明朗百話


 真宗末代の明師

御開山様(ごかいさんさま:親鸞聖人)が御往生あそばしてからは最早や六百五十余年になるが、
それは有形(ゆうけい)の御尊体(ごそんたい)のことである。
その御精神は今も現に『教行信証』となつて私共を導いて下されてある。
そこで「真宗末代の明師」と仰せられてある。末代とは即ち今日(こんにち)のことぢや。
今現に吾々の往生の先達(せんだつ)をなされて下されてある。
そこで又「こゝに祖師聖人の化導(けどう)によりて法蔵因位(ほうぞういんに)の本誓(ほんぜい)を聞く」
とも仰せられてある。

 質素(しっそ)と廉潔(れんけつ)

前門様(明如上人)は冥加(みょうが)を思ふて極めて質素にはなされたが、
おかくれになるまで只の一度も金に御手(おんて)をさへられた事はなかった。すべてお側が監督した。
なるほどうといと云へばそれ切りであるが、然(しか)し精神界の大王には、こんな豊かな所がほしいものぢや。
もうかるもうからぬでは人間の精神は救済できぬ。
こんなに金銭(かね)にきれいにならうと思へば佛物(ぶつもつ)と云ふことを心にとめて
常に冥加(みょうが)を重んじて質素を旨とすることが第一である。
これしきのことと思はぬことぢや。金時計一つの贅沢は中々金時計一つではすまぬ。
帯も着物もと云ふ風にかさむものぢや。

 口先ばかりの体操

君等が子供に修身教育(しゅうしんきょういく)をするのに、昔の聖人はこうしたからお前達もこうせよ。
昔の賢人はこうしたからお前達もこうせよと云ふのでは、甚だ効果が薄い。
わしは毎日こうして居るから御前達もこうせよ、と云ふのでなけりや、
恰度(ちょうど)ふところ手のまゝ口先ばかりで体操を教へるやふなものである(某小学教師への訓話)