教学講座『往生論註講述』 行信教校教授 勧学 山本仏骨和上 述  第一講 昭和五十九年十一月十二日  (一)『論註』の表題  無量寿経……浄土三部経全体を包括  優婆提舎……『論』といってもよい。『論議経』という言葉がある。『論』と論議の意味があるが、議論するのでないから梵語のままで置く。  願生偈……  『論註』は、浄土真宗成立の理論的基礎である。  (二)時代的背景  曇鸞大師は千三百年以上前の人である。   (一)南北朝時代・・胡(北)と漢(南)の力と力の相克の時代。   (二)仏教と道教(老子)の対立・・曇鸞大師は道教も学んだので『論註』に禁呪音辞・陀羅尼章句が多く出てくる。これらは本文に入って述べる。   (三)龍樹仏教と世親仏教の交渉・・『論註』はこの二つの系統を統一した。    @鳩摩羅什(『阿弥陀経』の訳者)龍樹……空系統……実相論……大論・中論・般若経論。    A菩提流支三蔵(曇鸞大師が出合った方)世親……有系統……縁起論……菩薩経論・金剛般若論・浄土論。  ※曇鸞大師は南北両朝の天子から崇められた。  北魏の孝靜帝……神鸞。南の梁の蕭王……鸞菩薩。  『高僧和讚』(曇鸞讚三十四首ある中に) 「魏の天子はたふとみて、神鸞とこそ号せしか乃至」「本師曇鸞大師をば、梁の天子蕭王は 乃至」 曇鸞大師は龍樹系統の四論(中論・十二門論・百論・大論)を学んだ、このことは曇鸞讚に「四論の講説さしおきて乃至」からもわかる。また『大集経』六十巻も学ぼうとされたが、この途中で行き詰まり道教を学ばれ、この帰りに菩提流支三蔵に会われた(五十二〜五十三才)この時授かったものに多くの説がある。  続高僧伝(道宣)等・・『観経』。  三国仏法伝通縁起(凝念)・・『浄土論』。  これまで空系統を学んでいたので、有と空の矛盾を見られて悩み行き詰まりを感じられた。有と空の両系統が一つになる調和点は。浄土願生に於いて。  龍樹・・故我頂来弥陀尊→弥陀浄土に願生。  菩提流支三蔵・・『浄土論』の翻訳→願生の思想。  (三)『論註』の中心は三点  @序説・・自力他力。  A上巻終わりの「八番問答」悪人正機……五逆謗法も結果的には救われる。  B下巻終わりの「覈求其本釈」救われるということは本願力(第十八・第十一・第 二十二願)にある。この三願に根底を置いて……五願開示  (四)『論註』の構成  『浄土論』は二段に分かれる。  偈頌・・一心願生・・信心。  長行・・五念得生・・行。  『論註』・・一心と五念の交流。  一心願生を解釈するのに五念得生をもってする。  五念得生を説く中に一心願生をおりこんでする。  信と行とは離れたものではない。お互いに助け合い含みあっている。一心で願生するのみで浄土に生れることは一般仏教の法則から言えば許されない。だから一心のなかに五念の行が含まれている。  ※我々の頂く信の中に如来回向のそっくりこもっている。  上・下巻に仏身仏土を深く解釈されている。この仏身仏土を解釈するに願心 荘厳を言われる。  如来の願心は眞如法性を根底とした願心である、荘嚴とはその願心を以て荘嚴された二十九種の功徳である。この荘嚴功徳は一つの名号におさまり、名号は経の体となる。※仏身仏土の全体が名号として私に入りこんで下さる。この名号を信受するところが信心である。この信心は菩提心であり、仏因である。「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」497 〔質問〕 問 五念門は誰が修するのか。 答 五念門に二つも三つもあるのではない。『論』『論註』では行者の修するものとして説かれている。宗祖はこれを否定されているのではない。行者が修するのだが、行者が始めて修するのではなくて、如来の行が行者の上に働いて行者の行となっていて下さる。  ※念仏も一緒である。念仏は私が称える。私の称えるその念仏は私がはじめて出したのではなくて、如来様から御回向されているものである。  『浄土論』には行として五念門があると示されている。これについて曇鸞大師は五念門行が行者にあるというと、仏の方から与えられたと言われた。これは三願的証に出てくる。御開山は三願的証に依られて、さらに徹底されて、五念門は一々法蔵の修せられたものであると二門偈に示されている。もっと言い換えると五念門は仏のものが私に与えられ、与えられたものが、我々の上に生き生きと活動しているのである。  第二講 昭和五十九年十二月十日  前月は龍樹菩薩から曇鸞大師に至までの思想系統、そして天親菩薩の『浄土論』を註釈せられた曇鸞大師のお心持ちについてかなり内容に入ってお話をしました。  いわば仏教の系統は実相論系の龍樹菩薩の考えと、縁起論系の天親菩薩の考えとが、曇鸞大師の時代に対立していた。そういう対立の中に曇鸞大師御自身は大きな悩み、行詰まりを感じられた。そしてこの行詰まりをどうして脱却するかについて非常に苦心されている。その結果は龍樹菩薩の実相論の系統も、龍樹菩薩が最後に落着くところは弥陀浄土に願生するという事にあり。天親菩薩の縁起論の系統も、天親菩薩の『浄土論』によって示された願生の思想に最後は落着くということに結論が出た。  この二つの大きな仏教の系統は浄土願生で一致している。この浄土願生を成立させる内容的な議論が一面では、空観系の思想となり一面には縁起論の思想となって顕わされている。ここに曇鸞大師の素晴らしい仏教統一が示されている。仏教は実相論からは空観におさまる。又、縁起論の立場から考えると仏教は無尽縁起の思想、あらゆるものを因縁においてとらえる縁起の思想となる。空観と因縁観のこの二つです。はじめ龍樹菩薩が実相論系から出られて願生という思想をここに摘出せられた。龍樹菩薩に次いで天親菩薩の縁起系の中にもまた願生ということを力説せられてある。  仏教は願生という思想に一致点を見出すことが仏教の統一的見解であることを私たちはよく考えなければならない。親鸞聖人はこういう点に立っておられたということを考えさせられます。そういうことで龍樹菩薩と天親菩薩の二つの系統が願生という点に於いて一致点を見出しておられるということをよく考えてゆかねばならないということで前月の話を終わった訳です。今回は『論註』の中に入って窺うことに致します。 前回にも若干ふれましたが、『論註』というお聖教は、その要点となるものは三ヶ所に現されている。  第一は『論註』の序説。  第二は『論註』の上巻終わりの八番問答、  第三は『論註』の最後に出てくる覈求其本の釈です。  この三ヶ所が『論註』を読むものにとって見逃してはならない大きな中心であるということを曇鸞大師ははっきりお示し下さっている。この中で何れも曇鸞大師の問題にされたことは他力義であり、その他力義をいかなる観点から曇鸞大師が出されているかを窺う。  一・本論  (一)序説の自力他力義  『論註』の序説に他力義を出される、これは本文に触れながら窺ってゆく序説に「謹で龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに云く。菩薩阿毘跋致を求に二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。難行道は謂く、五濁の世、無佛の時に於て阿毘跋致を求るを難となす。此の難に乃し多途あり、粗五三を言て以て義の意を示す」(279) と言って五つの難を示されている。仏教には難行道・易行道があると初めて言われるのは龍樹菩薩である。その龍樹菩薩の開かれた「難行道・易行道」の易行道とは何であるのか。これは後になってはっきり言われているが、その易行道というのが天親菩薩の示された浄土願生の道であるということを言われているのである。  ここに書いてある文章で「案ずる」とは、じっと窺うこと。「阿毘跋致」とは不退転ということで、『阿弥陀経』にも有ります。菩薩が迷いを離れて悟りを開く、つまり不退転の道を得るのに二種の道がある。「一つには難行道、二つには易行道である」難行道というのは「五濁の世」つまり、ただ五つの煩悩に濁って混乱している世の中におって仏がましまさないということは、これは我々が不退転に至るという事にとって困難な道であるということを言われるのである。では困難とはどういうことか。その難という理由を五つ出しておられる。この五つを並べてあるのは『論註』の特色であって他には見られない。具体的なことをあげられて難ということを適切に示されている。  「一つには外道の相善は菩薩の法を乱る」 これは仏法でない他の人々は菩薩の法を乱すということです、相善とは有相善、無相善と云う事を示す。  有相善とは形にこだわっているものがこれである。  無相善とは形を超えて悟りに向っていくのがこれです。  別の言葉では。  有相善とは煩悩に染まっている有漏善。  無相善とは煩悩から離れる無漏善。  そういうものを我々は見極め、無漏善の中に我々の救われていく道を見出してゆかねばならない。煩悩を離れる無漏善を説くのが仏教である。外道の人達の相善は有相善の有漏に染まって無相の無漏善を知らない。これが第一の理由である。  つぎに「二つには声聞は自利にして大慈悲をャふ」 仏教の中では声聞と菩薩はいつも対比されるが、小乗の声聞は自利の世界に留まって大慈悲を障える。声聞は自分さえ悟れば・助かれば良いというが、これは仏教の中でも重大な問題であり、曇鸞大師の時代には小乗・大乗ということが喧しく云われた。自分さえ悟ればそれで良いという自分だけの悟りに留まるのが声聞である。菩薩はそれではいけない。本当の悟りというのは自利と利他を片寄らずに身につけてゆかねばならない。利他することによって自利が全うされる。利他というのはそこに書いてある大慈悲の事です。人を救う中に自分の悟りを見出した。それが大慈悲である。これが大乗仏教の真意である。声聞は自分だけ悟れば良いというところに留まって人を救う中に悟りを見出すことを見落としている。これが第二の理由である。  「三には悪を顧こと無き人は他の勝徳を破す」 無顧の悪人とは、むこうみずの人、他人のことを考えないものと云うことである。他の勝徳を破すとは菩薩たちの勝れた徳を破るということである。乞眼バラモンという。一つの具体的な物語がある。乞眼バラモンとは自分の勝手な事を云う。このバラモンが舎利弗尊者に大きな損害を与えたことがある。舎利弗尊者が布施の行をしておられる所に行って「佛道を歩む者は人の願うものを何でも布施するのか」と言った。尊者は「そういうことになっている」と答えた。すると無顧の悪人であるバラモンは「あなたのその綺麗な目をくれ」と言った。無理な話である。これには尊者も困った。「自分の持っている物質的財物か自分の身体で出来ることならするが、あなたに目をあげてもあなたの為にはならないではないか」と言った。すると外道は「ためになるかならんかと云うより、布施してくれと言われたら布施するのが当然ではないか」と迫った。そこで何でも布施すると言った手前尊者は自分の目を片方刳り貫いて乞眼バラモンに与えた。そうすると乞眼バラモンは「顔についているときは綺麗だったが、こんなに汚いものか匂いを臭いだら臭くて持っておれない」と目を地面に投げつけて靴で潰してしまった。これはもとより計画であった。尊者はその姿を見て困り果てた。こんな無茶苦茶な人間があるものか。そこで尊者は腹をたてた。その腹立ちが尊者の仏道、悟りへの道を退転させた。このことはお経に出ている。 無顧の悪人とはそれを云う。世の中には無茶苦茶な人が居て、正しい仏教の道を踏み躙って壊すことを喜んでいる。人の勝れた徳を壊すことを喜ぶ。これが我々の世界である。以上が第三の理由である。  「四には顛倒の善果、能く梵行を壊る」 顛倒の善果とは、五欲の楽しみが一番の楽しみと思っていることである。眼を、耳を、鼻を、口を、身体を楽します。この世界の人は皆そうである。他人事ではなく私もそういう楽しみを願っている。五欲の楽しみは楽しそうだが、本当の楽しみではない。だから顛倒という。逆さまごとと云うことである。梵行とは浄行のことである。逆さまごとと思っている者は、煩悩を離れ、清浄寂滅を求めると云う事を説く仏教を壊すということである。これが第四の理由である。  以上は世間にあることを大師は提出して言われた。このことは単によそごとではなく、私達の日常、身辺は全部これより他は無い。そういうことの為に正しい仏教を歩む事が妨げられる。だから非常に難しいということを言われたのである。以上四つは別々に言ったが最後にそれをまとめて。  「五には唯是れ自力にして他力の持つなし」 皆、自力で他力がない。この他力とは仏力です。仏力に頼るということを皆失っている。自力他力と言う事をはっきり出されたのは大師が最初である。我々はこれをよく噛みしめていかねばなりません。曇鸞大師より前に自力他力と言われた方はない。この他力ということは、後にすぐ出るが仏力の事である。どうも最近の人は他力というと、よその力と理解するからいけない。真宗はよその力をあてにしているのかと、そういう下らないことを言う。これは日本人の一番悪い所です。正しいものを聞こうとしないで、ただ自分の考えを基にして正しいものを壊してゆく。だから他力についても、僧侶さえも、自動車に乗せて連れてきてもらって「今日は他力で来ました」などと言う人が居る。そういう事がいけない。正しい仏教の用語を世間の冗談に使うことは絶対にいけない。少々余談になりましたが、大師の言わんとされたかった所は自力他力ということにある。そこで「斯の如き等の事、目に触るに皆是なり」こういうことがよく世間に行なわれているという事です。「譬ば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。易行道というは謂く但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生を得。仏力住持して即ち大乗正定之聚に入る。正定は即ち是れ阿毘跋致なり」。ここに信仏因縁という言葉が出ている。これは大事な使い方です。信仏因縁ということは仏の因縁を信ずるということです。この因縁ということは因と縁とを分けるというよりも「いわれ」と考えてよい。『論註』に後で信仏因縁という事にちなんだ言葉が出てくる。だから仏のいわれと考えてよい。細かく考えると限りがないのでこのように理解しておく。仏力に住持せられて大乗正定の聚に入る。他力を仏力といってあります。如来様に救われて正定聚に生れる。阿毘跋致は先程のように不退転で正定聚の位ということです。  「譬ば水路に船に乗ずれば則ち楽が如し。此の『無量寿経優婆提舎』は盖し上衍の極致、不退之風航なるもの也」これにおいて難行・易行という問題を示されるのである。例えて陸路の歩行と水道の乗船と言われている。上衍の衍という字は乗であり、上衍とは上乗・大乗ということである。仏の因縁を信じて報土、清浄の土に生れさせて頂く、このことを大乗の極致であるという。そして正定聚の位に住する、不退の位に住するということをここに言われている。そして「無量寿は是れ安楽浄土の如来の別号なり」というところから易行道の本質を出される。無量寿という言葉をここにもって来られたのは『浄土論』の題号からである。無量寿経というのは我々が今日いう『無量寿経』に限って云うのではない。『大経』・『観経』・『小経』の三経全体を押さえて『無量寿経』と云われている。この時代にはまだ三経別々の法義の顕し方という考えは無かった。「釈迦牟尼仏王舎城及舎衛国に在まして」と有るから三経を指していることが分かる。王舍城では『大経』・『観経』が、舍衞国では『小経』が説かれたからである。  「大衆の中に於て無量寿仏の荘嚴功徳を説きたまへり」  この三経には無量寿仏の荘嚴功徳が説かれてある。無量寿仏は阿弥陀如来。荘嚴功徳は阿弥陀如来の浄土を成就して我々を救うということが全部ここに納められてある。荘嚴ということは後に出てくるが飾りだけを云ったのではなくして浄土の国土と仏と、仏に救われた聖聚とを全部総括して荘嚴功徳と云われる。これが『論』・『論註』の特色である。そしてこの三つを挙げておいて「即ち仏の名号を以て経の体と為す」これが大事である。この荘嚴功徳というものはどこにあるか。  ※我々にとって無量寿仏の荘嚴功徳を総括したものは名号である。この名号ということを我々は、はっきり理解させて頂かねばならない。名号は何か一つの呪文のような遠い彼方の一点に留まっているのではない。如来の悟りの全体がこの荘嚴功徳名号として我々に届いているのである。言い換えれば宇宙全体に拡がっている、そういう名号が経の体である。体とは本質ということである。この南無阿弥陀仏の名号が仏の荘嚴功徳の本質である。これが本当に味あわれなければ真宗の信仰は成立しない。名号が経の本質・体と押さえられたことが浄土真宗の基本である。それで新鸞聖人はこの言葉を拠り所として『教行信証』の『教巻』に「本願為宗、名号為体」と云われた。この宗体ということは仏教徒が仏教を窺う基本的な問題を提出している。我々がお経を見るとき、このお経が何を宗体としているかを窺わねばならない。宗とは要。かなめということ、体とは本質ということである。浄土教の経は本願が要で、名号が本質であるということを我々は心の中に植え付けさせて頂かなければならない。新鸞聖人が『教巻』に「本願為宗、名号為体」と云われているのは『論註』を受けておられる。以上が序文の要点であることを心に留めてほしい。  (二)『論』の構成    次に十行あまり行った所です。  「この論の始終に凡そ二重有り。一には是れウ説分二には是れ解義分なり。ウ説分は前の五言偈尽るまで是なり。偈義分は論曰己下長行尽るまで是なり。二重と為る所以は二義有り。偈は誦経を以てウ摂と為るが故に。論は釈偈を以て解義するが故なり」 此の論とは『浄土論』のことです。『浄土論』の一部始終に二つの意味がある。二重とは二段、二つということです。一つにはウ説分、二つには解義分である。このウ説分・解義分とは何を指しているのか。ウ説分とは『浄土論』の初めの偈頌、偈文のことである。偈頌が終わったところに「無量寿修多羅章句我れ偈頌を以て惣説し竟んぬ」と有る。解義分とは『浄土論』の最後に「無量寿修多羅優婆婆提舎願生偈略して義を解し竟ぬ」と有るように長行のことである。 それで曇鸞大師は「一には是れウ説分、二には是れ解義分なり」と分けられるのである。ウ説・解義というのは曇鸞大師が造られた言葉ではなくて、天親菩薩自らが言われている言葉である。ではウ説分・解義分とはどういうことか。偈文は五字五字で書いてあり、二十四行ある。論主はこの偈文は『無量寿経』の全体を口ずさんだ、うたったものだと言われる。偈とはうたのことである。五字にして問題を要約してうたったのです。誦すとは口ずさむということです。だから偈文をウ説分という。 次に解義分とは 説分が分かりにくいから、その偈の意味を解釈したものである。長行は悉く解義分だということである。こう言って『浄土論』全体は偈と長行と有るが、これはウ説分と解義分なんだと、曇鸞大師ははっきり註釈されている。これでよくわかるのである。 (三)第一行  「世尊我れ一心に尽十方無ェ光如来に帰命して安楽国に生ずと願ずと」 これから偈文の内容に入ります。まず一番最初。これは天親菩薩のお領解です。天親菩薩が『論』をお書になるに当たって、最初に自分の御安心を告白されるのが、この第一行目です。「世尊は諸仏の通号なり」とあります。世尊とは、仏様にはどの仏にも共通する如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊という通号があります。その世尊を最初に出して天親菩薩が告白なさる。この場合の世尊というのはお釈迦様です。世尊よと仏に呼び掛け話し掛けるのです。「よ」の字をつけて言ってもらえばよろしい。龍樹菩薩の『大智度論』に出ているのですが、菩薩が世尊よと呼び掛けることは赤ん坊が「お母さん」と呼び掛けるのと同じ意味だといわれている。この世尊はお釈迦様に呼び掛けておられるのだか、もう一つもとに行けば阿弥陀様に呼び掛けたと考えて頂いて結構です。 「我一心帰命尽十方無ェ光如来願生安楽国」 我というのは天親菩薩御自身です。このように自分のお領解を如来様の前に告白なさる。平たく言うと「如来様よ、私のお領解を聞いて下さい」ということです。私の御安心を聞いて下さいませという意味です。それから何行かは世尊の意味が書いてあります。 次に二、三行行ったところに「神力を加ことを乞ふ所以に仰で告なりと」とある。仏様のお力を頼りにする。如来様のお力を被らなかったら、我一人が決めて思ってもだめなんですと書いてある。だから世尊よ、お母さんよ聞いて下さいと天親菩薩がおっしゃっている。 「我一心は天親菩薩自督之詞なり」 自督とは自分の御安心です。我一心とは天親菩薩御自身の安心です。この御安心たるや「無ェ光如来を念じたてまつりて安楽に生と願こと心心相続して他の想ひ間雑すること無となり」これはそういう無ェ光如来を念ずる思い、たのみにし、仰ぐ思いが心の中に相続して他の想いが交わらないことをいう。他想間雑なしということは、ただ仏様、無ェ光如来のお慈悲一筋を頼りにし、念じるのであって他の神様、他のことを頼みにするのではないことを言われるのです。他の想いがないということは、他の信仰はないという事です。他のお腹がすいたとか、風呂に行くということを考えるなというのではない。そういう思いが人間の性にはあるが、無ェ光如来を念ずるという私の信心には変わりはないということです。 次に簡単な問答が出ています。「問曰。仏法の中には我無し、此の中に何を以か我と称するや」問は仏法には我ということはないはずだ。仏教は無我であるはずなのに天親菩薩が我と言ったのは一体どういう意味かという質問です。それに対して「答曰。我と言ふに三の根本有。一は是邪見語、二は是自大語、三は是流布語なり。今我と言は天親菩薩自ら之を指しふる言なり。流布語を用、邪見と自大とに非る也」今言う我について、我という言葉に三通りあると解釈したのである。一つには邪見語、二つには自大語、三つには流布語。初めの邪見語というのは我に執着することである。二つ目の自大語というのは自慢する、おれはと言って自慢することである。三つには流布語で自分と他人の間で他人ではなくて、私であるということをはっきりと言っているのである。今、天親菩薩の言われているのは流布語である。邪見や自大ではない。 次に「帰命尽十方無ェ光如来は帰命は即ち是れ礼拝門なり」『浄土論』は五念門を強調している。一心の五念門です。五念門とは礼拝・讚嘆・作願・観察・回向である。『浄土論』はこの五念門を述べるのだから。今言うところの礼拝は、この五念門を総括した一心の安心であるということを言うのである。この中には礼拝も讚嘆も皆ある。ここでは帰命と礼拝の区別を述べてある。当時の一つの言い方ですが『論註』はこういうことを問題にして喧しく言うのである。こだわる必要はない。五念門を含んでいるのが帰命なんだとあっさり考えて頂いたら結構です。今言う帰命は勿論安心です。 次にもっと大事な問題が出てくる。「問曰。大乗経論の中に、処々に衆生は畢竟無生にして虚空の如と説けり。云何ぞ天親菩薩願生と言たまふ耶」 これは『論註』の一つの名所です。どういうことかと言うと、大乗の経論には空を説いている。人間というものは、畢竟無生であって空だ。浄土教が説いている浄土に生れるということは有の執着である。仏教は無を説いているのに浄土に生れるという有の執着をしているのは仏法ではない。こういうことが曇鸞大師の頃は喧しく言われ浄土教は攻められた浄土教は有の執着をしているので詰まらない宗教だと言ったのである。それに対して応答しなければならない。この点で『論註』の素晴らしさがある。非常に鋭い論理を以てこれに応答している。今でも空ということだけ力を入れて、浄土願生を軽んずる人もある。我々はこういう問題をはっきり理解しておかねばならない。 「答曰。衆生無生にして虚空の如し、説くに二種有り。一には、凡夫の如き所謂実の衆生、凡夫の見る所の実の生死の如きは、此の所見の事、畢竟じて有らゆること無きこと亀毛の如し。虚空の如し。二には謂く、諸法は因縁生の故に即ち是れ不生なり。有らゆること無きこと虚空の如し。天親菩薩願ずる所の生は是れ因縁の義なり。因縁の義の故に仮に生と名く。凡夫の実の衆生、実の生死有と謂ふが如きには非る也」 我々が自分というものを考えて、自分がここに有ると執着している。これを迷いという。自分の周囲のものに、又親だ子だと執着してそこから煩悩がおこる。そういうことは皆空だと思えということを大乗仏教の人達が説いた。それをここに取り上げて曇鸞大師が解答をなさる。空の世界に願生ということはない。執着ではないかと大乗仏教に執着した一類の人達は浄土教を攻める訳です。その答えとして、空というのに二種ある。一つには凡夫が実の衆生と思い、又生れたといっても実の生れた、そのような生れた死んだということに執着していることは畢竟じてあらゆることでは無いのです。我々が見ている世界はちょうど亀の毛みたいなもので虚空の如し。亀の毛というのは実はない。亀に毛はない。そういうものは無いと言った。 二つには、そういうことではなく因縁生の故に不生だ。天親菩薩の願生は因縁生だ。凡夫は何でも実生の見に捉われる。これはいけない。仏教では因縁生にして実の生死なしと悟る。これは許されるべきことである。因縁生とは、あらゆるものは因縁、因と縁によって出来ているということである。因は種。縁はそれを補助し、発生せしめることである。例えば一つの花が咲いているが種だけでは咲かない。それを補助している土・水・空気が縁になっている。それを知ったなら願生といっても実の生死をいうのではない。天親菩薩の願生は因縁生を願生と言われたのである。だから因縁生を理解せねばならないと言われた。結局因縁によって花が咲き、その花が有ることは否定できない。こういうものまで無いといったら世の中何も無くなって、生きていること自体が意味をなさない事になる。因縁生によって生じているものを、仏教では仮有と主張する。天親菩薩はその仮有の中の願生をされているのであって実の我の執着と言われるのではない。 仏教では天台でも言うことだが、即空・即仮・即中という一念三千の理を言う。これはあるものは実有ではない。この世の中に存在している全てのものは、初めからそんなものがちゃんと有るという、そんな有ではない。物を見て外道は有と執着する。私もそうである実有でなかったら何も無いかというと、これまた無に執らわれた迷いである。無でもない。二乗・三乗の人達は分析してそんなものは無いと言って無に捉われる。だから有でもない、無でもない。因縁によって様々なものとしてあらわれているのだ。例えば原子によって火も水も出来る。木もはえるし、あらゆるものは原子である。原子が木になったり、山になったり、水になったりするものは因縁である。原子が因縁によってそういうふうに変化してあらわれる。因縁によっていかようにもへんかしてゆく、そういうことを因縁によって中という。だから一つのものは皆、即空・即仮・即中である。これは天台のテリトリー・真理である。また事実そうである。 実有といってもいけない。無といってもいけない。小乗仏教はどちらかというと無に片寄る。我々は有に片寄る。本当の悟りはそのどちらにも片寄らない。因縁によって変化してゆくそれを中という。天親菩薩の願生は因縁生であって決して実有の生に執着されているのではない。ここで一つの疑問が生ずる。我々は仮有ということは思われない。我々はお浄土を願っているが仏に生れるような実有を執着し、この執着を取れと云っても取れない。どうするか。自分の子供が生れた、これが仮有だとは思われない。ならばそういうことでは救われないかという問題が残る。これは後で曇鸞大師が明確な答えを出される。 次に問として「問曰。何の義に依てか往生と説くや」 そうゆう仮有という事をいうならば、どういういわれで往生ということを云うのか。一体お浄土へ行くのは誰が行くのか。行くということはどうすることか。こういう疑問を提出されている。「答曰。此の間の仮名の中に於て五念門を修するに前念後念と因を作る。穢土の仮名人・浄土の仮名人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心亦是の如し。何を以の故に、若し一ならば則ち因果無けむ。若し異ならば則ち相続に非ず、是の義は一異の門を観ず論の中に委曲なり」この間、世界の仮名人、実有でないから仮名人と言う。この中に五念門、これは念仏といってもよい、これを修する。この世界の人間が念仏によって浄土を願生するとき前念は後念のために因となる。真理の世界からいうと皆仮名人である。浄土に生れた人も実有でないから仮名人である。穢土の仮名人と浄土の仮名人とは一に決まっている訳ではない、といっても全然違う訳でもない。我々の心もそうである。前心後心またまた是の如し。もし前心後心が一だと決めてしまうと因果は成立しない。我々は因縁によって様々に変化するのだから。もし全く違うといったら相続でなくなる。だからどちらにも片寄らないのが仏教の本義である。有でもない無でもない。一でもない。異でもない。何処へも片寄らない。これが本当の真理の世界であって、天親菩薩の願生はそういう意味で願生しておられるのである。 こういうように説明されている。曇鸞大師はこういう論理を非常に多く使われている。我々は一と思っている。間違いかというと我々から言うと間違いのようだが、仏様はそのまんま引き受けて下さり。実義にかなわさせて下さる。これは後に出てくる。 第三講 昭和六十年一月十日  (四)成上起下の文  〔一〕成上起下の意味 「我れ修多羅真実功徳の相に依て願偈を説てウ持して仏教と相応す」 『論註』に、この偈の前に「次に優婆提舎の名を成ず、又上を成じて下の偈を起す」とある優婆提舎というのは題号のところで話した。「又成上起下の偈」これは非常に意味深長です。昔から『論註』の講義をされた方々も非常に重要な言葉であると細かく色々と申されている。ここでは要点を申します。 「上を成ずる」ということは、第一行の偈文の心を成立させる。天親菩薩が「世尊我一心、帰命尽十方、無ェ光如来、願生安楽国」とおっしゃる、そのお心持ちはどうゆうお心持ちか。これは正しく浄土の三経に依って自分は浄土願生をする、そしてその一心の安心と云うものにおいて我々の救われていく基本を定められた。そういうことを第一行には述べられているんだと、それを成立させるために第二行目がある。 「下を起こす」とは、第二行目が第一行目の安心の心をさせると同時にあとの『浄土論』全体をここにあらわし開いてゆくと云うことである。第一行目には一心帰命と云うことを云われているが、第三行目からは五念得生、五念門によって浄土に生まれることが出来るんだということを云われる。一心願生と同時に五念門によって浄土に生まれるとはどうゆうことであろうか。一心と云うのは信心・安心です。帰命と云うことは仏願に帰すると云う安心です。平たく云うと凡夫が如来様の本願力を頂戴する安心です。 ところが一心だけで仏になるといえば乱暴な話に聞こえる。我々が信心だけで仏様になるということは仏教一般の法則としては許されないという疑問が起こってくる。その疑問を解くのが五念門である。五念と云うのは行である、この一心は仏の願力を頂戴する一心だから、その願力というものを細かく分けてみると五念門という行が一心の内容である。第一行に天親菩薩は自分の御領解を述べ、ただ仏願に救われるという安心を率直に述べたが、この安心の内容を開けば五念門である。第三行以下はその五念門についてずっと出してゆかれる。 第一行は五念を包んだ安心で浄土に生まれると云った。それを詳しくするために第三行以下は五念門の行を詳しく開いた。第二行は丁度その中間にあって上の一心願生を成立させ、それを受けて五念門によって浄土に生まれ得るという。その内容を細かくあらわしてゆこうと思うということです。五念門のことを詳しく云われたものは偈文だけでなく長行です。こういう意味から第二行は第一行の一心願生の安心を成立させると同時に一心の安心で仏になれる道理を第三行以下に述べてゆくんだということを意味している。そういう仕組みにおいて「上を成じ下を起こす」と在る。この「成上起下」という言葉は短いが非常に意味深長です。 我々が一心の安心で仏に成れる、ということは浄土教の特色です、。一般仏教では承知出来ない、しかし承知せざるをえない訳がある。その訳をこれから出していきますと云うことです。平たく云うと文字も読めない愚かな人も、ただ仏願にまかすばかりで仏になれる。これが真宗の御安心です。そんなバカなことが出来るかと聖道門の人は責める。それが出来るのです。その訳けを話しましょうと第三行以下に並べてゆくのです。第二行は「成上起下」の論理を開く基本をあらわしている。だから第二行は非常に素晴らしい内容を持ったものだと思う。この第二行を理解出来たなら『浄土論』『論註』が理解できたといっても良い。それ程の心持ちである。以上で「成上起下」という言葉がお分かり頂けたと思う。  〔二〕三何依 では第二行がどうしてそうゆう役割を果たしているかということをこれから申します。「我依修多羅真実功徳相説願偈ウ持与仏教相応」ここは味の有るところです。第一行は「我一心に」第二行は「我は依る」とある。我は共に天親菩薩御自身です。第一行は「我は一心」と云う安心を率直に述べる。安心はそれだけでは成立しない、もし成立しているとするなら、それは一種の自分の感情にすぎないと責められるかも知れない。しかしここで云う安心は単なる私の感情ではなく「私は依る」という依る所を明確にしている。この依ると云うことを曇鸞大師は細かく分析されている。「一心」と「依る」とは内容は一つである。どうゆうふうに一つであるかというと真実功徳相に依る一心の安心は単なる私の心持ちでなく「依る」と云うものがある。真実功徳相に帰依信順するところに、この信心は単に私の心持ちだけで感情を述べたのでなく他力の信心であることがはっきりする。ここで他力の信心と云うことが出てくる。他力の信心と云うことを出してきて、他力とは何であるか。信ずるとは何であるかということをのべたものが『論』の長行である。それを細かく分解し、註釈を加えたものが『論註』の下巻である。こうゆうふうに成立してゆくのである。「我は依る」その依ると云うのは真実功徳相に依るんだというところに他力信心の内容が明らかになってゆく。「此の一行、云何が優婆婆提舎の名を成じ」優婆婆提舎とは論議経のことです。論議経とは経の深義を開見するものである。「云何が上の三門を成じ下の二門を起こすや」これは五念門の事である。「偈に我依修多羅与仏教相応と言ふ」修多羅によって仏教に相応してゆくことを述べられる。真実功徳相をもとにして仏教に相応する。相応と云うことは随順と云うことである、契うと云うことです。 「我の仏教の義を論じて経と相応して、仏法の相に入るを以の故に優婆婆提舎と名ことを得」浄土のお経を述べるについて自分は仏法の中に随順してその随順の信から述べてゆくものが優婆婆提舎という意味である。 「何の所にか依る。何の故にか依る。云何が依ると」ここには「依る」という内容を三つ出してある。この言い方は『論註』独特の開発である。もちろん『論註』は『浄土論』によっておっしゃるのだが、こういう言い方は他にない。「何所依、何故依、云何依」依る根本を究明するために「依る」という字を三つ持ってきて「依る」と云うことの根本的問題を明細にする。『論』には「依る」と云われているが「依る」と云うことには三つの内容があるとして「依る」ということをはっきりさせている。この三つの「依る」ということは仏教を学ぶ上で根本的な問題です。我々はこれをはっきりしなければならない。平たく云うと「どこに依るか」「何が故に依るか」「いかに依るか」依るということには、少なくともこの三つの問題を追求しなければならない。こうゆう学び方が本当の学び方です。『論註』はそうゆう学び方を適切に解明している。 第一の「どこに依るか」は依り所を問う。「何ゆえ依るか」は依る理由を問う。「いかに依るか」という問題は依り方を明らかかにする。少なくとも「依る」ことにはこの三つの内容がなくてはならぬ。これが備わって依ることの基本的意味が明確になる。「依る所」をはっきりしなければ依ることが正しいかどうか分からない。次に「何ゆえ依るか」依らねばならないのはどうゆう理由があるのかという理由を聞いている。次に「いかに依るか」という、どうゆうふうに依るか、依り方を明らかにする。私達が仏教を学ぶに於いてこういう意味を明確にして問い正し、学ばせて頂かなければならない。これがはっきりしなければ御安心がはっきりしない。曇鸞大師はこれをはっきりすることに於いて御安心を解明して行かれる。  (一)何所依 どこに依るか。 第一は修多羅による。御開山は正信偈に「依修多羅顕真実」とおっしゃっているのがこれです。修多羅とはスートラという印度の言葉で、お経の事です。七条袈裟の紐を修多羅と云うが、これはただ線、紐と云うことです。だから修多羅に依るということは仏教に説かれた真理をズウーとたぐってゆくと云うことです。ここで云う修多羅は真理をもって一貫していると云うことです。お経の説というものは、いろんな世間のことも出てきますが、結局はお経は真理をもって一貫すると云うそういう意味を修多羅と云われる。お経が真理をもって一貫しているということは単に理論を説いてあるのではなく、様々な事柄が説いてある。いわゆる俗諦を説く中にそれに歪められない真理を以て一貫していると云うことである。これを真諦という。ここでいう俗諦は真宗で云う俗諦の意でなく、いろんな現象と云う事です。いろんな現象を離れて仏教が有るのではない、いろんな現象を総括して真理を以て一貫している。これを修多羅と云うそこで「どこに依るか」というと、そうゆうお経の教えによると云われる。 ここで私は昭和四十六年に書きました。龍大の真宗学四十四号の中の論文で『論註における依の思想」を書きました。そこにこのようなことを書きました。 修多羅、仏の教えはいろんな現象の中にあって、しかもその現象の根本を貫く真理で一貫して説いてゆくところが仏の説き残されたお経である。だから『論註』の全体は真理を以て一貫すると云う、修多羅の意義を明確になさっている。私はいろんな『論註』のお言葉やもう一つ遡って云えば龍樹菩薩の『大論』によって修多羅の意義を述べたことがある。山口益博士(元大谷大学長)は「俗諦と真諦」ということを考察する道を説かれるのに非常に鋭い論理をもっておられる。龍樹菩薩の『大智度論』を貫いていく真理、浄土教の教えは、お浄土には花があり鳥が鳴いているということがあるがそれを捨ててはいけない。そういうものを統一し貫いて真理が説かれている。お経には花や鳥が説かれているがそんなものはお伽噺だと言われるが、我々が生きるのにお伽噺を捨てて生きる道はない。そんなことをして天井を向いて生きていては干上がってしまう。いろんな中に交わりつつ常に歪められない真理で貫いてゆく、それがお経の教えである。それを我々に平たく示されたのが親鸞聖人の在家仏教である。在家を捨てて真理だけの出家で生きる道はない。そんなことを言っていたら出家も生きられない。出家がご飯を食べさせて貰ったり着物を着させて貰えるのは在家の方々のお陰である。と言って在家に落ち込んでお金儲けばかりに没頭しても駄目です。そういういろんなものの中に入ってしかもそれを真理が貫いている。そういうことを仏教で真俗相資けるという。 真宗で言うそれをちょっと余計目に言っただけである。真俗相資ということは、仏教の本を読むとよく出てくると思います。こうゆう事を身を以て示されたのが親鸞聖人です。だから出家だけが真実と言うと間違いです。出家だけ真実と言っていたら子供は居なくなってしまう。人は誰も居なくなる。自分一人威張っていてもしようがない。いろんな中に入りつつ、そのいろんなものにとらわれないでそれを越えてゆく真理の道、そうゆう事が龍樹菩薩の示された仏教である。それを親鸞聖人はよくお味わいになって、身を以て在家仏教をお示しになった。だから私は在家仏教は有り難いと思う。そのいろんな修行の中に我々は生かされつつ真実の道を生きる。いろんなものの中に真理をもって一貫する、そうゆう真実の法を説いて下さったのが仏教である。親鸞聖人はそこに真俗相資とゆう言葉を以て人間が本当に生きる道を明らかにされている。そうゆう問題については龍樹菩薩の『中観論』がある。『中論』には真諦に陥らず、真諦・俗諦相依って人間が本当に生きる道が開かれている。お経とは「縦糸」と云うことです。ものを織るとき沢山の横糸がありつつ、これを乱さずに一貫して維持するのが縦糸です。この縦糸と横糸があって布が立派に織りあがる。いろんな世間の出来事を横糸に譬え、お経は縦糸でそれを貫いて真理をもって維持してゆくものである。我々がお経を依り所とするが、何故依り所とするか。お経だって間違いが有るのではないか、こうゆうことを言う人がある。お経を依り所にし、全てをお経に照らして正と邪を判定するのは何故か。 お経はお釈迦様がお悟りを開かれたみちゆきを説かれたものである。お釈迦様は自分が実際行わなかった事は一言も説いていない。勿論お経として成立している中にはいろんな事も入ってはいるが、これはお釈迦様のお悟りの道をずっと説いてある。そのお釈迦様の説かれた道行きをその通りに辿ってゆけば、お釈迦様と同じ悟りの世界に到ることはあきらかである。それには自力で行くか他力で行くかの問題はある。自力他力の別があるにしてもお釈迦様が悟りに到る道が説かれている。だから私達は何よりもお経の教えを基本にして、お経のみ教え通り歩ませて頂くと云う事が大切である。こうゆう事が仏教徒の信念である。皆様もよくお考え下さい。 お釈迦様は説かれるのに自分が実践して無いことは一言も言われない。実践したことをおっしゃっている。勿論お経は後にいろんな菩薩方がこれを一つのお経として成立せしめられたが菩薩方がお釈迦様の教えを基本にして、お釈迦様の説かれた道をずっと辿って行かれたんだと云うことを我々は間違えてはならない。仏教に於いてはお経が基本である。例えば病気をした人が自分の病気が直った道をその通り辿ってゆけば病気が直るに決まっている。こうゆうことです。そうゆう意味においてお経は大切である。修多羅といってお経を一番大切にするのはそこにある。  (二)何故依 何ゆえ依るか 次に「何ゆえ依るか」については、そのお経に説かれていることは、いわゆる真実功徳が説かれているからだと云うことです。『論註』の文に出ています。「[真実功徳]とは、二種の功徳有り、一には有漏の心従り生じて法性に順ぜず。謂所凡夫人天の諸善、人天の果報、若は因若は果、皆是れ顛倒す皆是れ虚偽なり、是の故に不実の功徳と名く。」284 つまり人天、我々世間の人間や天上界、こうゆう世界の者のやっておることは皆これは虚偽である。なぜに虚偽かと云うと「有漏の心より生じて法性に順ぜず」有漏とは煩悩です。煩悩とは自分の都合の良いように解釈して自己中心である。例えば自動車に乗っているときは、歩いている人が邪魔になり、逆に歩いている時は自動車で走っている人がシャクにさわる。その通りです。電車の乗り降りでもそうです。自分が乗る時は次々と降りてくる人が邪魔でグズグズせず早く降りろと思い。自分が降りる時は乗ってくる人が邪魔で道を開けて待っていろと思う。結局自分のことが中心である。漏とは煩悩のことです、我々が自己中心にして汚いものが流れ出るから漏と云う。我々は煩悩の世界である。そうゆう我執の世界にある。そこには真実はないだから不実功徳と名く。こうゆうわけです。 「二つにはこれは無漏の世界と説かれている。」 「二には菩薩智恵清浄の業従り仏事を荘厳す。法性に依て清浄の相に入る。是の法顛倒せず虚偽ならず、名て真実功徳と為す。」248と云われる。これが無漏の真実功徳を指している。煩悩の無い世界でものを見る。これはなかなか出来ないことです。我々には出来ない、我々は自己中心に都合よく考えるから筋が通らない「法性に依て清浄の相に入る」法性の法とはあらゆる存在をいう。性とはその存在の本性、存在の根本的なものを云う。法性とは真如ともいう。身近な例では原子核、これは一切存在の体、本質です、そうゆうものに依って物を見ていく、それを法性に依るという、そうゆうものに依って我執がなくなる。清浄の相とは煩悩がないことです、煩悩とは我執です、我執が入ると何でも汚くなる。そうゆう我の執着がすっかり取れてしまうことが清浄の相である。感情的なきれい汚いではない。一切の存在の根本的なきれいなもとを清浄の相という。 「是の法顛倒せず虚偽ならず、名て真実功徳と為す。云何顛倒せず、法性に依て二諦に順ぜるが故に。云何虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入しむるが故にと」284  真実功徳を仏教の本義によって説明します。