第十八世〜第二十二世


第十八世 明朗法師

第十七世明顕の嫡子。本願寺第二十世広如上人によって得度をする。父(明顕)の逝去により、八歳にして利井常見寺の住職となる。
 
少年の頃は宗学を弟の鮮妙と共に、肥後の僧亮を師に受け、国学を淀藩の的場先生に、漢学を松浦亦堂に学ぶ。
 
十八歳にして、本山総会所詰合を命ぜられる。
二十三歳にして、大学林に於いて「玄義分」序題門を講義する。
 
元治・慶応年間 度々、京都と大阪を往復して、南渓・超然・月性・宏遠等の先輩と議論して、一派の宗義を定める。
明治元年 本山・朝廷より命を受け、禁闕(皇居の門)の守護に当たり、その人数の乏しき事を憂い、速やかに帰国して、数十人の同志を募り、一隊を整えてその長となる。

また、岩倉具視・大原重徳両卿の命により猿ヶ辻の御警衛の任に当たる。
明治四年頃より 一宗の基礎は宗学精通の学僧を育成するに在るとし、連枝日野澤依(明如上人の実弟にして、富田本照寺に住す)を動かし、三島郡に於ける東西両派の僧侶を集めて、練学場と名付けて富田本照寺内に置く。
 
これ後年、京都に於いて、顕道学校及び普通教校を設ける規範となる。
明治五年 明治政府が神道国教化と並んで尊皇愛国思想の教化を、対宗教政策の柱に据えた「三條の教則」をもって国民教化を計るなど、真宗に厳しい情勢の中、真宗各派の有志と往復して、宗教統制の教化目的で設置された教部省の方針に対して、一宗の宗義を論じ、明如上人を助け門末を激励する。この時、三條の教則に就き、神仏各派管長列座の中、真宗の説教をなし人民布教の範を示す。
明治七年 本山布教課庶務を命ぜられ、一派の布教を策進する。
明治八年 五級出仕教用係を申し付けられる。

代表管長大谷光塋より、京都府下西派取締を命ぜられる。この時、本山に建議して、各地に小教校を設け、人材育成を計り、十一月よりこれを行う。
 
五月、教育課副長を命ぜられる。
五月、教部省より大講義を任ぜられる。
六月、準議事を申し付けられる。又、維新前後の勤労を賞して、明如上人御染筆「専精舎」の三字額を賜る。


在京の有志と共に、一派の興学布教のため、興隆教社を起こし、雑誌『興隆新報』を発行する。

十一月、一派の僧として、宗祖の精神が傾注されている立教開宗の著述を所持し、拝読すべきことを建議し、本山の達示を以って、門末僧侶の得度の際に、本典一部を授与する事に定める。
明治十一年 大教校(今の龍谷大学)建設の為、各地に出張して門末を勤募する。
 
開基浄空六百回忌を修し、記念として経蔵を建てる。

 〔左:経蔵・右:閲蔵寮〕

明如上人は本願寺内部で勢力を拡大しすぎた長州閥の本山役員を悉く罷免する。さらに本願寺を東京に移し古い体制を断ち切る大改革を試みるが、一派おおいに動揺する。この際、上人を諌め一派の動揺を制止する。
明治十三年 五月、広島に出張し、二十万円の教学資金を募り、崇徳教社を建て、進徳教校を設立する。
明治十四年 三島郡の僧侶を会して崇徳会を起こし、地方教学の振興を図り、今日までなお継続する。
明治十五年 四月、富田本照寺日野澤依と協力し、本照寺境内に私立「行信教校」を設立する。
明治十八年 十二月、行信教校を自坊内に新築移転する。
 
   〔行信教校全景〕      〔行信教校正面玄関〕
明治十九年 一月八日、執行長に任ぜられ、内局長兼奉仕科主任を命じられる。翌年、執行長を辞し、さらに執行兼理事科長奉仕科長を命じられる。
明治二十六年 当地方将校演習の際、第十師団長、伏見宮貞愛親王は軍務の余暇に常見寺に御成りになって、ご昼食をされ、玄関・庭先の松の樹に「待月松」の銘を賜り、後また御染筆を賜る。

〔左:待月松全景・右:銘碑〕
明治二十九年 一月二十三日、行信教校、校長の職に就く。
明治三十年 一月十日、法義示談所取締を命じられ、二月十五日、護持会総裁を命じられる。

五月、各宗管長会議に、法主代理として出張を命じられる。
明治三十一年 中宗大師四百回忌に侍真の加勢を命じられる。
 
四月二日、「心浄院」の院号を賜る。
明治三十三年 教学振起の法を、法主に建言される。
明治三十六年 明如上人の御遷化(御往生)に際し、二月、御葬儀の副行事を命じられる。
大正三年 三月二十一日、宗政刷新の為、保正役を命じられる。
 
六月十日、大谷家嗣子照君保伝役を命じられる。

六月二十八日、執行長を命じられる。時に老齢八十三歳なれど、当時前法主引退の後、人心動揺し、宗門の前途憂慮に堪えず、決起して宗政統理に当たる。以来在職五年、人心安定し、派内の道俗の適帰する所を過らず。
 
四月、本山講を創設する。

七月、大正天皇御即位記念事業として、日曜学校創設を企画して、その規定を発布する。
大正七年 九月、老体重病にして、再び起きることが出来ぬと思い執行長を辞す。

十一月十七日、本山より特に黄朽葉の衣体を許される。(通常は死後に許可される事が普通であり、生前の許可は甚だ稀有である。)
 
十一月十九日、午後二時二十分、京都西六条の仮寓に於いて往生する。行年八十七歳。本山より墓地を西大谷に賜り、木辺孝慈上人、その墓面に書し給う。


第十九世 鮮妙法師

第十七世明顕の第二子。第十八世明朗の弟。本願寺第二十世広如上人によって得度する。 
弘化四年 二月より、美濃の行照勧学に従って宗学を修める。
嘉永七年 九月より、肥後の僧亮に従って宗学を修める。
明治四年 一月、兄の明朗に嗣子なき故に、利井常見寺の住職となる。この頃、時々京都に出て、松島善譲勧学の提嘶を受ける。

五月、権訓導に任ぜられる。
明治六年 六月、本願寺より(学階)得業を授けられる。
明治七・八年頃より 宗学研究の塾を設けて専精舎と称する。

後に行信教校の常見寺移築に際し、同一化され、その名を失うものの、勧学昇階を機縁として、行信教校の同窓による専精舎が結成される。
明治十四年 四月、(学階)助教に進む。

十月、権大講義となる。
明治十五年 四月、兄明朗と共に行信教校を創設する。

後、明治十九年四月常見寺境内に新築移転する。生涯真正なる僧侶を育英するを以って任となし、その門に入るもの二千人余り。


 〔行信教校記念撮影 明治26年6月25日撮影〕

明治十五年 七月、(学階)補教に進む。
明治二十一年 六月、(学階)司教に進む。  
明治二十九年 一月、(学階)勧学に至る。これを機縁として行信教校の同窓生が一同に集まり、鮮妙より宗学を学ぶ専精舎を結成する。
明治三十九年 二月二十六日、病を患い、住職を嗣子興隆に譲る。然れども学徒を教養して、倦むことなく身をもって範を示す。
明治四十一年 安居本講に『般舟讃』を講ずる。
大正二年 十二月、再び病になり、木辺派管長孝慈上人親しく病床に臨みて慰撫される。
大正三年 一月一日往生する。行年八十歳なり。院号を「専精院」と賜る。本山より西大谷に地を賜り、墓碑を建つ。近松尊定(管長代理)の書に係る。
大正十二年 四月十五日、本山立教開宗七百年記念法要に際し、追彰せられる。

著書に『宗要論題決釈編』十巻・『安心決定鈔法話』二巻・『安楽集要解』・『二巻抄講録』・『述懐和讃法話』・『歎異鈔法話』・『夏御文講話』・『六字釈法話』・『七祖教格略記』各一巻等あり。その総数は百部に余る。



附 隆明法師

第十九世鮮妙の嫡子。慶応三年誕生。本願寺第二十一世明如上人によって得度する。
 
初め練学教校に学び、幾千ならずして卒業し、本山学寮に入る。しばしば書を家族に寄せては法義を勧る。生来
温良にして、閑静を好み、道心は最も深く、又詩書をされ楓外と号する。遺稿一巻あり。諸師哀悼の詩歌を併せて
載せる。

                                                         
明治十四年十一月十三日往生する。行年十五歳。伝聞するもの皆、その夭殤を惜しむ。
明如上人より特に諡号して至誠院と賜り、(学階)得業を贈られる。
 

第二十世 興隆法師

第十九世鮮妙の第二子。本願寺第二十一世明如上人によって得度する。
明治三十七年 第三仏教中学を卒業する。後、行信教校にて鮮妙法師に宗学を学ぶ。

十二月五日、教師を命じられ、同月七日、副住職となる。 
明治三十九年 父鮮妙法師が病に臥した為、利井常見寺住職を継職する。 
明治四十年 三月、行信教校を卒業する。

四月より五ヵ年間行信教校研究科に在学する。 
明治四十五年より 行信教校助教授(今の非常勤講師)となる。 
大正三年 一月より、行信教校講師(今の常勤講師)となる。
 
専精寮を本堂裏手に新築する。
大正四年 経蔵に隣接して閲蔵寮を建てる。

 〔左:経蔵・右:閲蔵寮〕
大正七年 十一月、行信教校校長の職に就く。
大正十三年 一月より、外に思想の頽廃と、内に異解の興起とを嘆き、各地に「専精会」を創立して、全国に渉りその趣旨を宣布する。支部五十余ヶ所にして会員は約一万人に達する。
昭和二年 四月十五日、執行所出仕に任じられ、親授をもって待遇せられる。

七月より、行信教校事務所・食堂二階の建・改築を起工し、同年中に落成する。
昭和六年 六月二十五日より、行信教校を二階建てに改築専精会館を新築を起工し、昭和七年五月に落成する。
(行信教校校舎南西の定礎に「昭和六年六月二十五日 興隆」と刻まれている)
昭和九年 門信徒の教化に尽くしていたが、軍部の力がとみに強くなり、聖教の「勅命」等の文字の禁止・削除を強いられる。これに対し、単身大阪府庁に赴き、その使用の了承させる。また後に『御本典』『御伝抄』の文字改正を迫られし時も、「聖教は祖師のみことぞ末弟の一加一減すべきにあらず」と孤軍奮闘、余生の全てをかけて徹底して抵抗される。
昭和二十一年 正月、長期にわたる「御聖教問題」が解決する。「中外日報」に「以後、真宗は構いなし」との記事がでる。

一月十五日往生する。行年六十四歳。この日の朝、本願寺より「聖教の字句訂正旧に復す」と発令がなされる。


第二十一世 興弘法師

第二十世興隆の嫡子。 大正十三年四月十六日に得度する。
昭和十一年 九月十日、教師習礼終了をもって、本願寺より教師を命じられる。  
昭和十六年 十二月八日、真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が開戦する。末期において出兵を命じられる。
 

この出兵に際し、父興隆は「お前えが先ならおれを待て、おれが先ならお前を待つ」と言われたと伝え聞く。互いにいつ死ぬか解らぬ命、娑婆の縁尽きたならば、確かに往生させていただけるという覚悟(安心)が肝要であると、真宗安心の中、命ある限り生き抜くよう念じられた言葉である。  

昭和二十一年 六月、父興隆の往生の五ヶ月後に第二次世界大戦の従軍より復員する。この後、利井常見寺住職を継職する。
昭和二十二年 四月、遠藤秀善校長に引き継ぎ、行信教校校長に就任する。当時、行信教校は在学生一名、また校舎や寺の境内は敗戦時まで高槻の陸軍工兵隊に接収され、荒廃を極めていた。物心両面に疲弊の底にあって、行信教校の復活に力を注ぐ。
 
また、父興隆の創立した各地五十余ヶ所に及んだ「専精会」も、戦後の混乱期にあって、その殆どが閉会、あるいは休会となっていた。これを父興隆の遺志を受け継ぎ、全国専精会の復興・育成に山本佛骨勧学と共に奔走する。  
昭和二十六年 七月一日、本願寺より布教師に任ぜられる。
昭和五十二年 四月、門徒より真宗教義を体系的に学ぶ講座開講の申し出があり、この年より春・秋の二季に各五日間にわたる「真宗の成人講座」が開講される。
昭和五十七年 四月、住職を長男明弘に譲る。
平成二年 八月二十三日往生する。行年八十歳。  

著書に『道を求める人々へ』『仏のいのちはわがいのち』『よすみ法語』『光と花』『愛情の表現』『現代真宗』
『親鸞聖人讃話』『親鸞慕情』『味の歳時記』『歎異抄体解』『母親学級』『才市念仏抄』『続才市念仏抄』『短編
真宗法話』等あり。

戦後の混乱期を乗越え、御法義宣布に力を注がれた興弘は、晩年たくさんの著作を残されている。そのど
れもが、僧侶向けの専門的なものではなく、自身が日常生活の中で味わわれた御法義を中心に著されてい
る。食事時や入浴時、それこそ「行住坐臥に時節の久近を問わず」、日頃から御念仏申され、日常生活の
中で如来様に照らされている事を味わっていました。



第二十二世 明弘法師

第二十一世興弘の嫡子。 小学校就学前の頃、カリエスを患っており、ひと夏門司にて療養する。その際、赤痢に罹り、高熱に侵されるが、その高熱が為にカリエスの病原菌が死滅し、カリエスが治癒する。
昭和三十五年 三月、龍谷大学文学部真宗学科を卒業する。
 
八月十五日、本願寺第二十三世勝如上人によって得度する。  
昭和四十一年 八月三十日、教師習礼終了をもって、本願寺より教師を命じられる。
昭和四十三年 四月、行信教校講師に就任する。  
昭和四十四年 八月、本願寺大阪教区の布教主事に就任する。これに伴い同年九月一日、本願寺より布教師に任ぜられる。
  
昭和四十六年 三月、本願寺大阪教区の布教主事を退職する。
 
昭和五十七年 四月、利井常見寺の住職となる。
 
昭和六十二年 十一月一日・二日、本堂大修復慶讃法要を勤修する。昭和六十年より計画・準備をし二ヵ年かけて、瓦屋根の総葺き替えから内部の畳・荘厳に至るまでの大修復である。
平成元年 九月二十七日、本願寺第二十四世即如上人、島上西組の御巡教に際し、行事寺院として御門主を御迎えし、当寺において式典・法座が厳修される。
平成二年 九月、行信教校校長に就任する。
平成四年 十月、行信仏教文化研究所々長に就任する。
平成六年 五月より、本願寺第二十四世即如上人の南米開教区御巡教に際し、随行布教師の任を命じられる。  
平成十年 十一月十一日、本願寺第八世蓮如上人五百回遠忌法要に際し、特命任命布教師を任ぜられる。
平成十四年 四月、(財)行信教校の理事長に就任する。
平成十五年 十二月八日往生する。行年六十七歳。

著書に『永久の光に‐十二光讃法話‐』あり。

常見寺住職継職以前は、季刊誌ウィズを発刊したり、国鉄(現JR)のディスカバージャパンキャンペーンとし
て、「寺の宿」の企画を電通に持ち込み実現したり、日曜学校の生徒と共に半年間ブラジルの開教区の別
院を回り子供の教化にあたる等、多岐に渉って活動をする。


住職継職後は、前住職同様に各地専精会や成人講座、各地寺院の法座等における布教活動や、当寺門
信徒の聴聞の御縁として常例法座(聞法会)を始める。また自らの研鑽と僧侶の研修の為の勉強会(僧伽)
を全国約十ヶ所にて開催する。


この他聴聞の機縁にと寺報『常見寺だより』を発刊する等、道俗の両面に対し御法義聴聞の御縁を結ぶ事
を本旨とする。