これは鮮妙の遺弟の鈴木啓基師が筆写したものです。 恐らく出版されていないと思われます。 私はこれを底本に勉強し始めた頃に『正信偈ノート』を作ったのですが、 手書きなので打ち直すのに暇がかゝりますのでノートから直接この講録にリンクしました。 正信偈摘解 利井 鮮妙 師 述  おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。  その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。  ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上)を披きたるにのたまわく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠君の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまず啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。  謹で此の正信偈を伺ふに、略して三門分別す。一に製造の由致、二に題目を解釋し、三に入文解釋なり。 一、製造の由致  製造の由致とは、是に二有り。  一、爲報謝廣大佛恩故 ・・・ 通造由  二、爲顯示一家宗要故 ・・・ 別造由  此の二由共に『行巻』(五十丁)偈前由序の文によりて建つ。文に曰く、「凡そ誓願に就て眞實の行信有り〈乃至〉佛恩深遠なるを信知して正信念佛偈を作て曰く」と。此の文初に宗要を示し後に報恩を明す。初に一家の宗要とは、淨土法中五願六法あり。皆是れ要なりと雖も、就中行信二法を以て其の極要とす。教は能詮を以て要とすべし。又所詮の中、行信は是れ因、證は是れ行信所得の果、佛土は證入の處なれば、因をうれば果自ら尅するが故に因の行信を以て最要とす。故に前の文に六法を列ぬと雖も行信二法に局て願名を指し具に標釋結の三段を設けたまふもの此れなり。而して之を題に承けて『正信念佛』と云ふ。此の偈の綱要行信にあるが故なり。之の一家の宗要たる行信二法を顯示せしめんが爲に此の偈を造りたまふものなるが故に別造由と云ふ。  次に廣大の佛恩を報ぜん爲の故にとは、偈前由序の文「是を以て知恩報徳の爲に」等已下の文なり。此の一由は今家の通造由にして高祖一代漢語和語の諸聖教は皆佛恩報謝の外なし。是他なし信一念の當體往生の正因滿足して毫も因に擬すべきなし。信後の行事すべて報恩の思いより外あることなし。爾れば一切の造書皆報恩の爲ならざるなし。故に今家の通造由とす。但し此の通造由即別造由となるの義あり。其の理由は今家に於て一切の造書皆報恩の爲なれども、今は『正信偈』製作の報恩にして他の和讃等の製書報恩に對すれば通由即別由となる。 二、題目を解釋す  初に離釋、後に合釋。  初に離釋とは、「正信」と「念佛」と「偈」となり。  一に「正信」とは、正は正直にして邪傍に簡ぶ。信は是れ信順にして无疑を義とす。謂く、自力邪念を捨て正直に佛勅に信順するが故に正信と云ふ。『大經』下(三十四丁)に「當に信順して法の如く修行すべし」と説き、『散善義』(十二丁)に「今二尊之意に信順して水火二河を顧みず」と云へるは是れなり。二に念佛とは通じて論ずれば、法體・心念・口稱の三に通ず。一に法體即ち所聞の名號に約せば念は南无にして佛は即ち阿彌陀佛なり。乃ち六字名號を指して念佛と云ふ。和讃に「眞宗念佛きゝえつゝ」とのたまふが如き是なり。二に心念とするとは、念佛の念は心念にして佛とは所念の法、即ち佛を心ずるの因となる。『御一代聞書』末(十九丁)には「聖人の御一流には彌陀をたのむが念佛なり」とのたまふが如き是なり。三に口稱に約する時は、念は稱念、佛とは南无阿彌陀佛、即ち口に南无阿彌陀佛を稱することなり。『御文章』の處々に「念佛すべきものなり」とのたまへるが如き是なり。是の如く念佛に三義ある中、今は何れなりやと云ふに、今は第三の口稱念佛の義をとるなり。何を以て知るやといふに曰く、正信(信)念佛(行)と信行次第の法相なるが故に。凡そ今家行信の扱いに二途あり。一には行前信後、二には信前行後なり。その行前信後は法體廻施の次第にして十七十八所行能信の義なり。其の信前行後は行者の受行に約す。能信能行の次第なり。今図示せば左の如し。 行信次第 ┬ 行 ─ 第十七願 ─ 我名号 ─ 所行 ┬ 法体迴施に約す └ 信 ─ 第十八願 ─ 三信 ── 能信 ┘ 信行次第 ┬ 信 ─ 第十八願 ─ 三信 ── 能信 ┬ 衆生の機受に約す └ 行 ─ 第十七願 ─ 十念 ── 能行 ┘  今偈の念佛は信行次第の故に能行にして即ち報恩の稱名なり。  三に偈とは具に偈陀、譯して頌と云ふ。偈に二あり。一に通偈、之は長行と偈頌とを問はず凡て三十二字を一偈とするを云ふ。二に別偈、之は四言五言六言七言等、皆四句を以て一偈とするを云ふ。此の別偈の中亦二あり。一には重頌、之は長行に重ねて偈説するもの『易行品』の如し。二に孤起、之は長行に關せずして偈説するもの『二門偈』の如し。今此の『正信偈』は別偈にして、上來『行巻』の所明を結し行中攝信を顯はしたものとするときは重頌とするが至當なり。然し『略本典』(偈前より見て五願六法を明したものが今偈とすれば孤起となる。此のときは偈前は正信偈の序分と見る)とすれば孤起となる。後に合釋せば、正信に依る念佛【一重の依主釋】。亦正信念佛による偈【二重の依主釋】。共に依主を以て釋するなり。 三、入文解釈 歸命無量壽如來 南无不可思議光  此の二句は惣じて綱領を標す。題に「正信念佛」とあるが故に偈全部は唯信往生を顯はすを以て綱領とす。之の題に應しで南无歸命の安心を擧げ、以下五十九行百十八句は皆此の源旨を拡充するものなり。【此の義は南无歸命に力を入れて解するものなり。之の南无歸命は高祖の能信にして、高祖の能信を標するところ一切の能信を標す。】所依は初句は『玄義分』(四丁左)の釋名門に言ふ「南无阿彌陀佛者又是西國正音〈乃至〉故言歸命無量壽覺」とある是なり。覺を如來に換ゆるは七言の句を調へんが爲なり。次の句は『讃阿彌陀佛偈』(十七丁左)の語をとる。  文を解さば、歸命南无は能歸の安心、無量壽不可思議は所歸の體なり。  問。其の所歸の體とは名號なりや佛體なりや。  答。名【南无】義【光壽】相應の名號なり。何となれば『六要鈔』二末(二十四丁左)に、歸命以下の二句は「先づ壽命・光明の尊號を擧て歸命の體と爲す」と已に名號と釋したまふが故に。  問。何れに依て光壽の體徳を義として名號を顯はしたまふや。  答。『小經』に彼佛を何故に阿彌陀と名くるや、光明無量壽命無量の故に阿彌陀と名く【取意】。とあるに依る。之に依るに光壽二無量は阿彌陀の名義なるが故に、義に就て光壽二無量を擧げたまふなり。  無量壽とは彌陀の壽命の三時を超越して生滅なきを云ふ。即ち不生不滅涅槃平等の妙果をさす。如來とは、如【眞如平等】より來生するが故に如來と云ふ。『證巻』(一丁左)に從如來生等と釋するもの是なり。不可思議光とは、十二光中の難思光の意にして、衆生をして往生成佛せしむるは因人の思議すべき所にあらざれば不可思議光と名く。而して十二光は光々互融するが故に難思光の一を擧げて餘の十一光を攝する意なり。  問。光々互融すれば无稱光を擧ぐるも可なるべし。何ぞ不可思議光を出すや。  答。無量壽の體に對して光明の用を顯はす處大なる故不可思議光を出す。不可思議の言葉を顯はすに最も親しきが故に和讃に「无ェ光佛のひかりには、清淨歡喜智慧光、その徳不可思議にして、十方諸有を利益せり」とのたまふ。徳とは徳用の義なり。知るべし。(徳を徳用と解するものは、利益せりとあるが故に歡喜智慧光の利益する用を不可思議とのたまふものなるが故なり)  問。彌陀の佛徳無量なり。何が故に光壽の二徳を擧ぐるや。  答。一に大悲の本源なるが故に『正像末和讃』に「超世无上に攝取し、選擇五劫思惟して」等とのたまふ。爾れば阿彌陀佛衆生にかはりて五兆の願行を修成したまふ大悲の根本は、衆生をして我と同じく光壽二無量の佛果を得せしめんが爲なるが故に。二に横竪普益の故に。光明は横に十方に遍し、壽命は竪に三世を貫く。十方三世の利益普きが故に殊に光壽二徳を出したまふ。  問。光壽二無量の徳は一切諸佛皆同じ、何ぞ彌陀の別徳とするや。  答。彌陀の光明には无所障ェの徳あり。壽命には及其人民の徳あり。諸佛は自ら光壽二無量を證すれども、衆生をして光壽二無量を證らしむること能はず。彌陀は生佛平等に證りたまふが故に別徳とす。  問。願文【十二・十三】、『小經』名義段、『和讃』【「光明壽命の誓願を」】等には、光壽次第す。今壽光次第するもの云何。  答。光壽の次第は衆生攝化に約す。衆生を攝化するには光明を以てし壽命無量の體に契はしむるが故に。壽光次第は讃嘆に約す。光壽命の體を讃じて次にその用【光明】を讃む。『大經』に「是故無量壽佛號無量光佛」と、是なり。今は讃嘆の次第による。歸命南无とは梵漢の異にして倶に能歸の信なり。  問。梵漢並擧したまへる所以云何。  答。南无には「救我度我」の義と歸命との二義ありと雖も、今は「救我度我」の義を存せず。唯歸命の一義なることを顯はさんが爲なり。而して歸命とは信順の義にして決して祈願祈求の義に非ず。歸は歸順、命は勅命にして之に三種あり。一に約法、『行巻』(二十五丁右)「歸命は本願招喚の勅命也」と、この時は命に歸せよと讀む。二に約機、『寶章』に歸命を和訓して「たすけたまへ」とあるもの是なり。この時は、命に歸するとよむ。  問。此の「たすけたまへ」とは、祈願の義にあらずや。  答。爾らず。「たすけたまへ」とは、たすくるの佛勅に向けて、たまへと信順するこゝろなり。故に『御裁斷御書』には「たすけたまへとは、たゞこれ勅命に信順するこゝろなり」とのたまふ。祈願請求の義にあらず。三に機法合釋、『銘文』(四十四丁)に「歸命はすなはち釋迦彌陀二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふとまうすこゝろなり」とあり。勅命にしたがひとは約法、めしにかなふとは約機なり。 法藏菩薩因位時 在世自在王佛所  已下八句は因徳を示す中、今の二句は發願の時處を示す。初句は時、後句は處なり。所依は『大經』に「時に國王有り、佛の説法を聞きて、心に悦豫を懷き、尋ち無上正眞道の意を發し、國を棄て王を捐て、行じて沙門と作り、號して法藏と曰ふ。高才勇哲にして、世與超異せり。世自在王如來の所に詣りて、佛足を稽首し、右繞三Yし、長跪合掌す」の文なり。  ○法藏とは、梵に曇摩迦留と云ふ。此に翻じて、法寶藏【『平等覺經』】とも作法【『莊嚴經』】とも、法處【『如來會』】とも、法積【『大論』】とも、法藏【『大經』】とも云ふ。今正依の『大經』に依りて釋名すれば、二あり。一に法とは、久遠實成の證をさす。藏とは隠覆の義、即ち久遠實成の彌陀の内證を隠し從果降因の菩薩の相を示すが故に法藏と云ふ。二に法とは十方衆生往生の法、藏とは舎藏の義、衆生濟度の因果を菩薩の心中に舎藏するが故に法藏と云ふ。  ○菩薩とは、梵語にして具には菩提薩Z(『註』上三丁)と云ふ。菩提を翻じて道と云ふ。薩Zを翻じて衆生と云ふ。即ち佛道を求むる衆生と云ふことなり。  ○因位時とは、正覺の果に對すれば發願修行皆是れ因位なりと雖も、今は別して初發心の時をさす。  問。法藏菩薩發心の時の階位云何。  答。法藏は從果降因の菩薩なれば、通相の地位を以て論ずべきものに非ず。爾れども一應配属すれば、地上の菩薩にして八地發心なるべし。何となれば『論註』の指南によるに『註』上(十一丁右)に「序(はじめ)は法藏菩薩世自在王佛の所にして无生法忍を悟りたまへり、爾の時の位を聖種性と名く」とのたまふ。此の正種性は『本業瓔絡經』の六種性に對するに十地の菩薩の位に當る。爾れば地上の菩薩なること明なり。又无生忍を『仁王經』の五忍に配すれば、七八九地に當る。而してこの七八九地は、入【七地】住【八地】出【九地】にして、无生忍の忍は忍住の義なれば八地の菩薩とすべし。因に『瓔絡經』の六種性、『仁王經』の五忍を示さば左の如し。    『瓔絡經』の六種性       『仁王經』の五忍   一、習種性 ……… 十住    一、伏忍 ……… 十住・十行・十廻向   二、性種性 ……… 十行    二、信忍 ……… 一・二・三地   三、道種性 ……… 十廻向  三、順忍 ……… 四・五・六地   四、聖種性 ……… 十地    四、無生忍 …… 七・八・九地   五、等覺性 ……… 等覺    五、寂忍 ……… 十地・佛果   六、妙覺性 ……… 佛果  問。阿彌陀佛因位時と云はずして、法藏菩薩因位時と云ふもの云何。  答。彌陀は數々成道するが故に、因位亦無量なり。故に餘時に簡んで法藏の時の因位なることを示す。  ○世自在王佛とは、梵に樓夷且羅と云ふ。樓夷は、世間の義。且羅は、自在の義故に、『如來會』には世間自在王と云ひ、正依の『大經』には、世自在王と云ふ。之の釋名に二あり。一に自利に約す。一切法に於て自在を得たまへるが故に。二に利他に約す。世間の利益自在无ェの故に世自在王と云ふ。 都見諸佛淨土因 國土人天之善惡  此の二句は法藏支佛の所に在て選擇の境を見たまふことを明す。所依は『大經』の「是に於て世自在王佛、即ち爲に廣く二百一十億の諸佛刹土の天人之善惡、國土之]妙を説き、其の心願に應じて悉く現じて之を與へたまふ。時に比丘、佛の所説を聞き、嚴淨の國土、皆悉く覩見し」とある文なり。  ○覩見とは、覩は眼見にして、見は心見なり。『大經』に「其の面像を覩る」【第三十一願及び第四十願にあり。之は眼見なり】と云ひ、「慧眼眞を見て」(T・二九)【之れは心見なり】と云ふもの是なり。但し尅實すれば覩と見と共に心眼兩見に通じて別義なし。○諸佛淨土因とは、二義あり。一に佛淨土を建立するの因、二に衆生が佛の淨土に往生するの因。今二義共に此の一句に含蓄す。  問。經文に此の二義ありや。  答。經文直ちに見れば第一義を以て至當とす。何となれば衆生の言なきが故に【是一】。又莊嚴佛國に組合うの清淨行なるが故に【是二】。爾れば衆生が佛の淨土に往生するの因【第二義】の義絶へてなきやと云ふに、然らず。第十八願より照らして之れをみれば、莊嚴佛國の行そのまゝが衆生往生の行となる。何となれば、第十八願は機法一體實相即爲物にして佛の正覺即衆生往生行なれば、佛の莊嚴佛國は徒設とならん。爾らば佛の莊嚴佛國即衆生往生なること知るべし。  問。その往生の因法を攝取する相云何。  答。『選擇集』上(本願章)によるに、もろもろの行法の中より『經』稱佛號の一行を攝取したまふなり。  ○國土とは、依報【依報とは正報の所止する果報なるが故に】にして器世間【非情】なり。○人天とは、正報【其の果報を受用する主なるが故に佛菩薩のことを正報と云ふ。正とは其の果報を正しく受用する主たる義を顯はす】にして、衆生世間【有情】なり。之れ諸佛國土の依正の果なり。○善惡とは、好惡に同じ。諸佛の淨土は三賢【十住・十行・十廻向】十聖【十地】住果報唯佛一人居淨土(『仁王經』)の故に、その衆生各々自の別果に居するが故に善惡]妙ありて平等ならず。恰かも一水四見【魚は住居と見、餓鬼は火と見、人は水と見、天人は瑠璃と見る】の如し。爾るに今諸佛淨土と云ふのは且く化主に從て云ふのみ。實は淨穢雜居なり。是を以て法藏菩薩諸佛淨土の不平等の因果を選び捨て、平等の因果を攝取し、一切善惡の衆生をして平等一味の果海に證入せしめん爲に无上殊勝の願を超發したまふ。 建立无上殊勝願 超發希有大弘誓  此の二句は選擇の本願を立てたまふことを明す。所依は『大經』(T・七)「無上殊勝之願を超發す」と、『同』上(T・一四)「斯の弘誓を發し、此の願を建て已りて」の文及び『如來會』(T・一九四)の「廣く是の如きの大弘誓願を發しき。皆已に成就したまへり。世間に希有にして是の願を發し已に實の如く安住す」の文是なり。  ○建立とは、創立なり【十方淨土に對して彌陀佛獨り立つる所の淨土なるが故に】。○无上とは、以て加ふるものなきが故に、即ちこの上なきこと。○殊勝とは、殊特最勝の義、願とは本願なり。○超發とは、三世諸佛の本願に超絶するものを云ふ。○希有とは、空前絶後なり。○大弘誓とは、大は梵に摩訶と云ふ。是に大・多・勝の三義あり。大とは法界を盡して善惡の機を救濟するが故に。又法性に契ふて發願するが故に。多とは、利益無量の故に。勝とは、超世の本願なるが故に。弘誓とは廣弘誓願の義。普く十方一切の攝化するの本願なるが故に弘誓と云ふ。  問。二百一十億の諸佛土中より、選取するもの何が故に超發无上と云ふや。  答。諸佛淨土中の美妙を取ると雖も、其の土體を移し、或は行體を取るに非ず。唯彼が法則に準じて法藏心中所欲の願を建立す。喩へば雅なる銀瓶の形をとりて金瓶を作るが如し。形より云へば則ると雖も體より云へば超過せること論なし。  問。其の超發无上の相云何。  答。諸佛の美妙尚是れ自力なり。彌陀の本願は全他力なり。又彼の美妙は惡凡夫の爲にせず。彌陀の本願を惡機とし惡凡を以て聞信の當體佛因滿足せしむ。豈同日の論ならんや。  問。今无上希有の願とは、何れの願なりや。  答。廣につかば、四十八願、中につけば眞實五願。略に就かば第十八願なり。  問。『經』には、大願大行を説く。今大願のみを上ぐるもの如何。  答。行は願によりて轉ずるが故に願を出して行を略す。行は牛車の如し、馭物の如し。行には通別なし。今別願を上げて他力別途の行を顯はす。 五劫思惟之攝受  此の一句は上の大願は一朝にして之を起すに非ず、五劫を逕歴して發せしことを明す。所依は『大經』「五劫を具足して、莊嚴佛國の清淨之行を思惟し攝取せり」(T・七)の文なり。  ○五劫とは、五は數なり。劫は梵に劫簸と云ふ。此の劫に磐石劫と芥子劫との二あり。磐石劫とは、之れに大中小の別あり。小劫とは、六丁一里の四十里四方の石を三年に一度天人降りて羽衣を以て其の石を拂ひ盡したる時を一小劫と云ふ。其の羽衣の重量は三銖【三銖とは、一文錢の四分の三の重みなり】。中劫は八十里四方の石、大劫は百二十里四方の石にして、其の方法前と同じ。次に芥子劫とは、之に亦大中小の別あり。小劫とは六丁一里の四十里四方の藏の中に芥子を充滿し、一年に一粒づゝ取り出し、其の盡きたる時を一小劫と云ふ。中劫大劫磐石劫に准じて知るべし。此の事『大論』に出づ。近く『安樂集』上(T・四〇七)に引用したまふなり。  問。其の大中小劫の中、今は何れなりや。  答。小劫に當る。何となれば『正信偈大意』には、四十里の喩を擧げたまふが故に、亦淨土門に於ては劫と云へば常に小劫を用ひたまふ故に。『大阿彌陀經』には、十劫の劫を小劫と説けり。  ○思惟とは、思は思想思案なり。惟は忖也、計ると云ふこと。此の如く、思案に五劫を要するは之れこの大願は一朝に之を發するに非ず、五劫を逕歴して諸佛國土の善惡]妙を思惟分別して、選擇攝取したまひし法藏比丘の大悲深重を顯はす。  問。發願後の五劫思惟なりや、五劫の後の發願なりや。  答。思惟之攝受とある。之とは本願をさす。爾れば五劫具足して无上殊勝の願を建立したまふなり。  問。經文の上は發願の後の五劫思惟に似たり、如何。  答。爾らず。彼の超發无上殊勝の願とは略説。其の相を次に廣く説きたまふものにして、五劫に思惟して後に此の願を起したまふ。  問。皆悉く覩見し超發无上殊勝之願と云ふ。爾れば覩見も五劫の間なりや。  答。爾らず。覩見の上の五劫思惟なり。初め師佛の所に於て覩見し、佛所を退けて五劫に思惟し攝取して後、彼の佛所に説て己が所願を述べたまふものなればなり。之の事宋譯『莊嚴經』に出づ。  ○之とは上の超發无上の願をさす。而して此の言中間にありて前後に貫く。之の本願を思惟し之の願を攝取すると云ふことなり。故に『略典』には、思惟攝取經五劫とのたまふ。○攝受とは、此の語『如來會』による。正依の『大經』には、攝取とも云ひ、『平等覺經』『大阿彌陀經』には選擇と云ふ。此の三名の同異如何と云ふに。『選擇集』に「選擇と攝取と其の言異りと雖も其の意是同じ」(T・九四二)なりと。爾れば其の言異なれども其の意旨全同なり。而して攝受とは、所縁の境を己れに領するの義なれば攝取と同なり。  問。思惟と攝受と同別如何。  答。思惟は初に約し、攝受は終につく。思惟の極攝受なるが故に。  問。佛の自在智にして猶五劫の長日月を要する所以如何。  答。悲智相即の故に五劫とす。曰く無量劫の思惟を五劫と縮むるは智門にして、其の儘が悲門なり。そのゆへは佛の无ェ智によれば一念にて足ぬべし。爾るに五劫を要するは發願の容易ならざることを顯す悲門なり。又悲門よりみれば無量、衆生にかわりても盡きず、無量无邊の衆生に代るが故に。爾るに五劫とするは佛の智門なり。此の義は五劫を實數として實に五劫を要したまへるものとして伺うものなり(但し五劫の思惟全く無用なるべし。佛陀は全能のものなればなりと云ふに至りては、一切衆生の思惟すべきを佛代りて思惟したまふものなれば無用に非ずと答ふべし)。 重誓名聲聞十方  此の一句は發願の要を顯はす。所依は『大經』「我至成佛道」等の文に依る。  ○重誓とは、四十八願の中に十七願に於て諸佛諮嗟を誓ふと雖も、願後に重ねて偈を以て誓を述べたまふ故に重誓と云ふ。  問。十七願の重誓とは何を以て知るや。  答。高祖『行巻』一丁に十七願文に次で、此の文を引証したまふが故に。  問。經文直ちに十七願の重誓なることを云何か知るや。  答。重誓に三誓ありと雖も、第三誓に歸す。第一誓、上所發の願々世に超へふ成就せんことを誓ふ。而して之を成就して何をか爲す。其相を詳にせしが第二誓にして諸願成就せば、大施主となりて諸の貧窮を救はんと誓ふ。而して云何にして施して之を救ふやを詳にしたが第三誓にして、名聲普聞、即ち是なり。爾れば此の三誓、終に第三に歸す。此の第三の名聲普聞したるや、第十七願の外なければ十七願重誓たるや明なり。  問。何の必要ありて重誓したまふや。  答。十七願は是れ攝化の根源なるが故に、若し此の諮嗟なくんば衆生何によりてか本願を信ぜん。名聲十方に至るが故に能く三世の衆生をして聞信せしむることを得る故に、諸願の中別して第十七願を 摘て重ねて誓ふ所以なり。  ○名聲とは、名は是れ名号、之れを名聲と云ふものは、名号即ち彌陀の口業功徳なるが故なり。【利$耳根#故、以$音聲法#】○聞十方とは、十方は第十八願の十方にして、十方衆生にきこえしむると云ふこと。聞こへた方は即ち十八願の機なり。今は衆生の聞信即彌陀の口業功徳によるが故に、本に約して聞十方【十七願位】と云ふなり。 普放无量无邊光 无ェ无對光炎王 清淨歡喜智慧光 不斷難思无稱光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照  彌陀攝化の相无量无邊なれども、光號の二法を擧ぐる時は、餘は皆攝盡す。故に今の六句に光明の徳を明し次の本願名號等の四句に名號の徳を賛ず。『禮讃』四丁左の別序に「以光明名號攝化十方」等と云へるは是なり。所依は『大經』上二十三丁「是故無量壽佛、號無量光佛」等の文なり。  問。五願【十一・十二・十三・十七・十八】成就の皃ならば、壽命を擧ぐべきに之を略するもの云何。  答。光明の扱ひに二あり。一に壽命と合するときは大悲の本源となる。『和讃』に「光明壽命の誓願の/大悲の本としたまへり」とのたまふもの是なり。佛衆生に代りて五兆の願行を修成したまふ大悲の本源は、衆生をして我と同じく光壽二無量の佛果を得せしむるにあるが故に、二に名號と組み合わす。これは攝化の本源となる。『禮讃』に「以光明名號攝化十方」とあるは是なり。【攝化十方の當分より云へば、『行巻』三十八丁の光號因縁の初重に当たる光明の母と名號の父とによりて十方を攝化す。但使信心求念よりみれば后重になるなり】上の歸命無量壽如來、南無不可思議光は、光壽相對にして大悲の本源を顯はす。今は名號に組み合わして攝化の本源を顯はす。故に壽命を略す。十二の願に十三の願を攝する意なり。  此の十二光は十二因縁に対して十二光と云ふ。若し所對が八萬四千なるときは八萬四千の光明とす。之れは所被より能破に及ぼしたるなり。實は一光にても无明煩惱を断盡す。『小經』には三光【無量・無邊・無礙光】を以て衆生攝化したまふが如し。爾るに異譯には十三光【宋譯『莊嚴經』】と説く、或は十四光【唐譯『如來會』】と説くもの、此れ其の所破ありやと云ふに、之は譯者の意樂なり。而も正依は十二光にして之も譯者の意樂なれども、八萬四千の所破より能破に及ぶ例をとりて且く十二因縁に十二光を配したるものなり。一光々々が十二因縁の一々にあたるにあらず。    * 因みに十二因縁とは如左   一、 无明 ┬ 過去の因 ─┬ 无明煩悩ありて   二、 行 ─┘      └ 業を働く   三、 識 ─┐ ┌ 子種をやどし意識初て生ず   四、 名色 ┤      ├ その一念には形なり、名を以て示すべきもの   五、 六処 ┼ 現在の五果 ┼ 六根具足して母胎を出づる位   六、 觸 ─┤      ├ 生じて二三才までは感覚なり寒暖を知らずして火をとり水をとり物に触れんとする時なり   七、 受 ─┘      └ うくとは四五才より饅頭は甘し之を取る火は熱し水は冷たしと手を出さず   八、 愛 ─┐ ┌ 愛情多しと雖も根本愛は色情愛なり男子は十五六才より女子は十三才位より   九、 取 ─┼ 現在の三因 ┼ 三十才より已後愛欲愈々盛んにして東奔西走し四方に取求するを云う   十、 有 ─┘ └ 愛取の煩悩によりて種々の業を作る位なり之の業により未来三塗の果を有するが故に有と云う   十一、生 ─┬ 未来の二果 ┬ 未来世に於て母胎に托生す   十二、老死 ┘       └ 托生已後老いて死す  ○普放とは、普は普遍の義にして照塵刹の句に応ず。一切の徳光放たざるなきが故に普放と云ふ。時處を隔てざるが故に普照と云ふ。○無量・無邊等の十二光の分齊を示せば之に五雙十隻あり。 如左   一に体用一双   体=無量・無邊の二光            用=余の十光   二に惣別一双   惣=無量・無邊の二光            別=余の十光   三に横竪一双   横=無邊光            竪=無量・不斷の二光  四に悲智一双   悲=无ェ・无對・光炎王・清淨・歡喜等の八光             智=無量・无稱・智慧・難思等   五に比直一双   直=余の十一光             比=超日月光  ○無量光とは、三世に徹して限量なきを云ふ。○無邊光とは、十方を照らして邊際なきが故に。○无ェ光とは、彌陀の光明は内【貪瞋癡慢等】外【山河大地雲霧煙霞等】二障にさへられず衆生を濟度するが故に。○无對光とは、无比對と无敵對との二義あり。无比對の故に諸佛光明所不能及なり。无敵對の故に三垢を消滅するなり。○炎王光とは、諸佛に望めて超絶を顯す。炎とは、火焔の盛なるが如く光明熾盛なることを顯はす。諸佛中の王なることを表す。今炎王光【光るものゝ中の王たる光明、直ちに光明を顯はす】を光炎王【光るもの(一切に通ず)の中の王、喩へなる王に力あり】と云うものは、王の字を下にをきて諸佛中の王たる義を顯はすに最も力あるが故なり。○清淨光とは、无貪の善より起るが故に。○歡喜光とは、无瞋の善より起るが故に。○難思光とは、一毫未断の凡夫をして往生せしむることは因人の難思すべき所に非ざるが故に。○无稱光とは、衆生をして念仏せしむることを、言説を以て稱譽し得べからざるが故に。○超日月光と、淺近の機に応じて淺近の喩に比して勝ぐるゝことを顯はす。其の日月に超過する相を示さば、壱に常恒間断の異、二に有辺无辺の異、三に有ェ无ェの異、四に内外照不の異等なり。○塵刹とは、微塵刹なり。刹は梵に刹摩と云ふ。此に國土と云ふ。所照の國數多なるを以て塵刹と云ふ。○一切群生蒙光照とは、照益を述す。此句の所依は『大經』上二十三丁「若在三途勤苦之処見此光明皆得休息」及び「遇斯光者三垢消滅」なり。初の三惡道に蒙むることを明し、次の文は惣じて六道に蒙むることを明す。  問。人天すら光明を見ること能はず、爾るに所依の文には三途の衆生、この益を蒙ると云ふもの云何。  答。一云眼見にして機縁熟すれば此益ありと、又『六要』には『心地觀經』を引いて追善力によると云々。『六要』は准他の釈なり。  問。三途の衆生にして此光明を見るものは无垢解脱(往生成佛)なりや、有垢解脱(三途の苦を逃れて人天に生る)なりや。  答。經文多含の故に二義あるべし。『宝章』二帖目十一通に、「五重の義成就せずば往生はかなふへからすとみえたり」と。五重の義成就することは人天に局る、此れ正別よりみれば有垢解脱と云ふべし。又、乘急戒緩【天台に乘急戒急、乘緩戒緩、乘急戒緩、乘緩戒急の四句分別を立て、乘とは出世法にして佛法のこと、戒とは世間法五戒十戒の人天の戒なり。急は純熟】の機あるより云へば无垢解脱と云ふべし。高祖『眞佛土巻』五十六丁に『大經』の文を引き『涅槃經』の眞解脱の文を引証したまふものは、无垢解脱なり。(但し此の『眞佛土巻』の文は无垢解脱に違ひなけれども、壽終之後に二義存すべし。三途より直ちに成佛すると、一度人天へ生じて成佛するとの二義あり、一義に偏ずべからず) 本願名號正定業 至心信樂願爲因  此二句は往生の因を明す。初句は十七願所聞の名號を顯はし、以て次の句に對す。後句は能聞の信心を明す。所依は初句は『散善義』八丁「一心專念彌陀名號乃至是名正定之業」にして、後句は第十八願なり。本願とは、本を因本の義とすれば四十八願をさす。阿彌陀佛の果徳に對するが故に又根本の義とすれば十八願をさす。第十八願は、根本願なるが故に今は根本の義にして第十八願を指す。何となれば『銘文』五十九丁に之の句を稱して「本願名號正定業と云ふは、選択本願の行なり」とのたまふ。選択本願とは第十八願の別目なるが故に。『信巻』二丁左「斯大願名選択本願」というもの是なり。【又高祖が本願とのたまふは常に十八願をさすが故に、本願力にあひぬれば等又前所引の信巻の如き爾りなり】  問。『正信偈大意』には「本願名號正定業といふは、第十七願のこゝろなり」とのたまふもの、如何。  答。『正信偈大意』の釋は、唯是れ一句の位置を定むるが故に第十七願のこゝろとのたまふ。本願の言を別釋するには非ず。  問。十七願の名號を明すに何ぞ十八願を冠らしむるものは、云何。  答。第十七願の名號は法體孤然たる名號に非ず。常に十八願中に至り届いてある名號なることを示す。喩へば月東山に出でゝ、影を吉水に宿すが如く、第十八機中に入りて三信十念と活動しつゝある名號なり。而も此名號は法體所行なり。行信次第の故なればなり。  ○正定業とは、之を解するに三あり。一には正選定之業、之は選択の當分に就て南無阿彌陀佛を報土の業と定めたまふ意なり。此時は正定の二字法體に屬す。『漢語灯』大経釋に「正定者法藏菩薩於$二百一十億諸佛誓願海中#選$定念佛往生願#故云定也」と。『銘文』四十五丁「即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なり」とのたまうも此意なり。二に正決定の業、之れは信心に約す。『一多証文』十八丁「弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづく」とのたまふ。『執持鈔』十一丁「名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり」と。此等の文によるに、佛選択したまへる名號を聞信するとき正しく報土の業因を決定する義なり。三入正定聚後之作業。之れは正定聚の位に入り終わって後、報恩の稱名相續するを云ふ。『正信偈』に「憶念彌陀佛本願、自然即時入必定【正定聚の位に入る】唯能常稱如來號、應報大悲弘誓恩【その後の作業】」とのたまふもの此意なり。  問。三義中今は何れをとるや。  答。第一義をとる。次の至心信樂の句に望むるに第十七願法體を顯はす処なるが故に法體名號即ち佛選定の業因なりと顯はすこゝろなり。  ○至心信樂願爲因とは、  問。元祖は念佛往生の願【『選択集』上十六丁本願章】と云ふ。高祖何が故に至心信樂の願と名けたまふや。  答。元祖は一願建立にして行々相対、故に乃至十念の稱名を以て願名を立つ。高祖は五願開示にして唯信往生の義を立てたまふが故に、正しく願體たる三信を以て願名とす。此の如く教格且く左右あるが故に願名異なり。  問。本願には三信十念あり今何が故に三信に就て願名を上げたまふや。  答。一には信心宗本を顯さんが爲の故に。二には五願開示の法門なるが故に、十八願中には十念稱名なし。  問。爾れば三信を出して願名とすべし。何が故に欲生の二字を略したまふや。  答。三一無碍の義を顯さんが爲の故に、欲生の二字を省きたまふ。三とは至心・信樂・欲生なり。一とは信樂なり。欲生を略する意は至心も略する意なり(是一の義)。至心を出す処、欲生も出す意あり(是三の義)。之を以て三一無碍の義を顯はす。  問。爾らば至心を略するも三一無碍の義を顯はるべし、云何。  答。爾り、爾れども略すると云ふときは下を略するが至当なり。上を略すると云ふことなし。故に上の至心を略せず下の欲生を略するなり。文に云ふべし無窮の難なりと。  ○願爲因とは、能誓の願名を以て所誓の真因を顯はす。即ち、至心信樂の願に誓いてある【能誓の願名を以て】至心信樂を因とする【所誓の真因を顯す】ということなり。  問。何が故に能誓を以て所誓を顯はすや。  答。他力廻向の信なるが故に此信は衆生の構造にあらず、佛の願心より成ずるものにして、佛の願心そのまゝが衆生往生の因となる【『信巻』別序に獲得信樂發起自如來選擇願心とのたまふもの、このこゝろなり】。能所誓不二なりと顯はす意なり。  ○因とは、因種の義なり。  問。爾れば上の業も業因なれば、二因となるに非ずや。  答。前は法體に約し、今は機受に約す。『和讃』に「安樂佛國にいたるには、無上寶珠の名號と、眞實信心ひとつにて」とのたまふもの是の意なり。 成等覺證大涅槃 必至滅度願成就  此二句は往生の證果を明す。初句は機の得益を顯はし、後句は佛の願力を示す。所依は、初句は『如來會』に「若我成佛國中有情若不決定成等正覺證大涅槃者不取菩提」の文にして、後句は正依の『大經』十一願是なり。  ○初句の成等覺とは、現益にして證大涅槃とは當益なり。○等覺とは、具に等正覺なり。所依たる『如來會』の願文に、「成等正覺」といふが故に。而して之の等正覺に新旧の兩譯ありて、新には菩薩の位とし、旧には佛の位とす。今は『如來會』の願文によるが故に等正覺の事にして菩薩の位ととす。等正覺とは隣極の位をさす。正依の『大經』に正定聚と云ふは、是れ當果決定を顯はす名なり。若し通途によれば、等覺正定其高下大に異なれども、今家の所談不爾。一念獲得即得往生の故に、横に諸位を超過し、横に大利を滿足す。故に或は當果決定をとり、或は心多歡喜をとり或は極果に隣なる義を取るを正定聚とも歡喜地とも等正覺、便同彌勒とも云ふ。皆是れ現益一位の異名にして、難思の法徳を顯はすものなり。  問。十一願文には、國中人天不住定聚と説く。爾れば正定聚は生後所得の益なるに非ずや。  答。不爾。現生の益なり。之に理あり文あり。理とは信一念の當體に大利無上の功徳を具足し、佛因既に此土に圓滿し終わる。爾る中は此土正定聚【正定聚は佛因圓滿を顯はしたる因として解す】らして當來開覺は滅度なること明かなり。文とは臺四十七願には明に現益を誓い、『觀經』には應時即得無生法忍と説き、『小經』経末には現得不退を的示す。御相承に於いては枚挙に遑あらず。  問。爾らば經文に國中人天とあるもの云何にするや。  答。『玄義分』五丁に、「二者聖衆莊嚴、即現在彼衆、及十方法界同生者是」なりとのたまふ。聞信一念佛因滿足して正定聚に住するものは、彼土の聖衆莊嚴の攝なれば、國中人天とのたまへども、此土正定なること明なり。  問。若し所弁の如くならば願文國中人天の句一二に止まらず、是れ皆此土に約して解するや。若し爾りと云はゞ此土の行者悉皆金色となるや。又無有好醜神通自在なるや、如何。  答。願文にある一切の國中人天皆爾りと云ふに非ず。今は現生正定聚の法義より解するものにして願文の当分にあらず、可知。上來所弁の如く正定聚は此土の密益にして佛因圓滿を顯すものなれば、若し四法に配屬せば信に屬すべし。滅度は證果に配すべし。  ○大涅槃とは、大は漢、涅槃は梵なり。梵に具に摩訶般涅槃那と云ふ。爰に大滅度と翻ず。大患ながく滅して四流【生老病死】を超土するを云ふ。○必至滅度願とは、十一願なり。此願滅度を以て願體とす。何となれば正定聚は餘願にも誓へり、即ち第四十七聞名不退の願【梵の阿毘跋致を翻じて不退轉とも正定聚とも云ふ】是なり。爾るに滅度は獨り十一願のみに誓うが故に滅度願體とせざるべからず。○願成就とは  問。光明の願成就、名號の願成就、何れも願成就なるに何が故に十一願のみに願成就と云ふや。  答。法藏菩薩五劫の大願も永劫の大行も光明名號の攝化も衆生を滅度に至らしめんが爲なり。爾れば衆生滅度に至るとき、本願不虚の義【終極の目的を達するが故に】を成ずるが故に十一願に殊に願成就とのたまふなり。   以上彌陀教終わる 如來所以興出世 唯説彌陀本願海  上來弥陀招喚の意を述す。已下將に釋迦発遣の意を明さんとし、先づ今の二句に出世の本懷を標す。所依は『大経』上六丁「如来以無蓋大悲〜恵以眞實之利」の文なり。○如来とは、釈尊なり。爾るに釈尊といはずして如来の通号を挙げたものは、一に融本の釋迦なることを顯はさんが爲の故に、釈尊『大経』を説きたまふとき、本仏弥陀の徳に融じたまふ。『経』に「今日世尊住奇特法」と五徳瑞現を説くもの是なり(弥陀の五徳なることは、阿難の問に対して恵以眞實之利と答えたまふが故に。眞實之利とは下に今爲汝説と大経に説くが故に)。若し釈尊と出せば釈尊に局りて融本の義が顯はれざるが故に如来の通号に用ゆ。二に弥陀法は釋迦一佛の本懷に非ず。十方三世の一切諸仏の本懷なることを顯はさんが爲の故に。『教巻』所引の『如来會』の文に「一切如来・應・正等覺及び大悲に安住して」とのたまひ『略書』十七丁に「三世のもろもろの如来、出世のまさしき本意、ただ阿弥陀の不可思議の願を説かんとなり」とは是の意なり。○所以興出世とは、この世に出でたまふ所以と云うことなり。○唯説とは、唯は簡持の義、聖道八万四千の法は出世の本意に非ずと簡び、弥陀の法は出世の本懷なりと持つなり。○本願とは、五願を全ふずる第十八願なり。海とは本願の深広なるに喩ふ。  問。高祖は今の二句に釋迦出世の本意弥陀の本願にありとのたまわれども、此の二句の所依たる『大経』の文を見るに「如来世に出興する所以は道教【聖道八万四千の法門のこと、『大経』三丁左序分に「普現道教」と云うが故に、この道教は八相作佛の道教なれば、聖道法なること明かなり】をも光闡し、眞實之利【弥陀の名号法なり、五徳安住の所問を答ふるが故に、而して次に、今爲汝説とて眞實之利を大経一部に説くが故に】をも説かんが為と云う意に非ずや。高祖何の見る所ありて「唯説弥陀本願」とのたまふや。  答。『大経』の文を熟視するに、欲の字、道教の下にありて上の所以とに組み合うが故に、世に興出して道教を光闡する所以は眞實之利を以て群萠を恵まんと欲するにありと云うことになる。喩へば富権者の所に出頭して、先づ猫をほめ而して後に金を借りることを願ふ。之は出頭する所以は猫をも賞め、金を借りるに非ず。出頭して猫をほむる所以は金を借んが爲なりと云うが如し。高祖此の意を得て、唯説弥陀本願海とのたまふものなり。  問。爾らば道教を出さずとも可なるべし、如何。  答。道教を出すもの、二由あり。一には簡非の爲の故に、今正信偈の唯説此の意なり。二に權方便の義を顯はさんが爲の故にる『口伝鈔』五十一丁「月まつまでの手つさみなり」とのたまふ。此意なり。  問。『法華経』に「爲大事因縁故出現於世」と云う。一佛の出世に両本懷は成ずべからず。何れを以て実の本懷とするや。  答。『六要』一、三十一丁右「一に教の権実に約す=二に機の利鈍に約す。『般舟讃』等と二義を以て分別したまふ。曰聖道中にありての出世本懷は、法華にあるべし。阿含・方等の二乘法華に至って成佛の記別を授くるが故に。是は法華の所談を上げんものにして、聖道教中の權實相望に約す。故に「是法華意」とのたまふ。(是れ第一約教權實義)爾るに若し聖淨惣じて機の利鈍に約するときは、法華も彌陀法の爲の權教となりて、出世の本意は独り彌陀法に歸するなり。何となれば佛の大悲は苦者にあり、『法華問答』末(三十一丁)に『涅槃經』を引いて、父母七子あり一子病にあえば、父母の心乃ち病苦の子にありとは、即ち是なり。爾るに法華は機に利鈍を立て利根は一念頓悟(即)鈍根の機は三祇無量劫(漸)を説くと談ず。爾れば今日の愚凡の能はざる所なり。已に爾れば機の利鈍に約して論ずれば、法華に漏るゝ機あり。既に漏るゝ機あるときは如何に法華が一乘を談じても理談となりて、終に權教となる。【彌陀法に対する權教となる】爾るに彌陀法は、法華の救う能はざる鈍根無智の機を救い利鈍兼濟なるが故に、実の本懷は彌陀法にあり。知るべし。 五濁悪時群生海 應信如來如實言  此二句は釈尊出世の本懷たる、彌陀法を信ずへしと勸發したまふことを明す。所依は、初句は語を『散善義』(七丁)「釈迦能於五濁悪時悪世界」等の文を取り、義は『大經』序分の「欲拯群萠」(六丁)にとる。次句は『如來會』の「應信我教如實言」に語をとり、『大經』下(三十四丁)の「三如是」の意を顯はす。○五濁とは、『小經』に説く「劫濁見濁煩惱濁衆生濁命濁」にして、濁は『倶舎』に滓(サイ)【けがれること】穢の義という。『和讃』に「二萬歳にいたりては、五濁悪世の名をゑたり」とのたまう。『瑜伽論』によるに、住劫絶滅の初め人壽八萬歳にして、それより百年に一つづゝ減じて遂に人壽十歳になるとあり。其の人壽二萬歳より五濁世というなり。劫濁とは、劫とは、具さに劫簸という。此に翻じて、分別時節という。而して時節には實悪なきが故に、劫濁には別體なし。故に『序分義』(三十七丁)にも「劫濁と言ふは、然るに劫は實に是濁に非ず、劫減ずる時に當りて、諸惡加増する也」とのたまふ。爾れば餘の四濁を有するの時なるが故に劫濁という。劫濁は五濁の惣にして、餘の四は別なり。見濁とは、『序分義』に「見濁と言ふは、自身の衆惡をば總じて變じて善と爲し、他の上の非無きをば見て是ならずと爲す也」とのたまふ如く、自己の惡を善と思い、人の善を見て惡と思うを云う。煩惱濁とは、『序分義』に「煩惱濁と言ふは、當今劫末の衆生、惡性にして親み難し。隨ひて六根に對するに、貪・瞋競ひ起る也」とのたまふ如く、三毒の煩惱の盛になりしを云う。衆生濁とは、『法華文句』に、五濁も亦別體なしとありて、劫濁も衆生濁も皆有情の果報の衰えたる相なり。爾れば五濁の中では見濁煩惱濁命濁の三が主たるものなり。衆生濁とは、衆生の惡なりしことにて『序分義』に「衆生濁と言ふは、劫若し初めて成るとき【人壽八萬歳】は、衆生純善なるも、劫若し末なる時は、衆生の十惡彌々盛也」とのたまふ如く、邪見及び煩惱の熾盛なるを云う。命濁とは、命の濁りしことにて、『序分義』に「命濁と言ふは、前の見・惱二濁に由て多く殺害を行じて、慈みて恩養すること無し。既に斷命之苦因を行じ、長年之果を受けんと欲ふも、何に由てか得べき也」とのたまふ如く、不衛生殺生等によりて定業を短促し、中夭の多き是れ命濁の有り様なり。中夭とは、中折れすることにて、當今の定命の五十一歳まで至らずして死すること。又各自の定業に至らずして死することなり。○惡時とは、五濁即悪時にして五濁の盛んなる時を悪時と云う。○群生とは、群は群類の義、數多の義を顯はす。衆生の數多なることを群生と云う。○海とは、衆生の無量なることを喩ふ。下に凡聖逆謗とは、これ其の相なり。○應信とは、信受すべきことを命ずるの言なり。○如來とは、釈尊なり。如來所以等の如來をうくるが故に。○如實言と、眞實語と云う、釈尊の眞實語を信ぜよとすゝめたふものなり。 能發一念喜愛心 不斷煩惱得涅槃  此二句は、上に釈尊の眞實語を信受すべきことを明すが故に、のを信受したる一念淨信の機の勝益を示す。所依は初句は『信巻』本(二十二丁)所引の『如来會』の「能く一念の淨信を發して歡喜せしめ」等の文、後句は『論註』下(八丁)の、不斷煩惱得涅槃分の文なり。○能發とは、能は不能に對し、發は發起なり。即ち生死罪濁の群生、何ぞ淨信を起すことを得ん。爾るに今能發するものは偏に他力によるなり。  ○一念とは  問。一念は信の一念なりや行の一念なりや。  答。今の句は所依たる『如来會』成就文には「一念淨信」と云い、正依の成就文には「信心歓喜乃至一念」とあるが故に信の一念なりと知るべし。  之の信の一念に就て高祖の上に二釋あり。  一に時尅に約す。『信巻』末(一丁)「一念者斯顯信樂開發時尅之極促」と。  二に信相に約す。『信巻』末(二丁)「言一念者信心无二心故曰一念是名一心一心則清淨報土眞因也」とのたまふは是なり。今は二義共に存す。時尅に約する中は此初起の一念は信心歓喜の極促の一念なることを顯はす。信相とみるときは、一念即信心【一念】歡喜【喜愛心】なることを顯はす。  ○喜愛心とは、歡喜のことで、惣じて歡喜を論ずるは初起後續に通ず。初起に約すとは、『信巻』末(一丁)「信樂有一念一念者斯顯信樂開發時尅極促彰廣大難思慶心也」と。『銘文』(二十丁)に「能発一念喜愛心といふは、能はよくといふ、発はおこすといふ、ひらくといふ、一念喜愛心は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし」と。此等の文は初起歡喜の證なり。後續に約すとは『寶章』(三の六)に「信心歓喜といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり」とのたまふ、是なり。今は二義の中『銘文』の御自釋によりて初起とす。初起の歡喜とは、信心のつやぶりにして、他力の信心は往生の大果を決定し、疑いなく大安堵したるの信なるが故に、无疑のところに歡喜の光澤あり。猶、玉に光澤あるが如く、花に香あるが如し。○不斷煩惱得涅槃とは、信の利益を顯はす。『銘文』(六十丁)に此句を釋して「煩惱具足せるわれら、无上大涅槃にいたるなりと知るべし」とのたまふ。爾れば此の一念喜愛の心は臨終一念の夕べまで煩惱を斷ぜさるものをして大涅槃を得せしむるなりと、此土不斷、彼土得涅槃の義を顯はしたもう。爾れば不斷煩惱は臨終までの有り様を顯はしたるものなり。  問。法斷機不斷を顯はすものに非ずや。  答。不斷煩惱を機相とし、法徳は斷と談ずる辺あれども、今は『銘文』の御自釋、明に當益に約するが故に、不斷煩惱は臨終までの有り様を云うたものなり。  問。『銘文』には、得涅槃の句を釋し彼土の證果としたまふ。『正信偈大意』(十二丁)に、この文を釋して「願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり」とのたまふ。これ此土の益とす。此義云何。  答。『大意』は全く『六要』のまゝを承く。『六要』二末に此文を釋して、分滿【分滿とは當り前は、分は一分にして正定、滿は滅度なり。爾るに『六要』は鸞師によりて分を彼土正定、滿を滅度とす】を立て「分は初生に約す、若し究竟に約せば宜く此の字を略すべし、或は又七言の字數を調へんが為に之を除に失無し」【分の字のあるこゝろ】と云う。而して『大意』は分の字ある意を以て今偈を解したもう。『寶章』五帖獲得章、又爾り。之れ正信偈當分に非ず。隨義轉用と云うべし。今は『銘文』の釋意によりて正しく当益とす。 凡聖逆謗齊回入 如衆水入海一味  此二句は五乘齊入を喩に付いて顯はす。五乘とは人天聲聞等なり【因に五乘齊入と萬機普益と同じなり。爾るに萬機普益は此法界を盡す。五乘齊入は地獄餓鬼畜生修羅をもらす。如何が同とするやと云うに、五乘齊入とは善人は善人ながら、惡人は惡人ながら救濟すると云うことにして、善もほしからず悪もおそれなしと云う義を顯はす故に、餓鬼畜生等まで入るゝなり。爾しッ飛蠕動の類まで入るゝなり。爾るに五乘とえらぶは五重の義の成就するは人天已上にあるが故に五乘と簡ぶ。】。  問。此二句は現益とするや、當益とするや。  答。『銘文』(六十丁)及び『大意』(十二丁)は現益とし、『六要』二末(二十六丁)は現益に通じて釋す。今は『銘文』の御自釋によりて現益とす。『六要』は別義を開顯せんもの。『正信偈』の當分に非ず【『御一代聞書』末(十三丁)「名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり、これが名誉なりと仰せられ候ふなり」文の意による】。上の得涅槃の句に應ずるという辺より云うは海一味とは證入一味を示して當益の義もあるべしと云うに既に『銘文』御自釋に現益としたまへば、上の能發の句に應じて歸入一味を顯はしたもの。得涅槃の句に應じたるものに非ず。所依は『安樂集』上(一丁)「位上下を該ね凡聖通じて往くことを顯す」『法事讃』上(七丁)「謗法闡提回心皆往」『玄義分』(二十一丁)「佛願に託するに由て以て強縁と作りて【佛の本願を以て殊勝の因縁とする我等往生成佛の殊勝なる因縁にすぐるなし】五乘をして齊しく入らしむることを致す」の文によりて初の句を成じ、次句は『論註』下(十四丁)「願往生者本則三々之品、今一二之殊亦如溜ヌ一味焉可思議」の文是なり。  ○凡とは、凡夫人天なり。逆謗とあるが故に(凡も義は六道に通ずれども【六凡四聖の如し】言葉の上は正しく人天なり)○聖とは、聖者にして聲聞菩薩なり。○逆は五逆なり。此五逆に三乘通じる五逆と大乘の五逆とあり。『信巻』末(四十三丁)に之の二種を出す。今は三乘通説の五逆なり。謗法を別出するが故に「一者故思殺父、二者故思殺母、三者故思殺羅漢、四者倒見破和合僧、五者悪心出佛身血」これなり。○謗とは、謗法なり。『論註』上(三十三丁)「無佛無佛法無菩薩無菩薩法如是等見【乃至】皆名誹謗正法」とのたまふもの是なり。而して逆謗は凡夫中の咎の重きを擧げ、以て惡機爲本の本願たることを示す。○齊とは、凡聖逆謗一機も漏れず平等に助くるが故に。而して齊に付いて、齊上齊下齊等の三義あり。齊上とは、信の利益を顯はす。獲信のものは一切皆正定聚の菩薩の益を得るが故に齊上となり、齊下とは趣入に約す。彌陀の報土に往生するには、上善の人もことぐく下惡に同じて彌陀の願海に入り、毫も自己の功をからざるを云う。故に弥勒も展轉五道憂畏勤苦と下劣に同じて願力によりたまふ。「大名もかゞんではいる蚊帳の中」とは、蓋し是の意なり。齊等とは、機地に約す。機地には人天聲聞縁覚菩薩の差別あれども、悉く彌陀法に乘ずることを得るなり。喩へば萬川には清濁あれども共に大海に入るが如し【齊等の時は一味なるが如しと迄云うべからず。如一味は齊上齊下の義となる。齊等とは只機地に約して、いかなる機をも彌陀法に乘ずることを明すものなり。其の乘ずる相に付いて齊上齊下の別あるものなり】。今は三義共にあるべし【上下は如一味よりみる】。○廻入とは、廻は回轉、入は歸入。自利各別の心を回轉して、本願海に歸入するを云う。○如衆水入海一味とは、上の句を喩顯す。衆水とは凡聖逆謗の諸機差別に喩ふ。海一味とは齊廻入を喩ふるなり。 攝取心光常照護  已下八句は現生の密益を明す。中に於いて今の一句は、心光攝護の益を明す。所依は『観念法門』(十二丁)「但有專念阿彌陀佛衆生彼佛心光常照其人照護不捨」等の文なり。○攝取とは、おさめとりてすてざるの義。○心光とは、彌陀の光明に色光と心光との二あり。之に付いて或人は(島地黙雷)、色光は色の故に燦然たるものなれども、心光は佛の内心を形容したものなりと云々。若し此説の如くなれば、我亦在彼攝取【攝取心光なり】中煩惱障眼雖不見等の文解すべからず。攝取の心光は見ゆるものなれども、今煩惱に障られて見えずと云う意なるときは心光も亦燦然たるものなるや明なり【是一】。又心光を形容なりとせば、彌陀の光明は仮説となる、豈夫爾らんや【是二】。  今曰く、色光とは、彌陀の色身【三十二相】より放ちたまふ光明を云い、心光とは此佛の色の光明が佛の大慈大悲の心の其の侭の顯れなるが故に、又心光と云う。故に二あるに非ず、一の光を身の方より談ずると、心の方より談ずるとの異のみ、知るべし。而して佛にありては色心不二の故に色光の當體即ち心光なり。但し機に於いては佛心に契當するとせざるとの不同あるが故に色光のみを蒙りて心光を蒙らざるものあり。之を詳かにせば四句分別あり。如左。  一に色心共見……秋天の如し……(目のあいた子が親の心身をも知る如し)  二に色心共不見…造悪未信の機…(盲目の子の他人のおやに於けるが如し、親の身心を見ず)  三に心見色不見…獲信の凡夫……(盲目の子の實親に於けるが如し、親の心は知れども顔を知らず)  四、心不見色見…要門の機………(目のある子が他人の親に於けるが如し、顔は知れども親心は知らず)  ○常照護とは、常に照らし護りたまふこと。機の方は忘れ勝ちなるも佛忘れたまはざるが故に常と云う。攝取と常照護とは、且く差別すれば、攝取は能發一念の初起、照護は信後相續(常の字あるが故に)の差別あれども、攝取も亦初後に通ずるが故に同じなり。  問。常照護は何れなりや。  答。衆生の内外二障を除いて、信心をして退轉せざらしめんが爲なり(内とは、貪瞋煩惱。外は雜縁なり) 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆眞實信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇  此三句は心光に照護せられてをるに、煩惱あるは云何という伏難を通ずるものなり。所依は確かならざれども、日月烟塵雲霧の喩、元は『涅槃經』に出たり。高祖取りて二河譬の文に合わせ水火の喩を『涅槃經』の喩と交換とたまひしものならん。蓋し是れ無明闇の句に應じて換えたまふものなるべし。○已にとは、信の一念をさす。○能とは、光明が能く衆生の無明闇を破するを云うなり。○雖もの字、已能の上にあるが常途の文法、爾るに今已能の下におく。世人之をみて親鸞文法を知らずなどゝ罵言を弄するものあり、如何と云うに曰く。成上起下の義を顯はさんが爲に雖の字を下に置く。決して文法を知らざるに非ず。已能の二字雖の上におき、以て上を成ず。如何が成ず、曰く、光の照護して已に能く無明の闇を破すと雖もと貪愛瞋憎の雲霧常に眞實信心の天を覆ふと云う意なり。故に雖の字を中間におく。無明とは煩惱のことなり。何となれば、一に今家に於て疑惑をさして無明と談じたまふことなきが故に。二に『論註』下(三丁)には一切と云うが故に。○闇とは、喩を以て疑惑を上ぐ、故に次下に雲霧の下明にして闇なきが如しと云う。而して此無明闇とは、法喩顯密互顯す。無明よりおせば、一度は一切煩惱を闇に喩ふ意【闇とは喩にして疑惑と局るべからず。『和讃』に無明の闇を破するゆへとのたもうて、無明にも喩ふ】。又闇を疑惑とするときは、無明の所に疑惑を★顯す、故に無明闇の句には顯密相含と云うべし。○爾れば破に亦二途あり。無明煩惱の方は密破なり。故に次に常覆眞實信心天と云う。疑惑の闇の方は顯破にして信後に絶えてなし。故に次に雲霧之下明無闇と云う。  問。無明の闇を能く破すと云う。既に信一念の當體佛力によりて無明煩惱を斷盡すれば、信後に煩惱起らざるべし、云何。  答。之れ法滅機存にして、佛徳の方よりは煩惱を斷じたまへども、密益にして機相は一毫未斷なり。故に機上には迷界に居る闇は煩惱依然として存す。之を機存と云う。喩へば天子が下賎の娘を寵愛して、太子を孕む。表面は賎婦なれども胎内に宿れる太子より云えば、国王の母の徳を有するが如し。機相より云えば一毫未斷の凡夫なれども、信心の太子より云えば正定聚の菩薩の徳あり。故に『寶章』(信心獲得章)に「無始以來つくりとつくる惡業煩惱をのこるところもなく願力不思議をもて消滅するいはれあるが故に、正定聚不退のくらゐに住すとなり、これによりて煩惱を斷ぜずして涅槃をうといへるこゝろなり」とのたまふ。知るべし。  ○貪愛瞋憎とは、是れ法、雲霧は譬に約す。蓋し雲霧には隱覆障隔の用あるが故に取りて貪瞋煩惱の信心を隱覆するに喩ふ。貪瞋と云へば事足るに愛憎の二字を加ふるものは、貪は愛欲によりて起り、瞋は憎恚を性とすることを顯はす。  問。三毒中、何ぞ愚癡を略するや。  答。善導の二河譬亦之を略す。之愚癡は貪瞋の根本なるが故に貪瞋を上げる所愚癡は之の中に攝す。  ○常とは常住不斷の義、初起より臨終まで隱覆するが故に常覆と云う。○信心天とは、信心を天に喩へ天には必ず日光あり信心(機)には必ず攝取の光明(法)あり(機法無碍を顯はす、機より云えば信體、法より云えば攝取の光明、その體一なり)之のときは信體の所談にして此信廣大周偏法界此心長遠盡未來際」(『信巻』末八丁)と云はるゝ大信心を無明煩惱の雲霧之を覆ひかくすことを顯はす。疑惑の闇は聞信一念に斷絶して往生一定と晴るれども、煩惱の雲霧盡一夜常に在て、信前信後に渡り斷へざるが故に常覆と云う。○譬如等の二句は信心の相續を喩顯す。上には貪瞋の隱覆を明し、今は覆うと雖も未信以前と異なりて、起こる煩惱の其の下から疑信なく、信心相續することを示す。雲霧之下とは、下は上天に對す。○明無闇とは、曇天なりと雖も昏夜の如くならず。能く黒白を弁きまへるを云う。謂く他力回向の信體は貪瞋の爲に隱覆せらると雖も、未信以前と事變り往生の一道を弁まへざる如きことなし。貪瞋煩惱中に於て決定往生の無疑の信相明朗なり。故に明無闇と云う。  問。日光は何に喩ふるや。  答。日光は言葉は攝取光明よりと立つと雖も、其の意は信心を顯はすにあり。今の日光は天に在るの光明なりと云う意にして、光明を帯ぶるの信心なることを顯す。故に『銘文』(六十一丁)に之を釋して、信心の喩としたまふ。爾れば日光とは機【信體の天】法【攝取の光明】無碍の信體を顯はすものなり。 ┌──────┬────────┬───┬────────────┐ │ 信心の天 │ │ 貪瞋 │ 機相の往生一定と │ │ ○ │ 機法無碍の信體 │ の │ 疑闇断絶せし信相    │ │ 摂取の光明 │ │ 雲霧 │ を雲霧之下明無闇と云う │   └──────┴────────┴───┴────────────┘ 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣  此二句は能く一念淨信を起横截五惡趣の約あることを明す。所依は初句は『大經』「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばゞ」の文。次句は横截五惡趣、惡趣自然閉の文なり。  問。『經』に聞法と云う。今獲信と換えるもの云何。  答。聞法の本意獲信にあるが故に獲信とかえて聞即信の義を顯はす。  ○見敬とは、眼に佛像を見て尊重恭敬の心を生ずるを云う、後続とする意。○大慶喜とは、相續の歓喜にして此の喜び尋常に非ず。未來の大患を脱却し無上涅槃を要期するの歓喜なるが故に嘆じて大と云う。  問。見敬大慶喜を後続とは何を以て知るや。  答。『銘文』(六十一丁)の御自釋に「この信心をゑて【獲信】おほきによろこびうやまふひとゝ云うなり」とのたまへり、後続なること明なり。  問。『銘文』には見の字の釋なし、之れ初起とする意なりや、又後続とするの意なりや明らかならず、云何。  答。一義に云く、之の見は初起にして『安心決定鈔』末(三十六丁)「佛身をみるものは佛心をみたてまつる。佛心といふは大慈悲これなり」等と。爾らば佛心を見とゞけたものを見と云ふ。其の見とは、眼見より非意業に達したる如實の見なり。耳より非意業に達した處を聞と云ふが如し。見即聞にして一致なりと。又一義に見は後續にして身業禮拜のことゝす。即ち聞法は初起の安心なり。能業讃嘆なりと。二義中今は后義に從ふ。若し前義によりて野を談ずれば、佛體攝化に墮する畏れあり。高祖に於て攝化法は、十七願名號即『行巻』にして、聞其名號を以て定規とす。故に今は義の如く伺うを後續とす。但し意を得、當益とするが故に。今は現益とするが故に之を加ふ。獲信の當體、時を隔てず日を隔てず五悪趣を超截することを顯はす。  ○横超とは『銘文』(六十二丁)に「横はよこさまといふ、如来の願力なり、他力を申すなり、超はこえてといふ、生死の大海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり」とのたまふ。爾れば横は自力斷にあらざることを示し。超は漸次修斷にあらざることを明す。今獲信の一念、願力より五道の因果を超斷す。之を即横超截と云ふ。○五悪趣とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上のことなり。趣とは趣向の義、各自の業力に引かされて趣向して生ずる處なるが故に趣という。  此の後の一句は、上の句に望むるに、上に句は獲信の初歸と見敬大慶喜の後續とを擧げて、即と獲信の時をおさえて、信一念の利益を顯はしたまふなり。例せば『易行品』(九丁)に、念我稱名と初後を上げて、自歸即入必定と、入必定の益は念我の初起をおさへるが故に。 一切善惡凡夫人 聞信如來弘誓願 佛言廣大勝解者 是人名分陀利華  此四句は上來、釈迦の勸信を承けて、順教の人の益を明す。中初二句は順教【教を信順するということ】の人を擧げ、次の二句は其の益を示す。所依は初二句は『玄義分』(三丁)「一切善悪凡夫得生者……増上縁【佛の大願業力を以て我等の往生成佛の殊勝大因縁となすこと】」。次の一句は『如來會』「若し善男子・善女人等、彼の法の中に於て廣大に之を勝解する者は」の文なり。  ○一切善悪凡夫人とは、所被の機を擧ぐ。上に凡聖逆謗と云い、今はひとえに凡夫に約するもの、本爲凡夫なることを顯すなり【釈迦出興の所由に約す】。一切とは、普盡の言なり。善悪凡夫人とは、凡夫の中に善【上六品】あるが故に之を分類したまふ。○聞信とは、所依の文の乘の字にあたる。乘とは乘託、即ち信心なり。此の信聞の外になきが故に聞即信にして聞信と出したまふ。○如來弘誓願とは、上の本願名號のことなり。本願や名號、名號や本願【執持鈔】本願名號不二の故に。○佛言とは、大聖の眞言なり。正しくは釈尊にして兼ねては十方諸佛に通ず。故に『信巻』本(四丁)所引の『如来會』に重愛諸聖尊とのたまふ。○廣大とは、他力の信心廣大なるが故に廣大という。○勝解者とは、如來の信者を讃じたまふ言にして、獲信の行者は廣大殊勝なる法門を了解するの人なるが故に、勝解者と云う。○是人とは、上の句の廣大勝解者をさす。經文の若念佛者にして、獲信の者なり。○芬陀利華とは、此に白蓮華と云う。『散善義』(三十一丁)「若し能く相續して念佛する者、此の人甚だ希有なりと爲す、更に物として以て之を方(たくらぶ)べきこと無きことを明す。故に分陀利を引きて喩と爲す」とのたまふ。印度に於いては芬陀利華を以て花中の王とするが故に、之を以て念佛者の希有最勝なることを顯はす【白蓮華に希有と最勝と清淨の三意あり】。 彌陀佛本願念佛 邪見l慢悪衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯  此四句は本願を信受することの甚難を明す。之を明す所以は邪見l慢の機をして早く回心して超世の本願に歸せしめんと欲して、所依は『大經』のl慢と弊と懈怠難以信此法と、『如来會』の懈怠邪見下劣人不信如來斯正法の文と、『大經』流通の「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」の文となり。○彌陀等の一句は釋尊所詮の法體にして、上の本願名號のことなり。彌陀佛と云ふて諸行に簡び、本願念佛と云ふて二十願自力念佛に簡ぶ。而して第十七願能所不二の法體大行を顯はして念佛という。○邪見等の一句は難信の機類を擧ぐ。之の一句を解するに、一義に云く、邪見とl慢と悪衆生との三機なりと。又一義に二の機にしてl慢と邪見との二なり。而して悪衆生とは、惣にして斯二機を貶斥したるものなりと。今云く、一機なり。邪とは、邪正對【『二卷鈔』上九丁、自力他力の二機に就て邪正對を出す】にして如何なるものにても、弘誓法を信ぜざるものは邪なり。其の邪即l慢なり。l慢は无信機の故に即悪人なり。『二卷鈔』上(九丁)に善悪對を信じて弘願を信ぜざるものは悪人としたまふが故に。爾れば一機を所望によりて三名の異を成ずるものなり。  問。『正信偈大意』十四丁「彌陀佛本願念佛……无過斯」と云い、「弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものとl慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり」とのたまふ。之三機とするに似たり云何。  答。之三機とするに非ず。一機を三度よび出したもの、名相の上に就て且く相違の釋を設けたまふものなり。  問。所依の文にl慢等の次上に清淨有戒者の宿善あるものは教法を聞くことを得るとあれども、l慢等无宿善のものは教法を聞くこと能はずと、宿善无宿善を分別したものにして、自力他力に非ざるべし。  答。経文一往の義所問の如し、爾るに宿善の義も弘願に入らざれば无宿善に同じ、又『寶章』の所謂无宿善の機も无二の懺悔を起こせば弘願に入る(元來宿善は三世に渡るものなり。爾るに『寶章』の无宿善とは、宿善純熟の機なれども、悪因縁に値ふて今生に於て佛法に絶て因縁なきに似たる、佛法をそしり邪見放逸の日暮らしする機が入信することを云うなり。實に无宿善なれば、信ずることなし)。故に今は弘願再往の義より解して自他二力相対して、宿善に止まり弘願に入らざるものは、たとひ等覺の弥勒と雖も、邪l悪に入れて无宿善同様にとり扱うなり。【經文又自他二力相対まで及ぼしてをるなり】  ○信樂受持とは、源信愛樂の義。愛樂とは信心の光澤を云う。受持とは信心獲得と云はんが如し。○甚以難とは、略して難を示す。○難中之難无過斯とは、難易の言は元と機より成ずるものにして而も法迄及んで難易と云はるゝなり。之のときは難易二道の意にして難は、難劣の義なり。『二卷鈔』上(四丁)「一には難は疑情なり。二には易は信心なり(難劣易勝の義が難易二道の難と同じきなり)と云うもの是の意なり。又經末の難は五難ありて、前四難(一如來…二諸佛…三菩薩…四遇善知識…)は、聖道の値佛聞法の難、第五(若聞斯經等…)は、本願信樂の難と、難々相対にして弘願を難とするは、法の尊高を顯はしたるものなり。  『和讃』に「一代諸教……」等と云うもの此意なり。今偈の意は上の邪見l慢を自力疑信の機として伺へば『二卷鈔』と同じく、難易は機より成ず。而も等覺の菩薩迄邪見l慢の部類として因地にては發起すること能はざる難信の法とすれば、難を以て法の尊高を顯はすものと云うのも得たり。爰を以て自力にては發起すること能はずと、邪見l慢の非器を誡め早く自力を捨てよと示し他力を勸むるものなりと伺ふるゝなり。 已上依経段 印度西天之論家 中夏日域之高僧 顯大聖興世正意 明如來本誓應機  已下七祖の論釋に依て述る中、此の四句は惣じて七祖傳持の功を嘆ず。中に於て初二句は能傳の人を擧げ、後二句は傳持の功を嘆ず。  ○印度とは、舊に身毒と云ひ、新に印度と云ふ。此に月と翻ず。彼地月に千名ある中の隨一なり。西天とは支那の西にあるが故に。○論家とは、龍天の二論主を指す。論を造りて家をなすが故に論家と云ふ。○中夏とは、支那國人の自讃の詞なり。中は四方の夷國【東蠻・北狄・西戍・東夷】に對す。夏は大なり。即ち大禮を守る意なり。○日域とは、又は日本と云ふ意なり。○高僧とは、高貴の義、徳高くして貴敬すべきが故に。○僧とは、梵語にして具さに僧伽と云ふ。此に翻じて和合衆と云ふ。四人以上を僧と云ふ。然るに一人をも僧と名くることを得べし。『僧史略』に云く「凡そ四人已上を僧と名く、今一人亦僧と稱すは蓋し衆に從ひ之を名く也。亦萬有り二千五百人を軍と爲す、一人亦軍と稱す」と云々、知るべし。今の高僧は巒師以下の五祖を指す。○顯とは七祖の勲功を示す。○大聖とは、小聖菩薩已下に對す。智は法界を照し、慈は三千に布くが故に大聖と云ふ。○興世とは、釋迦出世を云ふ。○正意は、傍意に對す。猶し本意と云はんが如し。即ち釋迦出世の本意を顯開したまふなり。○明とは、顯明にして是文上祖の勲功を顯はす。○如來とは、彌陀を指す。○本誓とは、彌陀教中に擧ぐるところの眞實五願、略して第十八願。其の要は行信にあり。○應機とは、本願もと萬機普益と惡機爲本との二途あるが故に、若し興願の正意に約すれば、佛意下機を救濟するにある。若し願の所誓(誓いぶり)をよくみれば五乘齊入なり。○應は、相應にして函蓋相稱するが如く、藥の病に適するが如し。彌陀の本願能く時機に相應するが故に。  問。淨土を弘通したまふ祖師多し。何故に七祖のみを祖師としたまふや。  答。之に付いて陳善院僧樸師は三義を立てられたり。  一に自ら西方願生するが故に。  二に製作垂範の故に。  三に自ら本願力を呼稱するが故に。  之の三由具備せるを以て祖師と定めたまふなり。此の三義の中一義を缺くも淨土の祖師たらしむべからず。而して此の三義は顯大聖興世正意 明如來本誓應機の二句の中に含蓄す。即ち顯明の二字は是れ七祖の勲功を顯はすものにして製作垂範なり。正意・應機は、自身の願生を含めり。又正意を顯はし此に應ずることを明と云ふ所は、自ら本願他力を呼稱する義なり、知るべし。 釋迦如來楞伽山 爲衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乘无上法 證歡喜地生安樂  已下十二句は第一龍樹菩薩なり。中に於て今の六句は佛の懸記預言を擧ぐ。斯く懸記を擧ぐるものは、今所は佛の懸記を承けて佛化を継ぎたまふことを示し、其の徳の尊むべく其の説の信ずべきことを讚じたまふにあり。  所依は魏譯の十巻『楞伽經』第九に「我が乘内證の智は妄覺境界に非ず、如來滅世の後、誰が爲に説ん、未來に當に人有べし、南天國の中に於て大徳比丘有て龍樹菩薩と名けん、能く有無の見を破して、人の爲に我が大乘無上の法を説き、初歡喜地に住して安樂國に往生せん」と是なり。爾るに『楞伽經』に三本有り。四巻『楞伽經』、七巻『楞伽經』、十巻『楞伽經』是なり。四巻『楞伽經』には懸記なし。七巻、十巻には懸記ありて多少の相違あり。此の懸記に六あり。一に處出【南天竺】、二に示名【龍樹大士】、三には破邪【悉能摧破……】、四には顯正【宣説大乘……】、五には地位【證歡喜地】、六には得證【生安樂國】是なり。  ○釋迦とは能説の人、具さには釋迦牟尼と云ふ。此に能仁寂黙と翻ず。能仁は姓、寂黙は名。能仁は慈悲の物を利するに從ひ寂黙は智惠の理に冥ずるにとる。利物の故に涅槃に住せず、冥理の理、涅槃の故に生死に住せず(生死の娑婆にありながら不生不滅の涅槃なり〈佛より云う〉)。悲智雙行なるを能仁寂黙と云う。○楞伽とは、梵語。此に難入、又は嶮絶と翻ず。○衆とは一會(『楞伽經』所説の)の大衆なり。○告命とは、告は語なり。命は教なり。即ち釋迦懸記を大慧菩薩に告命したまうなり。  問。衆生の爲に告命すと云う。爾るに何ぞ大慧に告命したまふや。  答。大慧菩薩は『楞伽經』の對告衆なり。故に正しく大慧に告命す。大慧に告命する處、一會の大衆に告命するなり。豈一會の大衆のみならんや、遠く未來の衆生に及ぶ。例せば『大經』の對告衆は阿難・彌勒なり。阿難・彌勒の爲に説く所、即ち來會の大衆一萬二千人に説く、之が即ち未來の衆生に及ぶと云ふが如し。  ○南天竺とは、五天竺中の一なり。○龍樹とは、梵に那伽阿周那と云う。那伽を龍と翻じ、阿周那を樹と譯す。○大士とは、菩薩の稱なり。『大論』に「菩薩を大士となす。大心を起すものを大士と云ふ」○於出世とは、龍樹の出世の年時異説多し。今は『讚阿彌陀佛偈』の「形像を始めて誕じ頽綱を理る」の文によりて五百三十年の説をとる。○悉くとは、諸邪を遺すことなきが故に。○能とは、抗敵するものなきが故に。○摧破とは、折挫を摧と云ひ、壞滅を破と云う。  ○有無見とは、通途に約するに三重あり。  一に外道に約すとは、斷常二見の外道なり。  二に小乘に約すとは、『倶舎』の有門【今宗は三世實有法體恒有と立つ、三世に渡りて諸法の實體は實有なりと立つ。三世は、已作用・正作用・未作用の三位を以て立つ】、成實の空門【今宗は人法二空を談ず。人空とは、人身は五蘊假和合にして常實の我體なしと觀ずること、法空とは其の五蘊の法體も因縁假生にして實體なしと觀ずること】是なり。  三に大乘に約すと、相宗の有執【諸法の差別に付て五位百法を立てて諸法を攝す。其の五位百法とは、一心王に八種、二に心所有法五十一、三に色法十一、四に不相應法二十四、五に无爲六是なり。之を三論よりみて法相を有所得とし、非有非空を偏中とす。故に有執なり】。性宗の空執【无所得を談じて般若皆空を談ずるが故に】是なり。  次に別途に約すれば、自力を確執するを有とし、他力を軽蔑するを无とす。 今は此の中正しくは外道の斷常二見なり。何となれば、龍樹所造の三論【中論四巻・有論二巻・十二門論一巻】の所明正く外道を所對として破するが故に。而して大小乘の偏執は、すべて之の二見の餘習なれば之の中に攝し兼ねては別途に及ぶ。  問。如何なる書を著はして摧破したまふや。  答。先に出せる三論なり。若し別途を兼ぬるに約すれば『大論』『十住論』にも通ずべし。  ○宣説とは、宣暢演説なり。○大乘无上法とは、證歡喜地に組合わせば、通途の法となり、生安樂に組合わせば別途彌陀法となる。行となれば之の歡喜地は通途の益なり。既に『讚阿彌陀佛偈』(十六丁)には、「歸阿彌陀生安樂」の前に歡喜地と云ふ。若し別途の信益なれば、「歸阿彌陀生安樂」の後におかざるべからず。之を高祖『眞佛土巻』(二十四丁右)に引用したまへば、通途の地位なること明なり。之の通途の歡喜地を得る法が大乘无上法とする時は、通途の法となる。又安樂國とは彌陀淨土のことなれば、之に生まるの法が大乘无上法なりとすれば、彌陀法となること明なり。○證とは、能證に名く。○歡喜地とは所證をさす。之に通別あり。通途に約すれば、初地入見道の時に心に歡喜を生ずるが故に歡喜地と云ひ、別途に約すれば、信一念に得る密益なり。今は通途の益とす。一には『讚偈』に依るが故に、前述の如し。二に若し別途の益ならば何ぞ龍祖のみに局らん。獲信のもの皆爾り。今殊に龍祖の下にのみ出すは、龍祖所得の通途の地位なるが故なり。  問。何の必要ありて通途の證益たる歡喜地を擧ぐるや。  答。一に入地の菩薩の生安樂を以て、國徳の勝れたることを顯はさんが爲の故に。安樂國は願力所成の報土なるが故に入地の菩薩すら願生したまふと顯すなり。二に因人重法の故に。 顯示難行陸路苦 信樂易行水道樂  此の二句は龍祖が二道對判したまふことを明す。  所依は、『易行品』(二丁)「佛法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乘船は則ち樂しきが如し」(T・二五四)の文是なり。龍祖『花嚴經』を釋するに、論に於て是の如く難易對判したまふもの、全く『大經』により『花嚴』の密意を開顯したまふにあり。  ○顯示とは、顯露暁示なり。○難行とは、一に所行に約す。此の時は難行と讀みて行體の難なるを云う。『易行品』(初丁)に行諸難行と云うは之なり。二に能行に約す。此の時は行じ難しの意を『易行品』(二丁)に勤行精進と云ひ、譬に陸路歩行則苦と云ふもの是なり。○陸路苦とは、難行を喩を以て顯はす。曰く難行は擧足下足到清涼地の故に陸路の歩行の苦なるに喩ふ。今論の上にては、阿惟越致を目的とする菩薩の爲に説くが故に且く十地難行に約すと雖も、此の中聖道一代を攝す。○信樂とは、信任愛樂の義。龍祖能く人をして他力念佛は水路の乘船の如く進み易きことを信任愛樂せしむるを云う。故にせしむの假名を附す。○易行とは、難行に反して彌陀念佛なり。○水道樂とは、喩を以て易行を顯はす。曰く難行の如く機功を要せず、无作にして果海に進趣せしむるを喩ふるなり。  問。『易行品』の易行は諸佛に通ず【『易行品』二丁に「或は信方便易行を以て疾く阿惟越致地に至る者有り。偈に説くが如し」と云ふて、十佛の易行を出すが故に】、然るに龍祖の本意彌陀にありとは何を以て知るや。  答。一に船喩合法は彌陀章にあるが故に。曰く對判二道の所に乘船の喩を擧ぐ(惣)。次下に彌陀章にのみ合法を出す(別)は、惣即別にして易行の易行たるは彌陀としたまふ意なり。  二に一百餘佛の能讃あるが故に。曰く、偈文(十一丁)に「十方現在の佛 種種の因縁を以て 彼の佛の功徳を歎じたまふ」と、又同(十一丁右)に「諸佛無量劫に 其の功徳を讚揚せんに」等と、爾らば諸佛は能讃位にして彌陀を讚歎したまへば、別易行なること知るべし。  三に信疑廢立を説くが故に、曰く信疑廢立は『大經』の法義、彌陀別途の法門にして諸佛とは唯信正因なし。易行の易行たるは彌陀にあること明かなり。  四に本願有无の異、曰く諸佛に稱名不退の本願なし、彌陀獨り稱名往生の本願を誓いたまふが故に、別易行なり。即ち文(十丁右)に「是の故に我彼の佛の本願力を歸命す」と、又(九丁左)に「我を念じ名を稱す」等は彌陀本願なり。  五に二利廻向有无の異、曰く諸佛易行の處には論主の自歸勸他なし。彌陀章のみに自歸勸他したまう。文(十一丁)に「願はくは我佛の所に於て 心常に清淨なることを得ん」とあるが故に。爾れば龍祖の本意彌陀章にあること明かなり。  問。『易行品』(四丁右)に諸佛易行にも聞名不退あることを明す。爾れば諸佛易行も彌陀易行も等しくして通別立たざるに非ずや。云何。  答。諸佛の聞名不退は別時意にして、諸佛の稱名一行は萬行即一行の融會を知ること能はず。若し融會を知らんと欲せば、三百劫の修行を要す。爾るに諸佛の稱名一行にて不退を得ると云うもの別時意なり。此の如く龍祖は難易の二道を判じて自らも他力易行に歸し、人をして中を捨て易行を信ぜしめたまふと顯はすが今文なり、知るべし。 憶念彌陀佛本願 自然即時入必定 唯能常稱如來号 應報大悲弘誓恩  此の四句は龍祖の本意彌陀易行を勸むるにあることを明す。所依は『易行品』(九丁)「阿彌陀佛の本願を憶念すること是の如し。若し人我を念じ名を稱して自ら歸すれば、即ち必定に入りて」等の文是なり。念我の二字を迂廻の憶念阿彌陀佛に合して初の一句とし。即入必定の句に依て、次の一句を成じ、稱名の二字を『大論』三番解釋の文に照らして後の二句とす。  ○憶念とは、憶持不忘の義にして、聞信受持して忘失せざるを云ふ。爾れば憶念の言は相續より立つ言葉なり。爾るに今は之の相續の言葉を以て初沖の安心を呼ぶ。此の信臨終迄相續すべきの信なるが故に憶念不忘の信と云ふ。咲いた其の日より百日紅と云うが如し。  問。今此の憶念彌陀佛等を初起なりとは、何を以て知るや。  答。一に即時入必定とあるが故に。即時入必定とは信益にして、信益を以て往因圓滿を顯すと云うが今家の定規なればなり(高祖『信巻』の法相)。二に下の唯能常稱如來号等の稱名報恩(行多)に對するの憶念彌陀佛(信一=信相)なるが故に。  ○彌陀佛とは、諸佛易行に簡ぶ。○本願とは、第十八願にして『易行品』(九丁)「念我【三信】稱名【十念】」是なり。○自然とは、願力自然を顯はす。『行巻』(十一丁)「自歸」の自の訓に「おのづから」とある。おのずからとは、自然の義にして今は『行巻』なるが故に願力自然なり。○即とは之に同時、異時【『大論』】あれども、今は同時即とす。『行巻』(二十五丁)に「即の言は、願力を聞に由て報土の眞因決定する時剋之極促を光闡する也」とあるが故に。○必定とは、必ず佛果に至るに定まるを云ふ。巒師【『論註』上(一丁)「正定は即ち是阿毘跋致なり」といふて次に不退の風航と云ふ。是なり】は、不退を釋して正定聚とす。『大論』に不退を必定と云ふ【阿毘跋致を翻じて不退とも正定とも云ふ】。爾れば必定とは正定聚のことなり。爾れば自然等の一句は聞信一念願力自然として即時に必定に入ると云ふことなり。  問。龍祖の上、現生不退の義ありや。  答。『易行品』(三丁)頌文の「若人疾欲至」等の疾を釋するに、「若し菩薩此の身に於て阿惟越致地に至ることを得て」とのたまふ。現生不退なること明なり。故に『略書』には「即得往生住不退轉」を證するには、若人疾等の文を引きたまふ。  ○唯とは、棟持の義、餘行を簡んで念佛の一行をすゝむるが故に。○能とは、堪能の義。弘願如實の稱名は數の多少を論ぜず時節の久近を問はず、行住坐臥を簡ばず、時處諸縁をきらはざるが故に末代の劣機に堪能することを顯はす。常とは、前念後念相續するを云ふ。之に不斷常と相續常とあり。今は相續常なり、口稱の故に。○稱とは、口稱念佛なり。○應とは、勸他の辞なり。大悲とは、彌陀は無邊の大慈悲を以て無邊の衆生を哀れみたまふが故に、弘誓恩と云ふ。爾れば應報等とは、願力を聞得る一念に報土の眞因決定し、即時に必定に入る。是偏に大悲弘誓の恩徳なり。故に常に之を感佩し報恩の稱名相續すべしと勸めたまふ。  問。稱名すれば何が故に報恩となるや。  答。一に佛化助成の故に。『御一代聞書』本(七十一丁)に「尼入道のたぐひのたふとや、ありがたやと申され候をきゝては、人が信をとると、前々住上人仰られ候由に候」等と、稱名に佛化助成の義あること知るべし。  問。佛化を助成せば何故に報恩となるや。  答。佛は一切衆生をして信を得せしめ永く生死を離れしむるに在り。初め其法獨り弘まらず必ず衆生の讃嘆傳化による。既に稱名は佛の大悲を傳ふるの行事なれば、報恩と云はずして何ぞや。故に善導『禮讃』(十七丁)に「自信教人信〈乃至〉眞成報佛恩」とのたまへり。  二に佛徳を讃ずるが故に。『銘文』(四十一丁)「南无阿彌陀佛をとなふるはほめたてまつることばになるとなり」と。我等无始已來自力の迷執によりて他力廣大の佛恩を知る(信一念)。茲を以て慶喜措く能はず、已得の大恩を取り出し取り出し讃嘆す。佛豈滿足したまはざらんや。喩へば放蕩漢の永く父母の許を離れて流浪せり。爾るに親の念力徹して終に悔悟して親の許に歸り來り親の膝下にて初めて回心して親の大恩を知る(信一念)。爾來感謝の念業する能はず、親に對して又他人に對して親の大恩を嘆ずるもの、豈報恩に非ずして何ぞや。  三に衆生安樂我安樂の故に、衆生の慶喜相續を佛見聞したまひ、佛亦慶喜したまふ。豈報恩に非ずや。  問。信亦安堵心慶喜心の故に報恩と云ふべし。  答。信を安堵心慶喜心と云ふは他力信心は可愛の境に向ふて安心するが故に勝解分齊の信に簡んで慶喜の樣ある信心なりと顯はすが意にして、所顯は信心にあり。爾らば信とは何ぞや。曰く、領受を顯はす名にして從佛向生なり。今衆生安樂と云ふは信に對して受けた佛の大恩に向ふて慶喜相續する行相の方にして、從生向佛なりと知るべし。喩へば、親が衣服を新調して其の子に着す(信一念)、其の子之を着て飛び立つ樣に喜ぶ。其の相を見て親も亦滿足し喜ぶが如し。  問。稱名報恩は七祖に通ず。何が故に龍樹章に在て之を明すや。  答。龍祖は七祖の初めなるが故に、初に置て後を貫き七祖皆稱名報恩を勸めたまふことを示す。而して元祖の下に信心正因を置て上の六祖に通ぜしむるの意なり。正因報恩互顯して以て七祖皆信因稱報なることを顯はすものなり。味わうべし。 天親菩薩造論説  已下十二句は、第二天親章なり。中に於て、今の一句は論主の造論を標す。所依は『般舟讃』(二十九丁)に「是故天親作論説」と、是なり。天親菩薩とは能造の論師を示し、造論説とは、正しく造論を標す。即ち『淨土論』のことなり。  ○天親とは、梵語には婆藪盤豆と云ふ。譯するに新舊別あり。舊には天親と云ひ、新には世親と云ふ。天親と譯するものは、婆藪盤豆を天と云ふ。天に祈請して生れたまふが故に天が親の依主釋なり【人が親に非ず天の親なりと云ふ意】。世親と譯するものは、印度で此の婆藪盤豆天を世間人民が我が親と尊敬する故に婆藪盤豆天のことを世親天と云ふ。其の世親天に祈て出來た子なるが故に世親と云ふ。親の名を以て子の名とするに印度の國風なり。全取他名【世親の名をそのまゝ取りて其の子に名とするが故に】の有財釋なり。  問。天親菩薩に懸記ありや。  答。有り。『付法藏經』【二十四祖の懸記を書きし經なり】に二十四祖の懸記あり。其の第二十四祖が天親なり。故に『論註』上(三丁右)に「事在『付法藏經』」とのたまふ。  問。如何なることを懸記したまふや。  答。「善解一切修多羅義」とあり。依て和讃に「釋迦の教法おほけれど」等と。一代經を能く解釋したまふ。  ○造論説とは、造論即説にて、『往生淨土論』を造りたまふことなり。 歸命无ェ光如來  此の句は論主の自行安心を明す。所依は『淨土論』(一丁)「歸命盡十方無ェ光如來」とある文是なり。  ○歸命とは『論註』上(四丁)の釋によるに、安心【「偈は己心を申ぶ。宜しく歸命と言ふべし」】と禮拜との二途あり。安心とすれば、歸順勅命の義にして『銘文』(四十四丁)に「歸命はすなはち釋迦彌陀二尊……」等と云ふ意となる。又下長行より逆見して偈を五念に配するときは【初行四句は三念門となる】歸命は禮拜の義となる。此のときは恭敬の意なり。  問。長行より偈を逆見するとは何を以て知るや。  答。既に『論』(三丁左)に「論曰此願偈明何義」と云ふて願生偈を解するに五念を以てす【又『註』上(四丁)には「論は偈の義を解す」と云ふ】、爾れば偈の當分は論主の自己の安心を申述したまふものなれば、『註上』(四丁)「偈は己心を申ぶ」とのたまふ。之の安心偈を五念を以て長行に釋したまふが故に、長行より逆見して偈を五念に配するなり。  問。何が故に偈を五念に配するや。  答。此の一心には、五念二利の徳を具することを顯さんが爲の故に。  問。『論註』上(四丁)の歸禮の釋意如何。  答。鸞師、長行より偈を逆見して、歸命を禮拜として「故知歸命即是禮拜」とのたまふ。爾るに之に付いて歸命即禮拜なれば願生偈に禮拜盡十方と云ふて可なるべし。何ぞ歸命盡十方と云ふやと云ふ伏難あるが故に、「然に礼拜は」等と礼拜と歸命と輕重あることを示したまふ。其の輕重の釋意を伺うに「偈は己心を申ぶ、宜しく歸命と言ふべし」とあれば、歸命を以て信順教命とし、安心とするの意。そこで信心より起る礼拜あり【日本天子を礼するが如し】信なくして只恭敬を顯はすの礼拜あり【外國の天子を礼するが如し】今は歸命より起こる礼拜なれば、歸命は即礼拜とのたまふ。偈は安心、長行は起行。其の偈の歸命には礼拜を具する處の歸命と云ふことは、長行に於て成ず。又長行の礼拜は單恭敬に非ず、歸命安心を具する礼拜なること偈に依て知らるゝなり。此の信具足の礼拜なりと云ふ邊にて、「歸命必是礼拜」と云ふ。偈は安心を述る故に歸命と云ひ、長行は安心の徳義を開き五念と談ずるもの故に、長行には汎爾なる礼拜の言を以て偈の歸命を解したまふなり。此の如く偈と長行と互顯してその義愈々顯はるゝと示す意なり【輕重は歸命礼拜との言葉に付て云ふものにして長行の礼拜を輕しとするに非ずとしるべし】。  問。今正信偈の歸命は安心とするや礼拜とするや。  答。安心なり。何となれば今、正信偈は五念とするの明し方に非ずして、論主の自行たる安心を明すの所明なるが故に、次に「爲度群生彰一心」とのたまふ、知るべし。  ○无ェ光如來とは、天親菩薩所歸の躰なり。『銘文』(三十八丁)に「盡十方無ェ光如來とまふすは、すなわち阿彌陀如來なり、この如來は許セなり。盡十方といふは、盡はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。无ェといふはさわることなしとなり、衆生の煩惱惡業にさえられざるなり。渠@來とまふすは阿彌陀佛なり」と釋したまふ。爾れば爲物大悲の方便法身をさすなり。  問。阿彌陀如來と云はずして无ェ光如來と云ふもの如何。  答。无ェ光如來とは義、阿彌陀如來とは名なり。今无ェ光如來と云ふは、單名无義に簡んで名義相應の名なることを示す。論主此の名義相應の无ェ光如來によりて一心歸命の安心を領解したまふなり。  問。一心の字を略するもの如何  答。歸命を擧て一心を此の中に攝す。此の一心は只信順教命の無疑の一心なるが故に歸命の中に攝む。『二門偈』に「一心歸命盡十方」と出すものは、一心即歸命の故に並べ出して義を具さにしたもの。例せば聞其名號の相を信心歡喜と出すが如し。而して聞の一邊を顯はすことなり。信心歡喜の一邊を顯はすことあるが如し。 依修多羅顯眞實  此一句は論主の化他の徳を明す。經に依て論を作るものは有情利益の爲なるが故に。所依は『淨土論』「我依修多羅眞實功徳相」の文是れなり。  ○依とは『論註』上に釋して何所依・何故依・云何依の三牒を作る。之の三何依を『浄土論』の偈に配すれば、何所依は修多羅、何故依は眞實功徳相、云何依は説願偈總持【願偈(願生偈)即總持なり】與仏教相應に当たる。第三の云何依を、『論』は能説とし【説と云ふが故に】『註』には能修とす【云何依は修五念門相應故とあるが故に】。能説は能修【論主の自行】の侭の顯れなるが故に説行不二なり。今亦此に三依あるべし。何となれば何所依は修多羅・何故依は眞實【誓願の尊号なるが故に】云何依は上の句の歸命之なり。之の依りし相を『註』には五念門とし、今高祖は略の歸命とす。此一心五念共に『論』の説願偈に含む。説行不二の故に知るべし。○修多羅とは梵語、此に契經と翻ず。修多羅とは糸を以て花を貫きたる飾りのことなり。今日七条袈裟の修多羅も之より出づ。今は文句の糸に法門の花を連ねてあるということ。爾るに殊に經と翻ずるものは『玄義分』(六丁)「經と言ふは經也。經能く緯を持ちて匹丈を成ずることを得て其の丈用有り」とのたまふにて知るべし。又『論註』上(二丁)に「經者恒也」と云ふ。是經は恒に世に行はれて衆生饒益するが故に。之に契の字を附するものは理に叶うが故なり。之の修多羅に惣別あり。惣修多羅とは、十二部經を押さえて云ふ。別修多羅とは十二部經中、譬喩因縁等を簡んで、佛直説のものを云ふ。今は大乘惣修多羅、即ち三部經を指す(小乘は九部なり)。『銘文』(三十九丁)に「修多羅は天竺のことば佛の経典を申すなり【乃至】いまの三部の経典は大乘修多羅なり、この三部大乘によるなり」とのたまふが故に。○顯とは、論主の勲功を嘆ず。顯は幽に対す。幽微を開顯して明了ならしむるが故に顯と云ふ。即ち三経眞實功徳、之の『論』に依て顯はるゝが故に。○眞實とは、『論』の眞實功徳にして其の物體を論ずれば『註』上(七丁)眞實功徳の釋二十九種三種莊嚴にして、一名號となるが故に、『銘文』(三十九丁)に「真実功徳は誓願の尊号なり」とのたまふ。何を以て三種莊嚴一名號となると知るやというに、三種莊嚴願心成就して、一々機法一体の故に三種莊嚴即一名號に歸して衆生を饒益するなりと、知るべし。而して『論』は真実功徳を所依所顯【説願偈總持】とし、今は能依所顯とす。之れ互顯なるのみ。具さに云はゞ、修多羅の真実によりて修多羅の真実を顯はすと云う意なり。 光闡横超大誓願 廣由本願力廻向 爲度群生彰一心  此三句は、論主宣布の功を顯はす。所依は初句は惣じて論一部の義を示す。光闡の語は『大經』に取る。横超の語は終南にとり、義は論の「能令速滿足」と「即得阿耨菩提」との文による。大誓願とは、觀佛本願力なり。次句は『論』の「以本願力廻向故」の言により、後句は「普共諸衆生」の文による。  ○光とは、大也廣也。○闡とは、開也顯也。之の廣顯は論主の功を讃ず。○横超大誓願とは、前句の顯真実の真実を承けて所顯の法徳を云う。横超とは、横は竪に對し、超は出に對して他力極速を顯はす言。『論』の速滿寶海の本願なることを顯はす。大誓願とは、四十八願を全ふずるの第十八願を指す。一論悉く十八願を光闡するにありと顯すの祖意なるが故に『銘文』に「説願偈總持といふは、本願のこゝろをあらはすことはを偈といふなり」とのたまふ。爾れば説願偈は本願を説くの偈としたまふ意なり。  問。如何に本願を光闡したまふや。  答。第十八の三心を合して一心とし、此一心に歸して滿じて乃至十念の稱名となる。而して此稱名は三業相應の故に自から五念門を顯はす。論主独り此に達し、一心を開いて五念とし、二利具足の廣大無礙の一心なることを顯はしたまふもの、即ち本願を光闡する所以なり。  ○廣の言は上の普放の普を照塵刹にかけると同じく、由本願の上にあれども、廣く爲度群生彰一心といふ意。そこで此の廣に二意あり。一に廣く群生を度せんが爲というは、所被の廣きを云うたもの。二に廣く一心を彰はすと云へば論に廣く五念二利を説きて一心を顯はす。即ち能説の廣を云うなり。○由とは、二意あり。一に『行巻』(二十一丁)「由$衆生障重#也」と云うときは、以の字の意となる。二に『同』(二十一丁)に「由稱名易故」と云うときは、細註に用ゆるなりとありて能修となる。今本願力廻向を以て群生を度する爲に一心を彰はすと云う意とするときは、以の字の意となり、又能修とするときは用の字の意となり、自利に由るが故に能く利他すると云うこと、即ち『略典』に「由本願力廻向故」と故の字あるが故に、群生を度せん爲に一心を彰はす、本願力の廻向によりて自利滿足するに由るが故にと顯はしたものなり。○本願力とは、苦惱の衆生をして能く因果二利を成ぜしむるの力用あるは、皆是れ本願力より起るが故に本願力と云う。○廻向とは、廻施趣向の義なり。而して本願力廻向の言、『論』當分は出第五門に在て淨土の菩薩の本願力廻向とすれども、吾が祖は彌陀の廻向とす。何となれば菩薩の本願力は即、二十二願還相廻向の本願力なれば、其の本を推せば彌陀の本願力なり。故に高祖推功爲本して彌陀に約す。是れ『論註』下(三十四丁)の「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩人天の所起の諸行は、みな阿弥陀如来の本願力に縁るがゆゑなり」の文に依りて此義を得る。○爲度群生彰一心を宣布す。論主の利他もと佛にあり上の本願力廻向とは、是の如來の度衆生心なり。論主已に此の本願力廻向に全托して、一心帰命の願作佛心を得たり。之を利他の信樂と云う。此の信樂を普共諸衆生往生安樂國と、他の衆生に勸發したまふが故に論主の一心は普共諸衆生の一心なるが故に、爲度群生彰一心と云う。○一心とは、愚鈍の衆生をして解了し易からしめん爲に、論主三を合して一としたまうなり。之の一に二義あり。一は无二の義、二は疑なり【善見律】。之に對して无疑を一心とす。『信巻』末(二丁)に「信心无二心故曰一念、是名一心」とのたまふもの是なり。二に專一之義。『寶章』に「一心一向といふは、阿彌陀佛におひて二佛をならべざるこゝろなり」とのたまふもの是なり。  問。『論』は五念二利を顯はすものなれば、彰五念と云うも可なるべし、如何。  答。所期中、物柄を検するときは、五念二利あれども、而も論主のこゝろは一心を顯はすに在り。何となれば願生の偈なるが故に【願生の信心を顯すの偈なり、若し五念を顯す偈なれば五念偈と云うべし】、世尊我一心の自督を述べたまふ偈なるが故に、普共諸衆生とのたまふの偈なるが故に【五念は一心に二利の徳あることを示したまふ、下品の所修にあらず故に普共諸衆生とのたまふところ一心の領解とせざるべからず】、一心偈とす。故に『註』上(四丁)に「偈は己心を申ぶ」とのたまふ。而して長行は偈の義を解す【『註』上(一丁)に傍經作願生偈復造長行言釋文。『同』上(四丁)「論は偈を釈すをもつて解義とするがゆゑなり」とのたまひ、『論』の大尾には、解義竟とのたまふ。長行は偈の義を解すること明なり】。此一心には、五念二利の徳あるが故に一心の徳義を開顯せしが長行なり。五念と開いても一心の外あることなし。依りて長行の所明、五念を明すと雖も、亦一心に結歸す。即ち起觀生信已下廣く五念門を明し、名義相對に至りて五念を一の信樂勝真とし能生清淨佛國の因とす。爾れば五念を明すも一心を彰すにあるが故に彰一心と云う。 歸入功徳大寶海 必獲入大會衆數  已下六句は一心の利益を明す。中に於て今の二句は歸入の一念、定聚に入ることを顯はす。所依は初句は『淨土論』「遇无空過者、能令速滿足、功徳大寶海」にして、次句は『淨土論』(十丁右)の「得入大會衆數」是れなり。『論』は五因五果の法相なるが故に彼土の益とす。高祖は一因一果の義を辨立したまふが故に、近大二門を以て現生正定聚とし、宅屋二門を合して滅度の一果とし、薗林遊戲地門を以て、還相の益とす。故に『論』には、五果門の功徳を明すと雖も、今は唯、第二【大會衆門】第三【得至蓮華藏世界の宅門】第五【薗林遊戯地門】を連ねたまふ。爾る中は往相の一因を以て阿耨菩提の一果を得る。此の阿耨菩提より還相廻向する相なり。  問。『淨土論』は五因五果に約す、高祖何が故に一因一果としたまふや。  答。『論』の五因五果の法相たるや元と一因一果の徳義を開顯せるものにして、因も二利具足、果も二利圓滿、即ち因圓果滿の義を顯はすにあり。高祖獨り論意を体し、以て一因一果の法義を建立したまふなり。  問。『浄土論』直ちに其の見込み、如何。  答。偈の一心は是れ論主の自督の安心を述べたもの、故に『註』上(四丁)には「偈申己心」と云い、又『同』上(四丁)には「我一心者天親菩薩自督之詞、言念无碍光如來願生安樂國」等とのたまふ。爾れば安心一心にあるや明なり。而して長行は偈の義を解す。【『淨土論』(二丁左)「此願偈明何義」とありて、大尾に解義竟とのたまひ、又『註』上(一丁)「経にそへて願生の偈をつくれり。また長行をつくりてかさねて梵言を釈す」又『同』上(二丁)「一つにはこれ総説分、二つにはこれ解義分なり」乃至『同』上(四丁)に「論は偈を釈すをもつて解義とするがゆゑなり」とのたまふ知るべし】。  此一心には、五念二利の徳あるが故に、一心の徳義を開顯せんが長行なり。故に五念門と開いても一心の外あることなし。依りて長行の所明五念を明すと雖も亦、一心に結歸す。即ち起觀生信已下廣く五念門を明し、名義攝體に至る五念を一の妙樂勝眞心とし、能生清淨佛國の因とす。又果に於て五果を開くと雖も、一果中の妙差別にして、唯一果中の施設なるのみ。故に終わりに速得成就阿耨多羅三藐三菩提故と一果を究むるが故に五果自ずから成就する義を顯すが、故の字の意。爾れば『論』一部は終に一因一果に歸するなり。知るべし。圖示せば如左。   ┌────┬────┬───┬───────┬────┬─────────┐   │ 『論』 │    │ 禮拜 │ 近門     │    │         │   │『論註』│    │ 讃嘆 │ 大會衆門   │    │         │   │ の  │ 五因= │ 作願 │ 宅門     │ =五果 │   自己の相續   │   │ 五因 │    │ 観察 │ 屋門     │    │         │   │ 五果 │    │ 回向 │ 園林遊戯地門 │    │         │     ├────┼────┼───┼───────┼────┼─────────┤   │高祖  │ 一因= │ 一心 │ 五念この中に │ 一果 │ 阿耨菩提     │   │一因一果│   │   │ あり │    │ 五果此の中に有り │   └────┴────┴───┴───────┴────┴─────────┘  ○歸入とは、歸依投入の義。即ち一心歸命の安心なり。○功徳大寶海とは、即ち所歸名號なり。『一多文意』(二十五丁)に「功徳と申すは名号なり、大宝海はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり」とのたまふ。『論』は彼土の益とし、今は此土の正所得の益とするなり。○必とは、上を承けり、即ち自然の義なり。歸入の一念自然に定聚の位に住するが故に。○獲とは『論』には得と云い、今獲にかふるものは、高祖の法義「獲の字は因位のときうるを獲といふ。得の字は果位のときにいたりてうることを得という」【獲得自然章】と云う義なり。○入大會衆數とは、廣大會衆の數に入るを云う。『玄義分』(五丁)「十方法界同生者」等と云うの意にして、此身此界にありと雖も亦、彼界の分人たりと云う意なり。而して論文は彼土の益なるに、今現生の密益としたまふものは『論註』(二十六丁)不虚作の釋に、此土聞名不退後の義あるより、一因一果の法義を以て現生の益となしたまふものなり。 得至蓮華藏世界 即證眞如法性身  之の二句は往相の果體を示す中、初句は所入の土を上げ、次句は所証の身を示す。所依は初句は『淨土論』(十丁)「入の第三門とは、一心に專念し作願して彼に生れて奢摩他寂淨三昧の行を修するを以ての故に蓮華藏世界に入ることを得」の文、次句は『淨土論』(七丁)「即見彼佛【乃至】寂滅平等故」の文是なり。蓮華藏世界とは、淨土經中に於て此目なし。『華厳經』『★★』等に出たり。論主彼の名をとりて安樂世界の異稱としたまふ。   ○蓮華は是れ正覺華なり。藏は舎攝の義にして、一切功徳を舎攝し、亦十方一切の刹土を舎藏するが故なり。  問。彌陀淨土を明すに何ぞ他經の名をとるや。  答。蓮華藏世界に諸土を會入するの名【華嚴經の所談】なるが故に、彌陀淨土は十方法界を統御することを顯はさんが爲に彼の名を用ひたまふ。  問。彼の名をとりて之に名くる時は其の體亦同じきや。  答。彼は毘盧舎那佛所居、此は彌陀の淨土、彼は毘盧舎那行力により成ずる所、此は法藏願力の成ずるところ。彼は普賢等の六大菩薩【華嚴經に出づ】の居るところを得て餘人の入る能はざる處。是は極重悪みな同じく入ることを得るもの。爾れば全同と云うべからず。  ○即証とは、上は依報の往生門に約する故に得至と云い、今は正法の成佛門に約する故に即生と云う。而して即の言は往生即成佛を顯はす。蓮華藏世界に入る當體、眞如法性の身を證得するが故に眞如如常と熟して虚妄顛倒なきものを眞と云い、常住にして變易なきを如と云う。○法性とは、一切★善法の體性と云う。此の眞如法性は一物にして共に所證の果なり。○身とは積集の義、即ち能證を顯はす。 遊煩惱林現神通 入生死園示應化  此二句は還相の悲用を明す。所依は『淨土論』(十丁)「出第五門とは、大慈悲を以て一切苦惱の衆生を觀察して、應化の身を示して、生死の園、煩惱の林の中に迴入して神通に遊戯し教化地に至る。本願力の迴向を以ての故に」の文なり。  ○遊とは、遊戯の義『論註』下(三十二丁)「遊戯に二の義あり。一には自在の義、菩薩、衆生を度することは、譬へば、師子の鹿を打つに、所為難らざるがごとし。遊戯のごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生は畢竟じて所有なしと観じて、無量の衆生を度すといへども、しかるに実に一衆生として滅度を得るものなし。度衆生を示すこと遊戯のごとし」とのたまふ、知るべし。○煩惱林とは、煩惱重類拘礙なるに喩ふ。彼の聖衆煩惱の伊蘭林即妙香林【安樂集上六丁右】と達するが故に煩惱を以て煩惱とせず、能く煩惱林に入ては種々變化す、義遊戯に同じ。○現神通とは、靈妙不測を神通と云い、洞達無碍を通と云う。現とは示現なり。○入生死園とは、入は遊入生死は三界の苦樂、園は喩に約す。園は林所在の處、煩惱の衆生林中において★群生すること★の園に在つて繁茂するが如し。○示應化とは、『註』下(三十三丁)に「如法華經普門示現之類也【觀音の三十三身の如きを云う】とのたまふ。爾れば八相示現に局らず隨類應同に通ずるなり。  要するに此二句は得至蓮華等の往相の果たるや利他圓滿の妙果なるが故に、必ず還相の悲用を起こし三界の煩惱林中に遊入して種々の神通力を現じ、生死海に回入して隨類應同し、自在に衆生を教化することを得ると顯はすにあり。 本師曇鸞梁天子 常向鸞處菩薩禮 三藏流支授淨經 焚焼仙經歸樂邦  已下十二句は第三曇鸞章なり。中に於て今の四句は鸞師事跡を明す。此中初二句は皇禮、次二句は捨聖歸淨なり。先づ初に在て皇禮の事を擧ぐるものは因人重法の爲なり。所依は近く『漢語灯』第九に『續高僧傳』『安樂集』迦才の『淨土論』等を引く、見るべし。  ○本師とは、本宗の祖師の略語なり。○曇鸞とは、今師の名なり。○梁天子とは、梁は代の名なり。天子とは高祖武帝を指す。蕭氏なるが故に蕭王とも云う。故に和讃に「本師曇鸞大師おば……禮しける」とのたまふ。鸞師は北魏の人、たまたま梁に至りて武帝に見え、帝大に尊敬して鸞師を尊ふ。爾るに梁は江南の地、鸞師は北魏の人【支那南北朝に分裂し楊子江より南を南朝とし、北を北朝として各々國を建て、天子と號して互いに天下を争う。晋、齊、梁、陳、隋の六代を南朝とし、後魏、東魏、西魏、後梁、北周、後周の六代を北朝とする】地相を去ること遠し故に常に鸞師の住處に向かいて遥かに禮したまふ。○菩薩禮とは、菩薩と稱して禮することなり。○三藏とは、聖徳を表するの通号、經律論の三藏に通達するが故に。流支とは、具さに菩提流支。此に翻じて道希と云う。北天竺の人なり。魏の永平初年中夏に至りて魏主の勅を奉じて經を譯す。○授淨教とは、淨土教を鸞師に授けるなり。此經は三經中何れの經なりやというに、日溪法霖師は『大經』ならん、『大經』に「可得極長生」と説き、鸞師常に『大經』に依りたまふが故に、諸傳に『觀經』とするは、時の人『觀經』を好むが故なりと云う。又雲棲は阿彌陀經なりと。又三論宗譜には『浄土論』を授くと云う。今云く、諸傳に從りて『觀經』とすべし。何となれば『正信偈大意』に傳に從ふて『觀經』とするが故に【是一】。經の題號に『觀無量壽經』と無量壽を以て題とするが故に【是二】。又傳記を左右するときは際限なし、是非定むべからず。爾れば傳説に從ふべし【是三】。○焚焼仙經歸樂邦とは、鸞師その初め五台山に於て出家し、四論宗に歸し廣く内外の典籍を渉猟し殊に佛性の理を究めたまふ。嘗て『大集經』【六十巻あり】の註釋を著作せんとし中途にして病を得、やむなく擱筆して專ら療養を加え、まもなく快復し、將に前著を継がんとし、自ら思念すらく、人命は老少不定なれば長生不死の仙術を學んで而して後に之に従事せんと決心し、江南の山中に住する仙人陶隱居を訪ひ、仙經十巻を授かり本國に還り、將に深山に入て仙術を修せんとする。道に洛陽を過ぎ偶々印度乾陀會國の高僧菩提流支三藏の來るに遭ひ、佛法中にも仙術の如き長生不死の法ありやと尋ねたまへば、流支三藏、地に唾して云く、世間何れの經にか長生不死の法ありや。唯佛法に無量壽を得ん法ありとて『觀經』を授けられたり。鸞師翻然として大に慚愧し、仙經十巻を焼きすて併せて四論宗をも閣きて、專ら彌陀本願に歸し有縁の人を導きつゝ、西方願生したまへり。此事蹟の中、仙經を焼きすて西方願生したまひしことを示すが今の一句にして捨邪歸正を顯はすものなり。 天親菩薩論註解 報土因果顯誓願  此二句は惣じて註解の功を示す。所依は初句は迦才の『淨土論』に「註解天親菩薩往生裁成兩巻」の文あり。語此による。次句は論註全体の意を得て句を成ず。  ○天親菩薩論とは、所解の論なり。○註解の二字は鸞師の能釋を示す。○報土とは、此目、綽【『安樂集』上(七丁)三身三土章】導【『玄義分』十九丁已下】に出でゝ、天鸞の如きは未だ云はざるところ。爾るに『和讃』(天親章)及び今偈に報土の目を出すものは如何というに、其の目なしと雖も、其の義自ら備はる。『淨土論』(八丁右)には「願心莊嚴」と云い、『註』下(六丁)には、「此中佛土不思議有二種力、一者業力謂法藏菩薩出世善根、大願業力所成二者正覺」等と云うは皆是れ報土の義なり。故に高祖は此の目を用いて天鸞にも此義あることを示す。報土とは、本願酬報の土と云うことなり。○報土因果とは、一には報土を成ずるの因果、『註』上【三種莊嚴の一々に付いて佛本何故此莊嚴等と云うて、莊嚴が願心より成ずることを顯す】の所明にして、二に報土往生の因果、『註』下【衆生の五念二利、佛の願力より成ずることを明して終わりに三願的證するもの是なり】の意なり。此二義共に『註』の上に顯はれたりと雖も、今偈の所明に就かば、後義を親しとす。何となれば、此九上の横超大誓願と相應して衆生入報の因果、横超の本誓より成ずることを顯はすの文なるが故に。○ 顯誓願とは、今師の勲功なり。論文幽微にして其の意知り難し。爾るを今師能く其の意【『淨土論』三種莊嚴の自利々他によりて衆生の二利を成ずる相た。故に觀佛本願力と云う】を探りて他力を顯はす。即ち『註』下(三十四丁)三願的證【上來約末五念二利を明し來る。爾るに其本を求むれば阿彌陀如來の願力によるものなりと、三願を以て的證するが故に此三願的證は全部に渡る。一分にあらず】是なり。十八は是れ因、十一、二十二は是れ果、因果共に佛の誓願によると顯はしたまふなり。 往還回向由他力   已下六句、別して『註』の要義を明す中に於て、今の一句は標なり。所依は『論註』下(五丁)「回向有二種相一往相二還相」等の文是なり。  ○往とは、往生。往生は『漢語灯』に之を釋して「捨此往彼蓮華化生」とのたまふ。○還とは、還來穢國。○回向とは、回轉趣向なり。之の往還回向は『論註』當分は行者約末の回向【『註』下(五丁)「往相者以己功徳」等と、己がと云えば約末なること明なり】とす。鸞師の約末となしたまひしものは、聖道の菩提心の二利具足するに対して淨土の菩提心も亦二利圓滿せることを示さんが爲なり。爾るに三願的證に至ては佛願の回向に歸し他力の深義を發揮す【『註』下(三十四丁)「論にいはく、五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり。しかるに覈にその本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす」等とのたまふ。自利々他とは即ち二回向のことにして其の本と云ふは、其は二回向をさすものなれば、其の二回向の本を求むれば阿彌陀如來を増上縁とするが故に約本、而も三願的證するが故に約本なること明かなり】。高祖その深義を探りて由他力とのたまふ。  問。之の句の意は往還回向は約末として、それを由他力と本に歸する意なりや。又、往還回向即約本として文即由他力とする意なりや。  答。高祖に於ては二回向を約末とすること絶てなし。今又約本とせざるを得ず。 問。爾れば約本他力回向が他力によるということになるにあらずや。  答。今文は『註』の往還回向を約本と釋するまもの、爾れは往還回向は唯所釋【何やら訳らぬ所釋のものとして】未だ本末を定めずして、由他力を以て歸本と判定せられる思し召しなり。既に爾らば『註』上約末とするもの、今、高祖の眼よりみれば往が即約本なりと取り定むるの意なり。  問。高祖何が故に約本としたまふや。  答。自力回向に対して他力不回向の宗旨を顯示せんが爲の故に。但し還相に至りて一度行者に許したもふ辺あり。『和讃』に「願土にいたればすみやかに」等とのたまふもの是なり。蓋し是れ『證巻』終わりに「まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり」と還相を衆生に約するは、即ち佛の利他の正意を顯はすにありと云う意なり。例せば名号の造作を顯はすに十念の造作を以てするが如し。無作の信にては名号の造作を顯はすに便ならず、知るべし。 正定之因唯信心 惑染凡夫信心發 證知生死即涅槃  此の三句は往相の因果を明す。細別すれば初句は往相の因を示し、次句は能發の人を擧げ、後句は所得の益を明す。所依は『註』上(一丁)「但信佛の因縁を以淨土に生と願ず。佛願力に乘じて便ち彼の清淨の土に往生を得」の文。次句は『註』下(八丁)「凡夫人の煩惱成就せる有て亦彼の淨土に生ことを得れば」の文。後句は『註』下(三十四丁)「十方无ェ人の一道より【今家より云へば、一无ェにして名號法なり。即ち眞如一實の大道なり。何となれば大經の法相は絶對なるが故なり。曰く「「正道大慈悲出世善根生」は、平等の大道也」と、その莊嚴は一々に示現、自利利他の徳あり。そこでこの二十九種の莊嚴如實なるが故に修行之莊嚴亦如實なりと、淨土の廣の二利の功徳を貰うから、行者も廣の觀をうける。廣を略してうけることは出來ぬ。その觀でうけることは行行の徳にして不修而修の徳とは、是は行者の貰ふのは信心なれども、淨土は廣の故、廣で貰ふ徳あり。その徳を修相にかけて示すが善男子善女人修五念門等なり。故に相絶對門なりこの眼を以て一道をみれば名號法なること明らかなり。】生死を出といへり〈乃至〉无ェは謂く生死即是涅槃と知るなり」(T・三四六)の文是なり。  ○正定之因とは、一に正定聚に入るの因、五果門に約す【『論註』(一丁)「但信佛因縁を以て〈乃至〉即ち大乘正定之聚に入る」とのたまふ意】。 二に、必定報土に往生するの因、一果に約す。『銘文』(五十二丁)「正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふすなり」とのたまふ意なり。此の二義の中、今は高祖『銘文』(五十二丁)の釋によりて以後を正とす。○唯信心とは、所依の文には但眞佛因縁を以てと云ふ。入唯信心と云ふものは、但とは餘流をからざるのことばなるが故に唯に當る。即ち餘流を借らず專ら信心を以て報土往生の因とする意なり。信佛因縁とは、即ち信心なり。何となれば信佛因縁を解するに、一に信佛因縁、因縁とは往生に望む。二には佛の因縁を信ずる、之れ亦我等が往生の因縁と云ふなり【佛の因縁を信ずれば、佛の因縁全じて我因縁となるが故に】。此の二義ありと雖も共に報土往生の因たる信心の外なきが故に。○惑染とは、迷惑染汚煩惱の異名なり。○凡夫とは、聖者【四聖】に對す。○信心發とは、發は願力より發起するを云ふ。惑染の凡夫心中に淨信を生信するは、全く佛の願力によるが故に。  ○證知生死等の一句、  問。此の一句は現益とするや當益とするや。若し寂滅无爲の一理をひそかに證することゝすれば現益となり、亦若し生死即涅槃の證果を得ることゝすれば當益となる、如何。  答。今は當益とす。一に『略書』に照らすが故に。曰く『略書』に「信心開發即獲忍 證知生死即涅槃」と、之の文を今『正信偈』の「慶喜一念相應後 與韋提等獲三忍 即證法性之常樂」【善導讃】の文との文と照合するに惑染凡夫信心發の當體三忍を獲る益を以て往因圓滿を顯はし、彼土に至りて證知生死即涅槃すとのたまふものなるが故に。二に高祖に於て生死即涅槃を現益とすること絶てなきが故に。  ○證知とは、能證の智。○生死即涅槃とは、所證の理なり。迷ふが故に涅槃即是生死となり、悟るが故に生死即是涅槃となる。生死涅槃は本と一なり。此の生死即涅槃を聖道では自信に向ふて求む。今家は彼土に至りて此益を得る即ち初生の刹那此の如く涅槃平等の如理を證悟することを得るなりと顯はすが今の一句なり。 必至无量光明土 諸有衆生皆普化  此の二句は上に往相の果を明すが故に之に次で還相の益を示したまふものなり。所依は初句は『平等覺經』に「速に疾く超えて便ち 安樂國之世界に到るべし 無量光明土に至りて 無數の佛を供養す」(T・一〇〇)と云ふ。近く『二巻鈔』上(十三丁右)に引く此の文と『註』上(五丁)の「若一佛三千大千世界を主領すと言ふは、是れ聲聞論の中の説なり。若し諸佛遍く十方无量无邊世界を領、是大乘論の中の説なり」(T・二八三)の文と合して初句を成ず。次句は『註』上(二十七丁)已下、菩薩の功徳を明す中、第一の不動而至等の釋意による。  ○无量光明土とは、彌陀佛の眞報土なり。此の句自ら上成起下の意を含む。謂く上の證知等の句は入門の極果、下の諸有衆生等の一句は出門の悲用、入出の別ありと雖も此の无量光明土の土徳なり。爾れども今は起下を主とす。還相を云はんが爲の基礎にして、无量光明土に至れば自在還相の悲用を起すことを顯すにあるが故に。而して无量光明土とは、經文では諸佛土なれども今は取って彌陀國の成とす。『眞佛土巻』初に「土は亦是无量光明土也」とのたまふ。之は十方諸佛國を全うずる彌陀國なることを顯はさんが爲なり。『禮讃』(三十丁)云く「十方諸佛の國は 盡く是法王の家なり」とのたまふもの是の意なり。  問。上に證知等と當益を明し、今又无量光明土と出せば煩重なるに非ずや。  答。无量光明土の一句は還相の悲用を明さんとして、先ず果體を標出せしものなれば煩重に非ず。例せば『寶章』一帖四通「正定聚に住す正定聚に住するが故にかならず滅度にいたる」とのたまふが如し。  ○諸有衆生とは、所化の境。○皆普化とは、能化の徳相。皆は悉く、普は普遍。化は轉の義にして、凡を轉じて聖とし、穢を轉じて淨となしたまふなり。  要するに彼土に至れば自在に十方世界に至りて諸の衆生を普く化益することを得ると顯はすが此の二句の意なり。 道綽決聖道難證 唯明淨土可通入  已下八句は第四道綽章なり。中に於て今の二句は聖淨二門の決判を擧ぐ。所依は『安樂集』上(三十七丁)「一には謂く聖道、二には謂く往生淨土〈乃至〉唯淨土の一門有りて通入すべき路なりと」等の文是なり。  ○道綽しは今師の名なり。○聖道とは、聖は正なり、正理をさす。此の正理に契ふ智も人も亦聖と名く【天台『妙玄』】。即ち大乘佛果のことなり。道とは二あり。一に因道【梵に末迦】、二に果道【梵に菩提】是なり。今は因道とす。『選擇集』上(三丁右)に「四乘の道を修して、四乘の果を得」とのたまふが故に。爾れば聖道とは、大聖佛果に至るの道【因道】と云ふことなり。  問。聖道を大聖佛果に至るの道とすれば、往生淨土門に通ずべし、云何。  答。聖道の名目は、實は彼此分別するものにあらざれども、通即別にして往生淨土に對して此土入聖を聖道とよびしものなり。  ○難證とは、云何が難證を決するやと云ふに、『安樂集』上(三十八丁)に二由一證を以て末法の今の時、聖道法の證り難きことを決したまふ。二由とは、一に大聖を去ること遥遠なるが故に。二に理深く解微によるが故に。一證とは、『大集經』是なり。○唯明とは、『樂集』には唯有とあり、今有を明とするは能釋の功を嘆ずるものなり。唯は簡持の義にして聖道の難證を簡び捨て、淨土の一門を以て通入の路と持取するが故に唯と云ふ。明とは辨明立理引證して、分明に難易を辨じ以て廢立を成ずるを云ふ。○淨土とは具さに往生淨土、往生とは捨此往彼蓮華化生【『漢語燈』の釋】に名く、淨土とは潔白にして无濁なるを云ふ。土とは土田國土にして安【安住の義】身の處を云ふ。其の淨土と稱する所以は清淨人所居の土なるが故に。『論註』上(十一丁左)に「『經』【維摩經巻上】に言く。其の心淨きに隨て則佛土淨し」と云々。知るべし。  問。『安樂集』の淨土は眞假に通ずるや。將た唯眞實に局るや。  答。一部に付いて云へば、眞假に通ずる處あり。『集』下(三丁)に「第四に『觀經』及び餘の諸部に依るに、所修の萬行但能く迴願して皆生ぜざるは莫し」と云ふ。之は要門に約する文なれば、眞假に通ずること知るべし。爾れども二門章の淨土は眞實に局る。『大經』に曰と云ふて十八願を引證するが故に。  問。淨土を唯眞實とするときは要門等は何れに攝するや。  答。行躰より聖道に攝す。其の見込みは『集』上(三十八丁)に「若し大乘に據らば眞如實相」等と『觀經』の上六品を出して「然るに持ち得る者は甚だ希なり」と、聖道の未有一人得者なることを證するものは『觀經』の説相たる世戒行の三福【要門】を聖道に攝するの意なり。爾れば聖道中に大小乘等一切自力法を攝して、唯眞實たる淨土、即ち弘願眞宗を以て可通入路たることを顯はすものなり。  ○可通入とは、當分は末法に約し、實義は三世に渡る。『集』上(十丁)に凡聖通往章に【凡は末代の機根(たとひ上代にありても)聖は上代の機根(たとひ末代にありても)】に其の義明かなり。可は難に對し、通は塞に對す。彌陀の本願は時機を簡ばず遠く法滅の機を攝するが故に通と云ふ。入とは、證入の義、能く當來の妙果を證得するが故に。 萬善自力貶勤修 圓滿徳号勸專稱  上の二句は教に約して二門の通塞を明す。今の二句は行に付いて二行の貶勸を明す。初句は『集』上(三十八丁)に「又復一切衆生」等と『觀經』上六品を引て、「得者甚希」と云ふもの是なり。次の一句は『集』一部に專稱を勸む。近くは『集』上(三十八丁)に「是を以て諸佛の大慈、淨土に勸歸せしめたまふ。〈乃至〉都て去く心無き也」等是なり。  ○萬善とは六度四攝【四攝とは菩薩の衆生攝化の法にして、布施愛語利行(衆生の爲になること)同事(同じものになりて濟度す)】等の聖道の行躰なり。此の行は行者の積功累徳なるが故に自力と云ふ。○貶勤修とは、たとひ聖道萬行を修行すれども、末法の今時に於ては其の益いさゝかもなきが故に捨てよと云ふことなり。○圓滿徳号とは、名號なり。名號には一切の功徳利益具足して缺限なきが故に圓滿徳号と云ふ。『行巻』(一丁)に「斯の行は、即是諸の善法を攝し、諸の徳本を具せり、極速圓滿す」といへるもの是なり。○勸專稱とは、已に是の如く圓滿の徳號なるが故に聖道萬行を捨てゝ專ら之を勤めよとすゝめたまふなり。 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引  此の二句は勸信の慇懃なることを示す。所依の文は『集』上(三十二丁)「問て曰く。若し人但彌陀の名號を稱念すれば〈乃至〉此の三心を具して若し生れずといはゞ是處(ことわり)有ること無けん」と、是なり。  ○三不とは、自力の信心は不相應なるが故に三不と云ふ。三心とは、他力信心にして、淳心一心相續心是なり。之れに約横約竪の二義あり。約横せば三信唯一の信心の異名とす。何となれば、一は信心二は信心三は信心と三信各々一の信心を以て覩ぶるが故に。約竪せば之の三信字義、本願の三信に當る。淳心とは、淳は純粋厚朴の義なれば虚飾なくありのまゝに云ふことなれば至心に當る【自力の行者は表面信ずるが如くにして眞實ならず、故に若存若亡す。他力の行者は之に反するが故に淳心と云ふ】。一心とは、一は二に對す。疑見誠に二は疑なりと。爾れば自力疑心に對して、疑なきを一心と云ふ。故に信樂に當る。『銘文』(三十七丁)に「一心といふは、教主世尊の御ことのりを、ふたごゝろなくうたがひなしとなり」とのたまふ。相續心とは其の心相欲生を主とす。故に『註』上(四丁右)に「願生安樂【欲生】心々相續無他想間雜」とのたまふ。作得生想等、流相續して盡形壽に至る故に欲生に當る。之れ且く分別にして横竪無ェの故に三即一、一即三信なり知るべし。○誨慇懃とは、丁寧の謂なり。内、三不三信は鸞師の上に既に明らかなれども、鸞師は三不三信の上に就て明し、三信の相詳かならず。爾るに今抄は更に三信の上に展轉を示す。是一。又若不生者等と本願の意を以て結説す。故に『二門偈』其の意なり。是二。之によりて誨慇懃とのたまふ。○像末とは、時變衰を云ふ。像は似なり。正法時に似て教行の二法あれども證の一を缺く。之を像法と云ふ。末とは微なり。唯教のみありて、行證共になし。即ち有教无人を末法と云ふ。○法滅とは、末法萬年の後、諸經悉滅の時なり。○同悲引とは、同は同等、悲は悲哀、引は引導なり。爾れば同悲引とは、『集』の當分に約して云へば、行證かなはぬ像末の時、機も法滅の時機も教行證の三法具足の在世正法の機と同等に悲哀し化導すると云ふ意なり。爾れども實義より云へば、三時同悲引なり。何となれば彌陀法には三時なきが故に【爾るに三時を云ふものは聖道法の三時に準じて云ふたものなり】。正法の二字は略するものは七現の句を成んが爲なり。  問。悲引は法に約するや、釋尊に約するや、集師に約するや。  答。悲引は淨土の法門を指す。彼の聖道の救ふ能はざる機を能く悲引するが淨土の法門であるぞよと示す意。今師、約時被機して此の義を釋顯したまふが故に、其の功を顯はして殊に今師の下に此の句ある。知るべし。 一生造惡値弘誓 至安養界證妙果  この二句は弘願勝益を示す。上の同悲引を承けて悲引の相たは一生造惡の機を攝して安養の往生を得せしむるにあることを示す。所依は『集』上(三十八丁)の「唯淨土の一門有りて通入すべき路なりと。世の故に『大經』に云く、若し衆生有りて縱令一生惡を造れども、命終の時に臨みて十念相續して我が名字を稱せんに、若し生れずば正覺を取らじと」と『同』(三十八丁)の「縱使ひ一形惡を造れども但能く意を繋げて、專精に常に能く念佛すれば、一切の諸障自然に消除して、定んで往生を得ん」と組み合して句を成ず。  問。所引の文を見るに『大經』曰くと云ひたまへども、『大經』に是の如き文なきは如何。  答。『大經』の現文と相違するは第十八の願文に『觀經』の下々品を組み合わせて引きたまふが故に願の十方衆生を、若有衆生等と下々品の當機を以て配し、至心信樂欲生我國乃至十念を十念相續と十聲稱佛を以て配したまふ、知るべし。  問。十念相續稱我名字と云ふて、信を缺くに似たり、云何。  答。『集主は二行廢立の所なるが故に稱名の一を以てしたまふと雖も、三信具足の稱名なるが故に、決して信を缺くにあらず。『二門偈』には三信を以て之に換ゆ、其の義愈々明なり。  問。信具足の稱名なりと云ふこと『集』當分に於て其の見込み云何。  答。『集』上(三二丁)に、稱名の如實不如實を三不三信を以て分類したまふもの是なり。  問。『大』『觀』二教の文を組み合わせて引証したまふもの云何なる理由ありや。  答。三由あり、一に本願の十方衆生は其の正爲に約すれば、下々品の惡人にあることを顯はさんが爲の故に。二に本願の十念は稱名なることを顯はさんが爲の故に。三に修行の久近を論ぜざることを示さんが爲の故に。  ○一生造惡等。  問。所依の『樂集』は臨終に約す。今亦爾りや。  答。今の値弘誓は平生なり。一生造惡は『觀經』下々品の惡人。此の本願の正機なり。値弘誓とは、弘誓とは第十八願なり。値とは値遇なり。『一多文意』(二十四丁)に釋して「遇は まうあふといふ まうあふと まふすは 本願力を信するなり」とのたまふ。爾れば値とは、信心のことなり。之の信即ち上の三信にして、下證妙果の眞因を示す。  ○安養とは、身心安穩の地即ち彌陀の淨土なり。 ○證妙果とは眞實の證り。即ち若不生者不取正覺の誓願成就の相たなり。所依の文は往生に約すと雖も、今は往生即成佛として安養界に至ると同時に妙果を證得するなりと顯す。 善導獨明佛正意  已下八句は第五善導章なり。中に於て今の一句は、今師楷定の功を讚ずるなり。所依の文は『散善義』(三十二丁已下)靈験請求の文意なり。  ○獨明とは、獨は超絶、明は了達。此の獨明とは、淨影・天台等の諸師『觀經』を謬解して、聖を正とし凡を傍とし(是一)、餘善を主とし念佛を伴とし(是二)、觀念を以て念佛とし(是三)十念即生を別時意となす(是四)、等とする不明に對して、靈験請求し、古今楷定するが故に高祖其の功を嘆じて、「獨明」と云ふ。明とは、あからむとよむ意なり。決して餘の六祖に對して獨明と云ふに非ず。 ○佛とは、惣じて三佛に通ずれども、今は正しく釋迦に約す。善導は『觀經』の經意を明らかにしたまふが故に。○正意とは、正本意なり。 矜哀定散與逆惡 光明名號顯因縁  此の二句は大師の悲心開導を明す。所依は、初句は『散善義』(三十一丁)「上來定散兩門之益を説くと雖も、佛の本願の意を望まんには、衆生をして一向に專ら彌陀佛の名を稱するに在り」と、『序分義』(三十丁)の「一切衆生の機に二種有ることを明す。一には定、二には散なり」の文とを合揉して句を成ず。次句は『禮讃』(四丁)に「若し願行を以て來し収むるに、因縁無きに非ず。然るに彌陀世尊、本深重の誓願を發して、光明・名號を以て攝化したまふ。但信心をして求念せしむれば」とある、是なり。  ○矜哀とは、矜は愍なり、哀は悲なり、あはれむこと。此の二字善導の功なり【釋尊に非ず】。光明名號を顯はすとあるが故に。 ○定とは、息慮凝心にして雜種の慮を息めて、定に入りて淨土を觀察するを云ふ。即ち定善十三觀の機なり。○散とは、散亂に非ず散動なり。身口意の三號を動かして修行するものなるが故に。即ち上六品の三福、廢惡修善の機なり。○逆惡とは、十惡五逆の機にして、下三品の三福无分の機なり。大師此の如く機をあはれみましまして光明名號の因縁を顯はしたまふとなり。 ○光明名號顯因縁とは、之の光號因縁は、善導の上に於て、因縁合論【『禮讃』(四丁)光號因縁】と、別論【『序分義』(三十丁)孝養父母の釋】とあり、『禮讃』光號因縁の文は當分に於て合論の外なし。高祖は『序分義』(三十丁)父母因縁の別論を持ち來つて合顯し、『禮讃』の微意を發揮したまふ。高祖の發揮、もと善導の微意なるが故に、顯の字を置き、高祖開顯の功を善導に擬(ゆづること)したまふ。扨て今の光號因縁は、光明は外縁にして、名號は内因なり。即ち衆生の方には无始以來出離の因縁あることなし。佛之が爲に衆生往生の因縁を成就したまひしもの、即ち光明名號なり。光明の縁を以ては衆生を照育し、名號の内因を以て衆生往生の眞因を成じ、内外因縁和合して報土往生を遂ぐることを得るなり。此の時は、信心は名號中に攝して名號往生の法相即ち『行巻』(三十八丁)光號因縁釋の初重の意なり。但し後重の義なきに非ず。此の光號たるや、信心求念まで及んであるが故に、佛の方より云へば光號、衆生の方より云へば信心求念の外なしと、唯信正因の義を影顯する邊より云へば、後重の義なきに非ずと。知るべし。 開入本願大智海 行者正受金剛心  此の二句は弘願の因果を明す。所依は、初句は『禮讃』(十三丁)「彌陀の智願海は、深廣にして涯底無し」、次句は『玄義分』(一丁)「正しく金剛心を受けて、一念に相應して後」是なり。  ○開入とは、開示(能化に約し、宗家の光號因縁開示)悟入(所化に約し、一切凡夫人大智海に悟入す)と、開悟(佛智を解了すること)歸入(本願大智海に投入すること、開悟、歸入共に所化に約する)との二あり。何れも得たり。○本願大智海とは、因より云はゞ本願、果より云へば大智。因果不二の故に本願大智と云ふ。海とは、『禮讃』に上で深廣の義をとる。今は同一鹹味の徳をとる。定散逆惡の機齊しく歸入するところなるが故に。 ○行者とは、能信の者を指す。○正受とは自力邪雜の念を離れて正直に佛智を領受するを云ふ。即ち他力信心のことなり。爾るに正受の言は、もと是れ三昧の異名【『玄義分』八丁】なれども今は轉用して、他力金剛心を顯はす。○金剛と言ふは、即是れ無漏の體なりと。之れは無漏の佛智を金剛と云ふ。此の信佛智を領受するが故に、能信即金剛心なり。二に喩金剛、『散善義』(九丁)に「金剛の若くなるに由て」とあり、此の信一切の内障外障の爲に破壞せられざる信心なるが故に。但し『玄義分』の金剛心は等覺の金剛心にして自力なり、今は他力の金剛心とす。蓋し轉用なり。 慶喜一念相應後 與韋提等獲三忍  此の二句は弘誓の捷益たる信一念同時の現益を明す。初句は上の金剛心を承けて、其の得益の時分を辨じ、後句は正しく現益を明す。  所依は、初句は『玄義分』(一丁)「相應一念後」の文。次句は『觀經』の「彼の國土の極妙の樂事を見れば、心歡喜するが故に、時に應じて即ち無生法忍を得ん」(T・五一)及び『序分義』の「「心歡喜故得忍』と言ふは、此は阿彌陀佛國の清淨の光明、忽に眼前に現ぜん、【之れ韋提に約す。今日の行者は大悲心を見ること韋提と同じきなり】何ぞ踊躍に勝へん。茲の喜に因るが故に、即ち無生之忍を得ることを明す」の文是なり。  ○慶喜とは、此の言初起【『信巻』末一丁信樂釋】後續【『寶章』三帖六通・信心歡喜といふは】に通ず。今は初起の安心に約す。一念相應とあるが故に【是一】。又『正信偈大意』に「一念慶喜の信心さだまりぬれば」等とあるが故に【是二】。○一念相應とは、『玄義分』に「相應一念といふは金剛無漏智【等覺の最後身に金剛定に入りて無漏智を起す。その一念に妙覺の理と相應す】妙覺の理と相應するを云ふ。今は轉用して凡夫獲信の一念能く佛智と相應するを云ふ。  ○後とは  問。信一念同時に現益を得べし。何ぞ後と云ふや。  答。一義に未信の前に對して正しく一念の時をさして後と云ふと。又一義に云く『二巻鈔』上(九丁)に「前念命終後念即生」と同時中に【同時なることはその細註に同じ益を上ぐるが故に】暫く前後を分つと。同く今も同時中に前後を立てゝ後と云ふと云々。何れも得たり。  ○與とは、相兼の語。○韋提とは、具には韋提希、此に思惟と翻ず。○等とは、齊等の義、獲信の一念に韋提とひとしく三忍の益をうることを顯す。○三忍とは、一の無生法忍【無生法たる名号に於て、忍可決定するが故に無生法忍と云ふ】を開いて三忍とする。心生歡喜によりて得るが故に喜忍と名け、廓然大悟によりて得るが故に悟忍と名け、信心成就の故に心忍と名く。  問。此の三忍は能得とするや所得とするや。  答。喜悟信を以て能得【喜悟信によりて忍を得る】とし、無生法忍を所得とす。此の所得の忍、機相の喜悟信によりて得が故に。能得より所得に名けて三忍と云ふ。【已上善讓師の意】  問。韋提の得無生忍は何れの時ぞや。  答。韋提得忍の題下に譲る。 即證法性之常樂  此の一句は、當益を示す。獲信の一念に三忍を得るが故に、臨終一念の夕べ往生即成佛の妙果を證得するなりと顯はすが此の一句なり。所依は『玄義分』序題門に「此の穢身を捨てゝ即ち彼の法性之常樂を證す」とあるのが是なり。  ○即とは、同時即と異時即とある【大論】中、今は同時即なり。何となれば、若し上句に望めて解すれば獲三忍の同時に涅槃を證するが如く聞こゆれども、之れは上句に望むるに非ず。『和讃』と對照して解するに、『和讃』に「煩惱具足と信知して〈乃至〉すなはち穢身すてはてゝ 法性常樂證せしむ」とのたまふ。「すなはち」は穢身の上にあれども「すてはてゝ」の下にある意にして穢身をすてはてた當體、法性常樂を證するの義なり。今亦爾り、彼の十九二十の往生の如き階級をふるものに對して、初生の刹那大涅槃を得ることを顯はすものなり。故に同時即なり。○法性とは、法は諸法、性は不改、一切諸法の體性即涅槃のことなり。○常樂とは、具さに常樂我淨と云ふ。之れ涅槃所具の徳なり【此の四徳で涅槃をつくす】。之の四徳の中、常樂の二徳を出して他の二徳を攝す。 源信廣開一代教 偏歸安養勸一切  已下八句は、第六源信章なり。中に於て此の二句は、二利の徳を嘆ず。所依は『往生要集』(初丁)に「夫れ往生極樂之教行は濁世末代之目足也。〈乃至〉是の故に念佛の一門に依て、聊か經論の要門を集む」と、是なり。  ○源信とは、今師の高諱(死後其の人の實名をイミて名けしものを云ふ)なり。○廣海一代教とは、今師『大藏經』を見たまふこと五度、大小の法門其の玄奥を究む。『要集』を讀せば、廣開一代の師たるや明白なり。  問。爾らば他の六祖は一代教を見たまわずとするや。  答。他の六祖も一代教を見たまふと『要集』(上末十六丁)に雖も、殊に源信章に廣開一代とのたまふものは、今師の殊色とする所なるが故に。其の殊色とすることは今師の事蹟に明かなり。『蹄d記』四(十六丁)に「宋人の朱仁聰【越前敦賀と云う】に至り、僧都之の遠旅を訪【船中に訪ふ】ぬ。【船の中の】壁間に画像有り。聰指して曰く、是れ婆那婆演底守夜神なり。渡海の厄を資けん爲に奉持する所なり、師よ此の神を知らずやと。僧都『華嚴』の善財讃嘆偈を憶し、像上に題して曰く「見女清淨身相好超世間と」、弟子寛印を呼びて曰く、子よ次句を書せよ。印筆を把りて寫して曰く「如文殊師利、亦如法王山」と、聰之を見て嘆じて曰く、「大藏は皆二師之腹胃也」と」廣開一代是に於て見るべしと。以て知るべし。  ○偏歸安養とは、是れ自力(?)なり。偏とは上の廣に對す。謂く今師廣く一代佛教を開いて其の中偏へに安養に歸するなり。之れ解を廣に開き、行を略に歸するものなり。○勸一切とは、是れ化他なり。『讃』に曰く「本師源信ねんごろに等」と、自行化他、其要念佛にありと顯すが今の二句なり。 專雜執心判淺深 報化二土正辨立  已下六句は『往生要集』の要義を顯す。中に於て今の二句は專雜二修の得失を判ず。所依は『集』末(初丁)に問答を設け答に天台慧遠道綽の三師を引き終に迦才を引いて云々。又『同』(十丁已下)に問答を多く設け其の第三問答の答に『群疑論を引き、專修之者生極樂國、雜修之者生懈慢國と云ふもの是なり。  ○專雜とは、專は純一无雜の義、弘願の一向專修なり。雜とは間雜不純の義、弘願念佛の外諸行及び自力正行を修するを悉く雜修と名くるなり。  問。正雜二行と專雜二修と同異如何。  答。上祖の上では、正雜二行は所修の行躰に約し、專雜二修は能修の方より云ふ。然れば物柄は一なれども、名の立場に左右あり。蓋し是れ上祖は要弘正雜廢立の法相なるが故なり。爾るに高祖は要眞弘三門分別の法義なるが故に『化巻』本(十五丁)に「【正行中に】專修【弘願の五正行】雜修【助正兼行】を分別し、雜行の中に專修【一行を修するものなり】雜修【二行已上】を分別したまふ故に、且く異なり。  ○執心とは、信心のことにして固く執して動かざるを云ふ。○判淺深とは、『集』に之の文又なしといえども其の義あり。牢固と云は深なり。不牢固と云は淺なり。專修の信は他力より發せしむるが故に深と云ひ、雜修の人は自力の信、執心なるが故に淺と云ふ。故に『化巻』本(十六丁)に「一心に就て深有り淺有り、深者利他眞實之心也。淺は定散自力之心是也」とのたまふ。○報化二土とは、報は酬報因願に酬ひ顯はれたるの義にして、即ち第十八願眞實報土なり。是の佛の自境界【光壽二無量の覺躰】、實にして妄を離るゝが故に亦眞と云ふ。化とは自力の機感より變化の土を見るを云ふ。十九・二十の假願に酬報せし土なり。是れ究竟の處にあらざる【實録究竟に達せざるが故なり】が故に亦假【『法華』の化城喩品に五百由旬の處にて、實の寶處あり。爾るに三百由旬の處に假りに化城をかまへて二乘の機を誘引すると云ふが如し】と名く。此の如く、報化二土を辨立して雜修のものは執心不牢固の故に化土に生じ、專修の人は執心牢固なるが故に報土に生ると得失を決判したまふなり。 極重惡人唯稱佛  此の一句は偏へに專修を勸めたまうことを明す。所依は『要集』下本にある「觀經に云く極重の惡人他の方便无し、唯佛を稱念して極樂に生ずることを得と」是なり。  ○極重惡人とは、『觀經』下々品の極惡の機を指す。『選擇集』に「下品下生は、是五逆重罪之人也文」と、今惡人を出したまうもの、本願の正意惡人にあるが故なり。○唯とは、全く自力餘行の手の盡きはてた事を顯はす。下上下中は未だ心念を募る意を脱せず、下々品に至って自力の心念全く盡き畢る故に、不遑念佛と云う。○稱佛とは、具足十念稱南無阿彌陀佛なり。已に自力餘行に堪えざる機なるが故に善知識唯稱名を勸めたまふなり。  問。爾らば下々品は口稱正因なりや。  答。然らず。自力の心念盡きたる機に口稱を教ゆるは、非行即名号行なることを信ぜしむ。爾れば他力の信心を發世しむるものなれば信具足の稱名なり。故に『經』に如是至心とのたまふ。單口稱に非るなり。知るべし。 我亦在彼攝取中 煩惱障眼雖不見 大悲無倦常照我  此の三句は集主御自身に寄せて照益を示す。即ち『觀經』の念佛衆生攝取不捨の意を顯するなり。所依は『要集』中本の「一一の光明は、遍く十方世界を照らし、念佛の衆生をば攝取して捨てたまはず。我亦彼の攝取之中に在れども煩惱眼を障へて見たてまつるに能はずと雖も、大悲倦きこと无くして、常に我身を照らしたまふ」(T・八〇九)是なり。  問。此の文雜略觀中にあるが故に觀益に非ずや。  答。雜略觀は觀稱合明にして觀亦攝取を蒙るが如く述べたまへども、是れ唯誘引にして其の實は念佛にあり。故に雜略觀より極略觀(十三丁左)を開き、一心稱念とのたまふ。此の稱念は序分の易覺易行にして、稱名なり況や念佛證據門(T・八八一)には佛の光明は餘行の人を攝取せず、唯念佛(この念佛は觀念に非ず稱念なり。何となれば一に別發一願の念佛なるが故に、二に「男女貴賤、行住坐臥を簡ばず、時處諸縁を論ぜず、之を修するに難からず」の念佛なるが故に)の人を攝取すとのたまふをや。  問。『要集』の上は然なるべし。經文は觀稱何れの益なりや。  答。經文の念佛衆生亦稱名にして觀に非ず。何となれば、經末の若念佛者に五種の嘉譽を與へて之を付屬したまふが故に既に定散を廢して念佛を付屬す。本佛何ぞ所廢の行人を攝せんや。  ○我とは集主自身をさす。○亦とは、他を兼ぬるの語なり。上句に望むときは集主も極惡人も共に攝取光中に在すことを知らしむるなり。○第二句は煩惱の爲にまなことぢられ、攝取の光明を見奉らざるを云ふ(之れ機相なり)。○第三句は光明の恒照を示す。○大悲とは、『觀經』に「佛心とは、大慈悲是なり。無縁の慈を以て諸の衆生を攝す」(T・五七)と諸の苦の衆生を捨てざるを云う。○無倦とは、疲れウミたまはざるを云ふ。○常照我とは、光明は常恒に照らしたまうなり。我等今日煩惱の爲に佛の光明を見奉らずと雖も、往生に於て一點のあやぶみなく、慶喜相續するもの是れ大悲無倦の常照の爾らしむるところなり。 本師源空明佛教 憐愍善惡凡夫人  已下八句は第七源空章なり。中に於て此の二句は、元祖の悲智の徳を嘆ずるなり。初句は智徳を嘆じ、後句は悲徳を嘆ず。所依は今師の事跡は吾祖能く知りたまふが故に、所知を以て其の徳を嘆したまふ。  ○源空とは、今師の實號なり。○明佛教【一代經】とは、他の六祖に對せるに非ず。今師の事蹟に付て云ふものなり。今師は黒谷の報恩藏に入りて藏經をみること五回、善導の疏を讀みたまふこと三回。遂に末代凡夫出離の要道は念佛一門にあることを知りたまふ。○憐愍とは上の矜哀に同じ。○善惡凡夫人とは、『觀經』九品の機、即ち上六品は善人にして、自の善をたのんで本願を信ぜず。惡人は下三品これ自らの罪を恐れて是亦眞宗を知らず。此の如く、惡凡夫人に善もいらず惡も恐れなし、平等に他力信心を得せしめたまふを憐愍と云ふ。 眞宗教證興片州 選擇本願弘惡世  已下六句は『選擇集』の要義を明す。中に於て、今の二句は惣じて集の綱領を顯のべす。所依は、初句は二門章により、次句は二行章本願章の意による。初め二門章は、聖道門淨土門等を明して、捨聖歸淨の旨を明し、次に二行章は、正雜二行に廢立を示して、稱名正定業の義を顯はし、次に本願章は二行章に明す稱名は佛永劫に選擇攝取したまふ正定業なることを示す。爾らば初め三章は本願章に歸結す。之れ『集』下(二十五丁)惣結三選の文より伺うものなり。已下の十三章は之の選擇本願の念佛が法界に流布する相を示す。爾れは『選擇集』一部十六章は初の三章に歸し、終に第三本願章に結歸す。今の二句は初め三章を上て集要を示すものなり。  ○眞宗とは宗名なり。眞は眞實にして方便自力に簡びて他力を顯はす。若し果に約すれば、化土に非ず、眞實報土に往生するなり。『唯信抄文意』(四十五丁)に「眞實信心を得れば(因)實報土にむまると(果)おしへたまへるを淨土眞宗とすとしるへし」とのたまふもの是なり。宗とは宗旨、家柄なり。  問。眞宗は元高何れの首唱なりや。  答。眞宗とは高祖五十二才、元仁元年甲申の年、創めて之を稱へたまふ。其の旨『本典』【開章に宗名を出し『化巻』本(三十五丁)に首唱の年月を出す】に明なり。元祖は淨土宗とはのたまひしも、未だ眞宗とはのたまはず。爾れば高祖の首唱なること明なり。  問。爾れば今偈及び『讃』に眞宗の立名を元祖とするものは如何。  答。元祖の淨土宗即高祖の淨土眞宗なるが故に、今眞宗とのたまふ。『選擇集』の淨土宗とは、專ら選擇本願を説て方便に通ぜず。爾るに眞假の分齊を知らずして、元祖の正意を謬るものあるを以て、高祖簡非の爲に眞の一字を加へて元祖の正意を顯はしたまふ。『寶章』四帖十五通に「法然上人のすゝめたまふところの義は一途なりといへども」等とのたまふもの是なり。  ○教證とは、具さに教行信證なり。興とは興隆・興起なり。今師聖道の久廢の時に出でゝ日本一州に淨土の法門を興したまふを云ふ。○片州とは日本のことなり。日本は東海中に孤立して、片板を海に浮へたるが如きを云ふ。○選擇本願とは、第十八願なり。具に選擇本願念佛にして、往生之業、念佛爲本なり。○弘惡世とは、この本願念佛は時機相應の要法なるが故に末代の濁世に弘通したまふなり。 還來生死輪轉家 決以疑情爲所止 速入寂靜無爲樂 必以信心爲能入  此四句は信疑を辨ずることを明す。所依は『選擇集』三心章の「生死之家には疑を以て所止と爲し、涅槃之城には信を以て能入と爲す」(T・九六七)是なり。  ○還來とは、還は還歸、來は來至。生死海中に往來无窮なるが故に。○生死とは變易分段の二種あれども、今は分段なり。淨土文は變易生死を立てず、分段生死を越える所、直ちに佛果なり。横超の法門なるが故に。○輪轉とは、義は還來に同じ、爾れども還來は人に付き、輪轉は器世間に約す。○家とは『論註』上に「三界は蓋し是れ生死の凡夫流轉之闇宅なり」と。生死の娑婆は凡夫の住家なるが故に。  問。悟りより迷に落ち來るものは還來と云ふべし。爾るに迷の中にあり乍ら還來と云ふもの解し難し、云何。  答。此に米を賣らんとするに十三円のときに十五円にならば賣らんと思う、爾るに下落して十円の相場になりし時は、十三円のときを思うて三円損したりと云ふが如し。賣れば賣れるのに賣らざりし爲に損したる樣なものなり。爾るに米は十三円の時も十円の時も同く我手にあり、今本願を聽聞すれば往生を得るのに聽聞せずして流轉すれば還來したも同様なり。故に還來と云う。  ○決は決斷の義。下の必に對する。疑情とは、疑惑佛智なり。○所止とは、助字にして、ラレ(能所對)と讀むに非ず。義は能なり。然るに能とするときは、下の能と繁重となるが故に所とす。斯く解するものは、下句が信で往生すると云ふことなれば、今は其れに對して疑て迷うと云はざるべからざる故なり。爾れば此一句は疑の咎によりて生死に止まることなりと顯す。  問。六道に輪迴するは、各自の業業による、今何ぞ疑によると云ふや。  答。六道の業によりて六道の果を引くは理の当然なり。爾るに淨土門は、業を斷ずるは全く佛力による。爾れば衆生佛智を領すれば生死を出づること疑なし。爾るに惜しい哉佛智を領せざるが故に業に引かれて流轉の身となる。故に決以疑情爲所止とのたまふ。要するに、煩惱の殺活は信疑にあるが故に疑そのものが因となるに非ずと云ふに在り。知るべし。  問。疑惑の人は化土に往生す。何ぞ生死流轉と云ふや。  答。化土往生は善機に約す。今は惡機に約す。生死流轉と云ふが故に。例せば『寶章』に「この信心を決定せずば、無間地獄に墮在すべきものなり」と云ふが如し。  ○速入とは漸入に對す。即ち横超の利益を顯はす。○寂靜無爲とは、涅槃の妙果なり。○樂とは洛(ミヤコ)の意通なり。○必とは、必定なり。○信心爲能入とは、無有出離之縁之機、只無疑の信心一にて易く涅槃の果を得るとなり。之の信疑決判は元祖の骨髄にして、高祖この心印を承けて信心正因の宗義を開きたまふなり。 弘經大士宗師等 拯濟無邊極濁惡 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説  此四句は上來明す処の七祖の法門を結勸したまふなり。於中初二句は上來を結し、次二句は時衆を勸む。所依は拯濟とは『經』の「拯濟無極」、無邊とは、『安樂集』上三丁に「爲!盡$無邊生死海#故」とある。第三句は『玄義分』初丁の「道俗時衆等」、第四句は『散善義』五丁「唯可深信佛語專注奉行」等によりて句を成ず。  ○弘經とは、大士と宗師に及ぶ。即ち三國の七祖各淨土の經説を弘通したまふが故に。○大士とは、龍天二師。○宗師とは、漢和の五祖なり。○等とは向内向外の二義ある中、今は向内等にして等と云う。○拯濟は、拯は救手にて救うこと、舟にて渡るを濟と云う。○無邊とは、有情界は無邊の故に。○極濁悪とは、当今は末法濁世の極なるが故に。○道俗時衆とは、所対を擧ぐ。出家の二衆(男女)を道と云い、在家の二衆を俗と云う。是れ高祖在世の衆を将来の衆生を攝す。○共同心とは、智愚善悪を簡んで七祖を持取するなり。即ち他師の説を信ずべからずと簡び、唯七祖所説を信ずべしと持取するなり。○斯高僧説とは、七祖の説なり。他師を去り、七祖隨自意の説を信ずれば即ち二尊の悲に契ふ。七祖の勸める処、顯大聖興世正意、明如來本誓應機にあるが故なり、可仰。 已 上