作法とお荘厳


 お仏壇は何のためにあるの?

お仏壇はご本尊(阿弥陀さま)をご安置するものです。

お仏壇の大きさや形状は様々ですが、そのお飾りは阿弥陀経に説かれるお浄土のおすがたを元にしているといわれています。即ち、お仏壇は阿弥陀さまと阿弥陀さまのお浄土を模したものです。

常に煩悩を中心とした私たちの日常において、阿弥陀さまを仰ぎ、自らを慎む場所であります。
また、先祖や亡き方を偲び、亡き方と遇う場所であるとともに、
私もまたそのお浄土に往生させていただける倶会一処(ともに一つ処で会う)を喜ぶ場所でもあります。

また、お仏壇やお寺の本堂にお参りしますと、私たちの中心が変わります。日常の中では私たちは自分を中心に生きています。ところが、お仏壇や本堂にお参りするときは自然にご本尊である阿弥陀さまが中心になります。こうした意識転換が行われる場所を宗教空間と言うのです。

いつもは私が見ている世界を生きていますが、この宗教空間では仏さまに見られている世界に身を置くのです。

仏さまからは「煩悩具足」「罪悪深重」の凡夫と呼ばれる私。自己中心の世界では煩悩を煩悩とも思わず、罪悪を犯している自覚も全くない無智無慚な生き方しか出来ない私に、仏さまを中心とした世界に身を置いた時、自覚はなくとも、はじめて「煩悩具足」「罪悪深重」と言われるような生き方をしていた事に気づかされるのです。そして、そうした身を必ず救うという阿弥陀さまのお慈悲の深さに喜びを味わうのです。

そうして、自分の生き方を見つめ省みながら、仏さまだけでなく周囲の全てに感謝していけるように、自身を整えていく場所がお仏壇や本堂といった宗教空間なのです。

阿弥陀さまを中心とした生活をおくりましょう。

  ご本尊と脇軸

お仏壇にご安置するご本尊は阿弥陀如来です。他の仏さまをご安置する事はありません。

その阿弥陀さまのご本尊には、仏像・絵像・名号(南無阿弥陀仏)の3種があります。いずれにしてもご本山に申請をして下付してもらいます。ご本尊は阿弥陀さまのおはたらきをあらわすものですから、市販の美術・工芸品などは用いないようにしましょう。ご本山に申請する際にはご本尊の寸法が必要になります。お仏壇をお求めの際にはお仏壇のサイズが何号かを聞いておくいて下さい。

大切な事は木像・絵像といった物そのものを礼拝するのではなく、
その木像・絵像を通して阿弥陀仏のおはたらきを仰ぎ、礼拝している事を忘れてはなりません。

ご本尊の両側には次の2種のうちのどちらかのお軸を掛けます。
※左右は阿弥陀さまからみて左右です。(左が上座になります)

 @左脇軸…親鸞聖人絵像(宗祖)、右脇軸…蓮如上人絵像(中興の祖)
 A左脇軸…十字名号(帰命尽十方無碍光如来)、右脇軸…九字名号(南無不可思議光如来)

@Aどちらの場合もご本尊同様にご本山から下付して頂きます。

 お仏壇のお荘厳(三具足と五具足)
 


・三具足(左から仏華・香炉・ろうそく)は平素のお荘厳で内敷きはしません。
・五具足(左から仏華・ろうそく・香炉・ろうそく・仏華)は法事や報恩講のお荘厳で内敷きをします。

お仏壇の大きさや形状は多少違っても、ご本尊、ろうそく、仏華、香炉があれば立派なお荘厳です。お仏壇のお荘厳は単なるお飾りや仏さまへのお供えの意味だけでなく、そのお荘厳が阿弥陀さまの救いをあらわしています。

ろうそくは阿弥陀さまの智慧、仏華は阿弥陀さまの慈悲、お香は阿弥陀さまのはたらきをあらわしています。

お仏壇のお荘厳からも阿弥陀さまのおはたらきを味わいましょう。

ろうそくと仏華については、こちらをご覧ください」。
お香は下記の「お香はなぜたくの?」をご覧ください。

  お香はなぜたくの?

お香をたく事は、その香りをもって、仏と浄土を荘厳し、その香りの特性をもって、
仏の功徳を衆生に与えてゆく他力のはたらきを知らせるのです。

お香をたくことは、香を薫じたり、身に塗ったりして、悪臭を取り除き芳香を生活の中に漂わすインド古来の習俗に由来します。これが仏の供養に取り入れられてきたのです。浄土真宗でお香をたくのは、仏の尊さと浄土のすばらしさ讃え、敬意を示すためのお荘厳としてお香をたきます。そして、お香の特性から阿弥陀さまのおはたらきを味わわせて頂くのです。

まず、お香にはそれを取り扱う人に自然にその香りが移るという特性があります。このお香の香りが、他にその香りを与えてゆく様から、阿弥陀仏のはたらきによって、衆生が念仏行者へとお育て頂く他力のはたらきをあらわしていると言われます。

元々、私たち衆生は念仏どころか、仏法に背き、自己の煩悩ばかりに終始する者でありました。その私が仏法を聞き、念仏するような身となったのは、決して私の功績ではないのです。阿弥陀さまが、この私を見捨てる事なく、はたらき続けお育て下さったおかげなのです。この香気が移るさまから、他力のはたらきを知らせるのです。
 
また、一つまみのお香の香りがあらゆる人に香ってゆく事から、阿弥陀さまの平等の慈悲を示すとも言われます。

お仏壇のお荘厳として香炉をたくことも、お焼香も同じ意味です。一人一人がお香をたき、仏に敬意を示すと共に、他力のはたらきを知らせて頂くのです

  お焼香の作法

お焼香は座ってする場合と立ってする場合とがありますが、基本的には次のように行います。

@焼香台の前に座る(立つ)と、 まず一礼(一揖〈いちゆう〉)をします。
A香盒(香を入れる器)の蓋を右手でとり、右縁にかける。(蓋が開いてる場合は開け閉めなしでOKです)
B香を一回つまんでそのまま香炉に入れ、 香盒の蓋する。
C合掌し、念仏を称え、静かに礼拝をしてください。
D最後に一礼(一揖)をして、次の方に順を譲ります。

注意!
お香をつまんで頭の前に上げる作法は浄土真宗では行いません。
また、お香を香炉に入れるのは一回だけです。

  お焼香はなぜ一回だけ?

宗派によってお焼香の回数やその意味合いも異なります。

まず真宗では煩悩や邪気を取り除くためにお香をたくのではありません。
また、先祖供養の為のものでもありません。

真宗でお香をたくのは、阿弥陀さまへの敬意をもって浄土のお荘厳をする意味合いと、阿弥陀さまの他力のはたらきを示すものです。(詳しくは「お香はなぜたくの」を御覧下さい。)

一つまみのお香の香りが、満遍なく行き渡り、あらゆる者にその香りを与えてゆく様は、まさに阿弥陀さまの平等の慈悲を味わわせて頂けます。

また、「南無阿弥陀仏」の名号には、阿弥陀さまの功徳が全て具わっており一声の念仏に私を往生成仏せしめる他力のはたらきあることを意味するのです。十遍二十遍と数多く称えなければ効果が無いような念仏ではないのです。このように阿弥陀さまのおはたらき(他力)を知らされ、味わう機縁としてお焼香は一回なのです。

一回は簡略、三回は丁寧などと、お香をたく衆生の側のはからいを中心にするのではなく、阿弥陀さまのお徳を中心にする事を忘れてはなりません。

  お焼香はなぜいただかないの?

浄土真宗のお焼香の作法において、お香をおしいただく(お香を額の前にあげる動作)はしません。

そもそも「おしいただく」という動作は大事なものをもらうときの動作なのです。賞状などをもらう時などに行う作法で頭上に挙げて大事なものを大切に扱う作法なのです。

真宗ではお香の香りをもって阿弥陀さまの功徳を示すと先に述べましたが、お香そのものが阿弥陀さまの功徳と言っているのではありません。ですからお香をうやうやしく扱う必要はないのです。それどころか、決しておしいただいてならないのです。

なぜならば、私たち真宗のお念仏のみ教えを聞く者にとって大切に扱わねばならないものはお聖教(聖典やご文章など)なのです。お聖教には阿弥陀さまのお念仏のみ教えが説かれてあり、言い換えれば、私の命の根幹が説かれているのです。ですからお聖教を読ませていただく時は丁寧に頭上に「おしいただき」拝読させていただくのです。

すなわち、お聖教をいただく作法は、そこに書かれる尊い「み教え」を仰ぎ、我が身にいただく事をあらわしているのです。お香をおしいただいく事は、お香とお聖教が同価値であると言っているようなものなのです。お香をおしいただかない事によって、念仏者にとって最も大切なものはお聖教であると、きっちり区別するのです。ですから真宗では、お香をいただかないのです。

  お線香は立てずに、寝かせるのはなぜか?

お線香を立てる事は、中国での習慣からとも時間を計る為だとも言われます。しかし、お線香を立てること自体に仏教的意味と言うものは特にありません。

先に述べたようにお香はその香りをもって、阿弥陀さまの他力のはたらきが自然に衆生の身に染まり、また平等にゆきわたる事を示しています。この事が一番大事な事です。

とすれば、立てても寝かせても香りが立てば良いとなる訳ですが浄土真宗のご本山の香炉ではご本山の開門から閉門まで、ずっとたき続ける為「燃香(ねんこう)」を用いられています。燃香は、香炉の灰に溝を造り、そこにお香を敷き詰めたものです。

この燃香の略式がお線香になるわけです。浄土真宗ではご本山の燃香にならってお線香を寝かせて置くのです。また、お香を立て風で灰が舞い落ちるのが気になって仏事がおろそかになっては本末転倒になってしまいますし、火事などの原因となっては元も子もありません。

と言うわけで、浄土真宗では香炉の大きさに合わせてお線香を2・3等分に折って寝かせて置く事に決めたのです。立てる寝かせるといった、形にとらわれず作法は作法として理解をして頂き、お香をたく本質的な宗教的意義をしっかりとお聞き下さい。

  お荘厳のおろうそくから知らされる事

おろうそくは阿弥陀仏の智慧の徳をあらわしています。

おろうそくの火には大きく2つの特性があります。一つは物を燃やす。もう一つは明るくするです。その特性から阿弥陀さまの智慧を味わわせて頂くのです。

物を燃やすのは、阿弥陀さまの智慧が私たちの煩悩の焼き滅ぼして私たちを往生成仏せしめるお徳を示します。私たちは自分自身で煩悩を断ち切る事は決してできません。そしてこの煩悩こそが私たちを迷いの境界に繋いでいるのです。この煩悩を断ち切るのが阿弥陀さまの智慧なのです。

また、ろうそくの火は明るくするという特性もあります。私たちの日常生活は自己中心的なものの見方ばかりをして正しい因果の道理など知る由もありません。それはまさに真っ暗闇の中をさまよう様なものです。阿弥陀さまの智慧はそうした暗闇を照らし、進むべき道を示す光なのです。

たとえば、ろうそくはよく命に例えられますが、私たちはつい長いろうそく、短いろうそくとその残りの長さを見てしまいます。しかし、長いろうそくでも短いろうそくでも風が吹けば消えてしまう命なのです。

私たちは命に対して、「人はいつかは死ぬ」という認識、否、それどころか「また明日がある」と思って生きています。しかし、それは大きな誤りです。真実の命のあり方は「いつ死ぬか判らぬ命」と言う事を知らせるのです。諸行無常のことわりの中では、明日どころか一瞬先も生きてる保障はないのです。と同時にだからこそ今輝いている命が尊いことだと知らせているのです。

そう聞かされても、すぐに日常生活の中で忘れてしまう凡夫だからこそ、お仏壇に向かう度に命のあり方を何度も知らされるのです。おろうそくから知らされる阿弥陀仏の智慧のお徳をよくよく味わって頂きたいと思います。

  電球のろうそくは、なぜダメなのか?

お荘厳の灯明(とうみょう)には、おろうそく、輪灯(りんとう)、灯篭(とうろう)などがあります。

しかし、おろうそくは先に述べたように阿弥陀仏の智慧を知らせるものです。その智慧の光をもって衆生の煩悩
の闇を破る事を知らせ、短くなったり、風が吹いたら消える事を通して真実の命のあり方を私たちに知らせるも
のです。


ですから、電球のろうそうくではご法義を知らせる意味をなさないので電球のろうそくは用いません。

しかし、輪灯や灯篭は浄土のお荘厳を明るく照らす事を目的としているため、こちらは油や電球でもかまわない
のです。


お仏壇のお荘厳において、おろうそくはご法義を知らせる大切なお荘厳です。面倒だから、汚れるからと、こちら
の都合ばかりにならないようにしましょう。ただし、ご高齢者だけのご家庭においては、火災の危険性があります
ので、その場合には電球のろうそくを用いて頂いても構いません。ご家族がご一緒の場合には、一緒にお参り頂
きますようお願い致します。


  おろうそくの種類について

おろうそくには、和ろうそくと洋ろうそくがあります。その違いは、材料の違いだけです。和ろうそくは木の実(は
ぜ)を原材料とし芯は紙をよじったもので造られています。洋ろうそくは石油からとったパラフィンから造られ芯は
糸を用いています。


こうした材料の違いから、煙や燃え尽きた時の芯の残り方の違いが出てきます。できれば和ろうそくを用いる事
となっていますがどちらも阿弥陀仏の智慧の徳をあらわすことが出来ますので和洋どちらを用いてもかまいませ
ん。


ろうそくの色は白蝋、朱蝋、金蝋、銀蝋の四種があります。
 白蝋…日常のお勤め、一般の法要
 朱蝋…報恩講法要や慶讃法要、年回法要(七回忌以後)など。
 金蝋…慶讃法要、仏前結婚式など。→朱蝋でも良い。
 銀蝋…葬儀・追悼法要・年回法要(三回忌まで)→白蝋でもよい

  お荘厳の仏華から知らされる事

お荘厳の仏華は阿弥陀仏の慈悲をあらわしています。阿弥陀仏の慈悲は一切衆生の苦しみに共感をし、
その苦しみを取り除き楽を与えていこうとされるお心です。(慈悲=抜苦与楽)

仏華を見て心に安らぎを得るように、仏は衆生の苦しみを取り除き、安穏なる浄土へ往生成仏せしめると私を摂
取してくださるのです。仏華はこの仏さまのお慈悲のはたらきを知らしているのです。


また、私たちも華が散るのを見ては、華の命に共感し心を痛める。このとき自己の煩悩を中心にし、損得を基準
に生きる私たち衆生に他の命へ共感し、慈悲の心を養うよう知らせるのです。


※仏華は阿弥陀仏の慈悲のお徳をあらわしていますから 毒のある花やトゲのある花は避けましょう。
※また、華が散って汚れるからと、造花にすることは自己都合に他なりませんし、仏さまのお慈悲の徳を味わう
上で、生花を用いましょう。

※仏華の替える回数や時期は、特に決まっていませんがお浄土のお荘厳ですから、枯れる前に取り替えましょ
う。また、ご法事などには新しい華に替えましょう。


  お供えについて

お供えについての基本的な決まりとしては、水をあげない、供物には餅・菓子・果物を供えるなどがあります。あ
れは供えて良いか悪いか、これならどうだ等と一々に説明する事はできません。大切な事はお仏壇内はお浄土
を表しており阿弥陀さまをお敬いする心をもって取り扱う事です。供物の種類よりも大事なのは、お供えをする心
得の方です。


●こちらから仏さまに物品を捧げて何かご利益を得ようとするのは誤った考えです。
 …受験票や宝くじ、神社のお札、お守りなどはお仏壇の中には入れません。

阿弥陀さまは私の煩悩を満たす仏さまではありません。煩悩具足の凡夫が煩悩の赴くままに欲望をむさ
ぼり地獄等の三悪道へ向かう事を憐れんでおられるのです。そして、そのような凡夫だからこそ「煩悩具
足の凡夫」と衆生の本性を知らせ念仏往生の道を知らせて下さっているのです。こちらの願いを叶えてほ
しいという煩悩中心の考えでお供えする事はやめましょう。



●ご先祖を娑婆の衆生と同じと考えるのは誤った考えです。
  …お水、嗜好品(お酒やタバコなど)を供えない。

ご先祖がのどが渇くから水を供えるとかお酒やたばこといった嗜好品を供えると故人が喜ぶとか娑婆の衆
生と同じように考えるのは阿弥陀仏のはたらきによる往生成仏の法義に反する考え方です。ご先祖は往
生成仏し煩悩による執着を離れている事を忘れてはなりません。



●お仏壇の中をお浄土として扱うことが大事。
  …故人を偲ぶ思いから嗜好品を供える場合は、お仏壇の外に置く。

先のようにご先祖を娑婆の衆生と同じに考えて嗜好品を供えると故人が喜ぶというのは法義に反する考
えですが、故人の生前を思い出し、偲ぶ思いから嗜好品を置きたいという気持ちも大切です。故人を偲ぶ
思いから嗜好品を供える場合はお仏壇の外に置くようにしましょう。お仏壇の中はお浄土として取り扱いま
すからお仏壇の中にお酒やタバコなど娑婆の俗物をお供えする事は避けたいものです。



  …遺影や遺骨はお仏壇の外におきましょう。

同じくお仏壇をお浄土として扱う事からお仏壇の中は生死の苦界を離れた境界を示します。これに対し
て、遺影や遺骨は娑婆の生死のあらわすものです。ですから、お仏壇の中に遺影や遺骨を入れないので
す。遺影はお仏壇の真上は避けて壁に掛けるか、横に置いて下さい。また遺骨はお仏壇の前か横に置き
ます。



お仏壇のお供えについては、阿弥陀さまを中心として考えていただければ、自然にお仏壇の中に置いて良いも
のとそうでない物が見えてくるのではないでしょうか


  お仏飯もお荘厳の一つ

お仏飯は仏さまや故人の食事ではありません。お浄土には百味の飲食(おんじき)があって飢渇する苦が無い
のです。また、浄土に往生した者は、一切の煩悩を離れていますから食を貪ることもありません。


では、なぜお仏飯をお供えするかと言えば、お釈迦さまのご時代における修行僧の修行日程から、貪り
の心の愚かさと、あらゆるものによって自己の生命が保たれている事を知らせるためです。


簡略して当時の事を言えば、修行僧は、午前中に托鉢をし一日一回の食事を摂って、午後から修行に入るので
す。この事から、お仏飯は午前中に供え、午後までに下げるという事になっています。


さて、お仏飯から私たちが知らされている事は何も修行僧のような生活をせよと言うのではありません。
私たちは食に対して、あれが好きだ、これは嫌いだと自己の煩悩を中心に分別し、高い安いと金銭価値
によって食の価値を決めるなどして、命をいただいている事や、様々な人のおかげで食を摂っている事を
忘れがちです。


こうした衆生の本性をお仏飯を通して知らせ戒めるのです。お仏飯もみ教えを知らせるお荘厳なのです。