平成十年度 第103回 専精舎論題(副題) 信一念義 行信教校教授 騰 瑞夢 師 述 一 日 目    【 一問一答 】(題意・出拠) 問曰。信一念義について、そのあらわさんとする意味、即ち題意如何。 答曰。『大経』下巻に説かれる第十八願成就文の「乃至一念」について、宗祖の解釈によって、浄土に往生して成仏する因の完成する初際(最初の時)を究明して、「即得往生住不退転」の利益を得る旨を明らかにし、信心正因の義を宣明しようとするのである。 問曰。それではこの信一念義の出拠如何。 答曰。『大経』下巻の第十八願成就文に「諸有衆生、聞A其名号@、信心歓喜、乃至一念。至心迴向。願R生A彼国@、即得A往生@、住A不退転@」(T・二四)とある文の「乃至一念」がそれである。 問曰。宗祖の御釈は如何。 答曰。宗祖は『信巻』末の信一念釈の初めに、「夫按A真実信楽@、信楽有A一念@。一念者、斯顕A信楽開発時剋之極促@、彰A広大難思慶心@也」(U・七一)と示され、続いて「言A一念@者、信心无A二心@故曰A一念@、是名A一心@。一心則清浄報土真因也」(U・七二)と釈顕されるものがそれである。    【 二問二答 】(釈名・信) 問曰。信一念の釈名如何。 答曰。先ず信一念の「信」とは、无疑を当義とする。即ち如来の勅命にしたがって念仏し、このもしく疑いの晴れたるをいう。 問曰。どこからそういうのか。 答曰。『信巻』本の字訓釈に「真知、疑蓋无A間雑@故、是名A信楽@」(U・五九)と言われたものが、疑蓋无雑をもって信楽の義とされる証拠である。これによって本願三心の中でも信楽の一心のことであることがわかる。 問曰。今、疑蓋无雑という言葉が出たが、その疑蓋とは如何なることか簡単に説明せよ。 答曰。疑とは猶予不定ということで、迷悟因果の理に対して、もっと端的に言えば、法体名号に向かって猶予して決定しないことをいうので、要は自力心を言う。蓋とは覆蔽と蓋覆ということで、自力心の業用をもって他力のはたらきを覆うというのである。 問曰。五蓋と言われるものゝ一つに疑蓋というものがあるが同異如何。 答曰。彼とその名は同じであるが、その体は別である。彼は欲界より上界にいくを妨げるのが五蓋である。今は浄土に往くを妨げるもので、自からの罪福を信じ、仏智を領受せぬを疑蓋といったのであり、自力心をいう。浅深の差大なれば、大いに異なると言わねばならない。 問曰。その他に信心の名義があるか。 答曰。あります。信順とか真実心とか、あるいは信憑(タノム)、また信任(マカセル)等の義がある。 問曰。それらは何を依り所として言われるのか。 答曰。『信巻』本に引用された二河譬に「今信A順二尊之意@」(U・五七)とあるものによれば、信は順、即ち随順の意である。 問曰。真実心はどうか。 答曰。真実心と言ったのは、字訓釈に「信者即是真也実也」(U・五九)等と言われたものによる。 問曰。信憑はどうか。 答曰。又、信憑と言ったのは、『唯信鈔文意』に「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」(U・六二一)と言われたものは、本願他力をたのむという意味が信心をあらわしている。 問曰。信任はどうか。 答曰。さらに、信任と言ったものは、『末灯鈔』第七通に「往生は何事も何事も凡夫のはからひならず、如来の御ちかひにまかせまいらせたればこそ、他力にてはさふらへ」(U・六六六)と述べ、そのあとに「他力とまふすことは、義なきを義とすとまふすなり」(U・六六七)と言う法語をもってお示しである。ここに凡夫の自力心を離れて、本願他力に任せることを他力の信心と申される意がある。 問曰。要するに信とはどういう意味か。 答曰。无疑心ということが当義であり、その信相を言えば信順、あるいは信憑、また信任という意味であり、体徳から言えば真実心ということが出来るであろう。    【 三問三答 】(一念の釈) 問曰。信一念の信ということは大体出ましたが、次に、一念ということは如何なる意味か。 答曰。宗祖の信一念釈によれば、時剋釈と信相釈があるから、それぞれについて一念の意味があり、相違がある。 問曰。では、先ず時剋釈について説明せよ。 答曰。出拠の所に出された「顕二信楽開発時剋之極促一」と言われたように、名号(願力)を領受して信心が衆生の上に開けて、往生決定した初際が極促であるという時をあらわす語が一念である。 問曰。その極促という時とは、いかなる時か。 答曰。極促とは、時間的な促の極まりをあわらしている言葉である。 問曰。その促ということは、如何なる意味か。 答曰。これについて促には種々の意味があるが、その中に「みじかし」即ち「ちぢまる」「短也」という意味と、「はやい」即ち「すみやか」「速也」という意味がある。前者は延促と熟字し、後者は奢促と熟字して、それぞれ意味を異にする。 問曰。では延促対と見る場合は如何なる意味か。 答曰。延とは延長、即ち長く延びることであり、促とは短促、即ち短くちゞまることである。今信心について延促と言われたのは、一生涯続くことを延とし、その相続のつゞまった所を促といったので、そのつゞまりの極限を極促と言ったのである。信心が衆生の上に開発せられた最初の時を、時剋の極促と呼ばれたのである。 問曰。そのような意であれば、一念とはどういうことか。 答曰。一は初一、最初という意味であり、念とは信念の意味で、初めて信心が起った時ということを一念と言うのである。 問曰。そのように延促対で解釈されるのは、何か拠り所があるのか。 答曰。『略典』に、「就下獲二得往生心行一時節延促上、言二乃至一念一也」(U・四四五)と言われたものに拠っているのである。(主に石泉師説)    【 四問四答 】 問曰。奢促対の促とは、どういうことか。 答曰。奢促対の奢とは「おそい」ということである。促は「はやい」ということであるから、極促とは極めてはやい、この上なくはやいという意味になる。 問曰。そのような奢促対ということは、どこに言われているか。 答曰。『行巻』一乗海釈に、機に就いて十一対を挙げられた所に「奢促対」(U・四一)という言葉が出ている。そしてその左訓に「オソシ トシ」とあるから、明らかに促の字をおそいに対して、トシ(はやい)という意味で用いられていたことが分かる。 問曰。一乗海釈に二機対で奢促対という言葉があったとしても、今、信一念釈の極促と直ちに当てるわけにはいかないのではないか。 答曰。信一念釈の「信楽開発の時剋の極促」と言われる促の字の左訓に「トシ」と言われている。これは明らかに促の字を「はやい」という意味で用いられていたと考えられる。 問曰。その左訓は『本典』の異本についてまちまちである。特に東本願寺本には無いということは、宗祖がほどこされたものかどうか疑問があるのではないか。 答曰。東本願寺本にはないが、西本願寺本には上述の通り「トシ」と左訓があり、これらによって、やはりトシ(はやい)という意で解されていたものと見られる。又高田本には『行巻』の六字釈の「光A闡報土真因決定時剋之極促@也」に左訓して、「キワメテトキナリ」とあるから、これらによっても明らかに奢促の意味でよんでおられたと言える。 問曰。それでは、奢促対で解した時は、この一念とはどういう意味か。 答曰。この一念は、この上もなく極めてはやい時間をあらわす言葉となり、名号を聞いて信心が成就せられた時、即ち自力のはからいを捨て、本願力に帰したその時は、間髪を入れない極促と言うべき、刹那的な全く時間がかゝらないという意味をあらわしているというべきである。 問曰。今、刹那的なと言われたが、『論註』の八番問答に、「百一生滅名A一刹那@、六十刹那名為A一念@」(T・三一〇)と、一念を時間的単位の長さとしてあらわしてあるが、今の時剋の極促を時間の速さと考えるなら、この説を取っていゝか。 答曰。それは取らない。今は極促と言われているということは、そういう六十刹那を一念とするというごときは、時間単位であるが、それとは別に考えねばならない。この点はまた後に論じる。 問曰。信の一念の意を時剋で取る場合、前者のごとく延促で見るべきか、奢促と見るべきか、どちらがいゝか。答曰。意を得て言えば、両義ともありというべきである。 問曰。どうしてそう言うのか。 答曰。宗祖自らが延促対と奢促対の両義を認めておられたからである。又、道理から言っても一生涯相続する後の時に対して、法が機上に実現して信心成就する初際の時を指して一念と言うのであり(延促対)、又この信心は不可思議の願力の迴向によって成就せられたものであるから、機上においては時間的な経過を全く必要としないと言わねばならない。故に極めてはやく成就するという意味(奢促対)もある。    【 五問五答 】(信相釈) 問曰。次に信相の一念とはどういうことか。 答曰。『信巻』末に、成就文の一念を釈する中に、「言A一念@者、信心无A二心@故曰A一念@、是名A一心@。一心則清浄報土真因也」(U・七二)と言われたものが、信一念の信相釈である。 問曰。それは、どのようなことをあらわしているのか。 答曰。成就文の一念と言われるのは、釈文の通り二心無き信心、即ち無二心、即ち一心ということであると言われるのである。 問曰。それでは文の通りで、それを詳しく説明せよ。 答曰。无二心と言われる二心とは、ある時はこれで往生できるであろうと思い、ある時はこれでは往生おぼつかないと思うようなことを言う。このような心は猶予不定と言われる疑い心をあらわしていることになる。故に二心無しとは、疑いの無くなった信相をあらわしている。いゝかえれば、二心即ち疑心、即ち不定心が、无二心(一心)即无疑心即決定心となったことである。したがって一念とは、一とは无二、念とは信念のことで、疑い無き信相を一念と言いあらわしていると見られたのである。 問曰。その二心無き信相とは、如何なることか。 答曰。『銘文』に『浄土論』の「世尊我一心」の文を釈して、「一心といふは教主世尊のみことをふたごころなくうたがひなしとなり、すなわちこれまことの信心なり」(U・五六四)と言われたように、如来の勅命を疑い無く領受していることを二心(ふたごころ)無しというので、これがまた真実信心と言い、一心ということなのである。 問曰。宗祖は成就の一念を時剋と信相の二義の釈をなされているが、どちらが成就文の当義か。 答曰。時剋釈が当義であろう。 問曰。どうしてか。 答曰。聞信の一念に「乃至」の言があるということは、相続に対する初帰・初発の義をあらわしているとみるべきで、時剋釈が当義であり、信相釈は義釈であると見るべきである。    【 六問六答 】(成就文の解釈) 問曰。成就文の「乃至一念」は、因願の「乃至十念」の称名の成就である。すると行一念と言うべきで、何故信の一念と言われるのか。 答曰。理証・文証ともに有り。先ず理証より言えば、上の諸仏讃嘆の名号(第十七願)は、悲智円具の法であるから、これを聞信一念に領受した端的に仏因円満することをあらわすと見るべきである。よって成就の一念は信一念でなければならない。また、尽形寿の称名は信心より流出したものであるから、促(ちぢ)まればただ称名に止まることなく、信心にまで帰するものと言わねばならない。故に信一念と見るべきである。 問曰。称名が信心にまで促まるというような指南があるか。 答曰。『礼賛』後序に(T・六八三)、『大経』の本願取意の文及び『小経』の六方証誠段を出して、「云何名A護念@。若有A衆生@、称A念阿弥陀仏@、若七日及A一日下至十声乃至一声一念等@、必得A往生@。証A誠此事@故」と言うものが、これをあらわしている。 問曰。文証もあると言ったが。 答曰。『如来会』に「聞A無量寿如来名号@乃至能発A一念浄信@歓喜」(T・二〇三)等とあり、これを『信巻』末に信一念釈の証として引用されている(U・七一)。また、経文当面から見ても、「信心歓喜」(信樂)と、「至心迴向」(至心)、「願生彼国」(欲生)との三心の内にある一念なれば、これ信一念と言うべきである。 問曰。恩師法然上人も同様の御扱いですか。 答曰。法然上人は『選択集』上の利益章に、『大経』の弥勒付属の文を標して、その私釈に、「今此言A一念@者、是指S上念仏願成就之中所R言一念、與N下輩之中所R明一念U也」(T・九五二)と言って、成就文と下輩と付属との三所の一念を、みな称名となされているから、行一念の扱いである。 問曰。それでは師資相承と言われないではないか。 答曰。法然上人は第十八願をもって一願建立の法門であるから、外聖道門に対する行々相対の立場での所明である。これに対して宗祖はこの恩師の念仏往生の法義を開顕して、五願開示の法門となされた。この時は行信別開して付属の一念は行の一念とし、念仏と諸善と行々相対して廃立し、得大利を語り、成就の一念を信一念として願力領受して仏因円満して、往因究竟する機受の極要たることを示し、信心正因の義をあらわされるのである。 問曰。そうすると、元高両祖には全く相違するというのか。 答曰。それについては拠勝為論すれば、弥勒付属の文は行の一念とするのが文に親しい。成就の一念は信の一念とするのが親しいとせねばならない。しかし剋実通論すれば、弥勒付属の文、成就文共に行信両一念に通ずるといえる。今成就文の一念は外の法に対するのでなく、内に名号を信受する受法と、往生の定まる得益の同時なることを示して、信心正因の義をあらわすのであるから、信一念とするのが文に親しいとするのである。信と行とは互いに通じるものだから、又行一念と見ることを得るといえる。それは前述の通り法然上人の『選択集』利益章の御釈がそれである。 問曰。成就の一念を行一念となさるのは法然上人で、宗祖の御釈にはないか。 答曰。宗祖には直接成就を行一念釈となさる明文はないが、宗祖は法然上人の『選択集』を面授親承の書となさるのであるから、成就の一念を行一念となさる意義をも全承なさるものと言うべきである。    【 七問七答 】(祖釈の意義) 問曰。聖人は成就文の「乃至一念」を時剋釈と信相釈をなされるが、その所顕はどこにあるのか。 答曰。先ず初めの時剋釈に「信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す也」と示して、法体名号を領受する初際に約して、仏因究竟する時剋と定め、そして弘願速疾の妙用をあらわされたものである。 問曰。もっと具体的に説明せよ。 答曰。この一念は、上の「聞其名号 信心歓喜」に向かえば、信楽の受法の一念であり、それがそのまゝ下の「即得往生 住不退転」に対すれば、一念業成の得益をあらわす。即ち受法・得益同時であって、前後の無き横超他力の速疾の妙益をあらわすものと言える。しかも、この受法・得益同時であるから、この間に余法の入るべき余地が無く、一念に開発する信楽をまさしく往生の真因となすことをあらわされるのである。 問曰。何故、速疾の一念に往生決定されるのか。 答曰。前者(六問六答)が言える如く、聞信の一念の所に悲智円具する法体名号を全領するのだから、我等の往因円満して欠ける所が無いのである。この速疾に決定するというのも、不可思議の願力の妙益といわざるを得ない。『行巻』の六字釈に、「即言、由R聞A願力@。光A闡報土真因決定時剋之極促@也」(U・二二)と言うもの、今の一念と即と同義としたまう意である。 問曰。時剋釈に「彰A広大難思慶心@」と言うもの、何をあらわされるのか。 答曰。広大難思とは、如来の広大なる慈悲、はかり難き法と言うことで、阿弥陀仏の徳義を言うのである。この徳義が機に徹到して信楽開発し、当来の仏果決定して大安堵心を得るのだから、これを広大難思の慶心と言われたのである。 問曰。そのような殊勝なる徳を極促の一念に味わえると言うのか。 答曰。極促の一念の時の心相を広大難思の慶心と言われたのではなく、我等が機上の慶びはなはだ微々なるものと雖も、一念に領受する仏徳は単なる法徳の所談と言うのみに止まらず、我等が心相に大安堵心に住する徳のあることをあらわして、「彰」の字に「ウチニアラハス」と左訓されて、弘願速疾の益を嘆ぜられるのがこの文である。 問曰。では、次の信相釈は如何なる意をあらわされるのか。 答曰。信相釈は无二の心念を示して、我等が如き愚凡の者にも、他力迴向の法なれば、極めてたやすく発起することを得ることをあらわされたのである。 問曰。それを詳しく説明せよ。 答曰。前々者(五問五答)が述べたように、一念とは无二心であって、これは无疑の信心の相であり、一心信楽の異名と言うべきである。そしてこの一念は他力迴向の法を領受する。即ち仏智を領するものであるから、必ず報土の真因となること必然である。故に、これを結んで「一心は則清浄報土の真因也」(U・七二)と釈されるのである。所聞の法を他力廻施と凡愚の我等に与えたもう。我等は別に煩わしき計いをなすべき要全くない。何と易発といわねばならないと、機受の用心を詳らかにあらわされるのである。  二 日 目    【 一問一答 】(時の概念) 問曰。『信巻』末の信一念釈に「時剋之極促」と言われたことは、如何なる意味か。 答曰。信楽の開発する時の極促なることを顕わすので、如来迴向の信楽が行者の心中に開発する謂れは手間暇のかゝることではない。極めて手早きものであると示して、弘願法の速疾頓成なることを一念と説かれたのである。 問曰。その一念とは如何なる時剋をいうのか。 答曰。時を顕わすに実時と仮時のあることを分別せねばならない。 問曰。その実時とは如何なることか。 答曰。時外道といわれる者の言うことで、時をもって実有の法とするものである。 問曰。では仏教ではいかに説くのか。 答曰。仏教では「時无A別体@依R法而立」といって、時はすべて法に依って立てたというのである。即ち仏教では外道の一派が語るような実有の法としての時間を立てず、諸法の生滅する分位に仮立して時を語るのである。時分(時剋)とは、諸法の生滅変化を顕わす概念をいうのである。 問曰。もう少し詳しく述べよ。 答曰。因縁所生の法は一瞬も止まることなく生滅変化している(刹那无常)。その法が未だ作用せざる位を未来と名づけ、現に作用している状態を現在と名づけ、作用し終った状態を過去と名づけるのである。このように法の生滅変化の相に仮に過去・現在・未来というような名が立つのである。これを古来「時无A別体@依R法而立」といってきたのである。 問曰。では、仏教では総て時ということを認めないのか。 答曰。外道で語るような実在としての時(実時)は認めないが、仮時として語るのである。その仮時の中に事究竟としての時と、勝義実時としての時がある。 問曰。その仏教における事究竟の時とは如何なることか。 答曰。たとえば経の初めに「一時仏在舎衛国」とか、「爾時仏告阿難」と言われる場合の「一時」とか「爾時」とか言う時を事究竟と言うので、ある事柄が生起している状態を時間的に表現して「一時」とか「爾時」と言った時を事究竟というのである。ある事柄の生起成就を時と顕わしたものであり、この場合は時間的な長短は問題にしない。 問曰。次の勝義実時とは、どういう意味か。 答曰。『論註』に「百一の生滅を一刹那と名く、六十刹那を名て一念と為す」(T・三一〇)と言われているものや、或いは『仁王経』に「一刹那の中九百の生滅有り」と言われたような時を言うので、これは普通一般に我々が言っている時間と同じような時間概念であるが、たゞこのような時間を外道の如き実在の法とせず、仮法と見ていくので、これを勝義実時と言うのである。     【 二問二答 】(空華説・勝義実時) 問曰。時についての概念はほゞ解ったが、『信巻』にあらわされる時剋の一念は勝義実時か事究竟の意かどちらか。 答曰。これについては、いずれの義をも取るので説が分かれる。即ち勝義実時の一念となす義と、又、事究竟の一念とする説がある。 問曰。今はいずれを取るのか。 答曰。『信巻』の釈は勝義実時の釈である。 問曰。どうして勝義実時の一念と取るのか。 答曰。それは今の文に時剋の極促と言われてあるから、自から明白である。 問曰。その時剋というのに、実時と事究竟の義があるのだから、時剋という語はいずれにも取れるのではないか。 答曰。大体、往生の定まるのは平生帰命の一念の時、妄業亡びて涅槃究竟の真因が萠す。滅と生との同刹那である。これを極促と言ったので、『二巻鈔』上に「信A受本願@前念命終即得往生後念即生」(U・四六〇)と言われたものは、明らかにこのことを明かしたものである。又『行巻』の六字釈に「即得往生」を釈して、「即言由R聞A願力@光A闡報土真因決定時剋之極促@也」(U・二二)、と言われたものと合わせ見れば、いよいよ明らかである。 問曰。獲信の時を生滅にあてゝ勝義実時の時と定められるが、元来生滅の所談には刹那の大小があり、一概に言われない。今は大小いずれの刹那を言うのか。 答曰。今は仏智不思議の満入する一念を極促と言われたのである。かゝる生滅の極少に往生の定まることは、唯仏与仏の知見であって、等覚已還の一切の因人のはかり知られぬ時であって、刹那の大小を分別する要はない。 問曰。それでは凡夫の機上では知ることができないというのか。 答曰。然り。現前の有為の刹那生滅の一念すら地前の菩薩の知ることの出来ぬ所である。ましてや、仏智不思議の満入する一念を、凡夫の粗造心では決して知ることができないのである。     【 三問三答 】(石泉師・事究竟) 問曰。前義をつぐや。 答曰。つがない。別義を立てる。 問曰。その義如何。 答曰。『信巻』の釈は事究竟の一念と取る。しかし称名を称うる頃(あいだ)を言うのでは無く、仏願の名義を聞信して往生の業事が成弁する時を言うので、いわゆる受法の初際と言うことである。「タノムモノヲタスクル」という名義を心に縁じて、そのおもいを完成した(縁起一周)心相の最も促(ちゞ)まった時を言うのである。 問曰。どうして事究竟の一念と言うのか。 答曰。『略典』に「復『乃至一念』者、是更非R言A観想・功徳・T数等之一念@、就S獲A得往生心行@時節延促U、言A乃至一念@也」(U・四四四)とあるのがまさしく延促対で乃至一念を解釈されるもので、一生涯相続し、延びゆく後続の信を延と言うに対して、その相続が促ったきわまりであるという意で促と言ったのであって、電光石火の如き、遅いに対する速いの意ではない。 問曰。『信巻』の文に、明らかに「時剋之極促」と言うのは、延促対と言うよりも奢促対で、極めて速いと言った方が親しいのではないか。 答曰。極促と言って、聞其名号の信の一念が凡夫の覚知できない信相だと言うのは穏当ではない。もし凡夫の機上に浮かぶ隙もない信心だと言わば、初起の信心は无念无想と言わなければならなくなる。 問曰。初起の信心が无念无想と言わば、いかなる欠点があるか。 答曰。「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」と言われるのに、无念无想だとは言えた義理がない。『浄土真要鈔』本に「如来の名号をききえて機教の分限をおもひさだむるくらゐをさすなり」(V・一二八)と言い、又『御文章』三帖・六通に「たすけたまへとおもふ帰命の一念をこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて行者を摂取したまふなり」(V・四五九)と言われてある。これらの聖教量に明らかに初起一念の信心を行者の思い様、覚知の信相を教えられている。しかれば初起一念の信心を无念无想だとは言えない。 問曰。信の一念に覚知があると言っては信心が意業であるということにならないか。 答曰。意業の意とは、『倶舎論』(四)・『唯識論』(五)では「思量」の義とし、また俗典でも「心之所R発」とある。また業とは造作の義であって、要するに意業とは心の思い量る所作を言う。しかし他力迴向の信心は无疑・无慮・无作を言うのであるから、これに適しないから意業という名目を用いることは適当ではない。 問曰。意業でなくて、しかも覚知があると言う。自語相違にならないか。 答曰。意業という名目は、元来一般仏教で言うことで、別途の信心をあらわすのに穏当でないから用いないというのである。今は他力迴向の信心であるから、信相も信体も共に仏から成ぜしめられるから覚知と言った。しかし覚知と言っても通途の三思の中の決定思の如きものでないということが分かればよいのである。 問曰。この一念が事究竟の一念で、「タノムモノヲタスクル」という名義を心に縁じて、そのおもいを完成した信相の最も促った時を意味すると言えば、機の方には利鈍の差があるから、機によって往生決定の時間に遅速の差別が生ずるのではないか。 答曰。自力運想の事究竟なら問者の言う通りであろうが、今はそうではなくて、他力の仏智が迴向され、我等が身に印現して往生の定まることを言うのであるから、その問いは受ける要がない。 問曰。それでは、一念とはどういう意か。 答曰。一念とは往生治定の「オモヒソメ」をあらわすので、一とは初めと訓ずる意味である。 問曰。『行巻』の六字釈に「即」の言を「光A闡報土真因決定時剋之極促@」と言われたものは、一念の時の極促なるをあらわすものであるが、彼の文を如何に解するか。 答曰。名号願力が衆生心中に印現して、往生の定まるのには、はやいに違いない。しかし思う遑もないと言うことではない。凡夫の信相に現われるものであれば、必ず時を経るものであるといっても、凡夫としてはその時を計る必要もないのである。 問曰。どうしてそのような解釈をするのか。 答曰。『行巻』に示された奢促対と言うのは、聖道要門の如き諸行の遅い者に対して、弘願の速いことを示すもので、遅速と言うことでもあろうが、『信巻』の釈はそうではなくて、『略典』に時節の延促と明示されるものと同じで、相続の延に対して促と言うものであるから、受法の初際ということをあらわすのである。    【 四問四答 】(僧亮・鮮妙説) 問曰。前義をつぐか。 答曰。別義を立てる。 問曰。では別義とは如何。 答曰。信楽開発という事究竟の発生する時剋は、極めて手ばやきことを示すのが一念であるから、一念という実時の言葉をもって事究竟の速疾頓成なることをあらわしたのである。 問曰。そのことを詳しく説明せよ。 答曰。他力至極の信楽を獲得するありさまをあらわしたもので、通途の仮時とか実時の概念をもって釈するわけにはいかない。即ち本願力迴向の信が機上に領受された最初を指して一念と言われているのだから、事究竟の意味がある。しかし、この受法の初際は、仏智が機上に印現して疑情を全尽せしめたのだから、時剋的には極々はやまった所で、少しの時間の経過も要しないので、凡夫には知りえず、仏智見でなければ見とゞけることができぬ速さというのである。したがって六十刹那を一念とするとか、一刹那の中に九百の生滅ありとか言うような通途の勝義実時の計れる一念ではないということである。 問曰。一念を時剋の名と解するもの、経文にみどころがあるか。 答曰。成就文の「乃至一念」は、次下の「即得往生」と相応するもの、正しく時剋の義である。故に龍樹の「即時入必定」(T・二六〇)と言うのは、開発の一念を指すものであり、『行巻』に「即」の御釈をなさるものと合わせ見れば明らかである。 問曰。経釈にもあるか。 答曰。『大経』には「一念之頃」(T・三)、「一発R意頃」(T・一三)、『観経』には「如二一念頃一」(T・六五)、『散善義』には「上尽A一形@下至A一日・一時・一念等@。或從A一念・十念@、至A一時・一日・一形@」(T・五四三)等と言われたものは、いずれも速疾なる時を示されたものである。 問曰。一念の言は時剋の名とするか、あるいは心念のことゝするのか。 答曰。聖人が『信巻』に時剋と信相とに約して釈するものは、一文両義有りということで無く、一念と言う語は信相であって、時剋の極促をあらわした言葉である。故に仏智機上に印現して疑情全尽して(信心決定)、往生の業事成弁する事究竟の意味が有り、その信心決定する時を時間的に言えば極めてはやい、速疾であるというのであるから、時剋と心念の二釈は分かつことのできぬものである。 問曰。先に別途の一念は仏智来たりて成就した一念だから、唯仏与仏の智見であって凡夫には知り得ぬと言ったが、それでは无念无想の信心とはならぬか。无念无想の信心などあり得ないが、どうか。 答曰。もちろん問者の言う通り、无念无想の信心などあるはずがないので、如来の勅命を聞いて、この願力でたすかると疑いはれた信相があってこそ、信楽開発と言われたのである。ただこの信心を得るに要する時間のはやさが仏智の我等の手元に浸透するはやさなれば、凡夫には計り知れない唯仏与仏の智見と言ったのである。故に信心開発に要する時間が凡夫の智見では知り得ないということゝ、信相の有無とは全く意味が違うのである。 問曰。信楽開発する時間のはやさが、凡夫にはわからず、仏のみ知ろしめす所と言うことを、もう少し詳しく説明せよ。 答曰。衆生の方で造りあげていく、いわゆる自力の信心なれば、賢者でもいかに短いと言っても時間がかゝる。しかし、如来の願力なれば、一念遍至と我等の手元に来たり給うものだから、時間はかゝらない。たとえば、日出でゝ闇が晴れ、月が水に宿るのに時間を要しないように、妄業ほろびて真因きざし、当果決定するのは仏力のなしたもう所を時間的に極促の一念と言われたのだから、唯仏与仏の智見であって、我等因人の知ることができぬと言ったのである。    【 五問五答 】(覚知あり) 問曰。極促の一念において、行者の覚知ありとすべきや否や。 答曰。聞信歓喜の一念なれば、既に名義を聞いて領解する当体無疑信心となる。こゝに永劫の疑闇晴れて明信仏智の安堵に住する時なれば覚知あるのが当然である。 問曰。どうしてそのように言えるのか。 答曰。それには道理、文証がある。 問曰。その道理とは、如何なることか。 答曰。先に言うように、我身の往生一大事について長い間の疑闇が晴れて「往生一定御たすけ治定」と安心ができたのである。その覚知がなくて安心決定など言えるであろうか。故に往生安堵の覚知はなければならない。 問曰。しかし、この一念は微細の一念であって行者自身には覚知できないのではないか。しかも断疑生信したと行者が知るのは意業の上のことで、第二念以後のことではないか。 答曰。いかに微細であるからと言って、行者自身の心に安心したものを覚知なくして安心決定など言えないのではないか。しかも問者は疑晴れて生信したという思いが第二念以後というならば、初一念は覚知なしとして、无念无想ということになる。第二念の安心は初一念の安心が流出して相続するものであるから第一念を无念无想とするようなことは理が通らない。故に初一念に往生決定の安心の覚知がなければならない。 問曰。では、覚知ありとすれば、年月日時を必ず覚知せねばならないのか。 答曰。獲信の年月日時を必ず記憶せねばならないというのは、三業惑乱者の談ずるところなれば取らない。今はその様な事をいっているのではない。 問曰。覚知ありとするなれば、当然その日時を記憶せねばならないのではないか。 答曰。然らず。獲信の年月日時をはっきり記憶せよと言ったり、獲信の当時において、私はこのように思いたりと信相を記憶せよとか、信心をいたゞきつゝあるとか、または私は既に前念において信を得ていると知りうる等という思念を言うのではない。 問曰。では覚知ありとは、どのようなことを言うのか。 答曰。それは己が信心の獲不に心を置くのではなくて、唯仏勅に信順する他にないのである。即ち摂受衆生の願力を仰信して、決定往生の思いに住するので、他の思いは一切不要であることを言うのである。 問曰。そのことは、行者意業の上の思いではないか。 答曰。先に言った通り、意業は性相では思量の義、造作の義とする。今の信心は、行者が微塵も思慮や造作を用いるのではなく、無疑・無慮・無作の他力迴向の信心であるから、意業というべきでない。 問曰。今の答は意業に非ずして、しかも念想ありという。その義は甚だ解し難い。通途では思の心所を意業とし、此れを大地法と定めてある。一切の心所の意業によらねばならないのではないか。 答曰。通途の解釈をもってしては、他力の信心を解することはできない。行者の思慮造作を用いずして願力を聞知するのは、唯不可思議の願力の独用による他ないのであるから、信体のみならず、信相もまた、仏迴向の所成なれば、思う心所等の所発ではないのである。 問曰。初一念の安心は如来の仏智が印現した時であり、行者自身は唯仏智を仰ぐ当体であるから、己を忘れているのではないか。 答曰。その己を忘れている当体が仏勅を仰信している信相であって、仏願の生起本末を聞信した覚知がないとは言われない。 問曰。初起一念は極促の時であるから、凡夫に覚知する遑もないのではないか。 答曰。もちろん仏智印現の一念は頓極頓速なるものである。ただその時を実時の一念とするのでなく、事究竟の一念と解するのであるから、必ず覚知がなければならない。故に電光石火よりも速いといっても、思う遑もない無覚知とは同一視すべきではない。 問曰。最後になったが信心がたしかに覚知ありとの文証ありや。 答曰。『信巻』の三心字訓釈に「願楽覚知之心」(U・五九)と、その他聖教量には、信相を説かれた文は数えるに遑のないほど多い。もし一念の安心は凡心に覚知できないものと言えば、行者は生涯信相を知らず終るという不都合をきたす。さらに、聖教上の信相の文は信後の意業形相を教えたものとなって、一念の信相を説いたものはないことになる。 問曰。しかれば、一念の信相をいかに覚知するか、具体的に述べてください。 答曰。『信巻』には「聞A仏願生起本末@無レ有A疑心@」とある。『浄土真要鈔』(V・一二八)には、「機教の分限をおもひさだむるくらゐ」と言い、善導大師の二種深信釈では「罪悪生死凡夫、曠劫已来常沒常流転無R有A出離之縁@」(T・五三四)の者を摂受したまう願力と信知するとも示されている。これらみな、信相を示されたものと言わねばならない。     【 六問六答 】(非意業) 問曰。前義の通り、初一念の信相は覚知ありとなすや。 答曰。別義を立てる。 問曰。別義とは如何。 答曰。初起の一念は凡夫の粗造心を以てしては覚知すべきものではない。 問曰。どうして覚知がないと言うのか。 答曰。それには道理と文証ともにあります。 問曰。ではまず道理とは如何。 答曰。宗祖は信一念は「時剋の極促」と釈されて仏智印現の当体は極めて微細なるものであるから、凡心の思慮の及ぶところではないと言うのです。 問曰。では初一念は无念无想というのか。 答曰。然らず。仏智来りて我らが心中に満入し、妄業を滅し真因きざす心相はあるのである。たゞその時間は凡夫の覚知する遑がないほど極促であるというのである。もし初起の一念の覚知がなければならないというなら、粗造なる意業であるから、意業安心となる。 問曰。覚知があれば意業安心だといって退けるが、仏智印現するのは意業において覚知すると言ってなぜ悪いのか。 答曰。意業は行門であって、初起の一念を行と取れば信・行混乱の失を招く、唯信正因の他力往生を妨げることになる。 問曰。信一念を覚知することが意業安心に墮すると言えば、言葉に失があるというなら、意識に覚知すると言えばどうか。 答曰。たとえ言葉の上だけ、何とか言いかえてみても、凡夫に覚知せねばならないということは、意業分別たることをまぬがれない。他力の信心は身口意の三業の分別を離れて、仏智に帰する極促の一念である。あえて凡夫の意識・意業で分別せねばならぬとすれば、自力運想の慮(はからい)となるのである。 問曰。では信心は意識を離れて領受するとすれば、いづれの心に領受するのか。 答曰。非意業の微細心に受けるのである。 問曰。その非意業の微細心とはいかなるものか、また通途の法相にあてればいずれにあたるのか。 答曰。あえて通途の法相にあてゝ解釈する必要はない。たゞ存沒増微のある粗造心に対して微細心というのである。 問曰。そのような心が聖教量のいずれに示されていますか。 答曰。微細心ということを聖教の上に示されているというのではないが、そう言わねばならない道理があって言うのである。 問曰。その道理は如何。 答曰。他力の安心とは、三業の分別を離れた非意業である。このような非意業の心は意識外のものとせねばならない。 問曰。非意業という言葉にも問題はあるが、なぜ意識以外の言葉を立てねばならないか。 答曰。この心を立てるに、三由ある。一に極促の心なるが故に。二に意業は粗分別なるが故に。三に意業は浮沈存沒があって信体を成ぜざるが故である。 問曰。初めの極促の心なるが故にとは如何。 答曰。宗祖は『二巻鈔』(U・四六〇)に速疾の利益を顕わして、「信A受本願@前念命終「即入二正定聚之数一」即得往生後念即生「即時入A必定@」文「又名A必定菩薩@」文」と示されている。即ち凡夫の粗造の分別する遑もない速疾に信楽を獲得し往生の大益を決定するのである。よって凡夫の意識では分別できるようなものではない。 問曰。次の意業は粗分別の故にとは如何。 答曰。凡夫の散漫の心を以て宿善開発して信心を獲得して心光に摂取せられるという速疾の益を思慮することはできない。我身は往生に安堵を得たりと機上に浮かび出るのは、信一念後の意業であると言わねばならない。故に信体は非意業の思いであるというのである。 問曰。三の意業は浮沈存没があって信体を成ぜずとは如何。 答曰。意業は浮沈存沒のある心である。もしこれを以て信体とすれば、心不断ともこの信臨終まで等流一貫するとも言われない。故に粗造の分別覚知の他に非意業の微細心がなければならないというのである。    【 七問七答 】(文の解釈) 問曰。信の一念は微細心に受けるので凡夫の粗造心で知ることはできないものだと言われるが、『御文章』三ノ六通に「たすけたまへとおもふ帰命の一念をこるとき」(V・四五九)と言われた文はいかにするか。答曰。それらの文は本願成就の「乃至一念」の念の字を和述せられたもので、『唯信鈔文意』に「念は心におもひさだめてともかくもはたらかぬこゝろなり」(U・六三二)と言われたものと同様である。故に「オモフ心一ツ」と言われたものは、身口二業を簡んで意業のみというようなことではない。 問曰。前難いまだ遮せず。問者はその念の心相が覚知されるのかされないのかと問うているのである。 答曰。もとより仏智印現の信相はあるのであって无念无想とは言っていない。執持名号の一念に久遠劫来の計度分別がなくなって、仏勅に信順するおもいはあるのである。 問曰。しかれば信相に覚知あるというべきではないか。 答曰。その信相たるや非意業の微細心であって、凡夫の粗分別にかゝるものではないというのである。 問曰。宗祖は聞の字を釈して「仏願の生起本末を聞て疑心有ること無し」といわれる。かかる生起本末をおもい取る心というものは、時間を要するのではないか。 答曰。なるほど仏願の生起本末を聞くには時間がかゝる。しかし、聞信一念の場は心に思惟している時というのではなくて、無有疑心の究竟処に帰して、仏智印現して一点の疑心なき時を弘願の聞とするのである。しかもそれは極促の一念であって凡夫の粗分別心では覚知する時ではないというのである。 問曰。信心を非意業と言われるが、『安心決定鈔』末の「機法一体に成ぜし功徳が衆生の意業にうかびいずるなり」(V・六三四)といゝ、また四種往生を挙げる中、意念往生と言われたのはどうするか。 答曰。『安心決定鈔』の前文は「彼此三業不相捨離」の文を釈するもので、意業によせて安心を顕したものである。たとえば風を描くに竹のなびく絵をもってするようなものである。また、後文は『法鼓経』によって意中憶想の往生のことを顕されたものであって、初起安心の信相を言われたものではない。 (已下論議に譲る)