仏教と仏さま |
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仏教とは、仏さまの説いた教えであり、仏さまに成る教えという意味です。 仏さまの説いた教えの内容が仏さまに成る教えとも言えます。 最初の仏さまの説いた教えと言った時の仏さまは基本的にはお釈迦さまを指しています。基本的にというのは、お釈迦さまが直接説いてはいないけれども、お釈迦さまのお悟りに適ったものも含まれるからです。 となると誰が説いたという事も大切ですが、何が説かれているかの方が重要になってきます。 つまり、仏教とは「仏さまに成る」という事が根本の宗教という事になります。 では、仏さまに成るとはどういう事でしょう? そもそも仏さまって何なんでしょうか? 仏さまという生物に変身することでも、死者を指す言葉でもありません。 お釈迦さま自身も仏さまに成られたお方です。 仏さまの本来の正しい言い方をすればインドの言葉でブッダ(仏陀)と言います。 その意味は目覚めた者(覚者)という意味です。 中国の善導大師の『観経疏』(『註釈版』七祖篇P301)には、 「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」 と言われています。 自覚(じかく)とは、自らの迷いの根本である煩悩を断ち切り、真理(真実の因果の道理)に目覚められたという事です。 覚他(かくた)とは、自分だけが迷いを断ち切って安らかな境地に安住するのではなく、まだ迷いの中にあるものを真理に目覚めさせて安らかにしようとする事です。 覚行窮満(かくぎょうぐうまん)とは、自覚と覚他が完全に完成し、実践されているという事です。自覚・覚他を行ってはいるが、まだ修行途中で完全ではない者を菩薩と言います。 さて、もう少しやわらかな言い方をすれば、 仏さまとは、自らの煩悩を断ち切って迷いを離れ、真実の因果の道理を知り尽くして、あらゆる命が互いに支え合って一つの大きな命の営みをしていると知る智慧を完成します(自覚)。そうして、あらゆる命を平等で尊いものと敬い、また慈しみの心を起こして、未だ煩悩を抱えて苦悩する者には安らぎを与えていこうと慈悲の活動(覚他)をしていくのです。そうした真理に目覚めた生き方を常に実践されている方を仏さまというのです(覚行窮満)。 つまり仏さまに成るとは、そうした真理に目覚めた生き方(智慧をもって慈悲の活動)をする者に成るという事です。 そして、仏さまのような生き方こそが真に心安らかな生き方で、尊い生き方であると仰ぎ敬い。 自分もそのような生き方をしたいと願い、仏さまのような生き方を目指して仏道を歩むものを仏教徒というのです。 仏教は「私たちの生き方」を説く宗教なのです。 |
さまざまな仏さまは何が違うの? |
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先の説明で仏さまとは真理に目覚めた生き方をする者ですと解説をしました。 お釈迦さまも阿弥陀さまも諸仏がたも、みな仏さまですから、煩悩を断ち切り、真実の因果の道理(真理)を知り尽くすと言った自覚(智慧)は全く同じです。煩悩が残っていたり、真理を知り尽くしていないようなでは仏さまとは呼べません。 では、何が違うのかと言えば、慈悲の活動が違うのです。 例えるならば、お医者さんのようなものでしょう。お医者さんと言えば、医師免許をもち医学の知識に精通している方をお医者さんと呼んでます。その医学の知識をもって医療行為を行うときに、外傷を治すお医者さんなら外科医、内臓疾患を治すなら内科医、子どもを治療しようとするなら小児科医とその医学の知識の活用によって呼び名が変わります。 仏さまも似たようなもので、真理を悟った智慧は同じですが、その真理に基づく慈悲の活動が異なるのです。 心や体の病に苦しむ者を救おうとされている薬師如来。 獅子が吼える如く勇猛な姿で聞くものを信順させる説法をされる獅子仏(獅子吼仏)。 など、その慈悲の対象や活動の様相が違うのです。 そして、そのお慈悲の活動(はたらき)を表しているのが仏さまのお名前です。お釈迦さまは釈迦族から出られた仏さまだから釈迦如来(釈迦仏)と固有名詞の仏名ですから例外ですが、他の仏さまはみなそれぞれの仏さまのおはたらきを表わしているのです。 またお慈悲のはたらきの具体的な内容を表わしているのが仏さまが建てられたご本願なのです。 ご本願についてはまた別の機会にお話しします。 このようにさまざまな仏さまは慈悲活動が違うのですが、これを大きく分けると相手の苦しみに応じて、あるいは相手の修行能力に応じて教えを説くという随他意(ずいたい)〈対機説法や応病与薬の説法の事〉と、仏さまが自らの悟られた真理のままに一切を分け隔てる事なく救おうされる随自意(ずいじい)とに分けられます。 この随他意の法門は仏さまが悟られた真理の一分の慈悲活動であるから方便の教えと言われ、 随自意の法門は仏さまが悟られた真理の全分の慈悲活動であるから真実の教えと言われます。 言い方を変えれば、真理(真実のことわり)の前には、一切の分け隔てが無いのです。 「諸行無常」の真理は、老少善悪の分け隔てはありません。悪人だから諸行無常、善人はそうでないなんて事はありません。いやそれどころか人間も、犬もネコも、花も木々も、飛行機だろうが車だろうが、あらゆる物が諸行無常のことわりから逃れるものはいないのです。 千年前だろうと、千年後であろうと諸行無常は諸行無常です。 インドだから、日本だから、、、たとえ宇宙の果てまで行っても諸行無常は諸行無常です。 真理とは、時間も空間もどんな者(物)であろうと分け隔てがないのです。 随他意の法門は対機説法で、実践行ですから、悪を廃して善を修めて仏さまと同じ悟りをひらこうとする法門ですから、悪人のまま救われることはありません。また善を修する上でも多善を積む者、少善の者とその能力に応じて分け隔てがあるので、教えそのものは真理に基づいていますから間違いではありませんが、真理に合致した教えとはいえません(真理の一分)。つまり、真理に至らせる為の教え(方便の教え)という事なのです。 随自意の法門は、仏さまのお悟りになった真実真理のままの救済活動ですから、衆生の能力や状態などは一切分け隔てせずに、ただ仏のはたらきのみをもって悟りへ至らしめるのです。つまりは仏のはたらき=真理のはたらき(真理の全分)の教え(真実の教え)という事なのです。 阿弥陀さま以外の諸仏の教え(自力聖道の法門)は随他意(方便)の法門であり、仏力(仏願力)ひとつで一切平等の救いをされる阿弥陀さまのみ教えこそが随自意(真実)の法門であるとするのが浄土真宗です。 |
「南無阿弥陀仏」ってどういう意味? |
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無量の寿命と光明をもつ阿弥陀仏の衆生救済を疑いなく聞き入れ、その教えにしたがう。という意味です。 「南無阿弥陀仏」は古代インド語を音写した語です。南無とはナマスの音写で、その意味から漢訳すると帰命となります。帰命とは帰順教命の事で、そのみ教えに身をゆだね随順することです。また阿弥陀とはアミターユス(無量寿)・アミターバ(無量光)、仏とはブッダ(覚者)という意味です。つまり阿弥陀仏とは無量の寿命と無量の光明をもって衆生を救済される仏さま(真理に目覚めた者)と言う事です。 無量の寿命をもっておられるという事は過去も現在も未来の衆生も時間的制約なく救済することが出来る仏さまであると言う事です。また、光明とは仏さまのおはたらきのことですから、無量の光明をもっておられるとは、仏さまの衆生救済のおはたらきが、あらゆる空間的制約なくまた、数量的な限界もなく。しかも、何ものにも妨げられることなく、衆生にゆきわたるというのです。 このように寿命無量・光明無量であるから、三世十方のあらゆる衆生を救済することが出来るのです。 この阿弥陀仏のおはたらきを漢訳から示されたのが、「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)・「南無不可思議光如来」(九字名号)です。 親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」のおいわれを明らかにされるのにこの十字名号や九字名号を用いられます。それは「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏が、「阿弥陀さま、助けてください」と称えれば救われるというような呪術的な念仏ではありません。阿弥陀仏のはたらきが、今私に届いているすがたが「南無阿弥陀仏」であるとお示し下さっているのです。 阿弥陀さまの救いは絶対無条件の救いです。極論をすれば阿弥陀仏を知らない者も必ず往生成仏せしめるのです。しかし、それでは阿弥陀仏を知らぬ者などには自分が既に往生成仏する身になった事を知らずに、生老病死の苦悩を抱えたまま死を迎えねばなりません。それは本当の救いではありません。 ですから、阿弥陀さまは第十八願に「あなたは死んでおしまいの命ではない。あなたは浄土に生まれ仏さまになる身である」と阿弥陀さまの救いを私たちが疑いなく聞き受けられるようにするとお誓いくださり、さらにはその者(信心獲得の者)が煩悩を抱えつつも仏さまの智慧と慈悲に照らされて、仏さまを仰ぎ、自身を省みながら生きるように、常に仏さまのおはたらきを感じながら生きるように、お念仏を称える生き方を与えて下さったのです。 私たちは煩悩具足の凡夫です。仏法に触れている間は阿弥陀さまを仰ぎ、自らが自己中心的にしか生きれない身であると省みる事が出来ますが、日常に戻ればすぐに仏法を忘れ、当たり前のように自己中心的な世界で我欲に振り回されながら自ら苦悩の中に沈んでいきます。そんな身だからこそ、お念仏を称えるたびに自己中心的な世界から阿弥陀さまを中心とする世界へと何度も何度も目覚めさせていただくのです。 その私を目覚めさせるおはたらきが「南無阿弥陀仏」であり「阿弥陀仏」なのです。 大事な事は、「南無」はどういう意味、「阿弥陀」はこういう意味って頭で考えるのではなく、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるたびに、今現に阿弥陀さまの智慧と慈悲に包まれている事を味わう事が大切です。 その上で阿弥陀さまがどれほど私を想っていて下さったか、私自身はどのような生き方をしているか、阿弥陀さまの深いお慈悲の心をお聞かせ頂きましょう。 |
菩薩と聖者と凡夫 | ||||||||||||||||
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菩薩とは菩提を求める者という意味です。ですから広い意味では仏さまのように成りたいと願う仏教徒全体を指 します。その仏教徒(菩薩)を52段階に分けた物が菩薩の五十二位というものです。経典によって分け方や数 が異なりますが、今は『瓔珞経』を基に表にすると次のようになります。
広義にはこうした仏道を歩む者を菩薩といいますが、狭義には煩悩を断滅した聖者(十地・等覚)を菩薩と言い ます。 煩悩を断滅した聖者に対して、私たちのように煩悩を具足する者を凡夫と言います。 その凡夫の内、出家をし仏門に入った者を内凡、在家生活の中で仏法を信奉している外凡とに分けられます。 そして内凡も外凡も共に仏さまを信奉し仏道を歩むので善凡夫とし、煩悩の赴くまま仏法に背いて生きている者 を悪凡夫というのです。 |
善と悪 |
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善とは、自分も他人も楽果を与える行いを善といい、 悪とは、自分にも他人にも苦果を与える行いを悪といいます。 仏法でいう楽果とは仏果を得る事です。即ち、仏法でいう完全な善行とは、煩悩を断じ智慧を得て自ら安穏 なる境地に住するとともに、未だ煩悩の苦界に住する者に仏陀の成らしめようと慈悲の活動(自利利他 円満なる仏陀のはたらき)をいうのです。 その仏陀を善の基準とし、それに準じて生きようとする者を善人といいます。 対して、自己中心的な想念を基に好きなものは手に入れようとし、嫌いなものは排除しようと自らの欲求を求め、 その結果、自分をも他人をも苦しめる行いを悪行というのです。即ち、煩悩の赴くままに生きる者を悪人というの です。 つまり、煩悩具足の凡夫は元来、悪行ばかりの身でありますが、仏法に遇い自らの煩悩の愚かさを省みて仏さ まのような生き方を目指す者を善凡夫と言い、仏法を知らず自らの煩悩を満たすことが幸せだと誤解しながら悪 行を続ける者を悪凡夫というのです。 仏教では「知って行う悪と、知らずに行う悪とでは、知らずに行う悪の方が罪は重い」と言われます。 知らずに行う悪は、悪を悪と知らない為に何度も同じ悪行を繰り返して行います。悪を悪と知ったものは、自らが 悪を行ってしまった事を省みて、次は悪行を行わないようにと自制しようとします。だから知らずに行う悪の方が 罪が重いというのです。 |
『観経』所説の往生行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『観無量寿経』には聖者と凡夫の往生行として、定善・散善と念仏三昧の行が説かれる。 【定善行】 聖者の往生行で、息慮凝心(慮りをやめ心を凝らす)をもって阿弥陀仏とその浄土を観ずる観仏三昧の行で十 三観ある。
【散善行】 凡夫の往生行で、散乱心のままに行う廃悪修善の行で、三福行と言われる。 【念仏三昧】 三福無分と言われ、悪行を行う悪凡夫が臨終に念仏のご縁にあって往生する様が説かれる。ただし、『観経』顕 説念仏は悪人のみを救うように説かれるが、隠彰仏意の念仏は一切善悪平等に往生せしめる念仏でなので す。
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悪凡夫(誹謗正法と無明) |
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先の九品で最も重い罪は五逆罪ですが、仏法においてさらに重い罪は誹謗正法です。 この誹謗正法は曇鸞大師の『往生論註』に依れば「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法をいう」とあります。 それは自分自身の生き方に仏さまを仰ぐ思いも無ければ、仏さまの教えを尊ぶ事もなければ、仏さまを目指す 菩薩も、その教えも何の意味もなさないような生き方をする者をいうのです。ただ自己中心的な想念をもって、自 己に都合の良いものを善とし、都合の悪いものを悪とするようなな生き方を当然とする者で、仏法の枠外にいる ような者をいうのです。 しかしながら、これは凡夫の本性です。元来、私たちはこのような仏法に背いた生き方を当たり前にしな がら生きているのです。 ですから、そうした仏法の灯りの無い生き方を「無明」と呼ぶのです。(またその生き方の根本である自己中心的 想念も無明と呼びます) その無明の者が仏法のご縁に遇って、自らが仏法に背いた罪深い者であったと気づかされたとき、はじ めてこの者を「誹謗正法」と呼ぶのです。そして、それはすでに仏法の無い生き方ではないのです。 親鸞聖人は元来、無明の身の私が阿弥陀さまの本願に照らされお育てを頂いて、自らが誹謗正法の身であっ たと気づかされ、はじめて自分が悪凡夫の身であったと自らは「下品下生の身」であると味わわれたのです。 私たちはひとたび阿弥陀さまのみ教えを聞いて、悪凡夫と知らされても、すぐに自己中心的な生き方を当たり前 にした誹謗正法の生き方に逆戻りします。だからこそ「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、何度も何度も阿弥陀さまを 中心とした仏法の中に身を置き、阿弥陀さまを仰ぎ、自らの身を省みる生き方を賜るのです。 |