六字釈義 第103回専精舎夏講の案内を上げておきましたが、午前中、本講・副講の講義の後、学生が二列に向かいあって論議をします。これは昭和六十三年の第93回の会読ノートです。指導は南米に赴任される前の本校教授高田慈照師であります。 ご使用の際、返り点の変換をして下さい。 @=一 A=二 R=レ L=一+レ 等であります。 【 一問一答 】 ( 題 意 ) 問曰。六字釈の題意を言ってください。 答曰。六字の名号は浄土真宗の法義の根幹であります。すなわち、阿弥陀仏の正覚の果徳を該摂し、衆生の往生成仏の行体となるものです。この六字を最初に解釈されたのは善導大師ですが、これに基ずいて宗祖は他力迴向の法義を開顕され、ついで、覚如・蓮如両師も特有の解釈をほどこされています。今それらの釈義の内容を考究し、もって他力真宗を光闡するものであります。 ( 出 拠 ) 問曰。では、始めに六字釈の出拠を挙げてください。 答曰。善導大師は『玄義分』(T・四五七)に 「今此『観経』中十声称仏、即有A十願・十行@具足。云何具足。言A南無@者即是帰命、亦是発願迴向之義。言A阿弥陀仏@者、即是其行。以A斯義@故必得A往生@」と示されています。 問曰。宗祖の出拠を挙げてください。 答曰。『行巻』(U・二二)に、 「爾者、南無之言帰命。帰言【至也】又帰説也、説字【悦音】又帰説也。説字【税音悦税二音告也述也宣A述人意@也】命言【業也招引也使也教也道也信也計也召也】是以、帰命者本願招喚之勅命也。言A発願回向@者、如来已発願回A施衆生行@之心也。言A即是其行@者、即選択本願是也。言A必得往生@者、彰R獲R至A不退位@也。経言A即得@釈云A必定@。即言、由R聞A願力@光A闡報土真因決定時剋之極促@也。必言【審也然也分極也】金剛心成就之皃也」と示され、また『銘文』(U・567)には、「善導和尚(玄義分)ののたまはく〈言南无者〉といふは、南无はすなわち帰命とまふすことなり、帰命はすなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふとまふすことばなり、このゆへに〈即是帰命〉とのたまへり。〈亦是発願廻向之義〉といふは、二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれむとねがふこゝろなりとのたまへるなり。〈言阿弥陀仏者〉といふは、〈即是其行〉とのたまへり、即是其行はこれすなわち法蔵菩薩の選択の本願なり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこゝろなり。〈以斯義故〉といふは、この義をもてのゆへにといえるこゝろなり。〈必得往生〉といふは、かならず往生をえしむといふなり、必はかならずといふ、かならずといふは自然のこゝろをあらわす、自然ははじめてはからはずとなり」とあります。 問曰。覚如上人の出拠を挙げてください。 答曰。『執持鈔』(V・四三)に、 「そもそも南无は帰命、帰命のこゝろは往生のためなればまたこれ発願なり。このこゝろあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また迴向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行躰となれば、阿弥陀仏即是其行と釈したまへり」とあります。 問曰。蓮如上人の出拠を挙げてください。 答曰。『御文章』三の六(V・四五九)に、 「夫南无阿弥陀仏と申はいかなるこゝろぞなれば、まづ南无といふ二字は帰命と発願迴向とのふたつのこゝろなり。また南无といふは願なり、阿弥陀仏といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてゝ専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念をこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて行者を摂取したまふなり。このこゝろすなはち阿弥陀仏の四の字のこゝろなり。又発願迴向のこゝろなり。これによりて南无阿弥陀仏といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり」とあり、また三の八(V・四六三)に、 「南无阿弥陀仏の六字を善導(玄義分)釈していはく、〈南无といふは帰命、またこれ発願迴向の義なり〉といへり。其意いかんぞなれば、阿弥陀如来の因中に於て我等凡夫の往生の行をさだめ給ふとき、凡夫のなす所の迴向は自力なるがゆへに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、此迴向を我等にあたへんがために、迴向成就し給ひて、一念南无と帰命するところにて、此迴向を我等凡夫にあたへましますなり。故に凡夫の方よりなさぬ迴向なるがゆへに、これをもて如来の迴向をば行者のかたよりは不迴向とは申すなり。此いはれあるがゆへに南无の二字は帰命のこゝろなり、又発願迴向のこゝろなり。此いはれなるがゆへに、南无と帰命する衆生をかならず摂取してすて給はざるがゆへに南无阿弥陀仏とは申なり」また四の十四(V・四九七)に、 「一流安心の躰といふ事南无阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師(玄義分)釈していはく、〈言南无者、即是帰命、亦是発願迴向之義、言阿弥陀仏者、即是其行、以斯義故必得往生〉といへり。まづ南无といふ二字はすなはち帰命といふこゝろなり帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり。また発願迴向といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこゝろなり。これすなはちやがて阿弥陀仏の四字のこゝろなり」とあり、その他 五の十一、五の十三、二の十四、二の十五、三の二、三の四、三の五、三の七、四の六、四の十一、五の五、五の八、五の九等と、随所に六字の釈が述べられてあります。 問曰。その他の相承の上にありますか。 答曰。『安心決定鈔』本(V・六一八)に、ふれられた文があります。 「名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆへに十方衆生の往生の躰なり。往生の躰なるがゆへに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。かるがゆへに『玄義』にいはく、〈いまこの観経のなかの十声の称仏には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる、南无といふは、〉等」とある。 【 二問二答 】 問曰。善導大師の六字釈の義を述べて下さい。 答曰。善導大師が『観経疏』を著し、その『玄義分』の第五門に別時意を会通する一章を設け、そこに六字の釈を出されてあります。 問曰。別時意を会通するところに六字釈を出されたのは、どういう意味ですか。 答曰。善導大師が当時、通論家が『観経』下品の念仏をもって別時意とし、順次生の往生を否定したためこの説を論破し、六字釈を設けて下品の念仏に願行具足するが故に必ず往生を得ることを明かされたのです。 問曰。通論家の別時意とはいかなることですか。 答曰。通論家とは、無著の『摂大乗論』及び世親の『同釈論』を弘通する摂論宗の徒をいゝます。彼等が下品の念仏を別時意としたのです。 問曰。別時意とは、如何なることですか。 答曰。『摂論』の中に、如来の教説に四意趣のあることを説き、その中に別時意趣が説かれているのです。問曰。別時意趣の意味をいって下さい。 答曰。別時とは、即時に対する言葉で、意趣とは能説の仏の意志をいゝ、この中に成仏別時意と往生別時意とがあります。 問曰。成仏別時意とは、いかなることですか。 答曰。万行円備して成仏を得るのであるが、仏が一類懈怠の機の為に、一行を以って不退を得て即時に成仏するが如く説くを別時意といゝ、本当は一行は別時にして遠生の結縁となるのみで中間の万行を没却して、一行のみで成仏するが如く説かれる方便説をいゝます。 問曰。往生別時意とは、如何なることですか。 答曰。浄土に往生するには、願行具足して剋成せねばならない。しかるに行を没却してたゞ願のみを説いて往生せしむるが如く説くもので、実はそのような唯願無行の者は遠生の結縁であって、即時に往生は出来ない。それを願のみにて往生出来るが如く説くのを別時意というのであります。 問曰。論の別時意説は一応わかったが、善導大師が通論家の別時意説をどのように会通されたのですか。 答曰。通論家が論に往生別時意を指して、唯発願によって安楽土に生ずるが如しとあるのを、『観経』下品の十声称仏に似たりとして、即ち往生を得ずといゝ、一金銭の喩を以って示したのであります。 問曰。一金銭の喩とは、如何なることですか。 答曰。喩えば、一金銭が千を成ずるためには多日を要する、一日で千を成ずることが出来ないように、十声称仏も一金銭に過ぎないから、たゞ遠生の因とはなっても即時の往生は出来ない。これを別時意と言ったのです。 問曰。それに対して善導大師はどのように会通されたのですか。 答曰。まず、通論家が論意を得ていない錯謬(あやまり)を非難し、下品の凡夫の十声称仏は、正しく往生を得ることを顕すに、まず経証を以ってし、次いで論意を示し、更に願行具足の念仏往生を示すにあたって六字の釈を設けられたのです。 問曰。下品の念仏往生の経証は何ですか。 答曰。経証とは『阿弥陀経』の修因段の「聞R説A阿弥陀仏@、執A持名号@若一日乃至若七日」の念仏往生の文と、諸仏証誠護念の文を引いて証明し、通論家が『論』に固執して仏陀の誠説を無視する非をきびしく批判されるのであります。 問曰。善導大師は、論意をどのように理解されているのですか。 答曰。『論』にいうが如く、往生には願行あいまって成ずるのであるから、孤願孤行では往生できぬとするのは実義であるといっておられます。 問曰。この論意を通論家は、どのように誤ったのですか。 答曰。孤願往生、喩えば、西方浄土の快楽を求めて、往生を願う如きもので、それは唯願無行であるから、往生不生というのであるが、通論家は、下品の十声称仏の如きは、その唯願無行にあたると断じて即時の往生を否定し、念仏往生の本義を塞いでしまったのであります。 問曰。『観経』下々品の十声称仏は、明らかに称名行であるのに、何故無行といったのですか。 答曰。「乃至一念曾未RfR心」とあるように、下々品の臨終の悪人は苦逼失念の機であり、真如実相、第一義空、曾って未だ心にfかざる極劣の機の称えるような称名はとても報土に生ずる如き行の価値にあたいしないものと、聖道的偏見を以ってみなしたからであります。 問曰。通論家の唯願無行に対して、善導大師の会通を言って下さい。 答曰。『観経』下々品の称名は、単なる孤願にも非ず、孤行にも非ず、願行具足の念仏たることを顕わされたのである。 問曰。孤願孤行に非ずとは、どうしていえるのですか。 答曰。論の成仏別時意の文意を出されるところに『華厳経』を引いて、念仏三昧の一行たることを明示し、更に『観経』の十声称仏は如是至心の称名なるが故に、為楽願生の如き孤願にも非ざることを示して、結局、K称の名号六字に願行具足することを開顕して凡夫入報の行法を瞭かにされるのが六字釈であります。 【 三問三答 】 問曰。『玄義分』の六字釈を述べて下さい。 答曰。『玄義分』の六字釈は、対外的には通論家の別時意説を破斥し、対内的には凡夫入報の宗義を剋成されたものであります。 問曰。別時意説に対する六字の釈義を述べて下さい。 答曰。先に論じられた如く、通論家が下品の称名を唯願無行の別時意と錯誤したのに対して別時意に非ず、下品の十声称仏に願行具足するから、必ず往生を得と釈顕されたのであります。 問曰。下品の称名に願行具足する根拠と、その相状を述べて下さい。 答曰。『玄義分』の本文に先ず、「今此の観経中の十声称仏は、即ち、十願十行有りて具足す」と標し、次いで具足の義を所称の名号六字に願行具足することを「南无と言ふは、即ち是れ帰命なり、亦是発願迴向の義なり。阿弥陀仏と言ふは、即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得」と釈顕されています。 問曰。標の文意を述べて下さい。 答曰。標の文意は、今この『観経』下々品の十声称仏とは、『観経』に「十念を具足して南无阿弥陀仏と称せん」とあるのを指します。即ち下品の悪人の口称念仏に願行が具足するというのです。 問曰。釈の、六字を釈された文意を述べて下さい。 答曰。先の標の文が十声称仏に願行具足するわけを釈するにあたって、所称の名号六字の法体に願行具足するからであると顕わすのであります。 問曰。どのように六字に願行具足するのですか。 答曰。釈文の如く六字の中、南无は帰命で亦是発願迴向の義なりとあるのは願で、「阿弥陀仏 即是其行」とあるのは行であります。かく六字に願と行の二つが具足するが故に唯願無行でもなく、別時意でもなく、必ず即得往生を得るのであると顕わすのであります。 問曰。そうすると、下品の口称念仏に願行具足するのは、所称の六字名号そのものに願行具足するから、必得往生というのですか。 答曰。その通りであります。 【 四問四答 】 問曰。六字釈の標に「十願・十行有リテ具足スル」とありますが、訓み方によって義が変わります。「十願有リテ十行具足ス」とも訓まれ「十願・十行具足スル有リ」とも訓めます。今はどの訓み方をとるのですか。 答曰。そのように三つの訓み方があって、何れも義が立ちますが、今は「十願・十行具足スル有リ」と訓むのが穏当であります。 問曰。「十願・十行有リテ具足ス」といえば、何故悪いのですか。 答曰。「十願・十行有リテ具足ス」と訓めば、南無の口称に願生心の帰命を発起し、阿弥陀仏の口称に即是其行の義を具すると衆生の能称に願行を認める鎮西の義に混じ易いからであります。 問曰。では、「十願有リテ十行具足ス」と訓めば、何故悪いのですか。 答曰。衆生が帰命発願するところに、阿弥陀仏の仏体即行の行が具足するといった西山義に混じ易いからであります。 問曰。では「十願・十行具足スル有リ」と訓むのが、何故穏当といえますか。 答曰。称名に願行を具足するというのは、所称の法体名号に願行を具足してあるからであります。 問曰。所称の法体に願行具足といわれますが、標には明らかに衆生の能称のところに十願十行具足といわれてあるではありませんか。 答曰。標には衆生の称名のところで願行具足を述べられてありますが、「云何が具足する」と、どのように具足するかという牒文に対して答えられたのが六字釈であります。この釈が所称の法体六字の上に直ちに願行具足を語られてあり、その故に必ず往生を得ると示されたのであります。 問曰。それでは、六字釈の義相について、まず南無という釈義を述べて下さい。 答曰。南無というのは、即是帰命と釈されたのは、南無の当体が帰命ということで、帰命は南無の的釈であります。 問曰。「亦是発願迴向之義」とは、どういう義ですか。 答曰。これは「亦是」とありますから、帰命の義釈であります。 問曰。帰命は南無の正翻で、発願迴向とは義翻ではありませんか。 答曰。正翻・義翻というが如き、単なる南無の翻訳ではなく、南無の当体が帰命の義であり、この帰命に義として発願迴向の義が存するということであります。 問曰。発願迴向が帰命の義釈とは、どういうことですか。 答曰。帰命の信心は、また願生心の義を具することを顕わすのであります。 問曰。帰命とは、如何なることですか。 答曰。帰命とは、阿弥陀仏に帰順する信心のことであります。 問曰。どうしてそのように言えますか。 答曰。「二河譬」に二尊の意に信順すとあるのが、帰命の信心をあらわします。 問曰。「阿弥陀仏 即是其行」とは、如何なる義ですか。 答曰。阿弥陀仏は往生の行体ということであります。 問曰。「即是」とはどういう意味ですか。 答曰。即は当体全是の意であって、是とは上の南無帰命の衆生を指します。 問曰。「其行」という、其とは如何なる意味ですか。 答曰。其のというのは、帰命する衆生の、ということで、阿弥陀仏の当体が帰命する衆生の往生の行であるということであります。 問曰。今まで述べられた六字の釈を、まとめて言えばどういうことを顕わすのですか。 答曰。要するに、南無阿弥陀仏の六字名号とは、帰命の信心に発願迴向の願と阿弥陀仏の行とを具する、即ち願行具足の義を六字の名号そのものゝ上に具わる故に、必ず往生を得ると明かされたのであります。 問曰。帰命の信心に願行具足と言われますが、下品の十声称仏に願行を具足するということゝ違うのではありませんか。 答曰。称名は信心が全顕したものですから、帰命の信心に願行具足するから、そこから流発する一声十声の称名に願行具足するのであります。 問曰。十声に十願十行具足するならば、一声には一願一行の具足ということになるのですか。 答曰。帰命の信心に願行具足するが故に、それが一声の口称に顕われて、一願一行具足となり、十声に十願十行と、帰命の一念に領受した仏の願行の徳が全顕するのでありますから、同じ価値の願行具足であります。法然上人が一念一無上功徳といわれたように、無上功徳は同じであります。 問曰。帰命に発願迴向の義を具すといわれますが、その発願迴向とは如何なるものですか。 答曰。六字釈の所称の法体名号当体の釈とみる時は、願も行も阿弥陀仏所成の願行であります。故に発願迴向は、弥陀五劫無量の大願、行は永劫無量の大行とみるのであります。この願行成就されたものが南無阿弥陀仏の名号でありますから、これを帰命の信に領受する故に、下品の凡夫が必得往生するのであります。 【 五問五答 】 問曰。前義をつぎますか。 答曰。前義をつぎます。 問曰。それならば、六字に具足する願行とは、衆生の願行ではなく、阿弥陀仏の願と行というのですか。 答曰。結論的に言えば、阿弥陀仏の上に成就された願行が、衆生の願行となるのであります。 問曰。善導大師の三心釈には、発願迴向(迴向発願心)とは、自他の善根をもって浄土へ迴向して願生することではありませんか。 答曰。そのような解釈もありますが、今は迴向発願心の第二釈の「作A得生想@」(T・五三八)の心を指すのであります。 問曰。その義であるなら、いずれにしても発願迴向は衆生の側からの立場であって、阿弥陀仏の上の願行とは異なるではありませんか。 答曰。発願迴向には二義があって、一つには衆生の機相に約し、二つには具徳に約するのである。 問曰。機相に約すとは、どういうことですか。 答曰。機相に約すとは、先に言った「作得生想」の願生心であり、それは帰命の義別というべきものであります。 問曰。帰命の義別とは、どういう意味ですか。 答曰。それは帰命の信心が浄土に向かった時に、願生の心が生じます。宗祖の『銘文』に「『亦是発願迴向之義」といふは、二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれむとねがふこゝろなり」と言われ、覚如上人の『執持鈔』にも「帰命のこゝろは往生のためなれば、またこれ発願なり」と述べられたのはその心であります。 問曰。具徳に約すとは、どういう意味ですか。 答曰。帰命の信心のところに、法体成就の発願迴向の徳を具するという意味であります。 問曰。そのように理解する典拠がありますか。 答曰。先の『執持鈔』に、先の文に続いて「このこゝろあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また迴向の義あり」と言われたのがそれであります。 問曰。善導大師の当分でそのような解釈がゆるされますか。 答曰。善導大師の当分で言えば、衆生の機のところで発願迴向を語られていますが、三心釈の結文や、二種深信釈及び二河譬の釈よりみれば、衆生の発願迴向は、阿弥陀仏より迴施された法、即ち帰命の具徳とみることができるのであります。 問曰。三心釈の結文より、どうしてそのように見られますか。 答曰。三心釈の結文に、「三心既に具すれば、行として成ぜざる無し。願行既に成じて、若し生れずば、是の處(ことわり)有ること無しと」(T・五四一)とあるように、信心が具われば行は自然に成就し、その信と行をうけて願行すでに成じて必ず往生を得るという義をあらわされています。 問曰。二種深信釈や二河譬の釈によるとは、どういうことですか。 答曰。二種深信釈には、「無有出離之縁」の機が、仏願力によって往生を得ると言われ、二河譬には、釈迦・弥陀二尊の勅命に信順する願力の白道によって救われると示されのは、結局、他力仏願力による往生を顕わされているのであります。故に迴向発願心の釈にも、「此の心深信することなほし金剛のごとし」と述べられたのです。こゝにおのずから法体成就の願行という意義が理解されるのであります。 【 六問六答 】 問曰。「阿弥陀仏 即是其行」の義相を述べて下さい。 答曰。阿弥陀仏の当体、帰命の衆生の往生の行体となるということであります。 問曰。阿弥陀仏とは仏体のことですか。 答曰。仏体のことではなく、南無阿弥陀仏の名号のことであります。六字の名号を四字の阿弥陀仏に摂めていわれたのであります。 問曰。「即是其行」とは、どういう意味ですか。 答曰。「即是」とは、当体全是の義で、「其行」とは、「其」は先の帰命の機を示し、「行」とは往生の行体ということであります。 問曰。それをまとめていうと、どういうことですか。 答曰。阿弥陀仏の四字の当体が、帰命の機の往生の行体だということであります。 問曰。「其行」とは、称名の行のことですか。 答曰。称名行とする説もありますが、今はその説をとりません。 問曰。何故にとらないのですか。 答曰。もし、即是其行を称名行とすれば、標の十声称仏に願行を具足するという文と対照するとき、称名に称名を具するという不合理を生じます。故に、即是其行の行体は所称の名号法体そのものが、衆生往生の行とみるのであります。 問曰。名号を行とするならば、その行とは名号に具する万善万行の行徳をいうのですか。 答曰。そのようにいえば、名号が能具、万善万行が所具となります。今いう行は能具・所具の関係でいうのではなく、名号それ自体が衆生往生の行となるというのであります。 問曰。名号は正覚の果名であって、直ちに行とは言えないのではありませんか。 答曰。たしかに法蔵因位の願行が成就した果名であり果徳に違いありません。しかし、その果名が衆生に対した時そのまゝ衆生往生の行因となってはたらくのです。 問曰。しかれば、法体の願行の徳を具足する相を言って下さい。 答曰。帰命の信の一念に願行具足の名号を領受する故に、衆生の往生が定まるのであります。 問曰。願行具足を語るときは、帰命が願に当たるのではありませんか。 答曰。願は帰命の義であって、帰命の当意は二種深信でいえば仏願力に乗托する信心のことであり、また、二河譬でいえば、仏勅に信順することであります。 問曰。仏勅に信順することゝ、仏願力に乗托することゝ二つの意があるのですか。 答曰。一つであります。二河譬でいえば、仏勅に信順することが、願力の白道に乗托することですから、二つあるのではありません。 問曰。その帰命の信心に願行を具足するというのですか。 答曰。三心釈の結文に、「三心既具、無A行不L成。願行既成、若不R生者、無R有A是處@ 也」(T・五四一)とあるように、三心の信心が具われば行が満足し、その信心と行をおさえて願行とし、その願行が既に成就すると釈されています。即ち帰命の信心に仏成就の願行を具足するから、必ず往生を得ると顕わされてあるのをみればよくわかります。 問曰。願行を衆生の心行とみるのですか。 答曰。ただ衆生の心行というだけでは、通論家の別時意説を論破することができません。彼等は下品の念仏を行と認めていないからです。故に善導大師は、衆生の心行とは仏成就の願行、即ち名号を領受したものにほかならないから、所称の六字の法体そのものに願行具足する義を明らかにされたのが六字釈であります。 【 一問一答 】 問曰。宗祖の六字釈を述べて下さい。 答曰。宗祖は『行巻』と『銘文』に解釈されています。 問曰。『行巻』の六字釈の義相を述べて下さい。 答曰。『行巻』の六字釈は、善導大師の六字釈を承けて、他力迴向の大行を開顕されています。 問曰。他力迴向の大行を顕わす六字釈とは、どういう意味ですか。 答曰。宗祖は『玄義分』に釈顕された六字の三義、即ち「帰命」と「発願迴向」と「即是其行」を、全て法体に約して明かされているからです。 問曰。法体に約して明かすとは、どのようなことですか。 答曰。三義をみな阿弥陀仏の上で成就されて衆生に迴施されている六字とみられたのであります。 問曰。どのように法体に約して顕わされているのですか。 答曰。帰命を以って仏の能迴向の相を顕わし、発願迴向を以って仏の能迴向の心を顕わし、即是其行を以ってその所迴向の行を顕わされています。 問曰。まず帰命を能迴向の相と示されたのは、どういう意味ですか。 答曰。『行巻』には、帰命を以って「本願招喚之勅命也」と釈成されいてるからであります。 問曰。「招喚之勅命」ということが、どうして能迴向の相とするのですか。 答曰。能迴向の相とは、仏が衆生に迴向される相状ということで、帰命とは「帰せよの勅命」即ち呼び声となって衆生に迴施されていることをいうのであります。 問曰。帰命とは、衆生が阿弥陀仏に向って帰するという信心のことではないのですか。 答曰。帰命の当分はその通り、衆生に約していうべきものですが、それを宗祖は、「帰せよの命」と訓んで、法体の呼び声の用(はたらき)とされたのであります。 問曰。何故に、帰命を法体の呼び声とされたのですか。 答曰。衆生が仏に帰命する信心は、実は仏が衆生を呼び給う勅命そのものに外ならないということです。即ち「命に帰する」という衆生の信心は、実は帰せよの命という法体の用きの外はないと示して、他力迴向の信心たることを顕わされるのであります。 問曰。衆生の能帰は、所帰の法体の用きということですか。 答曰。そうです。 問曰。その模様をわかりやすくいって下さい。 答曰。喩えば、池中に映った月は、天空の月が映った外にない。天空の月の全体がそのまゝ池中の月となっている風情であって、天空の月は法体を顕わし、池中の月は衆生の信心に当たります。そして今は、池中の月を全うじて天空の月たることを顕わすのであります。 問曰。帰命の釈がどうしてそのような義を顕わすのですか。 答曰。『行巻』の帰命釈は『玉篇』『集韻』等の古辞典によって、帰の字義に、至也、悦也、税也の三訓を出し、悦税の二音、告也、述也、人の意を宣述する也と示して、次の命の字義に接続し、命の字に、業也、招引也、使也、教也、信也、計也、召也という八訓を出して、如来よりわれら衆生に告げ述べ命じてある招喚のはたらきとして明かされてあるからであります。 問曰。そのように帰命を仏の招喚の勅命とされた根拠は、どこにあるのですか。 答曰。六字釈の前に善導大師の『礼讃』と『玄義分』の弘願釈が引かれています。二河譬にもあるとおり、勅命とは釈迦・弥陀二尊の東西の遣喚に信順する白道が明かされてあるによられたのであります。 【 二問二答 】 問曰。発願迴向の義相を述べて下さい。 答曰。『行巻』には「如来已に発願して衆生の行を迴施したもう心也」(U・二二)と釈されてあるように、法体に約して仏の能迴向の心として顕わされています。 問曰。能迴向の心とは、如何なることですか。 答曰。仏が本願を発して衆生往生の行を迴施して救うという大悲の願心を顕わすのであります。 問曰。その場合の発願とは、どういうことですか。 答曰。法藏因位の発願であって、願とは広く言えば四十八願、摂めて言えば第十八願を顕わします。 問曰。衆生の行を迴施したもう心とありますが、法藏因位に迴施の行があるというのですか。 答曰。法藏因位の行は万行であるが、万行を一々迴施するということではなく、万行を一の名号と成就して衆生に迴施されるのであります。 問曰。それは因位の迴施でなく、果成の迴施をいうのですか。 答曰。そうです。 問曰。そうすると発願は因位の発願、迴向は果成の迴施ということですか。 答曰。そういうことであるが、因位と果成と分けてしまうのでなく、因位の願心が果成の迴施とはたらき、果成の迴施は因位の願心の全体が及んでいるという意味であります。 問曰。即是其行の義相を述べて下さい。 答曰。即是其行とは、「選択本願是也」と釈されています。 問曰。即是其行を「選択本願是也」とは、いかなる法義を顕わすのですか。 答曰。即是其行とは、上の衆生の行を迴施したもうといわれた、その衆生の行、即ち先の能迴向に対する所迴向の行体をいうものであります。 問曰。所迴向の行を、選択本願これなりと示されたのは、如何なる行を指すのですか。 答曰。宗祖が選択本願といわれたものは、第十八願を指します。即ち第十八願の行といえば、乃至十念でありますが、これは要するに法体の名号を顕わすのであります。 問曰。乃至十念といえば、衆生の称名行のことではありませんか。 答曰。乃至十念は、衆生の信相続の行であります。しかし、乃至の語がついてあるところからみれば、称える数に限定をみない一多不定を顕わす称名でありますから、一声も少なしとせず、多声も多しとしない能称無功を意味します。能称無功とは全是法体を顕わしますから、結局所称の名号大行を顕わすことになります。 問曰。能称無功は良いが、今選択本願といわれたのは、元祖の開顕された選択称名のことではありませんか。 答曰。称名選択といっても、選択は相対に始まって、絶対に帰するのであります。絶対に帰するときは名号を顕わすと言わねばなりません。 問曰。相対に始まって、絶対に帰する選択行とは、どういうことですか。 答曰。選択はもと法蔵因中に諸仏土中より称名行を選択されたというのは、相対選択であって、選択された称名が、相対に止まっていたのでは諸仏超過の大行は成立しません。 問曰。何故、法蔵が選択された称名が大行でないというのですか。 答曰。諸仏土中の称名を選択されただけでは、諸仏の称名と同格になって、諸仏出過の大行とならないというのです。故に選択は一応相対的に称名を選択されたのですが、法蔵心中所欲の結構からいえば、この称名行は名号に帰し、信心に帰するという絶対選択を所顕とするのであります。 問曰。宗祖が名号や信心を選択と言われたことがありますか。 答曰。あります。『行巻』初に、標願下の細註には第十七願の法体我名を「選択本願之行」といわれ、また、『信巻』には他力迴向の信心を「選択迴向之直心」と示されています。 問曰。『行巻』初の選択本願之行とは、大行出体釈の「称A无ェ光如来名@」(U・五) と同じく、衆生の称名行のことではないですか。 答曰。『行巻』は、第十七願建立の諸仏所讃の法体名号大行を所顕とするものであり、出体釈の称名は、能所不二の大行たることをあらわすのであります。 問曰。能所不二の大行とは、いかなることですか。 答曰。能所不二とは、衆生の能行と、所行法体の名号とが、不二一体であることを顕わし、法体の名号が固然たる法でなく、常に衆生の信心称名となって活動している名号を顕わすのであります。 【 三問三答 】 問曰。善導大師や法然上人の教学では、本願の行といえば称名に限られている。元来仏教で行というときは、衆生の上にたって衆生が仏果に進趣するものと言わねばならない。浄土教においては、それは称名の外にないではありませんか。今、即是其行を選択本願の行とみるときは、あくまで称名行を指すのではないですか。 答曰。善導・法然二師は、第十八願一願建立の法門である。宗祖の教学は五願開示の法門であります。宗祖が五願開示されたときは、行は第十七願建立であり、第十七願には称名はありません。 問曰。それでは、元祖の一願建立の法門では、大行があらわれないというのですか。答曰。そうではありません。元祖の場合は、第十八願の上のみで行を語られるから、乃至十念の称名をもって念仏往生の法門を建立されたが、それは外聖道門に対する行々廃立の立場である。宗祖は元祖が開顕された勝易二徳の念仏を名号と信心にわけ、名号は第十七願の大行、信心は第十八願の大信と開顕されたのであります。『正信偈』の偈前の文に「選択本願之行信」と述べられたのは、その義を顕わされたのであります。 問曰。大行の物体については詳しくは大行名体論にゆずるが、今即是其行の行をどうしても称名とせずに、名号とせねばならない理由を言って下さい。 答曰。一つには、下『信巻』に対する所聞・所信の行を明らかにするためであり、二つには、次の必得往生の釈には、聞信一念即得往生を示されているからであり、三つには、即是其行を称名とすれば称名因体に墮するが故であります。 問曰。まず、即是其行は下『信巻』に対する所聞・所信の行を明らかにするためという義を言って下さい。 答曰。『行巻』・『信巻』は行信次第の法門になっていますから、『行巻』は下『信巻』の所聞・所信の行法を顕わすときは、法体名号の大行を所顕とするのである。故に六字の三義は、三義共に法体に約して釈してあるによって明らかであります。 問曰。所聞・所信の法なれば、称名でも言われねばなりません。善導・法然の二師の就行立信釈は、信所就の法を称名とされているではありませんか。 答曰。就行立信は、称名の上で正定業を明かされていますが、称名に生因を語り得るのは、称即名に帰した名号に生因の力用を顕わすのであって、結局、名号を所信とするものであります。 問曰。それでは、次下の必得往生の釈よりみるというのは、如何なることですか。  答曰。次下の必得往生の釈には、信一念現生不退の義を示して「由R聞A願力@光A闡報土真因決定時剋之極促@也」(U・二二)と述べられています。即ち、時剋の極促とあるように、明らかに聞信一念即得往生を以って必得往生を釈されているからです。所聞の願力は称名ではなく名号たることは明らかであります。 問曰。即是其行を称名とすれば、称名因体になりますか。 答曰。即是其行は初起一念の信心に具する行体を顕わします。もし、称名とすれば、初起一念に称名をいえば称名因体を成ずることになるからです。 問曰。『信巻』には「真実の信心は必ず名号を具す」とあります。この場合の名号とは称名のことであります。初起の信心に称名を具するのは、何故悪いのですか。如何。 答曰。初起の信心には称名はないのです。称名は信後の行たることは第十八願の三信十念の法相であり、宗祖の常格であります。もし、初起一念に称名ありとすれば、唯信正因が成立しないことになるからであります。 問曰。即是其行とは、衆生が名号を領受して称える称名行を指すというのではないですか。 答曰。名号領受は信心であり、その信心より流発するものが称名であります。所迴向の行体を顕わすときは、初起の信心の所で往因決定するのであるから、その行体を示すときは、名号でなければなりません。 問曰。しかれば、六字の三義の所顕を言って下さい。 答曰。他力迴向の大行を顕わすのであります。 問曰。六字の三義がどうして他力迴向の大行を顕わすことになるのですか。 答曰。先に言ったように、三義のうち帰命は仏の能迴向の相、発願迴向は能迴向の心、そして、即是其行は所迴向の行体を顕わすのでありますから、結局、六字全体が能迴向の相であり、六字全体が能迴向の仏の大悲心であり、六字全体が所迴向の行体を顕わして、こゝに三義共に法体に約して、他力迴向の大行たる法義を三義を通して開顕されるところに、宗祖の六字釈の特徴があると言わねばなりません。 【 四問四答 】 問曰。「必得往生」の義相を述べて下さい。 答曰。『行巻』の「必得往生」の釈は、上の六字の三義が仏に約して他力迴向の大行を示されたに対して、この大行の用きによる衆生機受の得益を明かされています。 問曰。どのように機受の得益が明かされていますか。 答曰。宗祖は『玄義分』の「必得往生」の文を『玄義分』の如く当益とせずに、聞信一念に得る現生不退の益とされています。 問曰。どうして現生の益とみるのですか。 答曰。釈文に「必得往生と言ふは、不退の位に至ことを獲ことを彰はす也」(U・二二)と先ず示し、次いで『大経』本願成就文の「即得」、『十住論』の「必定」と文を会合して、「願力を聞に由て、報土の真因決定する時剋之極促を光闡する也」と釈されてあるからであります。 問曰。その文がどうして現生の益とみることが出来ますか。 答曰。「願力を聞に由て、報土の真因決定する時剋之極促を光闡する也」とあるのは、明らかに聞信の一念同時に仏因が決定すると顕わされてあるからであります。 問曰。『玄義分』には「此の義を以ての故に必ず往生を得る」と釈してあり、「斯義」とは、称名に願行具足するからだと示されています。しかるに、宗祖は何故に聞信の一念に往生決定するという現益で示されたのですか。 答曰。それは、上の六字の三義を以って、法体名号の迴向を示されたからであります。 問曰。その義を、もう少し詳しく述べて下さい。 答曰。上の六字の三義は、仏が衆生の行因を成就し、これを大悲心をもって招喚して迴施したまう法を明らかにされました。これが六字の名号の義であります。名号とは、願力でありますから、次にこの願力を聞くによって仏因決定すると示されたのです。これ聞信一念の現生の得益であります。 問曰。衆生の機受を示すのに、何故「願力を聞くに由て」と示されたのですか。 答曰。それは、名号の迴向相は招喚の勅命にあるからです。招喚とは、呼び声ですから、それにこたえるのは聞いて受法する外にないからであって、これは本願成就文の「聞其名号」に当たります。 問曰。「由聞願力」で何故「報土真因決定」するのですか。 答曰。仏迴向の名号大行は、衆生往生の仏因を円満するが故に、名号を聞信するとき衆生のものとなる。故に仏因決定するのであります。 問曰。『経』の「即得」、『論』の「必定」を出されたのは、如何なる意味ですか。 答曰。「即」の字は同時即の義であって、聞信一念同時に仏因決定する受法得益同時を顕わす。現生の利益を本願成就文の即得往生の文と会合し、『論』の仏果決定の「必定」の益と会合して、必得往生とは聞信一念に獲る即得往生の義であることを示されるのであります。 問曰。「時剋の極促を光闡する」とは、どういうことですか。 答曰。「時剋」とは、聞信一念の時を指し、「極促」の「促」とは、延に対する言葉であるから、信後相続の延に対して、往因決定した初際の時を顕わすのである。 問曰。何故にそのような往因決定する時剋の初際をいわれるのですか。 答曰。往因決定は、微塵も自力を雑えず、仏願力自然の大益を与えるものこそ、名号大行の妙用たることを顕わすからであります。 【 五問五答 】 問曰。「必得往生」の「必」の字を宗祖が、「【審也、然也、分極也】金剛心成就之皃也」と、細註されたのは、如何なる意でありますか。 答曰。名号大行の妙用によって得る、信相を述べられたもので、「審」は道理審明(アキラカ)なること、「然」とは他力自然、「分極」とは、正定聚に入るが故に、(キワムル)ことを顕わし。この信の法徳を金剛心成就のすがたと示されたのであります。 問曰。『玄義分』には衆生の称名に願行具足することを開顕されたのに、宗祖に来って唯信正因の義を示されたのは何故ですか。 答曰。衆生の称名に願行具足する法とは、結局法体名号に願行具足することを顕わし、その法を全領するのが、聞信一念であります。故に『玄義分』の法義の帰するところを明確にし、唯信往生に帰することを顕わされたのが『行巻』の六字釈であります。 問曰。『玄義分』の六字釈と、『行巻』の六字釈との所顕の相違を述べて下さい。 答曰。『玄義分』の六字釈は対外的に、当時の摂論家の謬説に対して、願行具足の念仏を顕わして凡夫入報の純正浄土教義を瞭らかにされたのであります。宗祖の『行巻』は、この義を承けて願行具足という願行門の法相と、機法門の法相を明確にして他力迴向の法義を開顕闡明にされたところに特徴があります。 問曰。『行巻』における願行門と、機法門との法相を明らかにして下さい。 答曰。願行門とは、「発願迴向」の願と、「即是其行」の行が名号に成就して迴施されている法相で、これによって仏因決定することを顕わします。 問曰。機法門の法相とは如何。 答曰。機法門とは、六字の三義を法体に約し、「必得往生」が機受を顕わすのであります。 問曰。その場合の、機法の関係を述べて下さい。 答曰。六字の三義共に法体に約すとは、仏の名号が衆生に迴施されて、衆生を信ぜしめ往生せしめつゝある他力大行の法たることを顕わし、その法体大行の法を聞信一念に全領して、即得往生を獲るのが衆生機受の得益を顕わすのであります。要するに、六字の三義が法体独用を顕し、必得往生の釈が機受无作の故に、唯信正因の法義を顕わすといわねばなりません。これを他力迴向の六字釈というのであります。 【 一問一答 】(『銘文』の釈) 問曰。『銘文』の六字釈の義相を述べて下さい。 答曰。『銘文』の釈意は、六字の三義を以って機法能所信として、機受の立場から釈し「必得往生」を以って、得益として示されています。 問曰。六字の三義を機法能所信で釈す義相を言って下さい。 答曰。六字の三義の中、帰命を衆生の機受の立場から能帰の信相として示され、発願迴向を以って帰命の信心の義別として明かし、即是其行を所帰所信の法として釈されています。 問曰。帰命を、衆生の能帰の信相を、どのように釈されていますか。 答曰。文に「帰命はすなはち釈迦・弥陀二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふと申すことばなり。このゆえに即是帰命とのたまへり」とありますから、明らかに衆生能帰の信相を述べています。 問曰。『行巻』の帰命釈と異っているようですが、その点を述べて下さい。 答曰。『行巻』の帰命釈は法体に約して、帰せよの勅命として示されていますが、『銘文』は帰命の当釈を以って勅命に帰する機受の信心として示されているのであります。 問曰。帰命の当釈には種々あるが、今文は何故帰命を勅命にしたがうと釈されたのですか。 答曰。賢首の『起信論義記』には、帰命を一には「帰」は趣向、「命」は己身の性命、二に「帰」は敬順、「命」は諸仏の教命と釈し、元暁の『同疏』には、帰命は還源の義と釈してあります。 問曰。今はどの義を取るのですか。 答曰。浄土門の中には、初の義を用いて度我救我、即ち我を度し給え、我を救い給えと仏に趣向する説もあり、仏の命に還源する説もありますが、宗祖はそれ等の義を取らず、後の義の敬順教命の立場で帰順勅命と釈されたのであります。 問曰。何故、帰順勅命の義と取られたのですか。 答曰。度我救我等の身命を仏に帰向するような帰命は、衆生の方から仏に対して請求する自力の信であります。今は二河譬の釈迦・弥陀二尊の発遣招喚の勅命にしたがう義によって他力の信を顕わされるのであります。 問曰。そうすると『銘文』のこの釈が帰命の当釈であるとするならば、『行巻』の帰命釈との関係はどのようにみるのですか。 答曰。『銘文』及び『執持鈔』や『御文章』もみな、命に帰するという帰命の当釈で、能帰の心相を述べていますが、この能帰の信心は仏願力迴向の信であることを顕わさんが故に『行巻』では「帰セヨノ命」、勅命とする跨節釈を以って示されたのであります。つまり衆生の能帰は衆生が構造発起する自力の帰命ではなくして、「帰セヨノ命」をそのまゝ受けて、その命に素直に帰するという、即ち所帰の勅命来って能帰の安心となるという両釈相俟って、いよいよ他力迴向の信心の旨を明かされるのであります。 【 二問二答 】 問曰。『銘文』の発願迴向の釈義をいって下さい。 答曰。「二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれんとねがふこゝろなり」と述べられています。 問曰。それは、衆生が願生心を起し、浄土へ迴向心を運ぶことですか。 答曰。そのような自力の願生迴向心ではなく「二尊のめしにしたがふて」とありますように、帰命の信心を体とした願生心のことであります。 問曰。帰命を体とした願生心とはどういう心ですか。 答曰。安楽浄土へ生まれんとねがう願生心は、信順帰命の義別であって、帰命の信心の心中に当果の浄土へ向かって必ず生まれさせていたゞくことよと思う願生心が生ずる心を指すのであって、あくまでも帰命の信心を体とし、その心の中のものですから、これを帰命の義別というのであって、本願の欲生の義別と同じであります。 問曰。発願迴向の義をそのように解釈する典拠がありますか。 答曰。『散善義』の迴向発願心釈に「迴向発願願生者、必須A決定真実心中迴向願@作A得生想@。此心深信由R若A金剛@」(T・五三八)とあるのがそれであります。 問曰。その文が帰命の義としての発願迴向心と、どうしてみられるのですか。 答曰。「作得生想」とは、浄土へ生まれんと願う願生心です。この願生心は、如来の迴願心を須(もち)うる真実信心中のものであって、これを金剛の如き他力信心中の願生心と述べられてありますから、明らかであります。 問曰。勅命に信順するという帰命と、浄土を願うという発願迴向心との関係を、もう少し明らかにして下さい。 答曰。勅命に信順した外に迴願心があるのではないのです。仏の勅命は「必ず生まれさせるから安心せよ」と呼ばれているのでありますから、この勅命に信順したとき、「必ず生まれさせていただく」と未来の浄土に向かった時、決定要期の願生心が生ずるのであります。つまり、衆生の願生心は、仏の迴願心を信受し頂いた相であって、帰命の当体に得生の想いを作す心が生ずるのであります。 問曰。「安楽浄土へ生まれんとねがふこゝろ」とは、発願の義であって、迴向の釈とは思われません。『銘文』に迴向の別釈がないのはどういうことですか。 答曰。発願、即迴向の義であります。 問曰。どうしてそういえますか。 答曰。発願の他に迴向がないからであります。 問曰。発願が衆生に約していわれてあるからには、迴向も約生の義でみていかねばならないでしょう。その場合の迴向はいかなる義でありますか。 答曰。『六要鈔』(U・二八二)に『信巻』引用の三心釈の迴向釈について、二釈がなされています。 問曰。『六要』の二釈とは、何ですか。 答曰。第一に「迴因向果」、第二に「迴思向道」であります。(U・二八二) 問曰。迴因向果とは、どういう義ですか。 答曰。自己の善根を往生の因として果にふり向けることであって、自力の迴向であります。 問曰。第二の迴思向道とは、如何なる義ですか。 答曰。迴思の思は自力心、向道の道とは、他力の白道を指しますから、要するに自力心を廻転して他力の白道に趣向することで、和讃に、「定散諸機各別の/自力の三心ひるがへし/如来利他の信心に/通入せんとねがふべし」(U・四九五)の意であります。今、約生釈でいう迴向の義はこれであります。 問曰。発願迴向の故に迴向の別釈がないといわれたが、その義をもう少し明らかにして下さい。 答曰。宗祖が迴向を語られる時は、いつも如来の迴向であって、機相の側から往因としての迴向を語られることはないのであります。今、発願の外に迴向の別釈をされなかった理由は、一には機相で迴向を語れば自力の迴向に混ずるおそれがあるからであり、又、迴向を機相で釈されるときは、迴思向道の義であって、自力心をヒルがえして、二尊の勅命に信順する意でありますから、発願即迴向とみるのであります。 問曰。しかし、『執持鈔』には、迴向を釈して「これ発願なり、このこゝろあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また迴向の義あり」と約生の立場で釈されてあるのはどうしますか。 答曰。『執持鈔』の釈は、後に論じますが、この釈は約生の立場で法徳に約して釈されたものです。今、『銘文』の迴向釈がないのはこの義を含むものというべきであります。 問曰。何故この法徳の義も含むというのですか、先の義と違うように思いますが。 答曰。真宗では約生の立場では、不迴向を据わりとします。『選択集』二行章の迴向・不迴向対に、六字釈が引かれてあり、『行巻』にその意をうけて「非A凡聖自力行@、是不迴向行也」と明判されてある意を考えて、法徳の側からいえばこの義も含むと言ったのです。 【 三問三答 】 問曰。『銘文』の即是其行の釈意を述べて下さい。 答曰。『銘文』の即是其行釈は二義がみられます。 一には、所帰所信の法体、二には帰命所領の行体とみます。 問曰。所信の法とは、どういう意味ですか。 答曰。上の帰命に対して、所帰所信の法を挙げられたとみるときは、即是其行は法体の側をあらわし、能所信の関係になります。 問曰。帰命所領の行体とみるとは、どういう意味ですか。 答曰。即是其行を以って、帰命に法体を全領した行徳とみるのです。この場合は、帰命は能具、即是其行は所具の関係になります。 問曰。帰命と能所信の関係でいう所信の法と、帰命と能所具の関係でいう所具の行徳といわれましたが、その物体はなんですか。 答曰。文に「即是其行は、これすなはち法蔵菩薩の選択本願なり」とありますように、何れの場合でも、即是其行の物体は『行巻』と同じく名号のことであります。 問曰。次下の文に即是其行を「安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこゝろなり」と述べられているところからみると、即是其行は称名のことではありませんか。 答曰。「正定の業因」とは『正信偈』の「本願名号正定業」とあるように、第十七願位の名号のことであります。 問曰。下の文に「正定之業者即是称仏名といふは、正定の業因はすなわちこれ仏名を称するなり」(U・五七一)とあるように、明らかに称名行とみられますがどうですか。 答曰。その文は元祖の『選択集』三選の文の釈でいわれた文であります。宗祖の今の釈は南无・帰命の能帰に対する所帰所信の法体を挙げたものが即是其行であるから、能所信の関係である。このときは「本願名号正定業、至心信楽願為因」の文によってみるとき、第十七願の法体名号とみるのが穏当であります。 問曰。能所信の関係からみても所信の法を称名とみることはできます。就行立信というときの行は称名ではありませんか。 答曰。今は帰命を能帰とし、所帰の阿弥陀仏を即是其行とされているのです。即ち、所帰の阿弥陀仏の当体を行となすとされたのは称名でなく、法体名号とせねばなりません。 問曰。「法蔵菩薩の選択本願なり」といわれた、「選択本願」は第十八願の行、即ち「乃至十念」の称名ではないですか。 答曰。選択本願は第十八願です。第十八願は若不生者の誓願であります。この誓願成就の覚体が阿弥陀仏であり、この正覚の果体が即、衆生往生の行となる。これが即ち阿弥陀仏即是其行と述べられたのであります。 問曰。称名行とみてよろしくない理由はありますか。 答曰。今文は幾度も述べた如く、南无・帰命の能帰者の所具の行徳を顕わしたものが阿弥陀如来即是其行であって、所具の法徳からいってもそれは名号法体であって、能帰者の所領となるところを称名行とすれば不当であります。 【 四問四答 】(『執持鈔』) 問曰。『執持鈔』の六字釈の義相を述べて下さい。 答曰。『執持鈔』の六字釈は、六字の三義ともに衆生に約して平生業成の義を成ずる根拠として釈されています。 問曰。六字の三義をどのように衆生に約して示されていますか。 答曰。六字を能具・所具の関係で示されています。 問曰。能具・所具の模様をいって下さい。 答曰。帰命は能具・発願迴向と即是其行は所具、即ち、南无・帰命の具徳として釈されています。 問曰。発願迴向の釈を述べで下さい。 答曰。今鈔の発願迴向の釈は、発願と迴向を二つに分けて釈されています。 問曰。どのように分釈されているのですか。 答曰。「帰命のこゝろは往生のためなればまたこれ発願なり」と述べて、発願は帰命の義別として帰命の信が当来の果に向えば発願となる義を示し、信に即する発願を明かしてあります。 問曰。次に「このこゝろ、あまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また迴向の義あり」とある、「このこゝろ」とはいかなる意味ですか。 答曰。「このこゝろ」を解するに二義があって、一義に法に約していゝ、又一義は機に約していゝます。 問曰。法に約していうと、どのように解するのですか。 答曰。帰命のこゝろに具する所の発願には、如来より万善万行を与えて、其れをして往生浄土の業因となさしめ給うから、他力迴向の義ありという意味であります。 問曰。機に約していうと、どのように解するのですか。 答曰。帰命するところに、浄土に往生せんと願うこゝろのあるのは発願である。この発願は帰命の一念に如来より万善万行の徳を迴施せられてあるから、衆生は迴施されたその行を以って自からの行として浄土に生まれんと願う道理があるから、発願のところに迴向の義ありとするのであります。 問曰。二義いづれの義を取るのですか。 答曰。迴向を帰命の具徳として解するときは、機に約して解する第二義を穏当とします。 問曰。「能帰の心、所帰の仏智に相応する」とは、どういうことですか。 答曰。衆生の帰命するそのとき、というほどの意であります。 問曰。即是其行の義相を述べて下さい。 答曰。帰命の一念に仏の因果の徳を摂在した名号が、衆生のものとなり、往生の行法を成ずることを示されるのであって、要するに帰命の一念に願行具足する故に必得往生の益がある。故に平生業成と名づけられるのであると明かされたのが『執持鈔』の六字釈であります。 【 五問五答 】(『御文章』) 問曰。御文章の六字釈の意を述べて下さい。 答曰。御文章には、六字釈に関する文を述べられたものは十七通を数えますが、そのうち、「善導のいはく」と標されたものが五ヶ処あります。[三−八・四−八・四−十四・五−十一・五−十三] 問曰。それ等の多数の釈を通して述べられた六字釈の義相をいって下さい。 答曰。『御文章』の六字釈は、機法門を据わりとして願行門の義を摂めるという釈意であります。 問曰。機法門を据わりとする義を述べて下さい。 答曰。機法門とは、南无・帰命を以って衆生の能帰の信心とし、発願迴向と阿弥陀仏即是其行と共に、法に約して衆生を助けたもう法とする扱いであります。 問曰。願行門の義を述べて下さい。 答曰。六字を願と行に分けて示されたのは、[三−六]に「また南无といふは願なり、阿弥陀仏といふは行なり」(V・四五九)といわれたところだけで、その場合にも、願の発願迴向も行の即是其行も共に法に約して示されてあり、「帰命の一念をこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したまふなり、このこゝろすなはち阿弥陀仏の四字のこゝろなり」云々と釈して、帰命の機に対する助くる法を以って発願迴向と即是其行との二つを示されてありますから、結局、機法門の法義となっています。 問曰。六字の機法門の法義について、先ず南无の機をどのように示されていますか。 答曰。南无の機は帰命の信心として、諸文すべて衆生に約して釈されています。 問曰。南无・帰命の法義を、どのように釈されていますか。 答曰。南无・帰命を釈されたものは、ほとんど衆生が弥陀をたのむ能帰の信相として示されています。例えば、[四−十四]に「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへと、たのみたてまつるこゝろなり」(V・四九七)、又「南无の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり」と述べられたのがそれです。 問曰。帰命の信心に発願迴向の義をどのように述べられていますか。 答曰。発願迴向を帰命の義として衆生に約して述べられたのは、一ヶ処しかありません。それは[二−十五]に「南无という二字はすなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみ奉るこゝろなり」(V・四四八)という文ですが、これとても帰命の義別というよりも、信前の出機発動の心を挙げられたもので、他はほとんど発願迴向を仏に約して法徳の用きとして示されてあります。 問曰。発願迴向を仏に約して示された義相を述べて下さい。 答曰。『御文章』の六字釈に一貫している法義は、発願迴向と即是其行、即ち願と行の二つを総て仏に約して、衆生の帰命に対する法の用きとして釈されているのであります。 問曰。どのように釈されていますか。 答曰。仏に約する法の用きに二途あります。 問曰。二途とは何ですか。 答曰。一には光明摂取、二には功徳迴施であります。 問曰。光明摂取とは、どういう意味ですか。 答曰。先に挙げた[三−六]に「帰命の一念をこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したまふなり、このこゝろすなはち阿弥陀仏の四字のこゝろなり、また発願迴向のこゝろなり」といわれてあり、又[四−十四]に「また発願迴向といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこゝろなり、これすなはちやがて阿弥陀仏の四字のこゝろなり」といわれた文がそれであります。(類文多し) 問曰。功徳迴施とは、どういう意味ですか。 答曰。功徳迴施とは、[四−八]に「南无と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり、このこゝろすなはち阿弥陀仏即是其行といふこゝろなり」(V・四九〇)と。又、[五−十三]に「されば一念に弥陀をたのむ衆生に、无上大利の功徳をあたへたまふを発願迴向とはまうすなり」とあるのがそれで、その外類文は多くみられます。 【 六問六答 】 問曰。発願迴向ということが、又、阿弥陀仏即是其行が、どうして光明摂取という義になりますか。 答曰。『礼讃』(T・六五三)に『観経』真身観の摂取不捨の光明と、『小経』名義段とを合揉して「摂取不R捨故名A阿弥陀@」と釈されてあるのによられたのであります。 問曰。その義をもっと詳しく述べて下さい。 答曰。名号は因願酬報の正覚の果徳であります。されば果徳摂化ということになると、光明摂取の義になります。この摂化はそのまゝ衆生往生の行体となる摂化でありますから、この立場からいえば阿弥陀仏即是其行という義になるのであります。 問曰。発願迴向というのは迴向行である、それがどうして光明摂取という義になるのですか。 答曰。発願迴向の義からいえば、仏の名号が衆生往生の因行として迴向される相でありますが、この場合、行として摂化される側からいえば即是其行といわれ、又、この摂化が果徳の摂化といわれる側からいえば光明摂取というのであります。 問曰。しかし、発願迴向の当相からいえば、光明摂取といえないのではありませんか。 答曰。光明摂取も功徳迴施も、一名号の摂化のほかはないのであります。換言すれば、仏の大悲に抱かれて安心しているという側を光明摂取を以って顕わされ、仏の功徳がわが功徳となっている側から発願迴向といゝ、仏の行がわが往生の行体となっている側からいって即是其行というのであって、体は一名号であります。 問曰。発願迴向は南无・帰命に属した時には衆生に約して、帰命の義別とすることは一応わかるが、殆ど仏に約して示されるのは如何なる理由でありますか。 答曰。『銘文』や『執持鈔』には発願迴向を衆生に約して明かしてありますが、『行巻』には仏に約して大悲迴向心と示されています。『御文章』は『行巻』の釈意によって、能帰の「タノム」衆生に対して所帰の「タスクル」法を鮮明にしたもうのであります。故に発願迴向を阿弥陀仏の四字に属して、即是其行と一つにして釈顕されるのであります。 問曰。しかれば、『御文章』の六字釈の所顕をいってください。 答曰。要するに、『御文章』の六字釈は、信心獲得するということを南无阿弥陀仏の六字を以って明示せられるのであって、そのために能帰の信相を帰命釈で、法体の願行を発願迴向と即是其行を以って鮮明にするところに機法一体の六字を主張されるのであります。 問曰。その機法一体の六字とは、如何なる法義をいうのですか。 答曰。機法一体とは、南无はたのむ機のかた、阿弥陀は助くる法を顕わし、たのむ機と助くる法を六字の上に一体に成就されているという意であります。 問曰。その一体の模様を文を挙げて説明して下さい。 答曰。[三−十四]に「南无の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり、また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆへに、これすなはち機法一体の南无阿弥陀仏とまふすこゝろなり、この道理あるが故にわれら一切衆生往生の体は南无阿弥陀仏ときこえたり」と、その他[三−七・四−八・四−十一]等にしばしばこのような文がみえます。 問曰。南无は機、阿弥陀仏は法はわかるが、一体の模様を述べて下さい。 答曰。一体とは一名号に機と法が一つに成就されていることをいうのであって、即ち機からいえば南无となのむのは、たすくる阿弥陀仏の法をたのむ故に、南无に阿弥陀仏が摂まりますから六字全体が機であり、又法からいえば、阿弥陀仏は南无とたのむものを助くる法でありますから、阿弥陀仏に南无が摂まるゆえに六字全体が法になります。これを機と法の一体というのであります。 問曰。そのこゝろを、もう少しわかり易くいって下さい。 答曰。要するに、たすくる法の外にたすかる思いがあるのでなく、たすかる法が聞えたとき、いよいよたすかると思う心がたのむ信心であり、阿弥陀仏は助くる法、南无は助かる相、このたすくるまゝが助かるとなる。これを機法一体というのであります。『御文章』の六字釈はこのように、たのむ機と助くる法を明確に示して他力信心の相を説明されたのであります。(詳しくは「機法一体論」にゆずります) 〈已下は論議に譲る〉