第八世 明覚法師 |
---|
第七世浄覚の娘に入江五郎次昌を婿養子として迎え、利井房の住持となす。本願寺第十世証如上人によって得度をする。 この頃、摂州高槻の城主、高山右近は基督教(キリスト教)を信奉しており、その領地の仏寺を破壊する。東五百住利井房もまた、右近の領内にあった為、同国山田ノ庄に退き、住すること二十余年。後に旧地に帰り、再び寺を建つ。 時に文禄四年八月なり。この折に本願寺第十一世顕如上人より、寺号を「常見寺」と賜る。然れども、利井の由緒の義を申し上げて、古例に従い、「利井常見寺」と賜る。これを当寺の規範とする。 元亀元年より石山の合戦が起る。摂州の念仏者、大いに護持に努め、明覚も大に功をあげる。後に顕如上人より賜ったご消息を機縁に、摂津十二日講が始まる。 慶長元年三月四日往生する。行年欠。 |
第九世 明善法師 |
---|
童名を久松、後に又十郎勝治と称する。 第八世明覚の第二子。本願寺第十二世准如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 慶長七年、本願寺の東西分派に当たり、准如上人より御直命を蒙って、御消息を受け、昼夜を隔てず、諸方の法 中門徒中に、その趣を伝えたる。よって、今日、摂州四百余ヶ寺の本派末寺あるもの、実に明善一人の力なりと 言うべし。 寛永元年六月一日往生する。行年五十九歳。 |
第十世 明久法師 |
---|
第九世明善の子。本願寺第十三世良如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 寛文八年二月往生する。行年欠。 |
第十一世 明鑑法師 |
---|
第十世明久の子。本願寺第十三世良如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 馬術に長けており、良如上人がこれを御覧になり御馬を賜る。 また、上人が富田本照寺に御成りの際、御先駆(先導)の役を仰せつかる。 貞享元年六月十四日往生する。行年欠。 |
第十二世 明順法師 | |
---|---|
第九世明善の弟(景次)の第二子(景勝)の実子にして、俗名を入江九郎八と称する。第十一世明鑑の娘を室として婿養子となる。本願寺第十四世寂如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。当寺の中興である。 |
|
元禄八年 | 十二月、釣鐘免許 |
元禄十四年 | 十二月、本堂・鐘楼・堂門等を建立する。 |
宝永六年 | 十二月、喚鐘免許。 |
正徳四年 | 十一月八日、当寺由緒書を差し出し余間に昇進する。 |
慶安二年 | 九月、聖徳太子・七高僧御影御免許あり。 |
享保四年 | 十二月十六日往生する。行年欠。 |
昭和の本堂大修復の際、本堂の瓦を下ろしたところ、その多くに貞享二年の年号が刻まれていた。これ沿革に示される元禄十四年の十六年前にあたる。おそらくは長期にわたり本堂・鐘楼・山門等の建築整備がなされ、完了した年が元禄十四年であったと推定される。 |
第十三世 達明法師 | |
---|---|
第十二世明順の第二子。本願寺第十五世住如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 |
|
享保十一年 | 一月、寂如上人御影御免。 |
享保十六年 | 五月、仏室御免。 |
寛延四年 | 三月十一日往生する。行年欠。 |
第十四世 明盛法師 |
---|
第十三世達明の子。本願寺第十七世法如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 宝暦六年九月三日往生する。行年二十二歳。 |
第十五世 明学法師 | |
---|---|
第十三世達明の子。明盛の弟なり。本願寺第十七世法如上人によって得度をし、利井常見寺の住職となる。 |
|
宝暦八年 | 祖室免許。玄関・太鼓楼を再建する。 |
天明六年 | 七月五日往生する。行年四十六歳。 |