領解文素川録 柱松薫成著 この著者は、熊本教区菊池組善龍寺十三代住職で、現十六代住職柱松青巒師の曾祖父に当たります。自坊の閲蔵寮の片隅にあった明治時代の行信教校生三名による筆写本です。 問曰。何の所由ありてこの宝語を製したまふや。 答曰。凡そ製作の由致を論ずるに、通別の二あり。 通とは謂く為知恩報徳故なり。此は是れ七祖の論釈より下、諸聖教にいたるまでみなこのこゝろを出ることなし。故にこれを通由とす。云く信後の所作は悉く報恩のためなればなり。次に別とは、その各部につく故に別由とす。今この領解文の造由は云く、領解出言の方軌を定めん為の故なり。愚夫愚婦においては宗意了得しながら或は前後錯乱し、或は言詞弁ぜざるあるべし。故に次第を調べ同音ならしめ、もって仏祖前にして之を敬白せしむるものなり。 問曰。何故に出言せしむることをなすや。 答曰。総て今家の所作報恩のためならざるはなきなり。しかるに今出言せしむるものは、歓にあれ悲にあれ、その切につくときは出言せざるをえず。故に中興師、其の理を勘みその方軌を定め出言せしめたまへるものなり。 問曰。この宝語、古来二称を伝う。これいかなるこゝろなりや。 答曰。共にこれ出言の意趣に名く。先づ領解文と称するものは、領は領納、解は解了の義にして謬りなき領解を敬白し、仏恩の深重なるを感荷し、斯の如く心得しめたまへることの有り難さよと慶楽するのこゝろなり。又、改悔文と称するものは、改は改転、悔は懴悔の義にしてこの辺においては自ずから二意あるべし。一には当処につき、二には古今の相対につく。一に当処につくとは、謂く獲信の行者は既に光明海中に摂取せられぬれば、つねに歓喜地に居すといへども自己を顧りみる時は乃ち墮獄の罪相なり。故に自己を顧りみ懴悔し光明海中に改転せられたる恩徳を仰ぎ洪恩の深重なるを慶楽するもの所謂る情を難思の法海に流すのありさまにして念々称名常懴悔とのたまへるこゝろなり。また如来わが往生をさだめたまひし御恩報尽とのたまへるのこゝろなり。二に古今相対につくとは、未信の古へを懴悔し改転せられたる今日を慶楽す。勧章に所謂るかようにやすきことを今まで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひてなをなをふかく弥陀如来をたのみたてまつる等とのまへるものこのこゝろなり。 問曰。今この宝語幾節とするや。 答曰。四節なり。云く安心・報謝・師徳・法度なり。若し安心行状に約すれば、初一節は安心、后三節は行状なり。若し正因非因の分別をなすときは、初一節は正因、後三節は非因なり。 問曰。安心の一節の細科いかん。 答曰。もろもろのよりふりすてゝに至るはこれ捨自力、一心によりは帰他力なり。初め捨自力の中、自力のこゝろをまでは所捨、ふりすてゝとは能捨なり。 問曰。もろもろとは如何。 答曰。もろもろとはすなわち諸の字の訓にして、不少に名く。雑行雑修自力の心はまちまち無量なればこれをもろもろと発語するなり。 問曰。雑行雑修とはこれ何物なりや。 答曰。善導大師の散善義に正雑二行を立てゝ廃立を示したまへる中、自ら雑行雑修の区別を成ずるを、高祖『化土巻』に開顕したまふを雑行雑修という。彼文に云「正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく」文の中、正助はこれ雑修なり。雑行のごときは正助除いて以外は悉く雑行なるときはすなはち諸善万行にして挙げて算えるべからざれば、元祖二行章には雑行無量不遑具述とのたまひ『化土巻』には「雑之言摂八万行」とのたまふなり。 問曰。何故に雑行と云い、雑修と名くるや。 答曰。『化土巻』に「諸善兼行故曰雑行」とのたまひ、又、助正兼行故雑修とのたまう。しかれば、かれは雑とは、ともに兼雑の義なり。 問曰。しかれば、若し一行を修するときは、雑行の名をえずとするや。 答曰。一概し難し。雑行の如きは、雑毒疎雑の行にして此土入聖の心をもて之を修し而してこれを至心発願するの機なれば此土心にては此土行と名け彼土心にては彼土行と名く。その心両辺に跨るに随て専行にして自ら二行並修の義を成ず。故にまた雑行と名くべし。『化土巻』に判じたまひて専行雑心とのたまへるこれなり。 問曰。助正兼行故曰雑修とは其の相いかん。 答曰。古来多義あり、これを論ずるに遑あらず。今云く、正者五種正行也とのたまふものは、『散善義』開列段の得名にして雑行に対する辺なり。「助者際名号以外四種是也」とは、同じく合門段の得名にして正定業に対する辺なり。然るを助正兼行とは雑行に対するときは正の名を得。弘願正定業に対するときは、助の名を得る五行を兼行するを「曰雑修」といふこゝろなり。兼行とはすなはち並修の義なるが故に和讃に「助正ならべて修するをば、すなはち雑修となつけたり」とのたまへり。【古来多義を生ずるものは助正は説意の判目なるを知らず偏に純修の一行意とするが致すところなり。注意すべし】 問曰。既に文に「助者除名号已外四種也」と判じたまへり。云何ぞ合門段にては助の名を得る五行というや。 答曰。所除の名号はこれ弘願なり。弘願を除く外の四種とのたまふ時の四種とは且くその文句につくの判言にして、義は必ず開列段の如く五行ならざるをえざるなり。故に『選択集』三輩章に「観経疏中挙げ五種助行助成念仏一行」とのたまふ且つ高祖其の義を迷失なからしめんが為に『二卷鈔』に「上来六種兼行故曰雑修復名助業」と決判したまふなり。 問曰。しかればこれまた若し一行を修するときは雑修の名をえざるや。 答曰。上雑行に同じからずといへどもまた雑修の名をうる一類あり謂く称名をむねと往生行に備ふといへども、又もて之を現世の祈請に備ふ機あり。若し往生行と修するときは現世行にあらず。若し現世行と修するときは往生行にあらず。行は必ず心によりて転ず心よりして自ら二行【現当】並修の義を成ずる故にこれを『和讃』に「仏号むねと修するとも、現世をいのる行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中无一ときらはるゝ」とのたまふ。此れは是部類雑修なり【雑行も亦然り】。 問曰。上雑行に同じからずとは何の意なりや。 答曰。疎遠親近の異あればなり。彼れは偏に往生行として現世に亘らざれども、義両辺に跨る故に上の如く然り、雑修の如きは専ら往生行。故に若し現世をいのる機にあらざれば雑修の名を得ざるなり。此の則『化土巻』に雑行に異て専修専心の一を判出したまふ所以なり。 問曰。雑行雑修其の事格別なり。然るに其名言同一に似たり。云何が別目を成ずるや。 答曰。『化土巻』に云く「その言一つにして、その意これ異なり」。『和讃』に云く「こゝろはひとつにあらねども、雑行雑修これにたり」。しかればその名言について区別すべからず。其の法義区別あるに随てその名言を区別す。是れ高祖の一例なり。すなわち「即便往生」を分けて二往生の別目とし、また獲得の二字を分けて因位果位と分別したまふ等の如く爾り。 問曰。上来の如くなるときの雑行雑修はこれ甚だ難解の法なり。然るに愚夫愚婦そのこゝろえありてこれをふりすつるや。 答曰。否な。尼入道のたぐい、争うがこれを弁んや。爾るに雑行雑修をもて、その所捨を示すのつねとしたまへるものは、此れは是りの疑惑の物躰なればなり。疑惑はすなはち妄計なり。妄計とは即ち機のはからひにして、たのむだに由てと思うも疑はしたに由てと思うも、こゝろえたに由てと思うもみなはからひなれば自力なり。然れば今雑行雑修自力のこゝろをふりすてゝといふは、機のはからひをふりすてゝといふ代へ詞なるものなり。是れ即ちなにのやうもなく、なにのわずらひもなくと常言したまへる教意をよく了得したる相なり。 問曰。ふりすてゝとは、云何。 答曰。『勧章』に、すてゝ、なけすてゝ、ふりすてゝ等とのたまひ『選択集』に廃捨閣抛傍等とのたまふ。是等はみな自力をすつる異名にして其の言に緩急あるに似たりといへども、其の意は同一にして異あることなく、すてゝ顧りみざるの謂なり。喩へば腐敗の南蛮瓜を堀にすてたるがごとし。聊か懸念なきすがたなり。 問曰。捨帰は異時とせんや同時とせんや。 答曰。明闇同座すべからざれば、同時なり。明闇の際間隙あるには非ず。闇去るときは即ち是れ明なり。然りといへども闇去て明来るにあらず。明来闇自からひらくなり。喩へば日光輪の力に由て世冥裂去するが如く、弘願他力の明力に由らば、やすく痴闇の迷妄を開んや。爾るに今、捨帰次第するものは機の趣入よりするの説筆次第なり。 問曰。帰他力の細科いかん。 答曰。「一心に」とは、遅疑なきの信心を標し、已下はその信相を口述す。信相の中「阿弥陀如来」より「候へ」までは所信。「たのみまふして候」とは能信なり。 問曰。一心の言遅疑なきの義とはいかん。 答曰。一心の言出るや論主【北天】にあり。雁門【曇鸞大師】これを釈して「我一心者天親菩薩自督之詞【三字を我に摂す】念無碍光如来願生安楽国【三字を心に摂す】心々相続无他想間雑【三字を一に摂す】」とのたまふ。爰に知ぬ、下は二三に反対するの言にして、二三の他想間雜なければ无疑の義なり。故に『銘文』に「一心といふは教主世尊のみことをふたこゝろなく疑ひなしとなり」とのたまへり。 問曰。阿弥陀如来等を何なれば能所信と分別するや。 答曰。この言、ただに能信相を口述するの語なれば、繁を好むに似たりといへども、且くこれを六字に配釈するときは、「阿弥陀如来」乃至「たすけ候へ」とは、阿弥陀仏の四字のこゝろなり。「たのみまふして候ふ」とは南無の二字のこゝろなり。故にこれを且く能所信と分別するなり。 問曰。その能所信の義相云何。 答曰。阿弥陀仏を信ずる外に別に能信相なきときは、一体無二の能所信なるものなり。釈文これ多しといへども、その一文を挙げれば『勧章』三帖第七通に云く「しかれば南無の二字は、衆生の阿弥陀仏【所信】を信ずる【能信】機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」。この文を拝閲するに、たすけたまへる阿弥陀仏を信ずる能信なれば、たすけたまへると領承する外別相あるべからず。しかればたすけたまへる阿弥陀仏所信の外に南無の能信【たすけたまへる】なく。たすけたまへる南無能信の外に阿弥陀仏の所信【たすけたまへる】なく。能所信ただたすけたまへるの一義にして別義あることなければ、このゆへに機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこゝろなりと結成したまふなり。 問曰。能所信と分別するとき、我等か今度の一大事の後生といへるも所信の法体と云うべきや。 答曰。我等はこれ所化の機なり。いづくんぞ直にこれを所信の法体といわんや。然りといえども、所信の法体我等衆生を摂して成じたまう故に統収して所信と判ず。これすなはち機実にして信機、所信のことなりと知るべし。 問曰。今度の一大事の後生とは云何。 答曰。今度とは、毎度の墮獄に簡んで順次を標す。後生とは往生極楽なり。一大事とは、往生ほどの重大事件二三の例なきが故に一大事という。所謂る『勧章』に「今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり」とのたまへるの教授をよく了承したるの相なり。 問曰。たのみとは如何なる義ぞや。 答曰。これもっとも至要なり。法主殿の苦慮、この言の異解にあり疎にすべからず。上能所信の義相のごとく、たすけたまへると領承する。これその義相なり。然るに世人、或はいふ祈願請求の義、又云う許可の義。又云う頼母敷義。又云う、すがるおもひ【とりつくような機情を云う】。又いうなり、向くおもひ。又云う、あて力にするこゝろ。又云う、五承けもうすばかり。又云う疑ひはるゝばかり。等今委曲することをえず。如斯の所見はみな闇推なれば妄義なり。今更に其の旨を弁明するに、能所信分別・因益料簡との左右あるべし。若し能所信分別に約するときは摂取はこれ本、信心はこれ末なり。仏智より信心を開出すればなり。若し因益料簡に約するときは、信心はこれ本、摂取はこれ末なり。信心の行者を摂取したまへばなり。如斯本末転変するものは、これ必ず分隔の法義にあらず、一体の義別にして一念位中法義自然の左右なるものなり。しかるに妄計多端にして止まざるものは恐らく因益料簡の一辺を守て能所信本末の旨に闇きが致すところなり。剰さへ世上こぞりて、たのめたすける勅命ゆへにと云てたのむ思いで機情に認む。これもと能所信の義別を料簡せざるものなり。しかれば知ぬ、今このたのみ申すとは御たすけ候へると【所信】たのみ申す【能信】といふのこゝろなり。 問曰。信とたのむとは同なりや異なりや。 答曰。信にたのむ【万葉集・古説云々】まかするの訓あるときは、ただこれ和漢の言別にして義別なし。何となれば『勧章』に南無の二字を釈したまへるに一処には信ずる機と云い、一処にはたのむ機とのたまう。是れ同一なればなり。又五帖第六通初めに、一念に弥陀をたのみたてまつるといふて、次に選択本願信ずればと『和讃』を証して云々。是れまた同一の証なり枚挙に遑あらず。 問曰。申してとは云何。 答曰。凡そ申すには多義あり。或は標示義【南無阿弥陀仏と申すは等】。或は領承義【聴聞申す等】。或は口陳義【念仏申す等】。或は致義【参詣申す等】等なり。今たのみ申すとは勅命領承のたのみを押さえたる言なれば、即ち領承義なり。下報謝の中の申すは称名を押さえたる言なれば口陳義なり。法度の下の申すは、もうすべしと已後の定約を述べる言なれば遵守いたすべきの義。爾れば致義なり。「て」とは而の字の意にして、事究竟を指す。すなはち一念をもって往生治定の時尅とさだめての「て」と同意にして信因行報の畔を裁断するの言なり。 問曰。たのむ一念等とはその義云何。 答曰。たのむより、治定とぞんじ迄は、結前生後の語なり。已下正しく行意を述するなり。初め結前生後とは、上のたのみの安心をたのむ等と承けて業成の義を示し唯信正因の旨を結成し、もて下の報謝の行意を生起するなり。 問曰。一念とは如何なる義ぞや。 答曰。一念とは、通途をいはゞ『論註』に所簡の一念を示して「百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念と為す。此の中に念と云ふは此の時節を取らず」等と、今この一念は即ち本願成就の一念にして『信巻』末に約信体、約時尅の二釈を施したまう。約信体とは「信心無二心故曰一念、是名一心」等と。約時尅とは、「顕信楽開発時尅之極促、彰広大難思慶心也」等と。しかるに今は文に既に一念のときと云々。このときは正しく極促時【仮時】事究竟の一念なり。これを信行一多の宗致をよく領承したる相たなり。 問曰。往生一定とは、云何。 答曰。成就文の即得往生の義にして、摂取不捨の妙益、平生業成の義なり。往生とは、捨此往彼をいう。すなわち成就文の即得往生にして、是れ当益の言なり。一定とは信の当処を指す。すなはち成就文の即の字のこゝろなり。信一念の端的、当果決定するをいふ。是れ現益なり。すなはち成就文の得往生、当益の言に即の字を冠らしめて即得往生とのたまふこゝろなり。御たすけ治定といへるも義別意なし。 問曰。一定と治定と共に同一なるときは、何ぞ重複するや。 答曰。『勧章』に「いかよううにたのみ、いかように信ずべき」等とのたまへる語例にして別意あることなし。爾りといへども其の名言につくときは左右なきにあらず。往生一定は所期に望の言、御たすけ治定は摂取の法体に望むるの言、所謂る所望不同なるものなり。 問曰。この上の称名等は云何。 答曰。上は安心を述べ、已下は報謝を口述す。このとは上安心を指し、うへとは報謝の今を指す。信因決得已後にはというこゝろなり。これすなはち『勧章』に信心発得已後の念仏をは、自身往生の業とはおもふべからず、たゞひとへに仏恩報謝のためとこゝろへらるへきものなり、の趣きをよく領承したる相たなり。 問曰。称名報恩の教授、何れを承けたまへるや。 答曰。正しくその文につかば、『信巻』に云う知恩報徳の益。『行巻』に云う「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」是れなり。其の源をいへば、第十八願に乃至十念と誓いたまへるものこれなり。其の意何となれば、第十八願はすなはち三信願体にして、第十七願の摂取衆生の仏智を全領する。是れ三信にして仏智満入するときは往因こゝに満足す。三信独り来果【若不生者】に向かう。爾れば十念の如きは有って益あるにあらず、無くて不足あるにあらず、その有无に関せざるときは、非因報恩たること顕然なり。故に『銘文』三十一に云く「乃至十念と申すは如来の誓いの名号を称へんことをすゝめたまふにT数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらさんと思し召して、乃至のみことを十念のみなにそへて誓いたまふるなりと示したまへるなり」文 問曰。称名何故に報恩たるや。 答曰。恩を知って徳を報ずるは世間にあれ、出世間にあれ、一切善法の通軌なり。此の故に弥陀願王予め之を発願施与したまへる処なり。そのこゝろ云何となれば、一念の端的に業事成弁し、往因究竟するときは、其の恩を報ぜんとするに知らず、何をか用いん。故に此を信心に具して報恩を備ふべしと施与したまう。故に信益としておのづから称へらるゝものなり。『勧章』に「うれしさありがたさよと思ひて」とのたまひ、また御礼のこゝろなりとのたまへるもの、此のこゝろなり。是れ則ち報謝の方言に備えたまへるが致すところなり。爾れば世間にかたじけなし、又、有り難しなどいう代言なりと知るべし。 問曰。礼誦等みなもて報恩たるべし。云何ぞたゞ称名を以てするや。 答曰。礼誦等においては、機に随て堪不堪あり、称名は此れ易行の至極にして、行住坐臥をえらばず、愚夫愚婦の此を修するに同斉をう。是の故に本願もとめの劣機を本としたまる故に此を正所誓としたまふものなり。問曰。この御ことはり以下云何なるこゝろなりや。答曰。安心報謝の上に竟りて、今は師徳を口述す。この御ことはりとは、信心正因称名報恩のことはりなり。聴聞申しわけとは、則ちその旨を領承したるこゝろなり。開山とは、中興師初めて此の称をなす。云く、大谷一流を開闢したまへるに名く。聖人とは、聖は正なり、通なり。能く邪正を分別し事理通達に名く。我祖の高独宏博識、余師に超出したまへるを仰いで、且く聖者に比するものなり。云く外相は凡夫なりといえども、内性は即ち大聖の化現なるが故に仰いで聖人というなり。恩は恩惠恩寵なり。勧化とは、勧は勧進勅諭なり。化は開化変化なり。ありがたしとは、報謝の方言なり。口述するの行相は即ち称名なり。 問曰。浅からざるとは云何。 答曰。浅からざるとは、其の行事に付くの言はなり。開山に付くときは、関東北国等の御苦労の行事を指す。相承に付くときは都鄙の別なく飛車したまへる。即ち今日の行事、恩恵を疎そかにすべからず。又其の法義に付くときは、願海の正旨、七祖の正轍を伝承したまひて、異解はために深せられず、流れをして滞りなからしめたまふ。是れ深重の恩致なり。若しこの恩恵無んは吾斉、今度の往生いかでか期あらん。沈没をいかんせん。 問曰。開山出世の恩と、相承勧化の恩と其の恩体において差別ありや。 答曰。既に文に、この御ことわり聴聞もうしわけ候ことゝ、その事を述ぶ。異あることなし。同一勧化の恩なり。しかりといえども義において本末を成す。開山の恩は本なり。相承の恩は末なり。本無くんばいづくんぞ末あらんや。末無くんばまた、いずくんぞ本源を尋ねんや。すなはち本末相成して今日の伝灯は開闢の然らしめんときは、末恩すなはち本恩に帰し、また末恩なきときは、いかでか本恩を尋ねんと。論ずるときは本恩すなはち末恩に帰す。是故に『和讃』に云く「善導源信すゝむとも、本師源空ひろめずは、片州濁世のともからは、いかてか真宗をさとらまし」と。また『真要鈔』に云く「釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし」等。然れば今日はよろしく本恩を末恩に摂して、もてその洪恩を報ずべきなり。 問曰。このうえは等已下は、云何なるこゝろなりや。 答曰。已下は第四節、法度を守るべきを述ぶ。このうえとは、上師徳の恩体を受けたる言なり。所謂「不因釈迦仏開悟弥陀名願何時聞」とのたまへるの意にして、今善知識の開悟により、弥陀の本願を聞き摂取不捨のことはりを胸におさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生まれがたきを一定と期すること更に私の計らひにあらずとのたまへる如く、偏に善知識の洪恩なるうへは、いかでか師の仰せを犯さんといふこゝろなれば、露命のあらん程は、必ず守るべしと誓約するの誠言なり。然るに今時の道俗まゝこの方言を守るの容貌を露し、之を仏祖前にして口述しながら心口各異す。同座に堪えず。 問曰。さだめおかせらるゝ御掟とは、云何。 答曰。掟において、真諦につき俗諦につき、各六条あり。    真諦六条とは 第一、在々所々において当流にさらに沙汰せざるめづらしき法門を讃嘆し、おなじく宗義になきおもしろき名目なんどをつかふ人これおほし。もつてのほかの僻案なり。自今以後かたく停止すべきものなり。 第二、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。このゆゑに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。これまた自行化他の道理にかなへりとおもふべきものなり。 第三、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。 第四、近年仏法の棟梁たる坊主達、わが信心はきはめて不足にて、結句門徒同朋は信心は決定するあひだ、坊主の信心不足のよしを申せば、もつてのほか腹立せしむる条、言語道断の次第なり。以後においては、師弟ともに一味の安心に住すべき事。 第五、そもそも、当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して、決定せしむるひとこれあらば、その信心のとほりをもつて心底にをさめおきて、他宗・他人に対して沙汰すべからず。また路次・大道われわれの在所なんどにても、あらはに人をもはばからずこれを讃嘆すべからず。 第六、仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず。また外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべきよしを、ねんごろに仰せ定めおかれし。  但し、前四は別誡僧侶、後二は通誡僧侶  俗諦六条とは、 第一、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賎せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。 第二、つぎには守護・地頭方にむきても、われは信心をえたりといひて疎略の儀なく、いよいよ公事をまつたくすべし。 第三、神社をかろしむることあるべからず。 第四、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。 第五、諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。 第六、坊主分の人、ちかごろはことのほか重杯のよし、そのきこえあり。言語道断しかるべからざる次第なり。あながちに酒を飲む人を停止せよといふにはあらず。仏法につけ門徒につけ、重杯なれば、かならずややもすれば酔狂のみ出来せしむるあひだ、しかるべからず。  但し、前五は通誡僧俗、後一は別誡僧侶 已上