平成十一年度 第一○四回・専精舎論題     信 心 正 因                          行信教校教授 騰瑞夢師述 「信心正因」           平成十一年・専精舎論題・騰瑞夢先生       ◇第一日目◇    【一問一答】(題意・出拠) 問・この信心正因の論題の顕わさんとする意図、云何。 答・第十七願に、諸仏が名号を讃嘆し勧められるのを機が聞受して、第十八願には、信心と称名とが誓われているが、称名は信相続の行であって、往生成仏の正しき因は信心であることを明かすのである。 問・その信心正因の出拠、云何。 答・「正像末和讃」(真聖全二・五二一)には、 不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになほかたし とある所に、正しく「信心正因」の言葉が出されてある。 問・その他に、これに類する文はあるか。 答・「正信偈」曇鸞章(真聖全二・四五)に「正定之因唯信心」とある。  「信巻」本、大信心の十二の嘆釈(真聖全二・四八)に、 「大信心者、則是長生不死之神方、忻浄厭穢之妙術・・・証大涅槃之真因、極速円融之白道、真如一実之信海也。」 として、大信心を「証大涅槃の真因」と言われている。  「信巻」本、信楽釈(真聖全二・六二)に、 「斯心者即如来大悲心 故必成二報土正定之因一。」とある。  「信巻」本(真聖全二・五九)三一問答の初めに、 「弥陀如来雖レ発二三心一、涅槃真因唯以二信心一。」  「信巻」末(真聖全二・七二)「一心則清浄報土真因也。」  「信巻」末(真聖全二・七三)「大慈悲者是仏道正因故。」  「化巻」本(真聖全二・一五四)『観経』の隠顕釈に、 「然者濁世能化釈迦善逝、宣二説至心信楽之願心一、報土真因信楽為レ正故也。」とある。  このように多々ある。 問・覚如上人の上で、信心正因の文はあるか。 答・『口伝鈔』下(真聖全三・二八)の「信のうへの称名の事」という一段に、「正信偈」の「憶念弥陀仏本願・・・」の文を引いて、 「信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり。」 とある。  また、『同』下(真聖全三・三三)にも、一念多念の問題を挙げて 「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。・・・・されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。」 と言い、信の一念を往生の正因とし、その後の称名を仏恩報謝の経営とするといわれている。 問・蓮如上人の上で、信心正因の出拠はあるか。 答・覚如上人の信因称報説を相承して、『御文章』の基本とされているから、その後の教化すべてが信因称報説で一貫している。その代表的なものが『御文章』五帖目十通に「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。」と言われるものがそれである。     【二問二答】(信心の名義) 問・信心正因の名義、云何。 答・「信心」とは、一般に「心澄浄の義」とされる。『倶舎論』(巻四)では「信は心をして澄浄ならしむ。水清珠が、濁水をして澄ならしむる如く、信珠は心の濁垢を皆浄ならしむ。有説に、この信、四諦・三宝・善悪業・異熟果中において、現前に認許する故に信と名ずく」と言い、  『成唯識論』第六には、「実と徳と能とに於て、深く忍め楽欲して、心をして浄ならしむるをもって性となす。不信を対治し善を楽しむを業となす。」等と釈している。 問・それはどういう意味か。 答・それらは四諦・三宝・因果等の事理について、よく聞き随従して、自己の心をして煩悩妄想の垢れを離れたる清きものとならしむる精神作用であるとするのである。 問・宗祖の上では、どういう釈をされているか。 答・親鸞聖人は本願の中に至心・信楽・欲生の三心が誓われているが、その中の信楽をもって信心とせられ、これを無疑の義とされている。 問・その出拠はどこか。 答・「信巻」字訓釈の結文(真聖全二・五九)に、「真知、疑蓋无二間雑一故、是名二信楽一。」と言い、  また、信楽釈(真聖全二・六二)に、「疑蓋无レ有二間雑一、故名二信楽一」と言われて、信楽の名義を「疑蓋間雑なし」と無疑をもって顕わされているのがそれである。 問・その他の聖教にもあるか。 答・和語の聖教にも多くある。その二・三を挙げれば、『唯信鈔文意』(真聖全二・六二一)に、「〈信〉はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり」と言われ、  『同』(真聖全二・六四二)に、「選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり」とある。  また、『一念多念文意』(真聖全二・六○五)に、「〈信心〉は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。」とある。  次に『尊号真像銘文』(真聖全二・五七七)には「〈信楽〉といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。」とある。その他にも、随所に無疑をもって信心の義を顕わされている。 問・七祖の上で、そのように信心を無疑と解釈された例があるか。 答・龍樹菩薩の「易行品」(真聖全一・二六○)に、「若人種二善根一 疑則華不レ開 信心清浄者 華開則見レ仏」とあるものや、  また、法然聖人の『選択集』三心章(真聖全一・九六七)に深心を釈して、「当レ知、生死之家以レ疑為二所止一、涅槃之城以レ信為二能入一。」と言って、信と疑を反対概念として用いられているから、信を無疑と見られているといえる。     【三問三答】(疑蓋無雑とは) 問・信心を無疑心といわれる時の心境内容、云何。 答・前者が先ず和語のお聖教の文を挙げたように、本願の名号のお救いの謂れを聞いて、はからいなく領納(納得)したことを、「疑蓋間雑なし」と言われたのである。 問・その「疑蓋間雑」とは云何。 答・「疑蓋」とは、疑いが法の真実を覆い隠し、法をそのままに領納することを障げることを「疑蓋」と言われたのである。もともと「蓋」とは、貪欲・瞋恚等の煩悩を表す熟語の一つで、「疑蓋」と言った時には、浄土教で言えば、阿弥陀仏の教法を信じきれず、はっきりと決めかねてためらうこと、また、意の定まらないことを言うのである。 問・そのことが「無し」というのは、どういう事か。 答・この法に対して、疑いの蓋を雑えないならば、法が法の通り機に領受されるのである。それを「疑蓋无レ有二間雑一、故名二信楽一」と言われたのである。 問・疑いの実体は云何なるものか。 答・疑いということが、前に述べたとおり、自身のはからいをたよりとして、法の力用をはっきりと決めかねて、ためらう(猶予不定)心情を言うのであるから、これを自力計度心と言われる。 問・そういうご指南があるか。 答・『末灯鈔』第二通(真聖全二・六五八)に、 「自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。」と示し、  これに対して「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。」と指示し、「〈他力には義なきを義とす〉と、聖人の仰せごとにてありき。」と、法然聖人からのご教示を挙げて「義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」と釈されているのである。 問・それを要約して言えば、どういうことか。 答・故に、行者のはからい心を自力とし、念仏往生の本願(法)を信楽して、往生決定となることであるから、信楽とは念仏往生の本願力を領納して、自力計度心の無くなったことで、無疑心なることとは同義語とされている。 (二心間雑) ┌ 疑─ 猶予不定─ 若存若亡─ 自力心─ 不了仏智  名号│ └ 信─ 認許決定─ 無二心── 他力心─ 明信仏智 (一心) (信受本願)     【四問四答】(その他の信心名義) 問・信心の名義について、別義があるか。 答・聖人は「信順」という言葉を用いておられるから、信を「信順」、或いは「随順」という意があると言える。 問・それは何処に言われているか。 答・「信巻」(真聖全二・五七)に「二河譬」を引文して、「二河譬」の中に「今信二順二尊之意一」と言われている。この意によって『尊号真像銘文』(真聖全二・五八八)に六字釈をなして、「帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり」と言われている。これ帰命を信順の意味とし、その信順とは「二尊の勅命にしたがう」ことと見られているのである。 問・その信を信順の義とするときの概念を詳しくせよ。 答・「二河譬」の発遣・招喚の本願招喚の勅命、即ち「汝一心正念直来、我能護レ汝。」という仏意に素直に随順して、念仏しつつ白道を進み、仏の願力を領受してはからいを離れている心境を「帰命」とも言い、「信順」とも言われたのである。 問・その他に信心の釈名があるか。 答・和語で「たのむ」という表現で、信心の意を顕わされている。 問・どこに言われているか。 答・『唯信鈔文意』(真聖全二・六三九)の初めに題号を釈して、「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを〈唯信〉といふ。」と言われてあります。  また、その他に「行巻」六字釈(真聖全二・二二)の帰命釈の左訓に「ヨリタノムナリ」「ヨリカカルナリ」とある。  また、「誡疑讃」(真聖全二・五二五)に「仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」とある。 問・その他に、信心の釈名があるか。 答・『御消息集』第二通に、「往生は何ごとも凡夫のはからひにあらず。如来の御ちかひにまかせまひらせたればこそ、他力にてはさふらへ」と述べ、その後に「義なきを義とすと申すなり」という法語をもってお示しである。この時は、本願にまかせる「信託」という意である。 問・その意味は云何。 答・我ら凡夫の自力計度を離れて、本願他力に私の全て(全存在)をまかせていることを他力の信心と申されるのである。故に、前義(たのむ)に相通じる意である。本願力をたよりにし、よりかかり、ゆだねまかせることで、相通じている。 問・また、その他にあるか。 答・真実心という意味がある。 問・それは何処に顕わされているか。 答・「信巻」字訓釈(真聖全二・五九)の「至心」の釈と「信楽」の釈に、「真也、実也」と言い、信を真実と見られていた。至心を「真実誠種之心」と言われ、信楽を「真実誠満之心」といわれている。  後に覚如上人が『最要鈔』(真聖全三・五○)に、願成就文を釈して、「この信心をば、まことのこころとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるるなり。」と言われ、  蓮如上人はこれを受けて、『御文章』一帖目十五通に「信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。」と言われている。 問・我らの信心を、なぜ真実心などと言えるのか。 答・覚如上人は「凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり」と言われる。蓮如上人は「如来の他力のよきこころ」と言われるが、親鸞聖人は「信巻」至心釈(真聖全二・六○)に、至心を「清浄真実心」と解し、如来因位の時に、衆生に代わりて清浄真実心をもって、円融無碍の至徳の尊号を円成したまいて、これを衆生に回施したまうと釈されている。故に『尊号真像銘文』(真聖全二・五六四・五八五)に、「〈真実功徳相〉といふは、〈真実功徳〉は誓願の尊号なり」と言われている。また、『歎異抄』(真聖全二・七九三)には、「ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ仰せは候ひしか。」と領解しているように、当流には名号こそ真実と言われるのである。この名号のお救いを我が機に疑いなしと領受して、我らの心境は南無阿弥陀仏のお救いの他に何もないとなっているのであるから、信心の体をもって真実心といわれたのである。     【五問五答】 問・上来、信心の名義について種々挙げられる時に、本願力とか名号との間で言われているが、その関係云何。 答・本願力とか名号というのは、万人を救うて浄土に往生成仏せしめるものとして、如来の選択せられた行法である。信心とは、衆生がこの行法を念仏して領受し、無疑愛楽している機受の信相をいうのである。 問・では、衆生の信心は、行法と離れてあり得ないのか。 答・その通り。その証拠に、「行巻」の冒頭(真聖全二・五)に「謹按二往相廻向一、有二大行一、有二大信一。」と言われるように、一具に顕わしている。大行を離しては考えられない関係にある。 問・では、その行について詳しくすべし。 答・「行巻」に示される大行とは、如来の成就せられた本願名号を指すので、この六字は万人を平等に救うて浄土にあらしめる、大慈大悲心の示現であり、衆生のための如来選択の正定の業力であり、能生の因である。そして、これを第十七願に諸仏が讃嘆せられて、十方世界の衆生に向かって廻向せられている普遍の法である。 問・では、衆生の領受する信心とは、云何。 答・我ら衆生は、如来の廻向したまう名号を、念仏して受けつつ、これこそ如来の大悲心の我らの上に顕現したもう願力よと領受し、衆生の計度をまじえず、ただこの摂取不捨したまう願力を仰ぎつつある心相を信楽と言うのである。 問・では、行と信との同異、云何。 答・行と信とは、法と機の関係であり、しかも一つの南無阿弥陀仏を如来の立場から言うのと、衆生の上から言うのとの違いがあるということである。 問・それをもっと詳しく言え。 答・一句の南無阿弥陀仏を如来の側から言えば、「この名号で必ず救ける」という法の徳用(行)である。衆生の側から言えば、「この南無阿弥陀仏で必ず救かる(こと疑い無し)」という信心を顕わすということである。故に、法が機となり、仏の名号が衆生の念仏・信心となっているのである。故に、信心とて名号の他に別あるのではない。 問・法が機の信心となるという指南があるか。 答・「信巻」別序(真聖全二・四七)に「獲二得 信楽一、発三起自二如来選択願心一。開二闡 真心一、顕三彰従二大聖矜哀善巧一。」と言われ、また「信巻」の出願釈(真聖全二・四八)には、「斯心即是出レ於二念仏往生之願一。」と言われている。 問・信心の体は、名号の他に無いという指南ありや。 答・「曇鸞讃」(真聖全二・五○六)に、「安楽仏国にいたるには 無上宝珠の名号と 真実信心ひとつにて 無別道故とときたまふ」と言われるように、名号と信心とは法から言うか、機から言うかの違いであって一つである。 問・名号と信心とが一体であるという意を、詳しくせよ。 答・衆生救済の如来の大悲心が如来の名声となり、十方世界に超えて流行し廻向したまうを、我ら念仏してこの願の摂取不捨のお救いの中にあると目覚めさせられ(自力心すたれて)、ただただこの願力のお陰さまよと、大悲心を仰ぎ歓喜愛楽する心を信楽というのである。 問・そのご指南があるか。 答・「信巻」信楽釈(真聖全二・六二)に、「斯心者即如来大悲心故必成二報土正定之因一。」また、「専心即是深心、・・・是心即是大慈悲心、是心即是由二無量光明慧一生 故、」(真聖全二・七二)とある。 問・その謂われをもう少し詳しくせよ。 答・「信巻」末(真聖全二・七二)願成就文の釈に「言レ聞者、衆生聞二仏願生起本末一無レ有二疑 心一、是曰レ聞也。」と言われる。これは我らがお救いの本願名号(他力)の謂われを聞いて、願力のお救いに疑いはれ、所聞の法、すなわち名号の活現(念仏)を喜ぶ心を顕わしてあるのである。     ◇第二日目◇    【一問一答】(正因の名義) 問・「正因」とはいかなる意味か。 答・「正因」の「正」とは、邪に対する言葉で、「正当」(理の当然・理屈にかなっていること)、或いは「正直」(ただしい・まっすぐ)という意味である。また、「因」とは「因種」の義である。よって、信心が涅槃の浄土に往生し成仏する正しい正当な因種であるということを正因というのである。 問・その信心が浄土往生の正当な因種であるということを詳しくせよ。 答・我ら衆生の正しく往生成仏の種となるものは、本願名号を信受している信心一つであるという事を「信心正因」と言うのである。 問・その証文ありや。 答・『尊号真像銘文』(真聖全二・五九六)に「正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。・・・信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。」とある。 問・それでは正因でないものは、何を言うのか。 答・二つの所顕がある。その一つは、聖道、及び要真二門のいわゆる方便の行信に対する場合と、もう一つは、第十八願の上で三心十念を信前行後と時間的に前後法と見た時、信後の称名(乃至十念)に対して、信心を正因として、称名を正因とは見ない場合がある。 問・その初めの聖道、及び要真二門の行信に対するとはどういう事か。 答・自力聖道門、及び要真二門の行信は、いずれも自力の行信であり、よって往生の因にあてがって往生を願求するものであるから、真実の報土に往生し成仏することはできないのである。だからただ信心一つでとは言えないのである。 問・では、信後の称名に対するとは云何。 答・本願の三心と十念は、信前行後と時間的に前後法と見た時は、信の一念に往生の因が円満に決定するが故に、「乃至」の言の付く称名は、信後の一生涯の報恩の経営であって、正因とは見ないのである。 問・そのように解する指南があるか。 答・覚如上人の『口伝鈔』下(真聖全三・二六)第十六条に「信のうへの称名の事」と題して「平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり。」とある。  また、『最要鈔』(真聖全三・五二)にも「信心歓喜乃至一念のとき即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。」とある。 これを受けられた蓮如上人の『御文章』は、この信心正因・称名報恩義をもって一貫せられている。 問・宗祖の上にその義があるか。 答・「正信偈」の龍樹章(真聖全二・四四)に「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と言われるものを拠り所として、覚如上人が解釈されたものである。     【二問二答】(往生成仏の因) 問・信心正因という時、その「正因」は往生に対するのか、成仏に対するのか。 答・親鸞聖人は、往生即成仏と明かされる故に、往生の因であると明かされると同時に、成仏の因でもあると言わねばならない。 問・往生即成仏とは、どこに言われているか。 答・「信巻」(真聖全二・七九)の便同弥勒の釈に「念仏衆生、窮二横超金剛心一故、臨終一念之夕、超二証大般涅槃一。」と言われている。  また、「証巻」(真聖全二・一○三)に「煩悩成就凡夫、生死罪濁群萌、獲二往相回向心行一、即時入二大乗正定聚之数一。住二正定聚一故、必至二滅度一。」と言われている。往相廻向の心行(名号)を獲るが故に、現生正定聚・当来滅度ということが聖人の御常教である。 問・信心が何故、往生即成仏の正因となるのか。 答・『略典』(真聖全二・四四三)に「万行円備の嘉号」とあり、「正信偈」(真聖全二・四三)には、「本願名号正定業」と言われる名号(願力)を領受し、念仏愛楽していることを信心と言われるのであるから、この信心が往生の正決定の因と言われ、成仏の因種と言われるのである。 問・それをもう少し詳しく述べよ。 答・名号は阿弥陀仏の因位の衆生救済の本願にもとづき、万行を円かに成就し、その徳を備えたものであって、これを一切衆生に与えて成仏の因種たらしめようと廻向されている法である。 問・そのようなことを言う証文ありや。 答・『選択集』「本願章」(真聖全一・九四三)に、「名号者是万徳之所レ帰也」と言われ、阿弥陀仏の一切の内証の功徳(智慧)一切の外用の功徳(慈悲)みな阿弥陀仏の名号の中に摂在すると言われている。  また、先に挙げた宗祖の「万行円備嘉号、消レ障除レ疑。」(『略典』)とか、「本願名号正定業」と言われたのは、阿弥陀仏の本願の名号は、衆生を正しく往生成仏せしめる業因として、我らに廻向されているということを示されているのである。      【三問三答】因種となる理由(名号を円具しているが故に) 問・信心が何故、往生成仏の因となるのか、その理由を述べよ。 答・それは前者が既に述べたように、弥陀仏の選択し与えたもう名号(願力)を、念仏して全領しているのが信心であるからである。 問・その名号を全領して信心となるとは、いかなる事か。 答・これも前者が述べたように、阿弥陀仏の名号には、阿弥陀仏の果徳が円備されているからである。それを衆生のための正定業因として廻向せられているのである(第十七願)。衆生はただその仏意の通り念仏して仏徳・仏力・仏心を領受して、わが力にては無く、この仏力にて往生成仏せしめられると信知(覚知)して、楽もしく歓喜していることを信楽と言うのである。要するに、仏力を領受して、我が力として好楽しているのである。 問・それでは名号も往生成仏の業因、信心も往生成仏の正因となれば、正因が二つあることにならないか。 答・これも既に述べられたが、名号は、我が名を呼ばせて仏徳(仏力)を衆生に植え付けさせようとの念仏往生の願の成就された法力である。衆生はその願意に信順して念仏しつつ、われを忘れて(我が功を離れて)願力のままでと安心している相が信心歓喜である。(親鸞聖人の「行巻」の所顕がそれである) 問・それは仏心、即ち大慈悲心を領受していることか。 答・その通り。阿弥陀仏は衆生の苦を除き、楽を与えんがために、成仏せられた仏であるから、「為物身」とも言われ、それは偏に衆生のためという大悲心の示現が名号であるからである。 問・大悲心が名号であるという指南があるか。 答・『唯信鈔文意』(真聖全二・六三九)に、「この如来(無碍光如来)の尊号(南無阿弥陀仏)は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。」と示されている。 問・その大慈悲心が、我が信心となっているというご指南ありや。 答・「信巻」信楽釈(真聖全二・六二)に「斯心者即如来大悲心故必成二報土正定之因一。」とあり、  また、「信巻」末(真聖全二・七二)に信心の転釈をされ「是心即是大慈悲心、是心即是由二無量光明慧一生 故、・・・大慈悲者是仏道正因故。」とある。 問・それはどういう意味か。 答・勅命に信順して念仏しているままに、これは如来の大悲心の我が身上に活現したもうていることと目覚めることを信心開発と言うのであるから、この大悲心(願力)が我が念仏となり、信心となって下され、私に仏道を成ぜしめたまふという事である。これ偏に仏智のしからしめたもう所なれば、「無量光明慧によりて生ずるがゆゑに」と言われているのである。      【四問四答】(大菩提心なるが故に) 問・信心が正因である理由が他にあるか。 答・信心は大菩提心であるから、往生成仏の正因となると言われている。 問・それはどこに言われているか。 答・「信巻」本・菩提心釈(真聖全二・六八)、「信巻」末・成就の一念の転釈(真聖全二・七二)、「天親讃」十七・十八・十九首(真聖全二・五○三)、『正像末和讃』二十・二十一首(真聖全二・五一八)、『唯信鈔文意』(真聖全二・六三二)等に、他力の信心は菩提心なるが故に、大般涅槃を証る因となると言われている。 問・信心が菩提心であるということを、具体的にどう言われているのか。 答・「信巻」末・一念転釈(真聖全二・七二)の中に、多くの言を挙げて「真実信心即是金剛心、金剛心即是願作仏心、願作仏心即是度衆生心、度衆生心即是摂二取衆生一生二 安楽浄土一心、是心即是大菩提心」と言われている。 問・その心を詳しく述べよ。 答・願作仏心とは、「ホトケニナラントネガフコゝロナリ」(天親讃の左訓)とあるとおり、作仏せんと願う心で、自利の完成を目指す心であり、度衆生心とは「シユジヤウヲワタスコゝロナリ」と衆生を済度しようと願う利他の心である。この自利利他の完成を願う心を菩提心と言うのである。この菩提心が如実に発される時、それを仏道の正因とするのが仏教の通規である。このように真宗の信心にも、願作仏心・度衆生心という菩提心の徳を持つが故に、成仏の正因であると言われるのである。 問・浄土真宗では、弥陀の本願名号を信ずる信心が菩提心であるという意味を説明せよ。 答・第十八願には、「若不生者(度衆生心)不取正覚(願作仏心)」と衆生の往生と、仏の正覚を一体不二に誓われている。これは法蔵菩薩自身の願作仏心(自利)と、衆生済度の度衆生心、即ち菩提心の表現が本願であり、それが具体的に名号となって衆生界に活動しているのである。 問・それと衆生の信心とは、どんな関係にあるのか。 答・衆生は、この如来の本願名号を聞受して、往生成仏せしめられること疑いなしと信楽するのであるから、その信心は願作仏心(この名号にて成仏せしめられる)の徳が備わっている。その願作仏心としての信を得て、浄土に生れ成仏すれば、更に一切衆生を済度する還相の大悲を起こす。これは願作仏心が成就して、度衆生心となって働くことを顕わしている。このように如来の願作度生の菩提心の活現としての名号を聞受して信楽を獲るところに、この真実信心にまた如来の菩提心の徳義が円具せられるのである。それ故、無上菩提を成就する正因となると釈顕されたのである。このように真宗の信心にも、願作仏心・度衆生心という菩提心の徳を持つが故に、成仏の正因であると言われるのである。 問・本願の信心が菩提心であると明かされた証文ありや。 答・先に掲げた文に示されているが、いま『唯信鈔文意』(真聖全二・六三二)の文に、「これは念仏往生の本願の三信心なり。・・・この真実信心を世親菩薩は「願作仏心」とのたまへり、これ浄土の大菩提心なり。しかればこの願作仏心はすなはち度衆生心なり、この度衆生心とまうすは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこゝろなり。この信楽は衆生をして无上大涅槃にいたらしめたまふ心なり。」と言われている。 問・「信巻」の菩提心釈(真聖全二・六九)に『論註』の文を引用されている。その意、云何。 答・その文は『論註』下・善巧摂化章(真聖全一・三三九)の「案二 王舎城所説『無量寿経』一、三輩生中雖三行有二優劣一、莫レ不三皆発二無上菩提之心一。此無上菩提心、即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心即是摂二取衆生一生二 有仏国土一心。是故願レ生二彼安楽浄土一者、要発二無上菩提心一也。」と言われるもので、願生者は必ず願作・度生の菩提心を発さねばならないと言われている。 問・『論註』に菩提心を釈顕なさる心、云何。 答・「善巧摂化章」の釈は、『論註』下巻十章の中間にあって、前後の義を統べて五念二利円具の菩提心を明かすのである。すなわち、「観察体相」と「浄入願心」の二章は、所観の体をして能観の作願・観察を明かし、「善巧摂化章」はこの作願・観察の止観成就した菩薩の柔軟心の上に起こる巧方便廻向の無縁の慈悲を明かすのである。すなわち菩薩の二利成就の大心を菩提心となすと示すのである。 問・その釈が信心といかなる関係か。 答・この菩薩の智慧(願作仏心)と慈悲(度衆生心)の菩提心の徳を示さんがために、「離菩提障」「順菩提門」を経て、「名義摂対章」に至って妙楽勝真心の一心に統摂せられるのである。すなわち、願作(智慧)度生(慈悲)の菩提心は、妙楽勝真心の徳相であると顕わすのである。それ故、この妙楽勝真心の一心が往生成仏の正因となるのである。宗祖は、この釈意によって、無碍光如来に帰命する一心が妙楽勝真心であり、菩提心であると領解して「信巻」に引用せられたものであろう。 問・宗祖が信心を他力の菩提心と釈顕された意図は何処にあるのか。 答・法然聖人が『選択集』「本願章」(真聖全一・九四三)等に菩提心を廃捨されたことに対して、明恵上人が『摧邪輪』を著して厳しく非難された。これに対して宗祖は、法然聖人が廃捨された菩提心は、自力の菩提心であって、他力の菩提心まで捨てたのではない。真の菩提心とは、本願を信ずる他力の信心の徳義であると顕わされたのである。 問・それはどのように顕わされているか。 答・「信巻」本・菩提心釈(真聖全二・六八)に、二雙四重の判釈をされたのがそれである。すなわち、竪超・竪出の聖道の菩提心、また横出と言われる浄土の自力の菩提心に対して、横超他力の菩提心を明かし、法然聖人が『選択集』に廃捨されたものは、自力の菩提心であって、横超他力の菩提心は「願力回向之信楽、是曰二願作仏心一。願作仏心即是横大菩提心。是名二横超金剛心一也。」として、涅槃の真因は選択本願の信心であると明示されたのである。     【五問五答】(仏性なるが故に) 問・更に信心が正因である理由が他にあるか。 答・信心は仏性であるから、よく成仏の因種となると言われている。 問・それは何処に言われているか。 答・「信巻」末・信楽釈(真聖全二・六三)に『涅槃経』を引いて、「仏性者名二大信心一。何以故。以二信心一故、以下菩薩摩訶薩則能具二足檀波羅蜜乃至般若波羅蜜一。一切衆生畢定当「得二大信心一故、是故説言二 一切衆生悉有仏性一。大信心者即是仏性、仏性者即是如来。」と言われたものがそれである。 問・その他にあるか。 答・諸経讃(真聖全二・四九七)に、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」と言われている。  また、『唯信鈔文意』(真聖全二・六四八)に、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。」と言われている。  また、前者が菩提心の釈として挙げた『唯信鈔文意』(真聖全二・六三三)の文に続いて、「この信心すなはち大慈大悲の心なり。この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち如来なり。」と結んであった。 問・「信巻」に引用された『涅槃経』の信心仏性説は、どういう意を顕わしているのか。 答・信心仏性という時の仏性は、因仏性の意味で、仏になるための因種であるという意で仏性と言われたのである。そして、そうなるということは、信心には六波羅蜜の功徳(行徳)をよく具足しているから、成仏の因種となるという意で、大信心仏性と言われ、信心がよく成仏の因種となるという意を顕わしているのである。 問・信心に六波羅蜜の功徳を具足するとは、如何なる意か。 答・浄土真宗の如来廻向の信心には、名号を通して法蔵菩薩所成の六度万行の行徳が、衆生に与えられている姿であると見られて、用いられているのである。 問・その文証ありや。 答・『大経』勝行段(真聖全一・一五)に、法蔵菩薩の修行を明かして、「自行二六波羅蜜一、 教レ人令レ行」めて、「具二足衆行一」、その行徳を衆生に廻向し、衆生成仏の因種としていくことを「令二諸衆生 功徳成就一」と示されている。 問・「信巻」の『涅槃経』の引文に、四無量心・大信心・一子地等を仏性とするという文を用いられているが、それは如何なる意を顕わすのか。 答・慈悲喜捨の四無量心は、一切の衆生を救おうとする仏心を顕わしているから、阿弥陀仏の果徳、即ち果仏性。これが具体的には名号と顕現していることは、前に述べた通りである。「行巻」一乗海釈(真聖全二・三八)に本願名号を、「一乗者即第一義乗、唯是誓願一仏乗也。」と証する文に、『涅槃経』を引いて、究竟畢竟を挙げられるものがそれである。この中に摂められる荘厳畢竟も、六波羅蜜なりとしてある。 問・次の大信心とは、云何。 答・前に「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。」と言われたものは、これらの経文に依られたものである。仏心(大慈悲心・名号)が、衆生に至り届いて、衆生の大信心(信楽・無疑心)となっているのであるという意で、信心を因仏性の徳として顕わされているのである。 問・次の一子地とは、云何。 答・一子地仏性とは、この信心の果徳として浄土に往生すれば、怨親平等の境地に至らしめられることを顕わすので、果仏性の意味で語られているのである。 問・それらを要約して言えば、どういう事か。 答・要するに、如来の大慈大悲が衆生に届いて信心となる。それが衆生をして怨親平等の仏果を得しめていくというのが、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の顕わさんとする仏意である。これが弥陀仏の本願力廻向という如来の利他力教と一致するという意で、会合し引用せられたものである。 問・そのように仏因を信心一つに集約していくのは、何に依られたのか。 答・「信巻」(真聖全二・六三)に『涅槃経』を引いて、「或説二阿耨多羅三藐三菩提一信心為レ因。是菩提因雖二復無量一、若説二信心一則已摂尽 。」とある。  また、次に『華厳経』を以て「聞二此法一歓二喜信心一、無レ疑者速成二無上道一、与二諸如来一等。」と説かれているものと、いずれも無上菩提の因を信心一つで語られる大乗経説に依って、これを弥陀本願の信心に会合して、信心正因を語られるのである。