宗正善の道場、安養寺村幸子房の道場、手原の信覚房の道場、ないし野須郡の荒見性妙の道場、中村妙実の道場、矢島南の道場、赤野井慶乗の道場、三宅了西の道場等を転々居住したということで、右の諸道場の後身は大体今日これを明らかにすることが出来る。   応仁元年(文正二年)には正月以来京都は戦塵の巷と化し、しかも戦雲は何時収まるとも予想出来ない。それで京都の諸寺の中には地方に疎開するものも少なくなかった。本願寺は叡山との間に協調の出来ていることは前述の通りであるが、戦乱のため祖像は帰京することは出来ない。金森より粟本安養寺に遷座した祖像は七十余日ここに滞留していたというが、二月上句堅田に遷り、この年の報恩講はこの地で修された。  上人は先に文正の頃長男光助(順如)を法嗣と定めたが、光助は自らこれを辞退したので、応仁二年三月光養丸を後継者に指定して譲状を与えた。時に上人五十四歳。先に述べた如く上人の内室(如了)は康正元年第七子(蓮誓尼)を儲けて後、間もなく没した。それで継室としてその妹を迎え、長禄二年に誕生したのが、右の光養丸で、応仁二年は年十一歳である。上人の第八子(第五男)に当り、諱は光兼と称する。すなわち本願寺第九世実如上人である。なお、この応仁二年には、先に言及した如く、上人は第二回の関東下向を企てている。その出発の月日は明らかでないが、堅田に帰ったのは九月のことである。次いで十月中句大津を出発して高野山に登り十津用・吉野等の幽谷を踏破している。上人の『道の記』の一である『高野紀行』(帖外五)はこの時の紀行である。  応仁三年(文明元年)正月、また叡山から堅田へ来襲するという風聞があった。しかるに幸い大津浜の道覚は堅田法住の門徒であったから、二月十二日その道場に小坊を営み、三月十二日祖像をここに遷した。果してこの後三月二十九日山徒の堅田襲撃があったが、右の如くにして祖像も上人も難を避けることが出来た。しかして三井寺満徳院の斡旋により、三井寺との間に諒解が出来たので、祖像を南別所の近松に安置した。すなわち近松御坊で、後に顕証寺と称したところ、今の大津市南町の近松別院がその遺蹟である。この地は三井寺の境内であるから、叡山大衆が本願寺に対して如何に不快のことがあったとしても、何等手を出すことは出来ない。けだし叡山と三井寺との確執は平安時代以来久しいことで、互に対立していたから、三井寺の境内は叡山に対して一種の治外法権の地であったからである。されば叡山の迫書を蒙りつつあるものにとって、三井寺のこの地は全く安全地帯である。かくて寛正六年以来四年間、諸地を転々流寓した上人は近松御坊の設立によって初めて安住の地を得、ここに家族と共にしばし平安の日を送り迎えた。また宗祖の廟所の地を失って寂寞を感じつつあった門徒もここに一陽来復の春に遭うことを喜び合ったことであった。 五 吉崎の遊化  近松に安住の地を得た上人は、ここを中心として近江・美濃・尾張あるいは河内・摂津等の諸方面を巡化し、また諸国門徒の近松参詣もようやく数を増して、すべては順調に進みつつあった。しかるに、実如上人初め蓮淳(兼誉)蓮悟(兼縁)以下七女を挙げた上人の継室蓮祐尼は、文明二年十二月に没した。これによって上人も少なからず力を落したようで、その頃から北陸の遊化を思い立ったと伝えられている。北陸は本願寺歴代とことに因縁の深い地であるから、門徒の懇請もあったであろうし、上人の気持も動いたであろう。かくて翌三年五月中句その旅に上ったので、特に上人五十七歳である。  元来本願寺が初めて北陸と因縁を結んだのは覚如上人の時代で、応長元年(一三一一)上人自ら越前大町如導の許に下ったに始まる。けだし当時高田門徒の勢力は三河に伸びて京都から東海道への通路を扼し、近畿や中国は仏光寺の教線によってほとんど占有されている。されば教団の統一を志念して本願寺の興隆を図った上人が、新たに教田を開拓せんとすれば残された地は北陸以外に存しなかったからである。かくて本願寺と北陸との関係は開かれ、上人の時代には越前方面においてその門下に列するものもあったが、本願寺と北陸との関係をさらに進展せしめたのは第五世綽如上人である。すなわち上人が明徳元年(一三九〇)越中井波に建立した瑞泉寺は、上人の勧進によって加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨等の門徒を糾合して完成したもので、上人は当寺によって北陸門徒を統摂し、以て不振の本願寺を興隆せんとしたのである。しかるに上人は間もなく示寂したので、遺志を継いだ第六世巧如上人は自ら瑞泉寺に下ったこともあり、また北陸の開教に力を注いだ。しかして上人の弟頓円鸞芸・周覚玄真の両人は加越門徒の支持によって越前に下り、藤島超勝寺・荒用興行寺等が建立された。さらに第七世存如上人の生涯も多く北陸の教化に始終したものといってよい。上人が越前を初め加賀・能登の門徒に下附した聖教や宗祖絵伝等が数点今に伝っているばかりでなく、越前石田に西光寺を創め、またその女を諸地に配している。しかも越中瑞泉寺に入寺した上人の弟宣祐如乗は加賀に進出して二俣に本泉寺を創しているので、存如上人の晩年には本願寺教線は北陸一帯にわたることとなった。  こうした本願寺歴代と北陸との因縁、ならびにこの地が上人にとって曾遊の地であることを考える時、たとい大津近松においてしばし安住の生活をつづけていたにしても、やがて再び北陸巡化の旅途に上ったことは決して偶然ではない。かくて越前から加賀への途次、吉崎が景勝の地で、門徒の参集に使利であるから、ここに坊舎を構えることとなった。吉崎は越前坂井郡の西北部加賀との境に近い小高い丘陵の地で、河口荘十郷の一なる細呂宜郷下方に存する。上人をこの地に導いたのは、越前守護朝倉孝景であるとか、または上人の門弟安芸蓮崇であるとか、古来色々の伝説がある。しかし元来吉崎は南都興福寺の所領で、当時上人と親しい関係にあった前述大乗院経覚が隠居料所として支配していたところであるから、上人がここに坊舎を営構したのも経覚との因縁によるところと考えられ、吉崎下向後の上人は経覚と密接な交渉があった。  上人が吉崎に居を占めたのは文明三年六月下旬からで、坊舎は七月下旬に建立された。この年には加賀方面に赴いたこともあるらしいが、爾来吉崎にあって熱烈な教化に当った。当地の教化としてまず注意すべきは『御文』の述作である。『御文』の撰述は上人の生涯を通じてその教化を代表する重要な事蹟であるが、就中年記のある最初のものはいわゆる「筆始の御文」(帖外一)で、寛正二年三月の作である。すなわち『御文』は、前述『正信偈大意』が完成した翌年から始っているが、爾後吉崎下向に至る十余年間の述作はわずか数通に過ぎない。しかるに吉崎下向後およそ一年を経た文明四年五月以来、ことにその述作は頻繁となり、遂に示寂の前年までつづいている。『御文』は鎌倉時代以来勃興した仮名法語の形においてなされたものであるが、上人としては、宗祖が帰洛後関東門弟に与えた御消息に示唆されたものと思われる。しかして上人は簡明な文章を以て端的に真宗の要義を説示し、門徒参集の場合これを読み聞かせて、宗義の民衆化と安心の統制とに意義深い効果を収めた。こうして読み聞かせる場合、新たに『御文』を述作することもあるが、旧作を再用することもある。述作年時の欠けているものは、しばしば用いられたので、年月日を添えておく必要がなく、省略したものもあろう。また旧作の場合は、これに訂正を加えることもあったから、同一通に色々の修正本が現存するのである。稲葉呂丸氏の編輯になる『蓮如上人遺文』には「諸文集」として二百二十一通(外に真偽未定十四通)を収め、如上の修正本が一々集成されているが、もしそれをも一通宛に数えると、その総数はこれより遥かに多くなるわけである。それはともかく、『御文』はかように門徒に読み聞かせることがしばしばであったが、また上人はこれを書き与えたことも勿論である。上人自筆の『御文』は五十余通現存し、普通は美濃紙型の料紙を横に継ぎ合せて認めている。しかしまた特に横一尺余・縦三尺余の料紙に麗しい平仮名で縦書きしたものが数点存するのは、もともと掛軸として執筆したものである。『御文』の蒐集はこの後色々の形で行われているが、最も早いのは文明五年蓮崇によってなされたもので、それについては次下に言及するであろう。  吉崎における上人の教化として次に特筆すべきは『正信偈和讃』の依用である。親鸞聖人の和讃は早くから諷誦されたことは『破邪頭正鈔』(巻中)にも見えるが、実悟の『本願寺作法之次第』に、「当流の朝幕の動行、念仏に和讃六首加えて御申候事は近代の事にて候、昔も加様には御申ありつる事有げに候へども、朝幕になく候つるときこへ候、存如上人御代まで六時礼讃にて候つるとの事に候、(中略)文明の初比まで朝幕の動行には六時礼讃を申して侍りし也」とある。すなわち和讃は時に諷誦されることがあったにしても、朝夕の動行としてはむしろ『礼讃』が用いられたのである。しかるに蓮如上人に至って和讃に改められたので、実悟は右の文につづいて、「然に蓮如上人越前之吉崎へ御下向候ては、念仏に六種(首)御沙汰候しを承候てより以来、六時礼讃をばやめ、当時の六種(首)和讃を稽古致し、瑞泉寺の御堂衆も申侍し事也」といっている。しかも上人は『三帖和讃』に『正信偈』を加えて四帖とし、その普及のために文明五年三月これを開板した。これ真宗における聖教開版の最初で、次の刊記がある。   右斯三帖和讃並正信偈四帖一部者、未代為興際板木開之者也而已    文明五年癸巳三月 日                           (蓮如花押)  上人の『正信偈』に対する関心についてはすでに述べたが、『三帖和讃』は、上人が、永享八年八月金宝寺教俊に、宝徳元年五月加賀木越光徳寺性乗に、さらに享徳二年十一月近江手原道場に、各々書写して授与しているもっとも、これらは存如上人の在世であり、存如上人自身も永享九年九月同じく『三帖和讃』を加賀吉藤専光寺に写与している。しかもこれ以前に『三帖和讃』が多く書写された形跡がないから、本願寺において和讃に注意するに至ったのは存如上人の時代蓮如上人の若年の頃かと考えられる。なお右の手原道場へ下附したものには未だ『正信偈』は加えられていないから、『正信偈』と『三帖和讃』とを一具としたのはこれ以後、文明五年に至る二十年程の間のことで、蓮如上人の創意によるといわれている。元来和讃は今様と共に発達し、鎌倉時代以後民間に広く行われたものであるが、当時の仏教各派中ことにこれを多く用いたのは、一遍上人の時衆である。しかも越前には時宗は盛んで、すでに早くこの地の真宗の大町門徒の如きその影響を受け、和讃を諷誦すると共に踊躍念仏を行じたことが『愚暗記』ならびに『同返札』に見える。されば大町如導の系統は後に三門徒といわれるが、この「三」は和讃の「讃」の転訛でないか、とも考えられている。かくの如き時代の傾向や越前という地理を思い合す時、蓮如上人がすでに宗祖に先蹤ある和讃の諷誦を朝夕の動行として採用した理由も自ら首肯されるであろう吉崎は元来孤狼野干の棲む淋しい丘陵であったが、上人来住の後は各地門徒の参集の中心となり、山上には多屋が御坊を中心として多数設置され、山下には商家が出来て、一種の宗教的都市が形成された。多屋の多は他の意で、本坊に対する他屋を意味し、地方門徒が参詣の場合宿泊聞法する宿坊をいう。吉崎では法敬坊とか本光坊とかの如く坊号を使用していたが、越前や加賀方面の有力寺院は吉崎に多屋を設け、家族の一部をここに留めて宿泊者の世話をさせた。多屋の坊主とか内方というのは、こうした多屋に居住する僧侶やその妻女のことである。吉崎の多屋はその数百戸以上に及んだというから、その般盛を思うべきである。これは上人の人格によるは勿論であるが、また前述の如き覚如上人以来の本願寺の北陸開教とも深い関係のあるところで、今や蓮如上人の来化によって、それが結実し点晴されたものというべきであろう。  文明二年十二月継室蓮祐尼没し、翌年二月長女如慶尼逝いて後は、次女の見玉尼が上人の側近に侍して万事世話していたと思われる。しかるに見玉尼も四年五月から病臥して容易に癒えず、八月一日には七歳の童女(了忍)が没したが、遂に見玉尼は十四日二十五歳の生涯を閉じた。上人が見玉尼を悼む『御文』(帖外一六)には切々の哀情をとどめている。しかもこうした家庭苦の中にあっても、上人の教化はますます熱を加え、吉崎に参集する地方門徒は次第に増加し、一日々々繁栄してゆく。しかし多数門徒の群集は、越中立山や加賀白山等諸寺の嫉視を招き、守護地頭初め地方武士との間に問題を惹起する恐れがある。さらに何分戦乱の絶えぬ土民蜂起の時代であるから、吉崎の如き一所に多数の門徒が来集することは一部の野心家に利用される憂なしとしない。されば上人はこうした点に留意して、たとえば文明五年十一月作るところの十一箇条の制条(帖外二四)の如く、いわゆる「掟の御文」(二ノ六)の如く、門徒に訓誡を加え、また吉崎参集を制限したのである。しかし門徒の来集は依然として増加するばかりであり、また当地の気候が上人の健康に適しなかったので、上人には早くから帰京の心が動き、文明五年九月には越前藤島にまで移った。しかし多屋の面々が帰住を懇請して已まないので、上人も所志を果さず、やがて再び吉崎に帰住した。この翌六年三月吉崎の山上では南大門の多屋から出火して本寺や多屋の一部を焼失したが、間もなく復興した。かくて七年七月上人は加賀二俣に赴き、次いで越中に出て瑞泉寺に至り、さらに東国遊化の意志があったが、上人の下向に伴う地方門徒の参集は、諸国武士や諸宗諸寺の偏執を誘い誤解を招く恐れがあったから、これを中止して越中から吉崎に帰った。しかるにその後、間もなく重大事件が突発し、遂に上人は吉崎を退去せざるを得ないこととなった。 下間安芸法眼蓮崇は越前麻生津の人で、吉崎来化の上人に親近し、日常その座右に侍して上人の信任篤く、門徒その他の取次をなしていた。彼の書写になる『御文』一帖が能登正院の西光寺に伝えられているが、もと瓶子屋という家に伝来したので『瓶子屋御書』とも呼ばれる。表紙に「諸文集【自文明第五 至文明第三間也】」の外題ならびに「蓮崇」の袖書がある。内容は文明三年の分五通、同四年の分一通(外に聖教抜書一通)、同五年分八通(外に端書一通)で、巻頭に上人が端書(帖外一九)を加えている。この端書は文明五年九月二十七日越前藤島超勝寺において上人が認めたものであるが、巻未の二通も(帖外二〇・同二三)また上人の真蹟で、最後の一通は同五年霜月二十一日起草のものであるから、右の端書を記して後にさらに上人が加筆したものである。以て上人と蓮崇との密接な関係を推察すべきであろう。  しかるに当時加賀においては牢人の擾乱絶えず、本願寺門徒の一部もその渦中に陥るようなこともあった。また牢人の一部は吉崎をも敵視することがあり、文明七年五月の頃には吉崎も相当険悪な雰囲気にあった。されば万一の場合を慮り、吉崎においてもその場合には多屋衆が一同協力して防備すべきことを予定していた。勿論上人は宗徒が牢人に対して積極的行動をとることは厳禁していたので、それはこの時記した『御文』(帖外四四)によっても知られる。しかるに風雲に乗ぜんとする野心を抱いた蓮崇は、上人と門徒との間に介在し、偽って上人の命と称して門徒を煽動し、遂に上人を窮地に陥れる結果となった。しかも上人は蓮崇の異図を知らず、この年八月八日には宗祖絵伝四幅を蓮崇に下附している程である。しかるに蓮崇の秘計を察知した上人の息男蓮誓・蓮綱等は兄順如と共に上人に注進したので、初めてこれを知った上人は八月二十一日夜順如の船に乗じて吉崎を退去し、海路によって若狭小浜に上陸したのであった。 六 山科本願寺  文明七年八月、若狭小浜に上陸した上人は、やがて丹波路を経て摂津に入り、次いで河内出口に移り、この地を中心としてしばし近畿の教化に当った。出口は北河内郡蹉陀村に属し、伏見と大坂との中間、淀川の南岸に沿うたところで、河流も陸路も共に至使の地である。この出口御坊はこの近在九間在家に住した光善が取り立てたところであるが、山科建立の後、これを順如に相続せしめたのは、この坊を重視したものに外ならぬ。次いで摂津三島郡富田にも坊舎が建てられた。この坊に安置さるべきであった運坐像(鷺森別院蔵)には文明八年十月二十九日の日附があるから、当坊建立の年時も略々推定される。さらに和泉堺にも坊舎が出来ている。上人の教化が堺地方に及んだのはすでに早い時代で、文明二年六月この地の南庄紺屋道場の円浄に寿像を、同年十月には北庄樫木道場の道見に宗祖絵伝四幅を授与しているから、この両坊は当地の真宗の開拓者ともいうべきであろう。上人が堺御坊を営み、信証院と称したのは文明八・九年の頃で、文明九年九月の『御文』(四ノ三)には「信証院」の署名がある。荊日国の人が上人の教を受けたというのは上人伝の有名な挿話であるが、これは堺においてのことである。堺は応永の初めすでに民家一万と称され、内外交通の要津に当っていたから、こうしたこともあったかと思われる。荊旦とは契丹のことであるが、当時は契丹も女真も亡んですでに相当の年代を経ているからこれは北支か、満洲あたりから来朝した外人をいうのであろう。  かくて近畿の弘教につくしつつあった上人は、文明十年正月下旬、山城山科に居を移した。けだし山科に本願寺を再建するためで、この地を選んだのは近江金森の善徒の慫慂によるという。当時山科を領有していたのは三井園城寺であるとか、醍醐三宝院であるとか、史家の間に両説あるが、三宝院領であったと見るべき根拠が有力である。しかして当時の三宝院門主義覚は将軍義政の子であるが、上人の第四女(法名妙宗)は、将軍家の上藹として春日局と号した摂津氏の女(元親の妹)に養われた因縁から、義政に仕えて左京大夫と号し、すでに文明九年の頃には幕府の申次をしていたことが明らかにされている。しかも義政の室富子は日野家の出で、文明十二年山科本願寺を訪ねているから、上人と義政との関係は坊舎建立以前から相当密接であったであろう。もっとも山科に寺地を相した文明十年は、義覚はなお十一歳であったから、彼は直接この問題に関与したとは考えられないが、本願寺として再興の地をここに相するについては、山科が如上の関係にある三宝院領であることに、ある心安さを覚えたことはたしかであろう。山科の所領関係はおよそ右の如くであるが、坊舎の造営された山科野村西中路の地は、現在の山科西宗寺の祖浄乗が寄進したと伝えられる。この所伝は色々の点から信拠してよいと考えられるが、浄乗は俗名を海老名五郎左術門と称したと伝え、文明十三年十月十八日蓮如上人から本尊を授与されている。恐らく彼はこの地の士族で、上人に帰依して寺地を寄進したので、その後が今の西宗寺となったものと思われる。  本願寺の造営工事は『御文』(帖外六〇・六五・六七)にその過程が述べられてある。すなわち上人の山科移住後間もなく堺から信証院の建物を移したに始り、次いで馬屋等を構えて越年したが、翌十一年夏から寝殿の造営にとりかかった。また同時に御影堂の建築準備に努め、河内の門下をして吉野の木材を運ばせ、十月には柱五十余本その他の用材が集り、十二年正月には御影堂の模型として小形の堂を造った。宗祖聖人の影像を安置する御影堂は、本願寺として最も重要な建築であるからで、上人もその工事に深く配慮したことが、これによって想察出来る。しかして二月より本建築にとりかかり、三月二十八日上棟、八月四日から桧皮葺を始め、二十八日には堂内に仮仏檀を構え、絵像の御影を安置した。当夜上人は堂内に篭って一夜を明したが、『御文』(帖外六五)に当時の心境を述べて、「されば年来愚老京田舎をめぐりし内にも、心中に思様は、あはれ存生の間において、此御影堂を建立成就して、心やすく往生せばやと念願せし事の、今月今夜に満足せりと、うれしくもたふとくも思ひ奉る間、其夜の暁方までは、つゐに日もあはざりき」とあるが、以て上人の感懐を推察すべきであろう。しかしてこの翌二十九日禁裏より本願寺建立について奉加として香筥を賜った。すなわち『御湯殿上日記』この日の条に「ほんくわん寺とりたてらるゝにより、御ほうかに御かうはこいたさるゝ、みん部卿御つかゐ」とある。また日野富子が本願寺を訪ね、御影堂を一覧したのは十月十四日で、上人も「前代未聞の事」と歎じたことが『拾塵記』に見える。宗祖の真影は前年来大津に安置してあったが、これを山科に迎えたのは、この年十一月十八日のことで、二十一日から十七日の御正忌が厳修され、遠近の門葉が参集した。御影堂成就して後、祖像の遷坐に至るまで三箇月を要したのは、三井寺が容易にこれを返還しなかったによるものなるべく、祖像安置によって門徒の参集も多く、ために三井の地下寺中がことに繁呂していたからであろう。  翌文明十三年正月寝殿の大門立柱、二月四日より阿弥陀堂の工事を起し、四月二十八日上棟、六月八日には仮仏檀を構え、本尊を安置した。しかしてこの新堂において前住存如上人の第二十五周忌が同十八日から修せられた。次いで十四年正月二十八日御影堂大門を立柱し、またその附近の地ならしと共に四方に堀を造り、堀に沿うて松を植え、門前には橋を架けた。さらに境内の小棟の改築をも行い、寝殿の天井も張ったが、阿弥陀堂の仮仏檀も改造して六月五日には本尊を安置した。また関七月には仏檀を漆塗とし、絵師に採色させ、杉戸や仏殿後の張付等には蓮を描いた。阿弥陀堂の瓦は十五年五月中旬から焼き初め、八月二十二日には瓦葺も終った。以上のような諸堂舎の配置や荘厳等は東山大谷の本願寺の結構を参照したことであろうが、門未も増加したことであるから、万事規模が大きくなったことは勿論であろう。かくて山科本願寺の諸建築は大体文明十五年には一往完成したので、その後も色々の修理や増築も行われ、上人の晩年には大いに整備したことと思われる。  山科本願寺が大体整備した文明十五年八月上人は有馬に湯治している。『有馬紀行』(帖外七三)はこの時の紀行で、軽妙快適の情趣が全篇に溢れ、行楽の気分に充ちているのは、湯治の記であるにもよろうが、当時の上人の心境を示唆するものとも見られよう。また同十八年三月堺より紀州に下り、冷水に至っている。この時の紀行が『紀伊国紀行』(帖外一八四)で、前述『高野紀行』と同様多数の和歌が載せてある。『高野』『有馬』『紀伊』の三紀行は総じて『蓮如上人道之記』として古来広く知られたところで、上人の豊かな文藻と趣味とがよく現れている。  先に御影堂建立の際禁裏から香筥を下賜されたことを一言したが、また文明十六年二月七日には本願寺から梅の枝を、同十八年二月十三日には榧の木を上っている外、『御湯殿上日記』には禁裏との交渉について二三所見がある。また『資益王記』『実隆公記』『後法興院記』その外公卿の日記には、文明より明応にかけて本願寺一門の人々の動静が多少現れて来る。さらに、上人の第九子(妙宗尼)が将軍義政に接近したり、日野富子が本願寺を訪ねたこと等、すでに言及した通りであるが、本願寺の重宝『慕帰絵』が将軍家の手許に貸し出されてあったので、文明十四年十二月飛鳥井宋世を介して返還された如きも、本願寺と将軍家との親近を示唆するものである。武家の中では、近畿に覇を唱えた細川政元とはことに親密で、『実悟記』によればしばしば本願寺を訪ねた如くで、遂に内輪の者同様魚物を出して接待したという。こうした公武との交渉が頻繁に現れて来るのは、本願寺の完備、実力の充実を物語るものに外ならぬであろう。  かくの如き本願寺の内外整備と共に、上人の教化は一層四方に振起したのであったが、ここに特に注意すべきは他派から本願寺に帰入するものが少なくなかったことで、これによって本願寺の教線は更に一段と伸展した。しかしてその第一は仏光寺の経豪である。仏光寺は南北朝時代以後近畿より山陽山陰にかけて教線を張り、その勢すこぶる盛んであった。寛正六年叡山が本願寺を破却した時、仏光寺は妙法院門跡の口入によってことなきを得たが、応仁の戦乱に際しては難を避けて寺基を摂津平野に移していた。しかるに『反故裏書』『仏光寺文書』その他仏光寺の所伝等を綜合するに、経豪は文明元年五月父性善が平野において没するや、百日を出でざる間に順如を介して志を本願寺に通じたというが、その後間もなく蓮如上人の北陸行化となったためか、彼の帰入は急に実現せず、なお十年ばかり仏光寺の寺務にあったようである。ところが文明十年以来山科本願寺の建立が進むと共に、彼は段々本願寺に接近したもののようで、当時本願寺と仏光寺との関係を注視しつつあった比叡山大衆は、文明十三年十月、その決諸として、経豪が相伝の法流を閣いて無礙光の義を行ず、との風聞をとりあげ、しかる上は、適宜器用の人を以て仏光寺の住持たらしむべし、と警告し、さらに翌十四年四月には経豪の本願寺帰入が露顕した上は、兄弟中正法発起のものを後住とし、また未寺中経豪に従うものは適宜処分すべきことを通告している。されば経豪の本願寺帰入は文明十三、四年の交にあったのであろう。仏光寺では経豪の弟経誉をして後継せしめたが、門徒の大部分は経豪に従って本願寺に帰入したので、寺僧四十八坊の中四十二坊は地方門未を率いて本願寺に入ったという。蓮如上人は経豪に蓮教の名を与え、常楽台蓮覚の長女をこれに配して優遇し、山科に一寺を設け、興正寺と称せしめた。この寺号は覚如上人の故事に倣ったもので、仏光寺は創立当初覚如上人の命名によって興正寺と号したのを、後に仏光寺と改めたものであるからである。蓮教は明応元年五月四十二歳を以て没しているから、文明十三年帰入とすれば、時に三十一歳であったわけである。蓮教の帰入に随伴した門徒は近畿および中国に数多く、それらは今後においても永く興正寺と特別な関係を有したが、仏光寺はこれによって大打撃を蒙り、爾後昔日の面影を失って不振に陥った。  次に越前横越証誠寺の善鎮が蓮如上人に帰依し、本願寺に帰入した。文明十四年のことで、時に善鎮は十八歳であった。証誠寺は越前三門徒の一で、『反故裏書』によると当時善鎮は法義に心をかけず、世芸を専らとし、外道の秘術を学んだので、家司渋谷某が善鎮を山科に誘うて蓮如上人に帰せしめた、という。上人は善鎮に正園坊の号を与えたのであるが、善鎮はこの後越前武生に陽願寺を創立した。かくて彼は上人の感化によって正統の安心に帰し、上人からも愛されたようで、現在陽願寺に伝うる実如上人の書状によれば、善鎮は一流の法義を信受せるものとして、蓮如上人の遺言により、その遺骨を分与されている。  第三に勝林坊勝慧である。これは上人隠退後のことであるが、ちなみにここに記しておこう。近江木部の錦織寺は慈空の開基で、存覚上人とも関係深く、上人の子慈観が相続しているが、慈観の後は慈達・慈賢と相継いだその間本願寺と交渉を保って来たが、寛正四年六月慈賢没して慈範が寺務を継いだ前後から、本願寺との関係は疎遠となった。勝慧は慈範の弟叡尚の子で、慈範の後は叡尚・勝慧と相承けたのであろうが、明応二年勝慧は遂に本願寺に帰入したので、時に十九歳である。この時近江・伊賀・伊勢・大和等の錦織寺の門未は共に随って本願寺に帰し、錦織寺はこの後振わなくなった。蓮如上人は勝慧を山城紀伊郡三栖に住せしめたので、彼はここに勝林坊を営み、上人の第十一女(妙勝尼)と同棲した。その後明応九年七月妙勝尼は二十四歳で没し、勝慧もやがて大和下市願行寺に入り、さらに上人の第十三女(妙祐尼)を娶っている。  応仁元年以来京都の市区は兵乱のために灰燼と化したが、山科本願寺の建立はあたかもその頃で、時人の注日を引いたことであろう。しかも宗祖の影像が近松御坊から遷座すると、地方門徒の参詣も多くなり、したがってその境内を中心として寺院や商家が建ちならび、一つの門前町を形成するに至った。有名な山科の寺内六町はその商業区城を示すもので、時を報ずる太鼓が二箇所に設けられていたというから、その地城も相当広かったと思われる。もっとも、これは実如上人の時代のことであるが、蓮如上人の晩年には境内の周囲に土居と堀とが造られ、六町の六、七分は出来上っていたと考えられるので、この土居や堀の一部は江戸時代まで原形のまま残っていて、ほぼその輪廓が推察することが出来る。かくて実如上人を経て証如上人の時代に至れば、本願寺は、無景の荘厳仏国の如し、といわれ、寺内の民家また洛中に異ならず、と称される般盛を来すのである。しかしてこの寺内町は大坂石山の例から推して、本寺が信仰上のみならず、政治上経済上の主権をも持っていたと思われるので、その点は従来存した一般社寺の門前町と異るものがあり、むしろ諸国大名の城下町に類する性格を存したことが注意される。 七 退職と遷化  延徳元年蓮如上人は七十五歳を迎えたので、法嗣実如上人に職を譲った。時に上人三十二歳、上人が法嗣と定まったのは既述の如く十一歳の時で、継職のことは結局時間の問題であった。しかしさていよいよそれが実現されようとすると、実如上人としても感慨深く、文盲の故に如何にして天下の門徒を勧化しようか、と辞退したのであったが、父上人は文盲こそ却って望ましく調法至極と申されて、強いて継職せしめたということが『栄玄記』に見えている。けだし実如上人はその筆蹟を見ても想像される如く、すこぶる穏和な性格で、むしろ重厚な人柄であったと思われる。しかし蓮如上人の生涯は本願寺として創業にも比すべき偉業であったから、その後を承けて守成の任を全うするには、むしろ遺訓を忠実に守ってゆく人が望ましいので、父上人は実如上人のそうした立場と性格とを洞察して職を譲ったものであろう。されば父上人なき後にも、実如上人は数多い兄弟達の信望をよく集め、多難の本願寺を守成したのであった。  職を譲った蓮如上人は南殿に隠退した。南殿とは山科本願寺の境内近在に造られた隠居所のことで、現在山科音羽の光照寺と西野の西宗寺とが共にその旧趾といっているが、果していずれに当るか、なお研究を要するところである。上人の南殿移住はこの年八月二十七日のことで、『空善記』によると、その夜上人は、「功なり名とげて退くは天の道とあり、さればはや代をのがれて心やすきなり、いよいよ仏法三昧までなり」と述懐したというが、成すべきことをことごとく成就し了えた上人の感懐を偲ぶべきであろう。かくて退職して仏法三昧の生活に入った上人は、翌二年十月二十八日重ねて実如上人に譲状を認めて周到な用意を示し、なお寺務についても若き宗主を輔導して後見したばかりでなく、しばしば出でて摂河泉の間を往来し門徒の教導に当った。上人の晩年の行実を筆録した『空善記』には、上人が山科を中心として、一年に何回となく河内出口・摂津富田・和泉堺ないし近江堅田等を往来し、余生を地方教化に捧げつくした動静を伝うるものがある。  しかるに明応五年上人八十二歳の九月に至り、摂津東成郡生玉庄大坂に寺地を相して坊舎建立の工事を起したすなわち大坂御坊で、今の大阪城本丸の地であるという。この地は、当時は全く孤狼の棲む「家一つなき畠ばかり」のところであったが、生玉明神の宮寺たる法安寺に境を接し、後に至るまで鹿苑院に地子銭を納めているから、相国寺の所領で、法安寺が代官を動めていたものと思われるが、また森の祐光寺の祖正顕が坊舎建立について斡旋したようである。九月二十九日鍬始めを行ったが、日柄が悪かったので、上人も俗説に従って一日延期したともいい、あるいは「如来法中無有選択吉日良辰」とてそれを拒否したともあって、『拾塵記』と『反故裏書』とでは所伝が異るが、ともかく工事は十月八日に一往終了したというから、最初は簡単な建物であったのであろう。しかし『本願寺作法之次第』には、奥に持仏堂が造られ、上人筆の敬信閣の額が掲げられていたことが見えている。また『拾塵記』には、これまで上人が建立した坊舎は惣門徒の懇志によったが、大坂御坊は上人自身の希望によったものであるから、その費用は上人が門未に下附した名号の礼銭によったものであることを記している。これはこの坊舎の性質を考える上に注意すべきものであろう。  大坂御坊の建立中、上人は堺御坊から往来して工事を督したというが、上人が山科から堺に赴く場合、淀川を船で下り、渡辺の津で上陸し、爾後乗馬で南下するのが例であったから、その途次この地に着日し、法安寺にも立ち寄り、遂に坊舎の建立となったものであろう。上人遷化の後三十余年天文元年八月山科本願寺が兵火のために退転するや、証如上人は大坂御坊に移ってこれを本寺となしたが、次の頭如上人の時代、織田信長との間に戦端の開かれたのは、この大坂本願寺を中心としてであった。しかも容易に信長の手に陥らなかったのは、一面においてこの地の要害によるところである。すなわち北は淀川、東は大和用に囲まれた丘陵地で、景勝の地であると共に軍事上要害の地であり、また瀬戸内海への水上交通の要術である。されば吉崎といい大坂といい、蓮如上人が坊舎を経営したところは多く要害の地であることから、一部の論者は上人は好戦的で、いわゆる一向一揆の張本人であったかの如く説くことがある。しかし上人はしばしば宗徒の武力行使を厳禁し、守護地頭に服従を説いたことはその言行に明らかである。また文明・長享の間加越の地では一部の本願寺門徒が武士の擾乱に加っていないではないが、これは全く上人の関知せざるところである。しかし何分戦乱の時代であるから、他から波及する戦禍を避けるためには要害の地を選ぶことは心あるものの当然の処置である。さればこの故を以て上人を好戦的とするのは全くの誤解で、それは上人を強いて誣うるものといわねばならぬ。  大坂は富田と出口と堺との中間に位し、山科との交通も淀川の水運によって使利であり、出口の如き水害の憂もない。ここにおいてか上人は、大坂御坊成立の後は多くこの坊舎に居住したので、他の三坊は全く大坂の支坊の如き観があった。上人は隠退後も報恩講は山科でつとめ、色々指図をしたが、明応六年は富田と大坂とにおいてこれを営み、爾来多く大坂に住したのであった。  しかるに明応七年四月の頃より上人の旧病は再発し、色々治療を施したが容易に恢復しない。そこでこの年十一月大坂の報恩講に草した『御文』(四ノ一五)には、参集の門徒にすでに命終近きことを告げ、皆々信心決定して共に往生極楽の素懐を遂ぐべきことを説いている。しかしてこれ以後遷化に至るまでの消息は空善が詳しく記しているが、今それによると、翌八年二月には、この大坂の地において入寂することを覚悟し、葬所の準備にとりかかっている。これは上人がこの地を愛したによるであろうが、何か事情があってか、にわかにこの予定を変更して山科に帰ることとなり、十八日大坂を出発し、途次三番の浄賢の道場に一泊し、二十日には山科の南殿に到着した。  かくて翌二十一日御影堂に詣し、計らずも生存中再び拝礼を遂げ得たことを喜んだが、二十五日には境内周囲の土居や堀を一覧し、二十七日には御堂に参詣して帰りの際、来集の門徒とも名残を借しんだ。三月朔日には北殿に参り、実如上人初め兄弟衆を召し、機嫌よくしばし雑談に時を過し、翌二日には桜花を見たしとの所望があったので、空善が奔走して差し上げた。三日吉野より上った桜花を見て詠じたという和歌に、   さきつゞくはなみるたびになほもまた、たゞねがはしき西の彼岸   をひらくのいつまでかくや病みぬらん、むかへたまへや弥陀の浄土へ   けふまでは八十地に五つあまる身の、ひさしくいきしとしれやみな人 という三首がある。人事を了え天寿を全うした上人の静寂の心境はまことに人の胸を打つものがある。しかして七日には行水し衣裳を改め、阿弥陀堂から御影堂に最後の礼拝を遂げ、九日には日頃昵近せる法敬坊・空善・了珍等を召して法話したが、空善の差し上げた鴬が法を聞けと鳴くとさとし、また慶聞坊をして『御文』三通を読ましめて自ら聞き入った。さらに寝所の畳をあげさせて日頃乗用した尉粟毛の馬を近くに召し寄せてこれとも別れを告げた。顕誓の『今古独語』に、この九日上人は実如以下蓮綱・蓮誓・蓮淳・蓮悟等の五子に対して、宗祖聖人の法流を興隆せしめた自らの生涯を物語り、今後未代に至るまで兄弟中真俗共に伸よく談合してゆけば、必ず一流の儀は繁昌するであろう、と誡めたことを記している。『蓮如上人御遺言』に載せた右五人の連署した「兄弟中申定条々」はこの後四月五日に出来たものであるが、それは右の上人の遺誡に基づくものであろう。  右の如く、上人は親しき人々を初め桜花より禽獣に至るまで静かに借別したのであったが、十日には、   我しなばいかなる人もみなともに、雑行をすてゝ弥陀をたのめよ   八十地五つ定業きはまる我身かな、明応八年往生こそすれ の二首の和歌を詠じた。上人の詠歌とその縁起とを集めた実悟は、右の二首を記した後に、「此後は御歌もなかりき」といっている如く、これが上人の最後の詠歌となった。次いで十八日には、諸子に対して、「かまえて我なきあとは御兄弟たち仲よかれ、ただし一念の信心だに一味ならば、仲もよくて聖人の御流儀もたつべし」とくれぐれも遺訓している。しかるに翌日からは最早食も薬も欲せず、とてこれをとらず、ただ称名ばかりで、二十二・三日には一時脈の杜絶えることがあってもまた恢復したが、二十五日正中頭北面西して遂に眠むるが如く往生した。享年八十五、ここに一世の偉人蓮如上人は波瀾曲節に充ちた生涯を閉じた。  遷化の後、遺言によって、遺骸は御影堂の宗祖の影前に安置して門徒に見せしめたが、二十五日の晩景には数万の人々が礼拝を遂げた。また荼毘は四月二日と披露したが、翌二十六日俄かにこれを行った。けだし諸人の群集を慮っての処置である。ちなみに明治天皇が慧灯大師の諡号を賜ったのは明治十五年三月二十二日のことである。 八 上人の化風  本願寺の基礎は覚如上人によって定められたが、爾後本願寺は久しく不振の状態にあった。勿論その間歴代宗主によって宗門興隆の潜勢力は養われつつあったにしても、蓮如上人出世の頃はまことに沈滞の極にあった。しかるに、そうした本願寺を著しく発展せしめ、後世の盛観を基礎づけたのは実に蓮如上人八十五年の生涯においてであった。されば古来上人の芳蹟を頌して本願寺あるいは真宗の中興というのはまことに故あることである。上人の宏業は、一言にしていえば、その人格と徳望とに由来するは勿論であるが、その教化の精神と態度とを辿る時、自らそこに上人の指導理念ともいうべきものが見出されるであろう。  実悟の記した『本願寺作法之次第』に、蓮如上人は、従来の東山本願寺内には上壇下壇の区別があったのを山科本願寺では撤廃して、互に平座にて親しく民衆に接して教化した、ということを記し、それは、「仏法を御ひろめ御勧化につきては、上藹ふるまひにては成べからず、下主ちかく万民を御誘引あるべきうへは、いかにもいかにも、下主ちかく諸人をちかく召て御すゝめ有べき」という信念によってなされたもので、まことに「ありがたき御事と諸人申たるとて候」と述べている。これは上人の庶民的教化態度を窺うべき適切な一例である。存如上人は形儀も声明も厳重に教え、田舎の衆へも常住の衆へも、平座に対坐して、一首の和讃のこころをも説かれたこともなく、また互に雑談などもしたことはなかった、と蓮如上人が述懐したことが『空善記』に見えているが、こうした教化態度における「上藹ふるまひ」を改めるために、上人は寺院内の構造を改良したものであろう。大谷に上下壇の区別を設けたのは何時頃からか確証はないが『祖師代々事』には、巧如上人の時代には、法談の時に下壇に眠むるものを日さますために、仏檀の脇に一尺ばかりの竹を積みおいた話を載せているから、当時すでに厳格な教化態度であったことが推察される。けだし善如・綽如上人の時代から、大谷の寺院生活には威儀を尊重する傾向の現れたことは『実悟旧記』等に見えた著名な事実であるから、そうした雰囲気の中において、一般への教化態度も「上藹ふるまひ」となり、いわば貴族的なものとなって来たのであろうと思われる。  右の如き傾向の由来するところは何であったか、それは一つの問題であるが、ともかく右の如き教化態度は本願寺としては必ずしも適切なものではなかった。けだしもともと真宗教団は、宗祖の庶民的教化によって庶民階級を基調として成立したものであるから、高きところから教化する「上藹ふるまひ」をすてて「下主ちかく」平座にまで下る必要があったのである。蓮如上人の上下壇撤廃の意義はここにあるが、その故に上人にはこれに類する言行が『空善記』や『実悟旧記』『本願寺作法之次第』等に少なからず伝えられている。すなわち「寒夜にも蚊の多き夏も、平座にてたれぐのひとにも対して雑談をも」しつつ「不審をとへかし信をとれかし」と念願したというが、こうした態度は従来の本願寺のそれに対比すれば実に著しい相遠で、上人自身も「我は身をすてたり」と述懐している。しかしてそれは、上人自身においては、「身をすてゝ平座にもみなと同座するは、聖人の仰に、四海の信心のひとはみな兄弟と仰られたれば、われもその御ことばの如くなり」といった如く、宗祖の精神に還り、同朋意識によって庶民的に教化せんとしたに外ならない。されば「仰に、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり、聖人の仰には弟子一人もゝたず、と、たゞともの同行なりと仰候きとなり」とか、「門徒衆をあしく申ことゆめゆめあるまじく候、開山は御同朋御同行と御かしづき候に聊爾に存ずるはくせごとの由仰られ候」とか、「開山聖人の一大事の御客人と申は、御門徒衆のことなりと仰られし云々」とか、いう如き言葉が少なからず伝えられている。しかも上洛して来た門徒には、寒天には酒に燗をさせ、炎天には酒を冷させて出したということや、門徒に出す食事にはことに注意したという如き行実が伝っているので、上人の門徒に対する態度は、如何にも謙譲で温切であったといわねばならぬ。 かくて上人の教化における一つの指導理念は、正しく宗祖精神に基づく同朋意識、従って庶民的教化態度に存する。けだし社会の混乱から絶えざる不安を感じ、特権階級から限りなき搾取に苦しめられている当時の庶民に対しては、互に手をとり合ってする教化でない限り受容さるべくもない。されば如上の上人の教化態度は、宗祖への復古であると共に、また当時の社会の機微を穿ったものということが出来る。事実、上人の生活がほとんど地方教化に終始しているのも、『御文』における平易簡明な宗義安心の説示と現実生活に対する適切な教誨、ないしは『正信偈和讃』の諷誦における多人数の同称同和も、すべて宗祖の精神と先蹤とを辿りつつ、時代の生活に即して展開された施設である。なお上人真筆の名号本尊は数多く現存するが、元来名号を本尊とすることは、先にも言及した如く、仏教においては親鸞聖人を以て最初とするので、これまた宗祖に倣えるものということが出来る。  また上人はしばしば門徒に寄合談合を奨励しているが、それは『御文』にも明らかな如く、信仰鼓吹のためである。しかしてこうした会合に集った人々によって一種の団体が結成された。すなわち講で、それは地名によって河原講という如く呼ばれたものもあり、また会合の日によって六日講とか四日講とか称されたもの等色々あるが、要するに講によって同信者が統制されると共に、門徒と本寺との連絡を密接ならしめたのである。この意味において講は教団構成の基調をなすものであり、ことに教団の財政には重要な意義を持った。すなわち講は毎年一定の財物を醵出して本寺に送り届けた。たとえば六日講中宛上人消息に、「毎年約束代物慥に請取候」とある如きは、這般の事情を物語るものであるが、この外講は年未・年始や報恩講その他色々の機会に醵金して本寺に上納したのである。元来真宗における講の初見は、宗祖滅後における報恩講にあり、宗祖在世当時には未だ講の名は見えない。しかし当時の地方門徒の構成、たとえば道場の経営維持の如きは講と同様の性質をもつもので、門徒が互に醵金してこれを共同維持し、またことに当っては門徒全体が合讃して処理したのである。さればそれは平安時代未期以来庶民階級に流行した地蔵講・観音講の如きに類するもので、真宗教団成立の社会的背景はそれらの庶民間の講にあったと考えられる。この故に如上の上人の講を基調とする教団の構成は、真宗としては古き伝統に立脚するもので、上人はこれを積極的に推進組織化せしめたのである。これは教団の統制上いわば必然的な処置でもあるが、絶えざる戦乱による混迷の当代社会にあっては、一層それを必要としたことでもあろう。かくの如き講の構成に対する上人の努力は、集団運動の激烈な当時にあって、一般庶民の精神ないし生活に如何に関連したかは一個の問題であるが、それはともかく、上人が教団財政の基調を講の結成による門徒の懇志に依存したとすれば、それは時代的意義においてさらに注意すべきものがある。けだし当代一般寺院の経済は荘園にあったが、元来この時代は荘園制度が崩壊しつつある時代であったが故に、土地に立脚する寺院経済はすこぶる脆弱なものというべく、また事実その故に既成寺院は中世未期に至って経済的に凋落せざるを得なかったのである。されば教団経済の基調を門徒の懇志に待つは、真宗としては当初以来のことであるにしても、当代においては一層それを促進しなければならなかったであろう。いわんや土地を契機とする寺院と民衆との関係よりは、門徒に直接する関係が、教化的効果において遥かに意義深いものであるにおいてをや、である。  かくて講は門徒の統制と教団経済の基調として結成されたが、さらにこうした講を統摂し、またそれらの講を支持する諸寺を統制するために、上人は重要な地方に、また主要な地方寺院に本寺と血縁関係の深い人々を配置した。いわゆる一門一家衆がそれで、彼らは地方の大坊主衆や坊主衆を統摂して団結を因くすると共に、本寺の命に従って行動したのである。上人以前においても本願寺の血縁者が地方に下ったこともあり、また一家衆の制度の如きも上人以前に発端しているが、上人においては、その数多い子女は後嗣の実如上人以外はほとんど地方に下り、門未の統制と本寺の藩屏とに任じたのである。その委細は別記の子女を一覧すれば明らかであるが、概していわば上人若き頃の息男は多く北陸に、また中年以後の息男は近畿の枢要地点に配置された。かくて上人は教団統制の上に甚深の注意を払ったが、また上人の言葉として伝えられるものに、『実悟旧記』の「御本寺御坊をば聖人御在世の時のようにおぼしめされ候」というものや『栄玄記』の「代々の善知識は御開山の御名代にて候」という如きものがある。これらは上人自身の本寺に対する敬虔な信念を表白せるものであるが、また本寺の尊厳を門下に示したものと見ることが出来る。こうした点からいえば、上人は一面において、本願寺による中央集権的教団を施設せんとしたことが考えられる。  かくの如き教団統制の理念の来るところは、上人にとっては何処であるか、これを本願寺の伝統よりいえば、勿論宗祖に由来するものではなく、実に覚如上人によって指示されたところである。けだし先にも言及した如く、覚如上人は、宗祖滅後における真宗教団の中心は宗祖の廟所大谷本願寺でなければならぬという信念の下に、教団を本願寺によって統一せんとしたのであるが、爾来それは本願寺歴代の志念として伝承され来った。従って蓮如上人の如上の教団統制には、この伝統が存する。しかしそれと共に、またこれにも時代的意義のあることは勿論である。すなわち上人の時代は相つづく戦乱によって荘園社会が崩壊し、やがて諸国に大名が成立せんとしつつある時代であるからである。さればこの間に処して、次第に発展してゆく教団を統制するためには、時代と社会との傾向に相応ずる体制がとられねばならなかったのである。  以上これを要約するに、上人の生涯を指導する理念には、宗祖親鸞聖人と覚如上人とに源流する二個の伝統があるが、その施設に当っては深く時代粧が洞察されている。さらにいえば上人は宗祖の同朋精神と庶民的教化態度とを蔵しつつ室町時代という時代に相応した教化を展開し、そこに上人が負うところの本願寺歴代の素志が実現されたのである。すなわち真宗の特殊性を持しつつ教団を時代化したところに、上人の根本的立場が見られると共に、また上人の生涯と業績とが、広く教団と時代社会との関連について重要な示唆を与えるところである。最初に言及した如く、室町時代は鎌倉時代の宗教改革を更に実践せしめて、仏教を民衆の手に渡した時代である。しかしかくの如き庶民性と共に、当代に活動した浄土宗・日蓮宗その他の高僧には、一面において依然として時代的封建的性格を持つことは否定出来ない。今その委曲について述べることを省略するが、彼等は庶民の教化に努めたことは事実であるにしても、また貴族社会に徐々に接近しつつあることを認めねばならぬ。ここに宗教改革が中世的性格を脱皮し得ず、やがて徳川時代の仏教へと進向する契機があるであろう。上来蓮如上人の生涯を叙し、その指導理念を考えて、さらにこの点に思い至る時、上人の業績は実に偉大であったけれども、なお且つそこには如上の二面性が存在し、時代人としての上人の性格を思わしむるものがあるであろう。すなわちいわば同朋精神に基づく庶民教化と本願寺による統一教団の建設、または身を庶民の中に棄てながらも、しかも本願寺が公家武家に徐々に接近しつつあることである。しかしこうした二面性は、元来相一致するものではなくてともすれば相背反する傾向に陥り易いものである。しかも上人においては矛盾することなく教団が円満に発展し得たのは、一に上人の人格に基づくところと考えられる。しかしてこうしたいわば相背反する二面性が一個の人格において保存されているならば、その多様性によって、それに指導される教団はむしろ発展し得るであろう。しかし上人の遷化によって、その人格的統一が失われたとすれば、教団の進路に破綻を来さないとはいい得ないしかも時代は、やがて徳川氏によって一層強化され組織化される中央集権的封建社会へと徐々に進行しつつあるこうしたことを考える時、本願寺教団が、上人の滅後において潮次寺家化してゆくことも、一面においてまた已むを得ない動向であったといわねばならぬ。      附  記  一 蓮如上人の子女と内室(主として実悟「日野一流系図」による) 一、光助法名順如、河内山口光善寺開山、願成就院と号す、文明十五年五月二十九日寂、四十二、 二、女子法名如慶、常楽寺光信の室、文明三年二月六日卒、二十八、 三、兼鎮法名蓮乗、本泉寺宣祐の猶子、越中井波瑞泉寺・加賀二俣本泉寺兼住、永正元年二月二十一日  寂、五十九、 四、女子法名見玉、摂受庵見秀尼の弟子、文明四年八月十四日寂、二十五、 五、兼祐法名蓮綱、加賀波佐谷松岡寺ならびに山内鮎滝坊開山、享禄四年十月十八日寂、八十二、 六、女子法名寿尊、摂受庵見秀尼の弟子、摂津富田教行寺住、永正十三年十月五日寂、六十三、 七、康兼法名蓮誓、光闡坊又は光教寺と号す、加賀滝野坊・九谷坊開山、加賀山田光教寺ならびに越中  中田坊開基、大永元年八月七日寂、六十七、  以上七人母は同じ、下総守平貞房の女、法名如了、康正元年十一月下旬没、 八、光兼法名実如、教恩院と号す、本願寺を継ぐ、大永五年二月二日寂、六十八、 九、女子法名妙宗、足利義政の妾、天文六年七月一日卒、七十九、 十、女子法名妙意、文明三年二月一日卒、十二、 十一、女子法名如空、本泉寺兼鎮の猶子、越前興行寺兼孝妻、明応元年十一月十六日卒、三十一、 十二、女子法名祐心、神祇伯資氏王室、延徳二年閏八月十二日卒、二十八、 十三、兼誉法名蓮淳、伊勢長島願証寺開山、初め近江近松住、後に河内久宝寺住、光応寺と号す、天文   十九年八月十八日寂、八十七、 十四、女子法名了忍、文明四年八月一日卒、七、 十五、女子法名了如、本泉寺兼鎮の猶子、越中瑞泉寺蓮欽妾、天文十年六月十八日卒、七十五、 十六、兼縁法名蓮悟、加賀二俣本泉寺住、加賀崎田坊・中頭坊・清沢坊等開山、加賀若松本泉寺開基、   天文十二年七月十八日寂、七十七、 十七、女子法名祐心、前中納言中山宣親の室、天文九年七月二十二日寂、七十二、  以上十人母は同じ、如了尼の妹、法名蓮祐、文明二年十二月五日没、 十八、女子法名妙勝、山城三柄勝林坊勝息の妾、明応九年七月六日卒、二十四、 十九、女子法名蓮周、越前超勝寺蓮超の妾、文亀三年正月二十六日卒、二十二、 二十、兼法名蓮芸、摂津富田教行寺住、大永三年閏三月二十八日卒、四十  以上二人母は同じ、前参議姉小路昌家の女、法名宗如、 二十一、女子法名妙祐、山城勝林坊勝恵の妻、永正九年四月十三日卒、二十六、 二十二、兼照法名実賢、近江堅田称徳寺住、大永三年八月三日卒、三十四、 二十三、兼俊法名実悟、初め本泉寺兼縁の子となる、後、河内古河橋願得寺住、天正十一年十一月二十五日卒九十二、 二十四、兼性法名実順、河内西証寺住、永正十五年三月五日卒、二十五、 二十五、兼継法名実孝、大和飯貝本善寺開基、天文二十二年正月二十六日卒、五十九、 二十六、女子法名妙宗、常楽寺光恵の室、永正十五年正月二十二日卒、二十二、 二十七、兼智法名実従、摂津枚方順興寺開基、永禄七年六月一日卒、六十七、  以上七人母は同じ、治部大輔畠山政栄の女、法名蓮能、永正十五年九月三日寂、五十四、 -------------------------------------------------------------------------------- 蓮如上人の化風とその背景 宮崎圓遵著作集 第五卷 『真宗史の研究(下)』より 一  蓮如上人は、その生涯において、衰微沈滞の極点にあった本願寺を、最も輝かしい盛大さにまで発展せしめ、やがて現代真宗教団の社会的基礎を築かれた。この意味において、後世上人の業績を頌して本願寺中興の祖と仰ぐことは、まことに相応しいことである。けれどもさらに広い立場からいえば、すなわち上人によって基礎づけられた本願寺教団が、その後の社会に投げかけた影響から見れば、上人の生涯はわが仏教史または社会史の上において重要なる位置を占むべきものであらねばならぬ。  かくの如き意味において、上人のこの偉業が如何にして成就されたかという問題は、色々の立場から考究さるべきである。しかして従来も学界の先輩によってそうした方面に少なからざる関心が払われて来たことは事実であるが、さらに仔細にこの点を省察すれば、なお残された視点がある如くである。けだし上人の生涯は波瀾に富み、その業績が大きかっただけに、この問題の解決への方法がいくつか想定され得るからであるが、私は今ここに従来論ぜられた如き観点を離れて、上人の教化とその歴史的ならびに時代的背景を順慮することによって、この問題解答への一契機を提示し、先輩師友の御批判を仰ぎたいと思う。 二  実悟の筆録した『本願寺作法之次第』に次のような一節がある。   昔は東山に御座候時より御亭は上段御入候、と各物語候。蓮如上人御時上段をさげられ、下段と    同物に平座にさせられ候。其故は、仏法を御ひろめ御勧化につきては、上臈ふるまひにては成べか   らず、下主ちかく万民を御誘引あるべきゆへは、いかにもく下主ちかく諸人をちかく召て御すゝめ有    べき、とての御事にて候  と被仰候て平座に御沙汰候。ありがたき御事と諸人申たるとて候。 (下略)  すなわち蓮如上人は従来本願寺内に上壇下壇の区別のあったのを撤廃して、親しく民衆に接して教化されたというのであって、上人の庶民的教化態度を窺うべき適切な所伝である。存如上人は形儀も声明も厳重に教えられたが、田舎の衆へも常住の衆へも、平座に対坐して、一首の和讃のこころをも説かれたこともなく、また御雑談などもせられたことはなかったと蓮如上人が述懐されているが、こうした教化態度におけるいわば「上藹ふるまひ」を改めるために、蓮如上人は寺院内の構造を改良されたのであろう。大谷に上下壇の区別を設けたのは何時頃からのことか確証はないが、巧如上人の時代には、法談の時に下壇に眠むる者を日ざますために、仏前の脇に一尺ばかりの竹を積みおいたという話もあるから、当時すでに上下壇の別があり、また厳格な教化態度であったことが推察される。けだし善如・綽如上人の時代から大谷の寺院生活には威儀を尊重する傾向が現れたという所伝があるから、そうした雰囲気の中において、一般への教化態度も「上藹ふるまひ」となり、いわば高踏的なものとなって来たのであろうと思われる。かくの如き傾向の由来するところは何であったかということは一応顧慮さるべき問題ではあるが、その事情の解明は他の機会に譲り、ともかく右の如き教化態度は、当時の本願寺としては必ずしも適切なものではなかった。けだしもともと真宗教団は、宗祖の庶民的教化によって、庶民階級を基調として成立したものであるから、高きところから教化する「上臈ふるまひ」を棄てて、「下主ちかく」平座にまで下る必要があったからである。蓮如上人の上下壇撤廃の意味はここにあるのであるが、これに類する上人の言行はなお少なからず伝えられている。すなわち「寒夜にも蚊の多き夏も、平座にてたれくのひとにも対して雑談をも」しつつ「不審をとへかし信をとれかし」と念願されたというが、こうした上人の態度は従来の本願寺のそれに対比すれば、実に著しい相遠があって、上人自身も「我は身をすてたり」と述懐されたということである。また上人は「凡夫にて在家にての宗旨」なればとて、殊勝気に見える「無紋の衣」や「墨の黒い衣」を嫌ひ衣はねずみ色で袖は長くもなかったということも、また右の態度に通ずるものとして注意さるべきであろう。  かくの如き上人の態度は、上人自身においては、「身をすてゝ平座にもみなと同座するは、聖人の仰に、四海の信心のひとはみな兄弟と仰られたれば、われもその御ことばの如くなり」といわれた如く、従来の「上臈ふるまひ」を棄てて宗祖の精神に還り、同朋意識によって庶民的に教化せんとされたものに外ならない。されば「仰に、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり、聖人の仰には弟子一人ももたず、と、たゞともの同行なりと仰候きとなり」、とか、「門徒衆をあしく申ことゆめゆめあるまじく候、開山は御同朋御同行と御かしづき候に、聊爾に存ずるはくせごとの由仰られ候」とか、「開山聖人の一大事の御客人と申は、御門徒衆のことなりと仰られしと云々」とかいう如き言葉が少なからず伝えられている。しかも上洛して来た門徒に対しては、寒天には酒に燗をさせ、炎天には酒を冷させて出したということや、門徒に出す食事にはことに注意したという如き行実さへも伝えられているのであって、上人の門徒に対する態度は、如何にも謙譲で温切であったといわねばならぬが、けだしこうした態度は宗祖精神に還った同朋意識の発現に外ならぬ。  右の如く庶民の間に謙退して、彼等と共に語り、また彼等を温切に取り扱う態度は、社会の混乱から絶えざる不安を感じ、特権階級から限りなき搾取に常に苦しめられていた当時の庶民階級に対して、如何に影響したであろうか。事実当代の如き擾乱の社会においては、互に手を取り合って語る教化でない限り、高きところからする単なる教化は受容さるべくもないことはいうまでもない。従って上述の如き上人の庶民間に「身をすてた」温切にして謙譲な態度は、もともと宗祖精神に復古せんとの意識に基づくものであるとはいえ、それがやがて時代人を誘引するに充分であったであろう。この意味において上人の如上の復古主義は、当時の社会の機微を穿ったものであったともいうことが出来るであろうと思う。 (1)第一七二条。稲葉昌丸氏編『蓮如上人行実』所収本による。以下所引の「聞書」類はすべてこの所収本による。 (2)『空善記』第二八条。 (3)『祖師代々事』参照。この書の著書について、恵空はその写伝本に「是実悟記歟」といっているが、恐らくは適当な推定であろう。 (4)『実悟旧記』第一五九条、『祖師代々事』。 (5)(6)『空善記』第二八条 (7)『空善記』第一〇五条、『本願寺作法之次第』第一二七条 (8)(9)『空善記』第九三条・第九四条。 (10)(11)(12)『実悟旧記』第二三一条・第二三二条・第二三三条。 (13)『本願寺作法之次第』第一六九条 三  上来まず蓮如上人の教化態度を一瞥したが、しからばかくして説かれた教化の内容は如何なるものであったかけだし宗義を簡明に平易に叙述して、一般人に理解し易からしむることは、学少なく教養低き庶民階級を教化の対象とする宗教において、ことに注意さるべきことである。しかもこの当時の如く混乱せる社会において、一層その必要の切実なるものあるは贅言するまでもない。されば鎮西派の聖冏は、浄土宗義の要は「心存助給、称南無阿弥陀仏」にあると簡易な表現をなし、叡山を下って念仏を説いた真盛は、「唯様も候はず、南無阿弥陀仏と唱えるが即ち往生にて候なり」といっているのである。教界の大勢すでにかくの如くであり、また上壇を撤して庶民の間に身を捨てたのが蓮如上人である。その所説難渋にして一般に理解し難い方法を採られよう筈はない。この点において上人の御文の述作はことに注意さるべきものである。現存の御文の中最初の述作である帖外第一帖は寛正二年で、その後年を逐うて次第にその数を増しているのであるが、御文はいうまでもなく、鎌倉時代の初期以降すでに起りつつあった仮名法語の形において、真宗の要義を簡明に説示されたもので、宗義の民衆化と安心の統一に意義深い効果を収めたものである。この御文の述作に至る過程またはその背景等については叙述すべきことが少なくない。けれどもこの方面の研究はすでにかなり発表されているから、私はここに敢て蛇足を加えることを避けたいと思う。  御文の内容において第一に注意すべきは、先に一言した如く、真宗安心の根本を叙述して何人にも理解し易からしめ、以て安心の統一を図った点であるが、また看過し得ないのはいわゆる俗諦に関する多くの説示のなされていることである。すなわち御文の随処に現された王法為本・仁義為先の教示であって、これは宗祖の御消息に源流を求むることが出来、覚如・存覚両上人またこれを継承されたところであるが、未だ蓮如上人程鮮明に一般にこれを説かれたことはなかった。けだし真宗はいわゆる出世間的行儀を特定せず、人間本然の制約を破らず、在家の姿において仏教の究竟的精神を実現せんとするものであるから、世問通途の王法が生活規範として説示されることは当然である。ここに蓮如上人が宗祖以来の伝統を承けて、この教示をなされた所以があるわけであるが、上人の当時は、社会の規綱ことごとく乱れて道徳秩序の甚だしく混乱した時代であったから、仏法を完全に伝持してゆくためには、王法の人の道を指示することの必要はことに切なるものがあったであろうし、また急激に発展した教団を擁して社会に進展するには、他家他宗の偏執を避けるためにも、そうした必要が痛感されたからでもあろう。 なおこの王法為本の説示が、当時の一般思想界と如何なる交渉を持つかをさらに詳しく考え、またこれに関連する問題をも併せ考えたいのであるが、これにはかなり多くの叙述を要するから、今は省略し、筆端を改めて私見を述べたいと思う。 (1)『教相十八通』巻上 (2)『奏進法語』(牧野信之助氏編『真盛上人御伝記集』所収) (3)禿氏先生編『蓮如上人御文全集』附録・佐々木芳雄氏著『蓮如上人伝の研究』第八章「御文の撰述」等参照 (4)『改邪鈔』七丁以下・『破邪顕正鈔』中三九丁等参照 四 上人の教化態度を瞥見し、そこに試みられた御文の撰述に言及した私は、さらに上人の化風において注意すべき名号本尊と和讃諷誦とについて考えねばならぬ。  まず本尊について見るに、現代宗祖真蹟の名号は、本派本願寺・高田専修寺・三河妙源寺等に伝持されているが、「愚禿親鸞敬信尊号」とある点から見れば、宗祖の本尊が名号であったと考えるべきである。また『改邪鈔』に「オホヨソ真宗ノ本尊ハ帰命尽十方無碍光如来ナリ」と明言されているばかりでなく、本派本願寺には「覚如上人之時代本願寺常住也」と蓮如上人の裏書せる十字名号が襲蔵されているから、覚如上人また宗祖の遺風を継がれたことは否まれない。しかるにこの頃から漸次光明本尊が盛んとなりつゝあり、その傾向は時代の推移と共に高められて行ったようである。試に存覚上人の『袖日記』を見るに、九字十字の名号本尊もあるけれども、光明本尊およびそれに准ずべき列祖像を以て本尊となせるもの多く、名号に善導大師や法然上人や宗祖等の像を添えて一幅に纏められたものも少なくない。思うにこれらは名号本尊が次第に衰微しつゝあり、これに光明本尊が代行しつゝあったことを暗示するものではあるまいか。しかも現代における光明本尊の遺品の地理的分布がかなり広いのは、一面においてこれが諸国に弘伝されていたことを示すものであり、この本尊を盛に依用した仏光寺は本願寺が不振に陥ったと反対に、ますます隆盛に赴いたのであるから、存覚上人以後の真宗に広く用いられたのは恐らく光明本尊であったであろうと考えられる。  光明本尊についての研究は未だ充分でなく、宗祖在世当時からこれが存したものか否か、未だ学界に定説はないが、これは宗祖の素純な名号本尊からかなり間隔のあるものであることは勿論である。従って真宗としてはこうした本尊の依用から宗祖の名号本尊に還えるべきである。蓮如上人が「あまた御流にそむき候本尊以下御風呂のたびごとにやかれ」たということは周知の通りであるが、この「御流にそむき候本尊」とは、あるいは前述の如き光明本尊を意味するものではないかと思う。  かくて上人が採用された本尊は、宗祖以来の名号本尊であることはいう迄もない。もっとも上人の採用された本尊には尊像も少なくないが、ことに多く門下に下附された本尊は名号であって、上人が「おれほど名号かきたる人は日本にあるまじきぞ」といわれたという話は有名である。けだしこの名号本尊は、上人が「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像と云ふなり、当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号と云ふなり」といわれた周知の言葉の如く、一面において真宗の本尊としてその所信の教義を表現するには、尊像よりは尊号の方が遥かに適切であるという宗義上に立脚されたことは勿論である。しかし名号本尊はその制作には尊形程複雑な手数を要しないすこぶる簡素なものであって、尊形よりも一層庶民的であることも注意されねばならぬし、またそれと共にこれを歴史的に見れば、これはささやかな草庵に名号を安置して念仏された宗祖への復古の強き精神の顕現であり、これを門下に数多く下附して本尊の統一を図られたのも、宗祖在世時代の教団のすがたに還らんとされたものと言い得よう。  仏教における名号本尊の依用は宗祖親鸞聖人に初まる。しかしその後にはこの名号を用いる傾向は他宗にも現れたのであって、たとえば宗俊の『一遍上人縁起』の他阿を伝する条に、大紙に名号を書いている図や、六字名号を本尊として奉安している図があるから、時宗にもこれが早く用いられたことは明らかであり、また「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」のいわゆる賦算は名号思想を普及せしむる点において与って力あったであろう。時宗の名号本尊は真宗の影響であるか否かは速断出来ないが、ともかくこの頃から名号本尊の思想が社会に一般化して来たことは明らかであろう。しかして室町時代の初期には六字名号が扁額に書かれて掲げられたり、梵字の弥陀名号が書かれたり、天神名号が和歌の会の如き機会に安置されたり、ないしは春日明神筆の弥陀名号が現れたりしたこと等が当時の記録に見えているのである。これ等は真宗の名号本尊と直に等しいものではないけれども、また相通ずる思想も認めることが出来よう。  されば名号を以て本尊に充てる思想は、前に一言した如く真宗においてはあるいは杜絶え勝ちであったかも知れないが、社会の一面にはこの思想は持続されたことは明らかであり、真盛がその生涯に十万幅の六字名号を書いたということも強ち蓮如上人の影響とのみいうことが出来ないであろう。従って名号本尊は上人当時の社会に必ずしも特異なものでなかったのであり、時代人一般にすでに理解されていたと見ることが出来る。しかもそれはすでに宗祖の創始されたところであり、また尊形よりも遥かに庶民的なものである。かく名号本尊について考え来れば、この時代に処した蓮如上人が、盛にこれを依用された意志も自ら明らかに理解されるであろう。 (1)『実悟旧記』第一五九条。 (2)『空善記』第三五条。 (3)『実悟旧記』第二条。 (4)禿氏先生論文「本尊としての仏名と経題」(『日本仏教学協会年報』第三号所載)。 (5)『日本絵巻物全集』本三三・三五ノ六・三六ノ一図等。 (6)東大寺大湯屋懸額。その裏面に「応永十五年二月十四日浴室修理畢、同十六年六月五日書此宝号焉沙門惣深」の墨書銘がある。(『寧楽』第十四号「東大寺現存遺物銘記及文様」所載) (7)『看聞御記』永享七年五月二十五日の条。 (8)『看聞御記』応永二十六年十月八日・『満済准后日記』応永三十四年正月二十六日等の条、こうした例はなお少なくない。 (9)『実隆公記』文明八年正月二十六日の条。 (10)『真盛上人往生伝記集』巻下。 五  宗祖にはかなり数多い和讃の述作があるが、これが一般に諷誦されたものであることは、『破邪顕正鈔』(巻中)の一節に、   ツキニ和讃ノ事、カミノコトキノ一文不知ノヤカラ経教ノ深理ヲモシラス、釈義ノ奥旨ヲモワキマへカタ  キカユヘニ、イサヽカカノ経釈ノコヽロヲヤハラケテ、無智ノトモカラニコヽロエシメンカタメニ、トキトキ念   仏ニクハヘテコレヲ誦シモチヰルヘキヨシ、サツケアタヘラルヽモノナリ。 とあることによって明らかであるが、正和年中孤山隠士なる者が越前大町如導の宗風を論難せる『愚暗記』に「当世一向念仏シテ在家之男女聚メツヽ、愚禿善信ト云流人之作タル和讃ヲウタヒ詠シテ、同シ音ニ念仏ヲ唱ル事有リ」といい、如導一派の和讃諷誦ならびに踊躍念仏をしきりに難しているし、また仏光寺了源の『算頭録』には「聖人ハソノ称ヘヤスカラシメムタメニ、和讃ヲツヽリテ諷誦ヲナサシメタマヘリ、六時ノツトメヲハツキテ三時トナシ、光明寺和尚ノ礼讃ニカヘテ正信念仏偈等ヲ諷誦セシメタマヘリ、マタ念仏モノウカラントキハ、和讃ヲ引声シテ、五首マタ七首ヲモ諷誦セシメタマヘリト先師明光ヨリウケタマハリキ」といっていること等を参照すれば、三門徒や仏光寺では和讃は常に諷誦されたことと考えられる。  翻って本願寺の方面を見るに、『本願寺作法之次第』(第四六条)に「当流の朝暮の動行、念仏に和讃六首加へて御申候事は近代の事にて候、昔も加様には御申ありつる事有げに候へども、朝暮になく候つるときこへ候、存如上人御代まで六時礼讃にて候つるとの事ニ候、(中略)文明の初比まで朝暮の動行には六時礼讃を申て侍りし也」とあって、和讃よりもむしろ礼讃が多く用いられた如くである。しかも蓮如上人に至って、これは改められて、朝暮の勤行には和讃が制定されたのであって、『本願寺作法之次第』には右の文につづいて、   然に蓮如上人越前之吉崎へ御下向候ては、念仏に六種御沙汰候しを承候てより以来、六時礼讃を   ばやめ、当時の六種和讃を致稽古、瑞泉寺の御堂衆も申侍し事也。 といっているもの、すなわちそれである。しかも上人はこの和讃を盛んに依用された如くで、文明五年五月には吉崎において正信偈和讃四帖を開板されてある。  ここにおいて上人が如何にして和讃を採用されたかについて考えるべきであるが、前に一言した如く、越前三門徒がしきりに和讃を用いていたのであるから、あるいは吉崎において上人がこれに暗示を得られたのであろうということは、容易に想像し得るところである。しかし上人の和讃に対する関心を顧みると、それは遥かにこれ以前にあるのであって、すでに上人二十二歳の永享八年八月中旬『三帖和讃』を書写し、次いで宝徳元年五月加賀木越性乗にこれを書与し、さらに享徳二年には近江手原道場にもまたこれを書写して下附された。従って上人の和讃に対する注意はかなり早い時代からであったといわねばならぬ。しかしてここに多少私の憶測が許されるならば、私は上人に対して右の如き暗示を与えたものは、北陸における本願寺の教線内にあったのではないと思う。すなわち応永十四年四月、六角堂照護寺之門弟薊田良観が『親鸞奉讃』二巻五十二首の和讃を作り、なおまた『法然上人奉讃』二巻四十六首、『上宮太子奉讃』二巻四十一首の和讃を述作したというが、この良観は越前照護寺から出た人であるといわれている点から考えて、越前では三門徒のみならず広く和讃が用いられていたために、この地に生れた良観はこうした和讃を述作したのではないかと思われるし、また先に一言した如く、上人は早く加賀木越光徳寺性乗に『三帖和讃』を附与されているのであるが、これけだし当地の門徒間にこれが諷誦されていた結果ではあるまいか。なお資料が充分ではないが、右の如き点から想像すれば、たとえ本願寺の内部に和讃がよく諷誦されなかったにしても、少なくとも北陸の本願寺教線内にはこれがしばしば行われていたと考えて大過あるまい。もしこの推定が許されるならば、上人の和讃への関心は、次に言及する如き当時の風潮と共に北陸に暗示を得られたのであり、この和讃の盛行せる越前に入ったのを機会に、これを一設の勤行に制定されたものと見ることが出来よう。  元来和讃は今様と共に庶民の間に発達したもので、もともと庶民に親しみ深いものであるから、これによって教義を民衆化し、信仰を鼓吹することは意義深いことである。従って平安朝以来庶民の教化に志す人々の中には和讃を述作することが少なくなく、当時の高僧名匠の作と伝えられる和讃は数多い。もっともそれらの中には厳密な意味では偽作仮托のものの少なくないことはいうまでもないが、一面からいえばそうした偽作仮托の数多く残されていることは、和讃が当時の社会に非常に流行したことを暗示するものともいえるのである。京都市大報恩寺所蔵の大目★連尊者像の胎内から発見された建保六年十一月の僧尊念の願文には、法華経各品を詠じた和讃が附加されている。これは願主の作か、または他人の作か、不明であるが、ともかくこうした作者不明の和讃がこの頃には数多く作られ、後に至ってあるいは高僧に仮托されることが少なくなかったであろう。かくて作られた和讃は民間に単独に行われることもあったであろうし、当時流行した踊躍念仏と共に諷誦されたであろう。『元亨釈書』(巻二十九)の著書が念仏を叙する条に、法然上人の開宗以後念仏が流行し、曲調抑揚を附して人心を感ぜしめたことを記し、またこれが瞽史侶伎の間に流行して、燕宴の席に交り盃觴の余瀝を受くといっているが、こうした念仏は必ずしも単なる念仏のみではなく、今様が饗宴の席に歌われたように、念仏と共に和讃が諷誦されたことを意味するものであろう。また蓮如上人時代の例を取れば、『看聞御記』に涅槃講には常に釈迦念仏和讃が行われたことが見えている。  以上略述する如く、和讃は当時一設民衆に親しみ深いものであるばかりでなく、教義の民衆化信仰の鼓吹に意義深いものであり、しかも宗祖すでにその例を開かれているのである。一設庶民の間に身を捨てて教化を布き、宗祖の精神に復古されんとした蓮如上人が、教化の一手段として、和讃を朝幕の勤行に制定された所以も、ここに至って自ら明らかであろう。 (1)(2)本派本願寺所蔵本奥書。 (3)近江手原孝子坊蔵本奥書。 (4)大谷大学蔵本奥書 (5)龍谷大学蔵『照護寺由緒』(享保二十年書上)。 (6)試に高野辰之氏編『日本歌謡集成』(巻四)を参照しても、その一面が推察されようと思う。 (7)『造像銘記』第六十二条所載。 (8)応永二十三年二月十五日・同二十六年二月十五日・同三十年二月十五日等の条々。 六  蓮如上人は信仰を鼓吹するために、寄合談合を奨励されたことは有名であるが、こうした会合に集った人々によって一種の講が結ばれた。それらの中寺院を中心として結ばれたものは、超勝寺門徒とか、専光寺門徒とかの如く呼ばれ、また地名によって河原講といわれた如きもあり、さらに会合の日によって六日講とか、四日講とか称されたものもあるが、要するにこの門徒の結合である講は、教団構成の一基調を成すものである。講の意義は上人が御文の中にしばしば示された如く信仰を鼓吹するための手段であるが、これはやがて教団財政の基礎を成すもので、これらの講は毎年一定の財物を醵出して本願寺に送り届けた。上人の御消息、たとえば『帖外』一二〇に「毎年約東代物事慥に請取候」とある如きはその間の消息を物語るものであるが、その他色々の機会にしばしば醵金して本寺に上納したのである。真宗教団の成立が庶民階級における講を社会的背景とし、またその形において組織されたものとすれば、右の上人時代の講を基調とする教団のすがたは、また宗祖在世当時の教団のすがたに相通ずるもので、ここにも上人の宗祖への一つの復古主義が見られるわけであるが、混乱した当時の社会において、庶民教化の実を挙げる手段としても、こうした講なる団体の結成は必要であったであろう。講についてはなお叙述すべきことが少なくないが、すでに詳細な研究もあることであるから、以上の如き略述にとどめたいと思う。  教団構成の基調は右の如き講にあったのであるが、こうした講を統摂し、またこれらの講を支持する諸寺を統制するために、上人は地方の主なる諸寺に本寺と血縁関係ある人々を配置された。いわゆる一門一家衆がそれで彼らは地方の大坊主衆や坊主衆を統摂して団結を固くすると共に、本寺の命に従って行動したのである。上人以前においても本願寺の血縁者が地方に下ったこともあり、また一家衆の制度の如きも上人以前に発端していることは後に言及する通りであるが、蓮如上人はその子弟を初め血縁者を多く諸国に配置して地方門徒の統制を図らしめた。『反故裏書』に「一門一家数輩国々ニ充満アレハ、他家ノ偏執御門弟ノ煩ナリ、末代ニヲイテ相続ナケレハ其詮アルヘヵラス」とあることによってもその状を察すべきであろう。また上人はこうした一門一家衆や坊主衆その他についても色々制度を作られた如くであるが、要するに上人は本願寺によって統一されたいわば中央集権的教団を築かれたものと見ることが出来る。  けだし上人の時代は幕府の威令行われず、戦乱相つづいて社会混乱し、諸国大名は互に割拠して、いわゆる分権的封建制度の成立せんとする時代であったから、その間に処して、次第に発展して行く教団を統制するためには、右の如き教団統制の処置を執る必要のあったことは勿論である。  しかし翻って思うに、こうした上人の教団統制の指導理念は、本願寺としては早く覚如上人によって指示されたところである。覚如上人生涯の思念は、一言にしていえば、上人の留守職たる大谷影堂を真宗教団の中心とし、これによって諸国門徒を統摂せんとするにあった。けだし宗祖示寂の後諸国門徒は大谷を離れて各地に分立すること甚だしく、またその間異解邪執の輩出することも少なくなかったので、覚如上人は宗祖の影堂である大谷は祖滅以後の真宗教団の中心であらねばならぬという大谷の本質に立脚して、全真宗教団を統摂し、以て浄土異流の間に宗祖の一流を宣揚せんとされたのである。この上人の志念は不幸にして上人の生涯には実現されなかったが、この上人によって指示された志念は上人一代にして消滅したのではなく、その後の本願寺歴代の抱負となったのであって、この理想実現の基調とも見るべき大谷影堂の寺院化、すなわち大谷に宗祖の真影と共に本尊を奉安して寺院化し、以て影堂に社会的意義を附加せんとする如きは、その後善如上人も努力された如くであるが、綽如上人に至って遂に実現されたと考えられる。また本願寺は諸国門徒の本寺であるという覚如上人以来の信念は、その後の本願寺の強い信念となったのであって、巧如上人が信濃長沼浄興寺(今の越後高田浄興寺)に下附した諸種の聖教を見ても、当時の本顕寺は不振であったとはいえ、本願寺は本寺を以て任じ、浄興寺は末寺として事えていた消息が窺われるし、北陸の門徒が巧如上人の第二子第三子を申し下して、地方の中心となさんとした如きも、またこうした傾向の一つの顕現と見られる。しかして存如上人に至ると、本願寺の教線はようやく発展の曙光を認め、次第に活気を呈して来たが、上人はしばしば近江より北陸道を遊化され、また地方門徒に聖教や伝絵や寿像等を下附されて、本末関係はかなり明らかにされて来た。堅田本福寺と本弘寺大進とが、その手次について争ったという如き挿話も、その一つの顕現と見られるが、当時すでに一家衆とか下間衆とかいう如き階級的制度も成立していた如くである。  かくの如く覚如上人以後の本願寺のいわば伝統的背景を考える時、蓮如上人が上述の如く、その教化の諸点において宗祖に復古されんとしつつ、本願寺中心の教団を築かれた一面の理由が首肯されると思う。「御本寺御坊をば聖人御在世の時のやうにおぼしめされ候」とか、「代々の善知識は御開山の御名代にて御座候」とかいう如き上人の言行は、上人自身の本寺に対する敬虔な信念を表白されたものではあるが、また本寺の尊厳を門下に示されたものと見ることが出来る。かく考える時上人のこの信念は『改邪鈔』に説かれた覚如上人のそれと相通ずるものがあるように思われる。されば蓮如上人の本願寺中心の教団統制は、当時の社会的環境にも起因するものではあるが、またそれと共に覚如上人以来の本願寺の伝統を実現されたものと見るべきではあるまいか。勿論かく統制されたにしても、それがいわゆる封建制度の如き固定した冷きものではなく、上来叙述した如き宗祖精神に通ずる温情に充たされたものであることはいうまでもない。 (1)拙稿「真宗教団の成立と庶民階級の講」(『龍大論叢』第三〇四号所載)。 (2)佐々木芳雄氏論文「蓮如上人と講」(『龍大論叢』第二九五号所載)。 (3)佐々木芳雄氏著『蓮如上人伝の研究』第九章「教団の膨張と其統制」。 (4)拙稿「大谷影堂寺院化の一考察」(『龍大論叢』第二九四号所載)。 (5)『反故裏書』。 (6)『本福寺由来記』。 (7)『実悟旧記』第一五八条。 (8)『栄玄記』第一六条。 七  蓮如上人の化風において特筆すべきものは右の外なお少なくあるまい。けれどもそれらは今は省略に従って、ここに如上の二、三の事例を通じて、上人教化の指導理念ともいうべきものを要約すれば、上人は一面において宗祖精神に復古せんとすると共に、また他の一面においてよくその時代社会の粧相を見究めて、庶民階級に親しみ深い教化を垂れられたのである。ここに当然本願寺教団の発展に著しいもののあったであろうことは容易に想像されるところであるが、なおその教団の発展を甚だしく促進せしめ、社会的勢力を把握せしめたものとして、真宗教団の構成者たる庶民階級の社会的発展を看過することは出来ない。  真宗教団は庶民階級を基調として成立した。それは一面において宗祖の庶民的教化によるものであるが、教団成立の社会的背景は庶民階級の台頭にあり、真宗教団成立の史的意義はいわば庶民仏教の独立にあることはかつて論究した通りである。されば真宗教団の発展を社会的に見れば、それは庶民階級の発展とその軌を一にすべきであるが、王朝末期以来次第に社会的に台頭しつつあった庶民階級は、鎌倉時代に入って武士階級の社会的地位の向上に刺戦されて、一層その社会的地位を自覚し向上せんとする傾向があったが、またそれと共にこの頃から経済的にもこうした傾向を助成せしむるものがあった。たとえば荘園内の農民にしても、王朝末期以来荘園制度の混乱によって一荘園に対する有権者が幾人も現れ、農民は彼等の苛酷な田租の徴発に苦しむことが多かったが鎌倉時代に入って各地に守護地頭が設置されると共に、さらにその度が深化された。しかしこの時代は、総じていえば、その社会は幕府によって一設によく統制されていたがために、荘民がともすれば暴動化し一揆化することはなかった。しかし南北朝の擬乱以来、社会的規綱はすべて崩壊し、いわゆる下剋上の風上下に充ちて戦乱打ちつづき、一設庶民は絶えざる不安を味うと共に、彼等の社会的階級的自覚はとみに向上して来た。先に一言した荘園の農民に例をとれば、彼らは最早従来の如く荘園の有権者からの苛酷な徴求に盲従せず、あるいは互に団結して上司にその苦衷を訴え、あるいはこれを隣接荘園との抗争に托して解決せんとしたが、もしその要求の充たされない時は、あるいは一村を挙げて荘園より逃散し、あるいはさらに過激化していわゆる一揆の暴動を敢てするに至った。こうした彼らの運動は主として経済的原因によるものであるが、いうまでもなくこれは階級闘争であり、彼らの社会的階級的自覚の向上した結果に外ならぬ。従ってここに鎌倉時代と室町時代との庶民の間には、名は等しく庶民であったにしても、社会的には著しい懸隔がある。試に徳政を一例として考えても、鎌倉幕府の徳政にはその適用はいわゆる御家人に限られ、庶民階級に及ばなかったけれども、室町時代のそれは庶民階級をも包含したばかりでなく、さらに庶民の方から積極的に徳政を幕府に強要したことも少なくない。勿論鎌倉幕府の徳政と室町幕府のそれとの間には、かなりその性質に相違があるのであるが、また一面からいえばそこに庶民階級の向上が暗示されていると見ることが出来る。  かくて一往教化の対象である庶民階級に、真宗教団成立当時の鎌倉時代と蓮如上人の室町時代との間に、社会的に著しい相違のあることが考えられるのであり、ここに蓮如上人の教化が驚くべき効果を挙げ得た一背景が注意されるのであるが、さらに具体的な一例として、上人が最初教線を張られた近江について一瞥して見よう。由来近江の地はいわゆる土一揆暴動最初の地として、中世社会史上に特記されるところで、この地は経済関係がことに複雑化していたことや、また京都に近かったためでもあろうが、馬借一揆・徳政一揆等の暴動が頻繁に伝えられている。それらは手近かな『滋賀県史』(第二巻)を参照しても容易に理解されるところであるが、それはともかく、堅田・金森・赤野井等蓮如上人の重要な教線であった地方もまたそうした雰囲気の中にあったのであるから、これらの地方庶民の傾向もまた早く尖鋭化していたことはまず注意さるべきである。  さて堅田は農業を行うと共に一面において琵琶湖の湖上権を握って早くより有力であった。しかるに伊香郡永原村菅浦の住民は、従来その他が田畠に乏しいために湖上の漁猟を以て渡世とし、竹生島の神領としてその保護を仰いでいたが、堅田浦の漁人はしばしばその湖上権を侵略してやまないので建武二年八月菅浦の住民はこれを朝廷に訴え、また山門の権威を籍らんとした。けれども堅田の漁人は依然侵略をつづけ、違乱をとどめなかったが、遂に応永四年十一月に至り、海津の地頭の和解により、今堅田西浦の惣領等八人達署して、新たに菅浦との間に契約を結び、互にその領海を定めている。かくてこの問題は解決したのであるが、これによっても堅田の住民が湖上の漁猟権や運輸権を握って盛んに活動していたことは明らかであり、彼等の眼中にはすでに特権階級もないのであり、そこに時代人としての新鮮な活気を認めることが出来る。金森・赤野井等は堅田の如く住民の事情を詳らかにし得ないが、この蒲生郡・野洲郡等は座・市が多く、いわゆる近江商人の中心地である。ことに金森は後年織田信長が楽市・楽座を認可しているから、この地が商業を以て早くより活動していたであろうことは想像に難くない。また赤野井は臨川寺三会院領であるが、寛正年間には山門の勢力が侵入したので、しばしばこれと抗争している。これを要するに、如上三地方の住民もようやく社会の表面に出現せんとしつつあったものと考えられる。  堅田は南北朝頃から加茂社領と山門領とに分轄されているが、前に言及した応永四年の今堅田の達署八名はすべて僧名であり、またこの地に山門七箇所の関の一があったことから考えると、その湖上権もまた山門の勢力下にあったことと思われる。蓮如上人の門弟として有力な法住の家は、柑屋の座としてその独占権を山門から得ていたのであるが、これがために法住一家がかなり多くの座銭を山門に納めている。従って右の湖上権も山門の勢力下にあったとすれば、堅田の漁民もまた多額の金銭を何らかの形において山門に上納していたにちがいない。また金森・赤野井等もその径路を詳らかにし得ないにしても、臨川寺三会院その他に対してこれとほぼ同じ関係にあったであろう。従って当代人の常として、何らかの機会にこうした特権階級からの搾取を免れんとしつつあったのであるから、ここに蓮如上人が教線を布いたとすれば、その地の住民は本願寺によって山門その他の特権を駆逐せんとしたと考えることが出来る。かくて上人の近江布教の成功を単に社会的経済的に説明せんとする史家もある。寛政六年の山門の大谷破却は、近江の山門の勢力圏を本願寺が犯したという経済的原因に基づくことは認め得られるところであるから、右の説は一面の真実を把えているにはちがいない。けれども当時の本願寺がなお沈滞期を説せず、ようやく黎明の曙光を見出した頃で、その勢力は徹々たるものであるから、これが山門の伝統的勢力と対抗し得るや否やを考えても、この説が余りに偏した見解であることを認めざるを得ないのであり上人の近江布教の成功には、上人以前の本願寺の開教がその背景として存するし、また上人自身の教化態度によるものであることは否定出来ない。されば私は右の説をすべて承認するわけではないが、上人の教化された庶民階級には上述の如き尖鋭化した傾向があり、それが一面において上人の教化を著しい成功に導いた一背景として留意しておきたいと思う。  以上上人の初期の教線である近江について一瞥したが、余他の地方には多少その事情を異にするにしても、こうした傾向は等しく認められるところであって、一設庶民はようやく社会の上層に現れ出でんとしつつあった。従って上人教化の対象は、従来と同じく庶民階級であったことには変りはないが、彼らはすでに上層階級にいたずらに圧迫されて沈滞していた庶民ではなくて、むしろ積極的に上層階級に働きかけんとする新鮮な活気を持ったものであった。この意味において、上人の教化が時代の傾向に合し、より多くの効果を挙げ得たであろうことは推察するに難くなく、上人教化の成功の一面がこうした社会的傾向にあることを注意せねばならぬ。しかしそれと共にかくの如き積極的に向上せんとする庶民を包含した上人の教団には、少なからざる危険をすでにはらんでいたことも認めなければならぬ。すなわち常に積極的であり、抗争的である当時の庶民は、上人の教化によって教団に統一されたにしても、ともすれば、その団体が常軌を脱して一揆化せんとすることはやむを得ないことで、上人がしばしばこうした点に鋭く訓誡を加えられているにも拘らず、ややもすれば教団に破綻を生じ、一揆化せんとしたのは、この時代の庶民として如何ともし得ない反面であったといわねばならぬ。 (1)前掲「真宗教団の成立と庶民階級の講」。 (2)州が浦共有文書(『滋賀県史』巻五所載)。 (3)臨川寺文書(同上)。 (4)堅田本福寺文書、『教訓並俗姓』(本福寺記録之二)。 (5)西田繁氏論文「一向一揆発生の基底」(上)(『史論』第五号所載)。 八  最後に上来叙述するところを要約するに、蓮如上人の教化は一面において宗祖精神に復古するにあったと共に、また他の一面においては当時社会の情勢を洞察して、これを適宜な形に展開することにあった。すなわちまず従来の本願寺の教化態度を改めて宗祖精神に還り、真宗教団の特質に立脚して庶民的態度を以て教化された。しかしてそれと共に宗祖に源流してしかも当時の庶民に親しみ深く切実なる教化を施された。御文における宗義の簡易な宣説と俗諦門の宣揚や名号本尊の依用や和讃の諷誦等における上人の発揮は、宗祖の行化を仰ぐと共に、当時の社会粧に拠り時代の風潮を顧慮して施設されたもので、上人の化風における高邁な識見として特筆すべきものであろう。上人の化風は、これを従来の本願寺の化風に対照すれば明らかに改新であったといい得るが、上述の如き点において、上人の改新は宗祖への復古に外ならなかったともいい得るであろう。  如上の宗祖精神と時代傾向とを顧慮した上人の化風は、必然的に社会に受容され、成功すべきであったが、さらに真宗教団の基調である庶民階級は、上人の時代において正しく新興階級として活気を呈して来た時であったここに両者は当然結合されたのであり、上人の教化はさらに一段の光彩を添えるに至った。かくの如き意味において上人の偉大なる成功は、その時代環境にも依存するという一面をも認めねばならぬであろう。  かくて上人の時代において本願寺教団は未曾有の発展を遂げるに至ったが、その統制については、上人は本願寺による中央集権的制度を採用された。この処置は戦乱絶えず、混乱せる分権的封建社会において、膨大なる諸国門徒を擁せる本願寺が完全なる統制を以て教団の便命を遂行するには必然的な制度であったであろう。けれどもまたそれと共に、これは本願寺としては覚如上人以来の伝統的志念を実現されたものとも見ることが出来るであろうと思う。かくの如き意味において、覚如上人に発端する本顕寺教団は蓮如上人に至って完成されたのであり、またそこに後世本願寺教団の基礎が築かれたと見るべきであろう。      (昭和八月六月二十四日)                         (『宗学院論輯』第十四輯所載、昭和八年十二月刊)